【オルタの視点】

緊急事態の悖理と法理~国際法の視座

阿部 浩己


◆◆ 1.物狂おしき独善性

 国際規格に合わないものが日本だけで発達している現象を刑事司法制度の「ガラパゴス的状況」と形容した刑事訴訟法学者・松尾浩也氏の言を、高山加奈子氏が法律時報(2016年7月号)に寄せた論考の中で紹介している。高山氏は、そのガラパゴス的状況に引きつけて、「ろくでなし子事件」第一審判決(本年5月9日)が、「担当裁判官本人以外には絶対にわからない『健全な集団意識』なるものを可罰性の基準として」採用したことを手厳しく批判している。

 実際のところ、日本語を母国語としてきた者が眼光紙背に徹してなお解読できぬ、つまりは当人(たち)以外には理解不能な謎の流儀で書かれた判決や論文、行政文書の堆積が、この国における法の空疎化と閉鎖性を大いに煽ってきたことはいうまでもない。それはなにも刑事手続に限局されるのではなく、ジェンダーや人種差別、難民認定などがかかわる領域においても同様に見られるところである。これらを通底している徴表を別して言えば、<他者性の欠如>=<国際的視点の排斥>というべきものになるのだろう。

 その醜相の一端を期せずして見せつけたのは、本年2月6日、女性差別撤廃委員会においてなされた杉山晋輔・外務審議官の発言である。ほどなく事務方のトップに上りつめる杉山氏が、「慰安婦」問題にかかる国際人権機関の対応に異を唱えたその口吻には、<国際的視点の排斥>が衒いも迷いもなくむき出しにされて、怖気を覚えるほどであった。「軍や官憲による強制連行は確認できず、すべての元凶は吉田清治氏の著作にある」。そしてなにより、「『性奴隷』といった表現は、事実に反する」のだという。

 政権中枢の意を体した国内向けの広言という側面があるにしても、そこには、国際(人権)法システムの営々たる積み重ねに背馳する反知性的でいかにも下卑た姿勢が見て取れる。立憲主義を傲然と踏みしだく現政権の暴戻が、国際人権法の舞台にもそのままに引き写されているかのようである。

 全方位的に批判の的となっている自民党の改憲草案(以下、「草案」)について私が抱く強い懸念の一つも、まさしくその独善性、すなわち<他者性の欠如>=<国際的視点の排斥>にある。「草案」の際立った特徴の一つをなす緊急事態条項に焦点を当て、国際法の観点から、この点にかかる管見をいくばくか申し述べることにする。

◆◆ 2.緊急事態法制

 緊急事態に関して「草案」には次のような定めがおかれている。「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」(第98条)。
 「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他の公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても…基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない」(第99条3)。

 自民党が作成した「草案」に関するQ&Aは、これに評釈を付して次のようにいう。「緊急事態においても基本的人権を最大限尊重することは当然のことであるので、原案のとおりとしました。逆に『緊急事態であっても、基本的人権は制限すべきではない。』との意見もありますが、国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得るものと考えます。」

 憲法学の泰斗・故芦部信喜が伝えるように、「戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限を、国家緊急権という。…明治憲法は緊急権に関する若干の規定を設けていたが…日本国憲法には、国家緊急権の規定はない」(『憲法 第4版』)。

 明治憲法下での濫用の経験や戦争放棄の規定の存在からして、日本国憲法に明文規定がおかれなかったことは偶然ではなく意識的な帰結であったというのが憲法学の共通認識である。そうであるだけに、「草案」における緊急事態条項への明示的な言及は、現行憲法との根本的な次元での断絶を鮮明に示すものにもほかならない。

 もっとも、欧米諸国の法制を見るに、緊急事態にかかる規定がなんらかの形でおかれているのが一般的ではある。たとえば——運用の実際を別とすれば——フランスには憲法第16条(大統領への権限集中)、第36条(戒厳令下における軍への委任)、1955年非常事態法(政令により令状なき家宅捜査等可能にする規定)があり、ドイツも基本法により緊急事態を防衛事態、災害事態、緊迫事態等に分類し、限定的な基本権の制限(公用収用補償、身体拘束期間の延長)を可能にしている。英国にもマーシャル・ローの法理に加えて2004年緊急事態法があり、米国にも憲法に人身保護令状停止、大統領の権限行使の規定があり、さらに国家非常事態法(1976年)が制定されている。

 これらの例に範をとって日本も同様の法整備をすべきではないか、という議論もあるのかもしれないが、ただ、憲法自体によってそれを行う必要があるのかは別問題である(後述のとおり、日本でもすでに法律によって緊急の対応を要する事態への対応が相当程度図られてきている)。なにより、欧米諸国ではとりわけドイツがそうであるように、司法的コントロールを通して行政権への権力集中を抑制する仕組みができているところ、常日頃、行政府寄りの判断を恬然と出し続けて止まない日本の裁判官集団に同様の役割を期待できるのかについては極大の疑問を禁じ得ない。

 あわせて留意すべきなのは、第二次世界大戦後の世界情勢を顧みるに、緊急事態(あるいは非常/例外事態)の名の下に暗澹たる情景が押し広げられてきた現実である。植民地での弾圧や反体制派の鎮圧のために剥き出しにされた行政府の暴力行使を正当化するために、緊急事態宣言(戒厳令)が各地で連綿と発せられてきた。21世紀に入ると「対テロ戦争」に事寄せて、敵性集団に分類された人間たちが各国政府による傲岸な力の行使の標的になってきていることはいうまでもない。

 ジョルジュ・アガンベンが『例外状態』において喝破するように、「例外状態こそが統治のパラダイム」と化した実情が世界をますます深く覆っている。明治憲法下においてそうであったように、緊急事態にかかる言説には、行政権による力の行使をあおり、これを正当化する力学がぬぐいがたく随伴している。

◆◆ 3.規範的封じ込め

 国際社会共通のルールを提示する国際法は、緊急事態の頻発と、度重なる過度の力の行使を前に、人権保障の観点からこれに厳格な規範的な縛りをかけることに腐心してきた。その成果は、自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)第4条、欧州人権条約第15条、米州人権条約第27条、自由権規約委員会一般的意見29(2001年)、「自由権規約における制限および免脱条項に関するシラクサ原則」(1985年)、「国際法協会(ILA)非常事態における人権規範の最低基準」(パリ基準)(1984年)といった諸文書に明瞭に刻印されている。

 国際法にあって、緊急事態はけっして法の空白状態とは捉えられていない。芦部信喜の前述した言を用いれば、緊急事態とは「立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置」がとられる事態と解されるのかもしれないが、国際法上は、法の支配(rule of law)は緊急事態にあっても依然として妥当するものとされている(シラクサ原則64)。緊急(非常/例外)事態の嵐が吹きまくったラテン・アメリカ諸国の実情を受けて発せられた米州人権裁判所の勧告的意見(1987年1月30日)も、その濫用に懸念を表明したうえで、緊急事態にあっても法の支配は停止せず、法律主義からの逸脱も許容されない旨を明言している。

 緊急事態下の非常措置は、仮にそれが認められるにしても、国際法上きわめて厳格な要件に従うよう求められている。これらの要件を充足せずしてなされる人権保障の停止は、国際法上、違法である。自由権規約をもとに記すと、それらの要件は次の6点に集約できる。(第1から5が実体的要件、第6が手続的要件と類型化される。)

 第1、「国民の生存を脅かす公の緊急事態」が存在していること。緊急事態において非常措置をとるには、「国民の生存を脅かす」事態が生じていなくてはならない。国民とは nation のことであって state (国家)ではない。「国民の生存を脅かす公の緊急事態」とはいかなるものなのかについては、欧州人権裁判所がその判断のために次のような指針を示している(Greek case (1969))。
 ① 現実のまたは差し迫った危険が存在していること、② 国民全体に影響が及んでいること、③ 共同体の組織化された生活の継続が脅威にさらされていること、④ 危機(危険)が通常の人権制約措置では対処できないほど例外的であること。(なお、洪水の場合のように、限定された地域における全住民への影響の場合であっても、この要件を充足し得ると解する向きもある。)

 第2、必要性(necessity)・比例性(proportionality)の原則を満たしていること。緊急事態における非常措置はあくまで例外的で一時的なものであり、正常な状態の回復を目的にするものでなくてはならない。「たとえ武力紛争時であっても、その状況が国民の生存を脅かすものである場合にのみ、かつその限度においてしか規約の人権保障停止措置が認められてはならない」(自由権規約委員会の一般的意見29、パラグラフ3)。この要件を充足するには司法・立法機関等に実効的な審査権限を確保することが欠かせない。

 そして、「国は、たとえば大規模自然災害、暴力事件をともなう集団デモまたは重大な産業事故のさいに規約の効力を停止する権利を援用しようとするのであれば、そのような事態が国民の生存を脅かすものであることのみならず、規約の効力を停止するすべての措置が事態の緊急性によって真に必要とされていることも、正当化事由として示せなければならない。[ただし]そのような事態においては規約上の一部の権利、たとえば移動の自由(第12条)または結社の自由(第21 条)を制約し得るのであれば一般的にはそれで充分であって、当該規定の適用停止が事態の緊急性によって正当と認められることはありえない」(同、パラグラフ5)。

 自由権規約委員会によるこの指摘を端的に言い換えれば、規約上のほぼすべての人権規定について、その適用停止を真に必要とするような緊急事態など現実にはありえないだろうということである。ここには、緊急事態に対する国際人権機関の強度の警戒感がにじみ出ている。

 第3、非差別の原則を遵守すること。緊急事態におけるいかなる非常措置も差別を含んではならない。ちなみに、英国では、2001年対テロリズム、犯罪及び治安法により(テロの脅威を英国に与えている)外国人の無期限収容が可能とされた。その際、当該措置を正当化するため、同国政府は身体の自由への権利について定める欧州人権条約第5条1項の効力停止を必要とする緊急事態下にある旨を宣言した。だが、この措置は欧州人権裁判所によって国民と外国人との不当な差別にあたり、事態が真に必要とする限度と比例しない、として違法と判断されている(2009年2月19日判決)。このように、差別を含む措置は緊急事態下であっても国際法上、許容されない。

 第4、他の国際義務を遵守していること。社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)や拷問等禁止条約など他の人権条約は緊急事態における人権保障の停止を認めていない。子どもの権利条約(第38条)や障害者権利条約(第11条)はあらゆる事態における権利保障をはっきりと求めてさえいる。緊急事態において非常措置をとる場合には、自由権規約だけを見るのではなく、他の人権条約上の義務を逸脱することもあってはならない。

 第5、いかなる事態にあっても、格別の重要性を有する権利あるいは適用を停止する必要がない権利については、その効力を停止することは許されない。こうした権利には次のものが含まれる。生命に対する権利、拷問・残虐な処遇の禁止、奴隷の禁止、契約不履行による拘禁の禁止、思想・良心・宗教の自由、意見を持つ権利、被拘禁者の人道的取扱い、戦争宣伝・ヘイトスピーチの禁止、効果的な救済を受ける基本的権利、公正な裁判を受ける権利の基本的部分(無罪推定、拘禁の適法性審査など)、人質・誘拐等の禁止、少数者の保護、住民の強制移送。これらの権利の保障は、文字通りいかなる事態にあっても停止しえないものとされる。

 第6、手続的な要件が満たされていること。緊急事態は「公式に宣言されている」ことを求められる。「各国は、そのような宣言および緊急事態時の権限の行使について定めた憲法その他の法律上の規定の範囲内で行動しなければならない」(一般的意見29、パラグラフ2)。また、緊急事態は、国連事務総長を通じて他の締約国に直ちに通知されなくてはならない。その際、「とられた措置に関する完全な情報およびその理由の明確な説明が含まれ、かつ国内法に関する十分な資料が添付されていなければならない」(同、パラグラフ17)。こうした手続的要件を充足しないと、緊急事態における非常措置は国際法上の正当化根拠を失うことになる。

 日本は自由権規約の締約国でもあり、緊急事態にかかる議論をする場合には、最低限、こうした国際法上の要請を念頭においておくことが必要である。「草案」には、だが、国際法との整合性に関心が払われている形跡がおよそ見て取れない。「国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得るものと考えます。」という、かいなでの陳弁だけでは、日本が国家として引き受けている国際法上の要請を誠実に考慮しているとはとうてい言いえまい。

◆◆ 4.自由権規約委員会への報告

 上述のとおり、自由権規約には緊急事態を厳格に封じ込める規定が第4条におかれているのだが、各締約国は同規約の実施状況を定期的に審査される際に、この規定にかかる国内状況についても報告することを求められている。1979年の批准以来、日本もこれまで6回にわたって報告書を作成し、自由権規規約委員会での審査のために提出してきた。

 それらを順に見ていくと、まず第1回報告書における緊急事態にかかる記載は次のようなものであった。「国内法上、[第4条]第1項に規定されている公けの緊急事態において基本的人権を制約するような特別な措置は何ら規定されていない。そのような緊急事態が発生した場合は、わが国は、本規約及び憲法に従い、適当な措置をとるであろう。」第2~4回定期報告書における記載も第1回報告書とほぼ同一である。ところが、2006年に提出された第5回定期報告書の記述は、以下のとおり、一転して厚みある内容となった。

 「我が国においては、緊急事態が発生した場合においても、憲法及び本規約に従った措置が講ぜられることになる。我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態)への対処について、基本理念、国、地方公共団体等の責務等基本事項を定めることにより、対処のための態勢を整備することを目的として、2003年6月、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(以下「事態対処法」という。)が成立した。また、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに武力攻撃の国民生活及び国民経済に及ぼす影響を最小にするため、国、地方公共団体等の責務、国民の協力、住民の避難に関する措置、避難住民等の救援に関する措置、武力攻撃災害への対処に関する措置について定めることにより、事態対処法と相まって、国全体として万全の態勢を整備することを目的として、2004年6月、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(以下「国民保護法」という。)が成立し、同年9月17日に施行された。
 事態対処法では、武力攻撃事態等への対処においては、憲法の保障する国民の自由と権利が尊重されなければならず、これに制限が加えられる場合にあっても、その制限は当該武力攻撃事態等に対処するため必要最小限のものに限られ、かつ、公正かつ適正な手続きの下に行われなければならず、この場合において、憲法第14条(法の下の平等)、同第18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)、同第19条(思想及び良心の自由)、第21条(集会・結社・表現の自由、通信の秘密)その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない旨規定している。また、国民保護法でも、基本的人権の尊重について、武力攻撃事態対処法と同様の規定があるほか、国民の権利利益の迅速な救済について規定している。」

 その後、2012年に提出された第6回定期報告書は、「これまでの報告のとおり。」とあっさりした記述になっている。

 これら一連の報告書は、緊急事態に対する実務的な関心が21世紀に入って急速に深まっていることを示唆している。もっとも、自由権規約委員会に提出された報告書には、武力攻撃事態法、国民保護法への言及があるのみだが、実のところ、日本には、これら以外にも、緊急時に対処するための備えが、自衛隊法、警察法、災害対策基本法、土地収用法(第3節)、災害救助法、水防法、感染症法、原子力災害対策特別措置法など多くの法律の中におかれている。(非立憲的で違憲というべき昨年可決の安保関連法群もこの中に加えられる。)

 ブリティッシュ・コロンビア大学の松井茂紀が解説するように、「日本国憲法のどこにも…緊急権についての規定はなく、むしろその全体の構造からみる限り、憲法は、緊急時の対処については国家が法律であらかじめ定めておくことを想定しているものと思われる」(『日本国憲法 第3版』)のだとすれば、まさしくそのとおりというべき一群の法律が存在しているのが実態である。そして、日本の第5回定期報告書も記すように、これらの法律が基本的人権の保障に少なからぬ影響を及ぼすことはいうまでもない。

 たとえば、災害対策基本法第63条は「災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、人の生命又は身体に対する危険を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、警戒区域を設定し、災害応急対策に従事する者以外の者に対して当該区域への立入りを制限し、若しくは禁止し、又は当該区域からの退去を命ずることができる」と定めるが、これによって人々の移動の自由は明らかに制限される。

 看過できないのは、その災害対策基本法はもとより、武力攻撃事態法、国民保護法など、緊急時への対処を想定した日本の現行の法律群が、自由権規約との適合性を踏まえた仕様になっておらず、その実施にあたっても、国際法上の要請が考慮されているようにはまったく見受けられないことである。自民党作成の「草案」の緊急事態条項が自由権規約との整合性への関心を欠く独善的なものであることについてはすでに述べたとおりだが、「草案」を語る以前の問題として、緊急時への対応を予定されている現行の諸法自体が、人権保障にかかる国際的視点を備えていないといわざるをえない。

 緊急時には常に行政権の肥大化による重大な人権侵害の危険が随伴する。このゆえに、国際法上、緊急事態については厳格な規範的縛りがかけられており、現に6つの実体的・手続的要件が課せられていることは先述したとおりである。だが、緊急時の対応にかかる日本の現行法制は、こうした国際社会の規範的要請をまったくといってよいほど視野に入れていない。災害や武力攻撃・存立危機事態等における人権保障については、「最大限の尊重」という空疎な言を出ることがない。上記第5回定期報告書が語る「国民の権利利益の迅速な救済」など、現在の司法・立法機関の体たらくでは現実化しようがないといって過言であるまい。

 早稲田大学教授の長谷部恭男は「裁判所の権限の根底的な強化がなければ、他のまっとうな立憲主義諸国とは比較にならないお粗末な緊急事態法制になってしまう」(『世界』2016年1月号)という。同感だが、すでに現状にあっても、緊急時に対処するための日本の法制はお粗末というしかない。お粗末とは、行政権の放恣による重大な人権侵害の危険性が現実のものとしてある、ということである。憲法への緊急事態条項の挿入は、その危険性のレベルを最上限にまで引き上げるものにもほかならない。司法と行政の区分けがつかないほど裁判所の有効性が疑わしいこの国であればこそ、その帰趣には怖気にも似た感を覚えずにはいないところである。

◆◆ 5.国際的潮流を踏まえる

 アガンベンのいうように、21世紀の世界に広がりゆく言説は、「例外状態」の常態化を求める様相を強めている。ひたぶるに脅威があおられ、例外であるべき緊急事態が日常を侵食していく。武/力の蔓延、国家情報の秘匿、人々の監視、自由の抑圧といった不祥の事どもをすべて包み込む緊急事態言説には、だからこそ、いっそう精細な警戒心を欠かせない。
 国際法は、人類社会の歴史的経験に照らし、規範的統制を意識的に強めており、その潮流は疑いなく緊急事態を封じ込める方向に進んでいる。別して言えば、緊急事態を理由にした人権保障の停止は、国際法上は、例外としてすら認められる余地が減じられているということである。実際のところ、各国の例を見るに、緊急事態が宣言されると身体の自由の保障が停止されることが多いが、欧州人権裁判所や米州人権裁判所は、その必要性を明瞭に否定する判断を示してきている。日本では、刑事手続上も入管法上も身体の拘束が容易にかつ長期間にわたって認められることが通例なのだから、緊急事態を宣言して身体の自由の保障を停止することはそもそも必要ないということにもなるだろう。

 また、人権の中には、拷問禁止規範のようにいかなる制限も許さない(したがって、緊急時であってもいっさいの制限が認められない)ものがある一方で、移動の自由など少なからぬ人権は必要に応じて一定の制限を課すことを合法的に認められている。このため、激甚災害のような事態に移動の自由などを規制するには、その合法的な制限事由を適切に適用すれば足りるのであって、わざわざ緊急事態を援用するには及ばない。国際人権機関はそうした基本認識を示してきている。

 もとより、憲法に緊急事態条項が挿入されることそれ自体は国際法によって禁じられるわけではない。しかし、緊急事態における人権保障のあり方に、国際法は強度の規範的な統制を課している。その含意は、緊急事態を理由にした人権の蹂躙をけっして許容しないということであり、さらにいえば、人権保障水準を劣化させる緊急事態法制そのものに懐疑的だということである。
 緊急事態条項を論ずるにあたっては、国際(人権)法のこうした規範的現状を精確に踏まえることを怠ってはならない。「草案」に決定的なまでに欠落しているのはこの視点である。

 (神奈川大学教授・国際法学専攻 主著に『国際法の人権化』『国際法の暴力を超えて』など)


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