【本を読む】

— 乱れても月に昔の影は添ふ — 絹糸に賭けた青春

『富岡日記』 和田 英/著  ちくま文庫

高沢 英子


 2014年6月、群馬県の富岡製糸場が日本の近代化遺産としては初めてのユネスコ世界文化遺産として正式に登録され、それまで一般にはあまり知られていなかった明治期の殖産興業政策の一端を担った製糸工場の建物が、多くの人々の目に触れることとなった。1872年(明治五年)の操業以来、1987年(昭和六十二年)まで操業を続けたこの工場は、内部の機械は取り替えられてきたものの、フランス様式の堅牢な煉瓦作りの建物は、現在でもなお当初の原形をとどめている。

 本書は、明治六年(1873年)四月から一年三カ月にわたってこの工場で、工女として働いた和田(旧姓横田)英(1857年〜1929年)の回想録で、明治初期、十六歳でこの製糸工場の伝習工女として働いた日常を、端正な筆致で事細かに書き記したものである。
 本書は、富岡で働いた初期の回想録『富岡日記』とともに、その後、郷里松代(正確には埴科郡西條村六工)に新たに建てられた六工社製糸場で技術指導者として働いた初期の五カ月余の記録が『富岡後記』として加えられている。
 著者の和田 英が実際に富岡で仕事に従事したのは一年三カ月、その後六工社では四年余をに過ごしているが、多分手元に日記その他のメモと共に、当時の文書類なども残していたのであろう、三十数年を閲したとは思えない記憶の確かさで、細部にわたっての正確な記述は驚くばかりであり、にもかかわらずみずみずしい生きした叙述に魅了され、一気に読んでしまった。

 全体に日記風の記述ではあるが、それぞれ内容に即した表題で区分けし、前者は46項目、後者は28項目に区分けされているが、現代でも充分読み易い文体で、作業の一部始終の具体的な説明もありありと解るよう記述されているばかりでなく、指導員や役人とのやりとりや対応ぶりも見逃さず淡々と書き留められており、さらに随所にさしはさまれる真率で理にかなったたコメントのかずかずに、彼女が極めて理解力にすぐれた聡明な女性だったことがうかがえる。
 当時の社会環境や人々の心の動き、少女たちとそれを取り巻く大人たちの苦悩や喜びも読むものに身に沁みて鮮やかに伝わり、新しい産業開発の中で女性の大量雇用という試みに伴ういろいろの課題や共同生活での価値観の違いも浮き彫りにされ、記録としても貴重なものである。

 江戸末期に生い立った武士の娘としての誇り、その倫理観や家族の連帯感と相互愛、友情と信義で結ばれた結束、その間に垣間見せる乙女らしい豊かな感性。衣装などの微に入り細を穿った描写のかずかずが、女性らしい自然な心の動きのまま細やかに詳しく書き留められているのもほほえましい。またある時、工場に皇太后と皇后の行啓があり、あらかじめ下見にやってきた宮中女官たちの大時代な服装や髪かたちが余りにも特異な様子を事細かに描写したうえ、笑いを噛み殺す少女たちの様子もありのままに書き記し、あとで役所から小言をいわれ、本番の日は笑わぬようにせねばと皆で心配したという告白、など、虚飾の無い率直で生き生きした心の発露を包み隠さぬ描写に、読む方も思わず笑いを誘われる。
 彼女の持っていた道義感は決して新しいとは言えないが、十六歳という若さながら確固とした信念に貫ぬかれており、大人も及ばぬ協調性、他者を思いやる感性の豊かさ、またみづからの信仰についての独自の信念のゆるぎなさには舌を巻くばかりである。

 イギリスでは子供を褒める言葉として「インデペンデント」というのが一番、と聞いたことがあるが、読後、この手記の著者和田 英は、その意味でも、明治初期の日本にあって、きわめてインデペンデントな少女であったと深い感銘を受けた。生来の資質も優れていたに違いないが、明治維新という激動の時代、信州松代藩という陽の当たらぬ小藩の旧藩士の娘という生い立ちも、おおいにあずかって力があったのかもしれない。
 松代藩の武士の娘として生まれ、維新後は父が区長を勤める家庭で育つ。そんな彼女が工女となったことの発端は明治五年、明治政府が官営の富岡製糸場を経営するにあたって、この地区に一区につき十三歳から二十五歳までの娘十六名の工女を出すべしとの通達を出してきたことに始まった。だが当初は、初めての試みに人々は「人身御供にでも上るように思い」、疑心暗鬼から様々な憶測やデマが飛び交い、「血を絞られるのあぶらをとられるのと大評判になりまして」という騒ぎで誰も応じる者が無い。「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」などという声まで聞こえてくるに及び、苦境に立った父の立場を救おうと 十六歳の英は、進んで工女となることを決意、一人でも行く、と申し出たのである。

 これについて、父の許しを得た彼女を、甲州流の軍学師範だったという祖父は「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るがよろしい。入場致し候上は諸事心を用い、人後にならぬよう精々励みまするよう」と真っ先に激励し、話は決まる。それに倣って周囲の少女たちも続々と応募し目出度く十六名の志願者が揃い、少女たちの富岡行きが決まるのである。
 出発に際してそれまで黙っていた母も「…よく身を慎み、国の名、家の名を落とさぬように心を用いるよう・・・」と諄々と諭し、既に他家に嫁いでいた姉は
  — 乱れても月に昔の影は添う など忘るなよ しきしまの道 —
という和歌を詠んで妹へのはなむけとした。

 こうして明治六年三月(日記では二月二六日)十六名の若い工女志願者たちは、希望に胸膨らませ、それぞれの出で立ちで、ふるさとの松代を発ち、道中殆ど徒歩で、五日がかりで富岡に到着する。生まれて初めて家をあとに旅立ち、漸く目的地に着き、煉瓦作りのヨーロッパスタイルの壮大な建物の門前に立った時の驚きと感動を「実に夢かと思いました」と率直に書き記している。
 就労した少女たちの仕事ぶりは極めてまじめであったらしい。懸命に新しい仕事を覚え、取り組むさまが詳細に描かれる。英はさすがに群を抜いて優秀な成績を収めたようである。

 仕事や環境に慣れてくるにつれ、全国各地から集まった若い工女たちの人間関係も広がってゆくが、時節柄、長州出身者に対して特別な優遇を図る経営陣の姿勢や、当時、新平民と呼ばれた階層出身者への一般的な差別意識など、工場の限られた狭い環境内でもしばしば見いだされる当時の社会認識も包まず書き記される。工業化に向けてまだまだ列国に後れを取り、発展途上にある日本社会での非人道的な差別待遇や意識の低い倫理観など多くの課題を抱えている世相も、事実を通して浮彫りになり、文明開化期の混沌とした状況下での日本社会の縮図として読んでもきわめて興味深い。
 官営で始められたこの工場は、当初フランスから技術指導者を招き、工員や工女の指導を委託しているが、近代工業化の段階では先進国のフランスですでに当たり前だったと思われる労働者の待遇に関する企業側の姿勢には、今でも学ぶべき点が多いことも知らされる。

 さて製糸工女として仕事に習熟した英は、その後、出身地松代にあらたに設立された日本初の製糸工場六工社で指導者として工女たちの教育に当たった後も長野県営の製糸場でも教授をつとめたのち、二十三歳頃、当時の慣例に従い、幼時からの許嫁の夫と結婚。主婦として足尾に移り住むが、夫の死後、病母を慰めるため五十歳になって筆を執り、1907年から13年にかけて、これら二つの回想記を書いた。明治期初期の武士の娘として教育を受けた著者や家族の良質のメンタリティに、共感できることも多く、歴史的にも高い価値を持っている優れた回想記といえよう。

 両者とも記録としても貴重な内容であったことから、六工社の後身だった本六工社にそれぞれ長い題名をつけて保存されとていた。その後幾多の経緯を経て、1978年には中公文庫に取り入れられたが、世界文化遺産登録を契機に最近筑摩書房が欠落部分を補うなどし、文芸評論家斎藤美奈子氏による詳細な解説とともに日本近代の製糸業界の略史なども付録として加え、2014年ちくま文庫の一冊として刊行された。

 だが、この手記に見られるように、フランスの企業経営のやりかたが、日本の若い女性たちに、妥協を許さない厳しい指導ながら、職業人としてまっとうな自覚と誇りを持たせることができた人間的な労働条件は、やがて日本が近代化を曲りなりに成し遂げ、産業界が独り立ちをするようになったのちに残念ながら人道的には後退し、やがて工女たちは『女工哀史』(1925年)『ああ、野麦峠』(1965年)といったルポルタージュに描かれる悲惨な状況へと追いやられていくことになる。そして従来、日本ではこの後者の状況だけが、製糸産業に携わった女性工場労働者の実態と信じられている傾向があり、この『富岡日記」を読んだ読者から、あれは本当の話か、と疑問視する投書が寄せられているという。

 斎藤美奈子氏も、「こうした「恵まれた」労働環境は富岡製糸場から始まる製糸業の長い歴史の中では、ほんの一時期の「短い春」だった、といわなければならない」と述べられている。理由として斎藤美奈子氏は「日清戦争を契機に生糸が輸出産業として成長し、製糸業が資本主義的性格を強めるにしたがって、製糸業界の労働条件が劣化の一途をたどったから」と説明されていて、これに関しても詳細で綿密な考察を試みておられ、後世の女工たちにも果敢な抗議活動やストライキをしてきた歴史事実があることに触れ「低賃金、長時間労働に抗し、劣悪な労働環境の改善を求めて立ち上がった女子労働者たちは、監督官や経営者に果敢に抗議した横田 英の像と重なります。女子労働者の輝かしい歴史は、彼女たちの精神のなかにこそ息づいているのではないでしょうか」と締めくくられている。筆者もこころからそうであることを祈りたい。

 (東京都在住・エッセイスト)


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