【エッセー】

江田三郎没後40年の感懐 ― 老いるとは未知との出会い ―

仲井 富

 5月22日は、江田三郎没後40年の日である。10年前、民主党が参院選で大勝して民主党が上げ潮の時だった。江田没後30周年の集いがあり息子の五月氏が参院議長として挨拶した。以後10年間、多くの江田三郎関係者が亡くなられた。山岸章さんや江田秘書だった矢野凱也さんも昨年、相次いであの世に旅立たれた。メールマガジン・オルタの共同代表だった富田昌宏さんも3年前亡くなられた。富田さんは私の俳句の師匠でもあった。富田さんの句に「老いるとは未知との出会い桐一葉」というのがある。この句が気に入って、かつて出していた四国歩き遍路のミニコミ「老人はゆく」のタイトルに使わせていただいていた。齢80代に入り当年84歳となった。一言で言えばシルバー川柳にある「眼には蚊を耳には蝉を飼っている」という状態である。惨憺たる老化現象のなかで、富田さんの一句はいまなお輝きを失わない。

 先月半ばの夜、オルタ編集長の加藤宣幸さん宅で竹中一雄さんと三人になった。オルタ編集長の加藤さんは92歳で健在、酒の付き合いはもとより、インターネットを駆使して新たな挑戦を続ける怪物老人である。88歳の竹中さんは夜遅くまで酒を飲んで、平然と北多摩の自宅にお帰りになる。当夜、加藤さんが佐藤昇さんのことにふれ「竹中さんを連れてきて僕に会わせたのは佐藤昇さんだった」という話をされた。私は近年までは竹中さんとは直接知り合いではなかったが、オルタを通じて仲良くなった。84歳の徘徊老人の私と合わせれば合計300歳近くになる。そこで、どこかに遊びに行きましょうと誘った。4月末に、青梅線に乗って太宰治が愛した御嶽駅にある古い蕎麦屋「玉川屋」に行って、三多摩の銘酒「澤乃井」を飲んで蕎麦を食べることになった。

◆佐藤昇を社会党の構造改革三人衆に会わせた読書家、初岡昌一郎

 江田三郎没後、様々な出版物が出されたが、なかでも塩田潮氏の『江田三郎 早すぎた改革者』(1994年文藝春秋社刊)は一読に値する。1960年10月12日、日比谷公会堂における浅沼委員長刺殺事件によって、急きょ書記長の江田三郎が委員長代行となった以降の歴史を丹念な関係者の取材でまとめている。私も取材に応じたことがあるが、発刊後一冊送呈された。それを久し振りに開いて、当時の社会党の構造改革論争なるものを振り返った。加藤さんは「竹中さんを最初に連れて来たのは佐藤昇さんだ」とおっしゃった。その佐藤昇さんを加藤さんや木島正道さん、森永栄悦さんなど、いわゆる社会党の構造改革三人衆に会わせた最初の人物は、初岡昌一郎さんだった。彼とは同じ岡山県で同郷に近い津山近辺の出身地ということもあって、1955年以降すでに60年近い付き合いだ。塩田氏は以下のように書いている。

 ――江田三郎が社会党書記長に就任する2年前の1958年春であった。衆議院の社会党の事務局長の木島正道は、国会を出て渋谷に向かう。井の頭線の渋谷駅下のガード寄りにある「バラ」という喫茶店に姿を消した。「こちら佐藤昇さんです」社会党の青年部のメンバーで、まだ国際基督教大学の学生だった初岡昌一郎が隣の男を紹介した。佐藤は構造改革論の日本における理論的指導者である。江田の死まで最大のブレーンとして活躍することになる。初岡は、雑誌『思想』の32年8月号に掲載された佐藤の「現段階における民主主義」という論文を読んで共鳴した。自分から連絡を取って一人で佐藤と会った。初岡は話を聞いてますます佐藤の発想と論理に引き寄せられた。兄貴分の貴島に佐藤の論文を見せながら会話の模様を説明した。…ところが、佐藤はまだれっきとした日本共産党の党員であった。――

 当時の私は、江田派という党内派閥のなかで同郷ということもあって、江田三郎を親分のように思って私淑してはいたが、もっぱら砂川闘争とか百里原闘争とか、いわば住民運動の現場から離れなかった。党内のマルクス・レーニン主義者の労働大学など、二、三回通ったが、やはり生きた現場とは無縁の学問だなと思って敬遠していた。構造改革論争なども、党内派閥的には共同歩調は取っていたが距離を置いてみていた。初岡さんは無類の読書家である。学生時代も今も変わらない。当時22歳の大学生だった読書家が、佐藤昇を雑誌『思想』の中に発見し、社共の革新陣営を揺るがす構造改革論を提起させたのである。近年はもっぱら、彼が読んで面白かった小説を、私に勧める。最近は飯嶋和一著の『狗賓童子の島』(小学館刊)なる本をぜひ読めと推奨してきた。案の定実に面白く感動的な小説だ。「友を選ばば書を読みて六分の侠気四分の熱」と与謝野寛が詠った通りだ。

◆江田三郎の日光談話は竹中一雄の発想から生まれた

 江田三郎が書記長時代、1962年7月27日、日光の全国活動者会議でいわゆる「江田ビジョン」を明らかにした。社会主義の目指すものは、①米国の高い生活水準、②ソ連の社会保障、③英国の議会制民主主義、④日本の平和憲法、という内容である。当日は問題にならなかったが、これが以後江田三郎の攻撃の材料となって書記長の座を降りることになった。この発想は、日光の活動家会議の前夜、7月26日、山の上ホテルの構造改革ブレーンのひとりであった竹中一雄さんの発案をもとにしたものであったことをはじめて知った。これも前記、塩田潮氏の『江田三郎 早すぎた改革者』に以下のように載っていた。

 ――竹中氏は東大済学部でマルクス経済学をやり、1952年に卒業した。当初は財団法人運輸調査局の研究員となった。国民経済研究協会理事長の稲葉秀三と知り合い、「自由を犠牲にしない社会主義はあり得るか」というテーマを検証するために、1955年に国民経済研究協会に入った。まだ江田が左派社会党の若手のホープと見られていたとき、竹中は、左派社会党なのに、江田がマルクス主義の立場に立たないで人権とか自由について堂々と論じているのを見たことがあった。それでなんとなく共感を抱いた。佐藤の縁で江田の会に誘われ、進んで参加した。山の上ホテルの会では、社会主義の中身が議論になっている。この時代、まだ言葉自体に人を引きつける魅力があった。社会主義がまだ輝きを保っていた頃である。だが、社会主義という言葉が持つ意味は必ずしも明確ではない。そこをはっきりさせる必要がある。「ソ連型や中国型では、いまや人はついてきません。誤解を受けないような新しいものを打ち出さなければ、多数の支持は得られないと思います」竹中は、少し考え込んでから、ゆっくりと言葉を継いだ。「社会主義は大衆にわかりやすいものでなければ……。アメリカの高い生活水準、ソ連の徹底した社会保障、イギリスの議会制民主圭義、日木の平和憲法、この四つを目的にするのがいいと思いますよ」竹中はさらりと言った。「そうか、四つか」江田は身を乗り出した。――

◆江田離党に賛成した清水慎三 蛤門の久坂玄瑞となって切死にを

 江田さんが、社会党を脱党しても、と心ひそかに決意したころ、こういうこともあった。
 1976年11月の衆院総選挙のとき私は大阪の西風勲さんの選挙を手伝った。たまたま清水慎三さんが来阪され、大阪府本部の前書記長の荒木伝さんと3人で夜遅くまで飲んだ。そのとき社会党の将来について議論していたと思うが、かなり酔っぱらった清水さんが突然、「江田三郎は薩長土肥連合から倒幕維新へという役割ではない。その前に蛤御門の変が必要なんだ。老骨を引っさげて久坂玄瑞となって斬り死にするんだ。早くしないと間に合わない」と言い出した。さらにつけ加えて清水さんは、「西風君や仲井君たちは江田三郎の足ばかり引っぱっている。そんなことではだめだ。江田さんのやりたいことをやらせろ」と私たちまで批判された。
 このあと江田さんが西風さんの選挙応援に大阪に1日滞在することになり、東住吉区まで出むかえた。30分ばかり時間があったので2人で喫茶店に入った。「江田さん、清水慎三さんがこういってましたよ。ぼくらは足を引っぱってばかりいてけしからんと言われました」と報告したら、わが意を得たりというようにニコニコしていた。「蛤御門の久坂玄瑞たれ」という話は気に入ったらしく、選挙に敗れて上京したあとも、何人かの人に清水さんの話をしていたという。明けて1977年の2月党大会で協会系代議員の攻撃に、めずらしく丁寧にしかも往年の闘志をむきだしにして答弁した江田さんは、「言いたいことは全部言った」という心境のようで、さばさばと副委員長の座を降りて一党員となった。

 私と初岡さんは、1955以降、1996年83歳で逝かれるまで、同郷の誼もあって終生、清水慎三さんのご教示をいただいた。砂川闘争から安保に至る社会党青年部・社青同の理論的指導者でもあった。当時の青年部は協会派の指導下にはなかったのである。ときおり浦和市北浦和のお宅にひとり住んでいらっしゃる夫人の清水美知子さんをお見舞いする。3月の半ばに初岡さんとお伺いした。96歳にしてなを元気に一人住まいだ。一人息子の克郎さんもすでに60歳、岩波書店の古参社員である。克郎さんが「親父は江田さんの『江田三郎そのロマンと追想』」に一筆書きたかったと言っていました」と言った。わたしは「しまった」と思った。
 江田離党当時、離党に賛成し行動を共にしたのは旧友の大柴茂夫代議士ただ一人。江田派の議員も党本部の書記局も森永氏をはじめ江田派の大半は離党反対だった。私はすでに党本部を辞めていたが、「仲井や初岡、今泉は無責任」と攻撃された。久坂玄瑞たれと江田離党を擁護した希少価値の清水さんに執筆を頼むべきだった、と悔いても遅い。江田三郎は生前「国会議員二十五年政権取れず恥ずかしや」と色紙に書き、叙勲も拒否して亡くなった。江田没後40年の今日、政権を取った民主党の惨憺たる末路は、今日も尾を引いている。民主党政権の閣僚経験者たちに「政権崩壊恥ずかしや」という反省の弁はない。みなことごとく勲章にありつき「叙勲祝い」のパーティーまで盛大にやっている。一将功成って万骨枯る、とはこのことだ。

 (世論構造研究会代表・オルタ編集委員)


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