自殺はどこまで減るものだろうか(下)

落穂拾記(20)                     羽原 清雅

自殺はどこまで減るものだろうか(下)

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 前回に続いて「自殺」に触れたい。
 伊豆大島の民謡「大島節」「あんこ節」の歌い手で、大島の御神火太鼓を始め
た大島里喜(1909-86)という女性がいた。彼女は幼いころ、郷里の大島から東
京・牛込に出て、今の新宿区内の小学校に通っていたことがある。家庭の事情が
あったのか、繁華街の神楽坂あたりに預けられていたものだろうか、ともかく学
校に来たり来られなかったりで、登校や勉強には苦労していたようだ。

 じつは、彼女の担任の教員だったのが筆者の母親で、里喜が長じてその世界で
名を上げ、大島の観光振興に役立っていたころ、彼女が浜町あたりで経営してい
た料理屋などで時折会っていたようだ。筆者も一度は東京で、また大島に行って
再会したことがあった。余計なことながら、母親の死の直前、「アア、海が、花
が見える、リキさんがいる・・・」と無意識のなかで漏らしたことが記憶に残る。

 その大島里喜から聞いたのが、大島に発生した自殺の流行騒ぎだった。
 今回、そのあたりを調べてみた。

 発端は、実践女学校生A子とB子(ともに21歳)が三原山に登り、A子が身を
投げ、B子は救出された――ということだった。1933(昭和8)年2月12日のこと
である。当時の朝日新聞を見ると、「三原山噴火口で 女学生同性心中 実践女
学校専門部の二生徒 一名は危うく救助」とあった。

 じつは、心中ではなかった。B子はこの自殺の1ヵ月前の正月、病身でもあっ
た一年上級のC子から「一人だと怪しまれるので」三原山での自殺への同行を求
められて、火口に臨んでいたのだ。直前になって、C子から「あなたがいては飛
び込めないから、山を下りて」といわれたB子は現認してはいなかったが、その
直後にC子は身を翻したようだ。

 もうひとりのA子はもともと万葉集の愛読者で、いい短歌をつくりたいとの願
望があり、前年秋に20余人の学友と登った三原山を賛美していた。当時の朝日年
鑑を見ると、「自殺した原因について父兄はたヾ単なる耽美主義から死を賛美し、
しかも死体をさらすことを恐れてゐたゝめで、曾遊の三原山を死場所に選んだと
いふのである」と記している。

 A子はすでに、B子からC子の自殺に立ち会ったという「秘密」を聞いており、
「わたしのときも・・・」と、再度の「死の立会人」を頼んだものだ。
 この二度の不幸に加えて、ふたりの死に立ち会ったB子は、不幸にも自宅で静
養中の4月末、脳底脳膜炎で病死している。

 話はむしろ、ここから始まる。
 自殺ムードが広がるのである。先の朝日年鑑によると、この昭和8年1月から3
月24日までの83日間に、男女32人が投身自殺を遂げ、67人の未遂者を出している。
ほかに大島航路の船内、海への投身、三原山山中の心中3組など計107人にのぼる。
129人との数字もある。

 前年の昭和7年の一年間では、火口投身自殺9、未遂30、海への投身自殺46、未
遂30、計115人で、決して少ない数字ではないが、翌年は3ヵ月で同じくらいの数
字になっている。これらの年代は、大部分が19-30歳までで、「死のう団」とも
言われたようだ。

 不幸中の幸いもあった。
 この年9月、ふたりの若い看護婦が火口に身を投げたが、10メートルほど下の
岩盤にひっかかって気絶、寒さで息を吹き返した。噴煙と赤い炎の生き地獄に震
えながら、ふたりは助け合いながら、断崖を3時間かけて血まみれになって脱出
でき、奇跡の生還を遂げたこともあった。

 またその後、すでにふたりの投身者が出たその日曜日、17歳の少女が火口から
飛び込んだが、6メートル下の岩盤の裂け目に逆さにひっかかった。そこで、村
の若者がロープを巻きつけて下降し救出、顔を砕くなどの重傷ながら命だけは取
りとめたという。

 ついでながら、伊豆大島行きの船には野次馬も含めてだろうが、日曜は1500人
にのぼり、乗れない人も出たという。月1-3便だった航路は、昭和4年から1日1
便になった。同8年の直行往復とは別の東京―大島―下田航路の乗客は約19万人
で、前年の5割増だった。そして、大島は客でにぎわい、椿油が売れた。

 メディアもあいかわらずの着眼だ。投身組の流行する4月、時事通信の記者ふ
たりが縄ばしごで360メートルほど火口を下ったが、上から小石や熱砂が降りか
かっておおいに苦しんだという。

 その1ヵ月後、読売新聞が火口にクレーンを取り付け、記者とカメラマンがゴ
ンドラで37、8メートルを下降、火口の底で17、8歳の若者の遺体を見かけた、と
いう。「一千尺(約300メートル)ほどのところではゴンドラの真下におおきな
水蒸気孔があってそこから猛烈な猛烈なガスを噴き上げてをり、また深淵のやう
な火口底からは爆発ごとにちゃうど花火のやうなもの凄い火花が七花八烈して、
実に形容のできぬ美観、壮観だった」としている。

 読売新聞はこの前年春、東京湾汽船とタイアップして愛読者3000人を無料招待
していたので、折からの自殺騒ぎに便乗したと思われる。

 それにしても、なぜ三原山だったのだろうか、と気になった。

 納得がいったのは、やはりメディアだった。昭和3年に佐藤千夜子、藤原義江
の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)のレコードがヒット、同6年に
はモンゴルのラクダ2頭、満州(中国東北部)のロバ11頭が砂漠観光に導入され
た。そして「死のう団」出現の前年の昭和7年末、小唄勝太郎の吹き込んだ「島
の娘」のレコードが売れに売れたうえ、この映画化で松竹がロケ地を伊豆大島と
したことで観光ブームを加速させたのだ。読売新聞の読者獲得のイベントもそん
なムードに乗ったものだった。

 それだけでは、当座の「暗」と「明」だけになる。
 自殺をそそのかす世相にも目を向けたい。

 昭和8年は1933年、このころはまさに日本が本格的に日中戦争に向かう節目の
時期でもあった。国内の世論は、満州事変の引き金になった柳条湖事件(1931年
9月)、第1次上海事変(1932年1月)を機に戦争の「好調」に踊らされ、中国つ
まり大陸制覇の夢が広がる一方、国際的には陸軍がまず国際連盟脱退の方向を打
ち出し、伊豆大島の自殺騒ぎのなかで、脱退(1933年9月)が決まろうとしてい
た。

 この日本の孤立は、前年の「満州国」建国の宣言と承認、犬養毅首相の暗殺
(5・15事件)、ヒトラーのナチス政権獲得、などを経てのことで、きな臭い状
況にさらに拍車をかけていた。すでに1933年2月には、満州国に<奉天・吉林・
黒竜江3省に加えてアヘン産地の熱河省をも含める>として熱河侵攻を始め、万
里の長城を越えて北京に向けて動き出していた。

 しかし、国際的な情報がなく、強い日本に酔いしれる国内は世界の流れを敵に
回して燃え上がり、戦争激化の状況にあった。

 一方、国内では世界大恐慌(1929年)に続き、農産物暴落、豊作飢饉、凶作な
どが重なる農業恐慌に見舞われ、生活の不安や暗い展望に、若者の間では厭世観
が広がりつつあった。

 さらに、政府や軍部の戦争政策の遂行に批判ないし反対する個人、団体には弾
圧が待っていた。自殺のあった2月7日に、京大で左翼活動に動いた宇都宮徳馬に
懲役2年・執行猶予3年の判決があり、A子の自殺した12日には盛り場で一斉に
「不良狩り」があり約1000人が検挙。同月20日には小林多喜二が築地署での拷問
で虐殺。4月には京大教授滝川幸辰の排除事件が表面化・・・といった世相だっ
た。

 このような社会的な背景が自殺を誘い、死後の世界の安楽を求めようとしても
不思議はない。三原山の「死のう団」ムードの状況は、表面だけでは説明できな
いだろう。

 背後にある戦争。そして、国際環境への無知というか情報過疎。いまも減らな
い自殺は、個人の事情ももちろんあるが、社会状況を反映している。企業の都合
で収入の道を断たれかねない非正規労働者の増大、職場をつくらないままの生活
保護費の削減、高齢層や弱者層の救済策の貧困、教育の格差による生活権への無
配慮など、個人では対応しきれない困窮をどうするのか。

 三原山の自殺には、耽美性といった理由もあったかもしれないが、昨今の自殺
にはロマンなどはない。上流をまず富ませ、いずれ下流に流れてのアベノミクス
的日本の再生・・・これですませられるのだろうか。

 なお、三原山が白煙を上げて大きく噴火したのは昭和15年8月19日未明だった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長、元帝京大学教授)
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