【オルタの視点】

花森安治と戦争と「暮しの手帖」と

小榑 雅章
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 去年のNHKの朝ドラ『とと姉ちゃん』は、雑誌「暮しの手帖」の創業者大橋鎭子が主人公のドラマだった。
 この朝ドラが大ヒットして、あらためて「暮しの手帖」が注目され、編集長の花森安治って誰?どんな人?と若い人たちの話題になった。

 『とと姉ちゃん』は、2016年4月4日から10月1日に放送されたが、それに合わせたかのように今年の2月から4月にかけて、東京の世田谷美術館で「花森安治の仕事展」が開催された。この展覧会は、NHKの朝ドラとはまったく無関係に、だいぶ以前から企画され準備されていたのだが、まるで協同して企画されたと思うほど、タイミングが重なった。
 世田谷美術館の「花森安治の仕事展」は、連日満員の大盛況だった。花森さんを知っている、かつての「暮しの手帖」の愛読者も多かったが、それにもまして若い人の姿が目立ったから、『とと姉ちゃん』の影響も大きかったと思う。
 私も、「花森安治の『暮しの手帖』」というタイトルで講演を行なったが、開演の1時間前に整理券がなくなって、臨時に座席をふやしても入りきれない盛況だった。

 「暮しの手帖」は、終戦直後の1948年/昭和23年に創刊された。
 とと姉ちゃんの大橋鎭子に、「一緒に雑誌を創ってください」と頼まれて引き受けた時に、花森さんには明確な目的があった。それは、「もう二度とふたたび戦争をしない国にしたい、そのための雑誌を創りたい」ということだった。

 戦前の、大日本帝国の臣民には、まずお国があった。「お国のため」が、すべてに優先した。お国の言うことに、国民は、否応なしにへへぇーと従った。お国のいうことはすべて正しいと思っていた。そして、男たちは戦争に引っ張り出されて、戦地に斃れ、故郷の家は焼夷弾に焼かれた。庶民の暮しは、二の次三の次。なんでも、がまん。そして敗戦。焼け野原。食糧難。
 これっておかしいだろう。順序が逆だ。なによりもまず、国民が先だ。お国よりも国民の暮しが先だ、国民の暮しこそが第一だ。

 この国の暮しを変えなければならない。守るに足る暮しに作り変えなければならない。国がこうしろと言ってきても、自分の暮しの方が大切だ。戦争なんか絶対に嫌だ、という暮しにしなければならない。そんなのおかしいよ、もうだまされないぞ、という国民にならなければだめなんだ。
 しかし、ただ待っていても、何にも変わらない。
 結局、自分たちが、自分たちの手で守るに足る暮しをつくっていかなければならないのだ。「暮しの手帖」は、この国の人々の考えを変え、暮しを変え、自分たちの暮しが第一なんだという社会に作り直す手助けをするのだ。その先頭に立つのが、「暮しの手帖」なのだ。

          * * *     * * *     * * *

 私は昭和35年4月に暮しの手帖社に入り、編集部員になった。
 この年、1960年は、60年安保闘争の真っ最中だった。
 日本はめちゃくちゃになっていた。
 日米共同防衛を義務づけた改正安保条約案には、日本をアメリカの戦争に巻き込む恐れがあると反対論が強かったが、岸内閣は5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で強行採決し、翌5月20日に衆議院本会議を通過させた。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに採決を急いだためだった。
 6月15日には機動隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子さんが死亡した。国会前でのデモ活動に参加した人は30万人にもなったと報道された。
 この模様は、連日連夜、テレビで実況中継され、日本中が騒ぎの渦中におかれた。

 暮しの手帖の中でも、テレビはつけっぱなしにされ、の花森安治編集長も編集部のみんなも、仕事そっちのけでテレビに見入っていた。
 大学の後輩たちもデモに参加している。今年、いろいろな会社に就職した同級生たちも、仕事をさぼってデモに参加したと言ってきた。夜なら一緒に行けるだろうと何度も誘われている。行きたい。行くべきだ。こんな安保改定など、許してはならない。
 勇を鼓して、花森さんのところに行き、「デモに行きたいです。行かせてください」と言った。
 花森さんは意表を突かれたような、えっという顔をして、「まあそこへ座れ」と言った。

 「気持ちはよくわかる。おれも、若かったらそう思ったかもしれん。だがな、君はいまどこに勤めている。『暮しの手帖』の記者だ。編集者だ。ジャーナリストなんだ。ジャーナリストの武器は何だ、ペンだぞ。デモではない、ペンだ。戦うのは文章なんだ。君の今やるべきことは、ペンを磨くことだ。文章を勉強することだ。人を動かす、国を変えさせる、ペンにはその力がある」
 若造の私は、向う見ずにも花森さんに言った。
 「では、なぜいま、「暮しの手帖」はなにも言わないのですか」
 花森さんはゆっくりと、言った。
 「いまは、その時ではない。もし、その時が来たら、『暮しの手帖』は全頁をあげて、全力で発言をする。もてる力をすべて使って主張する」

 そう言ってから、私の顔をしっかり見据えて、
 「『暮しの手帖』はなぜ広告を取らないか知っているか」と聞かれた。
 「商品テストをするので、企業に遠慮をしないためです」と模範解答を言うと、
 「もちろん、それもある。でもそれは後づけだ。そう思われているが、本当に戦うべきは国だ。国家権力だ。それが本心だ。デモなんかに行くな。文章を磨け」
 会社に入ったばかりの生意気な若造に、軽んじることなく、心から絞り出すように、花森さんは言った。

          * * *     * * *     * * *

 前記の60年安保騒動の時、花森さんは「もし、その時が来たら、『暮しの手帖』は全頁をあげて、全力で発言をする。もてる力をすべて使って主張する」と言ったが、それは、図らずも8年後の1968年に、「暮しの手帖」96号特集「戦争中の暮しの記録」という形で実現する。
 戦争の歴史は、武士・軍人軍隊や戦闘や戦略について語られることが主で、その時の庶民がその戦争とどうかかわりあったか、という庶民の暮しの記録は殆んど残されていない。
 先の太平洋戦争では、日本中が焼け野原になり、苦難を強いられたのは、庶民だった。この時の庶民の暮し記録を残しておくべきだ、と編集会議で決まった。

  96号の1年ほど前の89号で、花森さんは「暮しの手帖」誌上で、読者につぎのように呼びかけた。

  戦争が終って、やがて二十二年になります。戦争中の、あの
  暗く、苦しく、みじめであった私たちの明け暮れの思い出も
  しだいにうすれてゆこうとしています。
  おなじ戦争中の記録にしても、特別な人、あるいは大きな事
  件などについては、くわしく正確なものが残されることでし
  ょう。しかし、名もない一般の庶民が、あの戦争のあいだ、
  どんなふうに生きてきたか、その具体的な事実は、一見平凡
  なだけに、このままでは、おそらく散り散りに消えてしまっ
  て、何も残らないことになってしまいそうです。
  暮しの手帖が、敢えてここにひろく戦争中の暮しの記録を募
  るのは、それを惜しむからに外なりません。ふたたび戦争を
  くり返さないためにも、あの暗くみじめな思いを、私たちに
  つづく世代に、二度とくり返させないためにも、いまこの記
  録を残しておくことは、こんどの戦争を生きてきたものの義
  務だとおもうからです。ふるってご応募下さるようおねがい
  申し上げます。

          * * *     * * *     * * *

 その結果、1冊まるごと「戦争中の暮しの記録」として、1968年の「暮しの手帖」96号特集号を発行する。
 そのあとがきに、花森さんは書いている。戦争というのはドンパチだけではない、如何に庶民を苦しめ、つらい思いをさせるかの具体的な記述こそ重要だという、花森安治の戦争観がここにあふれている。

  〇ごらんのように、この号は、 一冊全部を、戦争中の暮しの記録だけで特集した。 一つの号を、 一つのテーマだけで埋める、ということは、「暮しの手帖」としては、創刊以来はじめてのことだが、私たちとしては、どうしても、こうせずにはいられなかったし、またそれだけの価値がある、とおもっている。
  ○この記録は、ひろく読者から募集したもののなかから、えらんだものである。応募総数一七三六篇という、その数には、たいしておどろくものではないが、その半数は、誌面の余裕さえあれば、どれも活字にしたいものばかりで、ながいあいだ編集の仕事をしてきて、こんなことは、まずこんどがはじめてのことであった。
  ○しかも、その多くが、あきらかに、はじめて原稿用紙に字を書いた、とおもわれるものであった。原稿用紙の最初の行の、いちばん上のマスから書きはじめること、題を欄外に書くこと、一見して、文章を書きなれない、というより、むしろ金釘流といったほうがぴったりする書体、といったことからも、これは容易に判断できたのである。
  ○誤字あて字の多いこと、文章の体をなしていないものが多いこと、なども、こんどの応募原稿の、一つの特色だったといえるだろう。
  ○しかも、近頃こんなに、心を動かされ、胸にしみる文章を読んだことは、なかった。選がすすむにつれて、一種の昂奮のようなものが、身内をかけめぐるのである。いったい、すぐれた文章とは、なんだろうか。ときに判読に苦しむような文字と文字のあいだから立ちのぼって、読む者の心の深いところに迫ってくるもの、これはなんだろうか。
  〇一ついえることは、どの文章も、これを書きのこしておきたい、という切な気持から出ている、ということである。書かずにはいられない、そういう切っぱつまったものが、ほとんどの文章の裏に脈うっている。べつに賞金が目あてでもないし、これで有名になろうというのでもない。考えてみると、このごろ、そうした書かずにはいられない、という気持から書かれた文章が、果していくつあるだろうか。
    (中略)
  ○編集者として、お願いしたいことがある。この号だけは、なんとか保存して下さって、この後の世代のためにのこしていただきたい、ということである。ご同意を得ることができたら、冥利これにすぎるはありません。(花森 安治)

          * * *     * * *     * * *

 この「戦争中の暮しの記録」から1年後の1969年9月、60年安保の時からさらに10年近くたち、また安保改定があるとざわめき立ってきたときに、花森さんは「国をまもるということ」という一文を書いている。(「暮しの手帖」2世紀2号)
 国とはなにか、国を守るとはどういうことなのか、自分の命を擲ってまでもこの国を守るべきほどのことを、この国は私たちにしてくれているのか、私たちとこの国との貸借関係を考えながら、国を守るとはどういうことなのか、守る意味があるのか、それを諄々と問いかけている。
 花森さんは、トップのタイトルでは「国をまもるということ」と記しているが、文中では国という漢字を使わずに、あえて<くに>と括弧に入れたひらがなを使っている。
 (本来は全文をお読みいただくべきなのだし、花森さんには、一部を抜き出して引用するなどとんでもない、と叱られるだろうが、ご勘弁を)

    (前略)
   この日本という<くに>を守るために
  はどうしたらいいかという議論ばかりさ
  かんだが、そのまえに、それなら、なぜ
  この<くに>を守らねばならないのかと
  いう、そのことが、考えからとばされて
  しまっている。
   そんなことはわかりきったことだとい
  うだろう。
   そうだろうか。
  ためしに、ここで誰かが「なぜ<くに>
  を守らねばならないのか」と質問し
  たら、はたしてなん人が、これに明確に
  答えることができるだろうか。
   ぼくのことをいうと、小さいときか
  ら、なんとなく、<くに>は守らなけれ
  ばならないもの、とおもいこまされて
  いた。なぜ守らなければならないのか、
  先生も親も、だれも教えてくれなかった
  が、<くに>を守るということは、ま
  るで、太陽が朝になるとのぼってくるよ
  うに、わかりきった、当然のことだっ
  た。
    (略)
   いったい<くに>とは何だろうか。
  地図をみると、ここからここまでが日
  本であるとわかる。
   しかし、この眼で、この足で、端から
  端までたしかめたことはないから、実感
  としては、ピンとこない。
    (略)
   学校を出ると、とたんに徴兵検査があ
  って、甲種合格になった。ちょうど日華
  事変の勃発した年で、入営するとたちま
  ち前線へもっていかれた。
   ずいぶん、苦労した。
   あげくのはてに、病気になって、傷疾
  軍人になって、やっと帰ってきた。
   このあたりは、ぼくが<くに>に、そ
  うとう貸していることになる。しかも、
  ぼくは、軍事教練に反対して出席しなか
  ったから、将校になる資格はなかった。
  帰ってきたとき、上等兵であった。
   それを不服でいっているのではない。
  兵隊と将校では、同じ召集でも<くに>に
  貸した
   額が大いにちがうということをいってお
  きたかったからである。
   そして、戦争に敗けた。その日から今
  日まで、二十年あまりの年月が流れてい
  る。年々、税金は<不当>にとられてい
  るが、<くに>から、ぼくがなにかして
  もらつたということは、ひとつもないの
  である。
    (略)
   つまり、ぼくにとって、 <くに>とは、
  ぼくたちの暮しや仕事をじゃまするもの
  でこそあれ、けっして、なにかの役に立
  ってくれるものではないのである。
    (略)
   しかし、いまの日本のように、べつに
  なんにもしてくれないで、いきなり、み
  ずから<くに>を守る気概を持て、など
  といわれたって、はいそうですか、と
  いうわけにはゆかないのである。
   はい、そうですか、といって戦ったの
  が、こんどの戦争であった。ぼくだけで
  はない、みんなが、<くに>は守らねば
  ならないとおもっていた。そのために
  は、 一身をなげうつのも、いやだけれど
  も、仕方がないとおもっていた。
   こんどの戦争では、ずいぶん多くの国
  民が<くに>に<貸した>筈である。
    (略)
   赤紙一枚で召集されて、死んだ人たち
  がいる。
   その遺族たちがいる。
   しかし、この人たちは、まだいいのか
  もしれない。恩給などで、いくらか<くに>
  は借りをかえしている。
   空襲のために、家を焼かれ、財産を焼
  かれ、家族を失った人たちがいる。
   この人たちには、 一銭の補償も、いま
  だにない。
   戦争のために、男の大半が、<くに>
  の外へ出ていった。のこされた職場を、
  女が守った。そのために、とうとう結婚
  の機会を失い、いまだに、その職場をま
  もって、しかも、上役や後輩にけむたが
  られ、ばかにされながら、じっとこらえ
  ている大ぜいの女性がいる。
   この人たちに、<くに>は、まだ、な
  んにもかえしていない。
   そのほか、まだまだ大ぜいの人が、こ
  の<くに>に貸している。
      ★
   その日本という<くに>は、いま総生
  産世界第二位などと大きな顔をし、驚異
  の繁栄などといわれてやにさがり、そし
  て、したり顔をして、みずから<くに>
  を守る気概を持て、などと叱りはじめて
  いる。
   こんどの戦争で、 一銭も返してもらわ
  なかった大ぜいの人たちは、それを忘れ
  てはいない。なにもいわないだけであ
  る。いわないのをよいことにして、ふた
  たび、<くに>を守れといい、着々と兵
  隊をふやし、兵器をふやしている。
   よっぼど、この日本という<くに>
  は、厚かましい<くに>である。
   いつでも、どこでも、<くに>を守れ
  といって、生命財産をなげうってまで守
  らされるのは、日ごろ<くに>から、ろ
  くになんにもしてもらえない、ぼくたち
  である。
   こんどの戦争で、これだけひどい目に
  あいながら、また、祖国を愛せよ、<く
  に>を守れ、といわれて、その気になる
  だろうか。
   その気になるかもしれない。
   ならないかもしれない。
   ここで<くに>というのは、具体的に
  いうと、政府であり、国会である。
   <くに>に、政府や国会にいいたい。
  <くに>を守らせたために、どれだけ
  国民をひどい日にあわせたか、それを、
  忘れないではしい。
   それを棚あげにして、<くに>を守れ
  といっても、こんどは、おいそれとはゆ
  かないかもしれない。
   誤解のないようにことわっておくが、
  こんどの戦争の犠牲者に補償をしろとぼ
  くはいっているのではない。できたら、
  するにこしたことはないが、それより
  も、いまの世の中を、これからの世の中
  を、<くに>が、ぼくたちのためになに
  かしてくれているという実感をもてるよ
  うな、そんな政治や行政をやってほし
  い、ということである。
   それがなければ、なんのために<くに>
  を愛さなければならないのか、なん
  のために<くに>を守らなければならな
  いのか、なんのために、ぼくたちは、じ
  ぶんや愛する者の生命まで犠牲にしなけ
  ればならないのか、それに答えることは
  できない筈である。 (花森 安治)

          * * *     * * *     * * *

 この記事を読んだ政治関係の私の友人が、青筋を立てて「戦争とか平和を、貸借関係でみるとは何ごとか、戦争や軍備は国家の命運にかかわる神聖な政治問題だ」と、怒ってきたのを思い出す。
 国家の命運はもちろん重要だが、それ以前に、その国家<くに>とは何かの方が問題なのだ、その<くに>はわれわれに、それほどのことをしてくれているのか、生命や暮しを犠牲にしてまでも、その<くに>とやらを守るために闘わなければならないほどのことをしてくれているのか、それを貸し借りに譬えて諄々とわかりやすく説いているのに、それも理解できずに文句を言ってくるインテリ屋さんに、辟易し絶望したものだ。

 「国をまもるということ」の中で、花森さんが「<くに>というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である。・・・」と書いているが、この記事の場合は、あえて<くに>と括弧つきのひらがなにしている貸借関係の相手としてなのだが、花森さんにとって、国とは何か、あの戦争を引き起こし、国土を国民を暮しをめちゃくちゃにした国とは何か、というのは非常に重要な問題である。

 国は、大日本帝国は、死んでも国を守れ、と命令し、地上戦になった沖縄では多くの民間人や学生が死んだ。
 その死んでも守るべき国とは何を守るのか。国土なのか。国境線なのか。政府なのか、国体なのか。
 本土防衛などと言っても、空の国境線など、B29の空襲で連日連夜破られて、焼夷弾で何万何十万もの家が焼かれている。
 もし、鬼畜米英が上陸して来たら、皆殺しになるぞ、婦女子は全員凌辱される。そんな目に遭う前に自決せよ。
 まだ小学生だった私もそう教えられて、子ども心に自決とはどうするのか考えたものだ。

 このことを花森さんは、「二十八年の日日を痛恨する歌」(「暮しの手帖」2世紀25号)の冒頭で、こう書いている。

  また あの日が やってくる
  あの日
  大日本帝国が ほろびた日
  もっと正確に言うと
  大日本帝国が ほろびたはずの日
  いまから 二十八年まえの
  昭和二十年人月十五日
    (略)
  あの日
  ぼくらにとって たしかなことは 戦争
  が終った ということだけだった
  これで たぶん 死なないですんだ と
  いうことだった

  戦争に敗けると どんな悲惨な目にあわ
  されるか それを小さいときから 骨の
  ずいまで たたきこまれた
  降服するより 死をえらべ その言葉が
  哀しく 壮烈に 激しく 胸をゆさぶり
  つづけた
  そして 日本は降服した
  大日本帝国は 崩壊した
  しかし
  ぼくらは 殺されはしなかった
  ぼくらは 奴隷にも されはしなかった
  強制労働にも駈り立てられず 去勢もさ
  れなかった
  ぼくらは 正直いって 拍子抜けした
  こんなことなら もっと早く敗けていた
  らよかったのにな とおもった
  ぼくらは 恐しさに 張りつめていた気
  が 一度に抜けて 茫然と ふぬけみた
  いになって どこでも 町角でも ビル
  の前でも 駅のプラットホームでも ど
  たんと腰を下して 力のない目で うつ
  らうつらと 世の中を見ていた

 われわれ庶民を欺き、徒に死者をふやし、家を焼かれ、暮しをめちゃくちゃにしたのは、自分たちのお国だったのではないか。
 鬼畜米英は、皆殺しどころか、食料を大量に供給し、青空も、平安も民主主義という宝物までくれたではないか。
 私自身も米兵にギブミー・チョコレートと群がって、とろけるようにおいしいチョコレートをもらった。
 では死んでも守れ、お国を守れ、といったお国とは何だったのか。
 それを花森さんは、死んでも守りたくなるような国なのか、守れと言うのなら、国民に守りたいと言う国にしてくれなければ、損得勘定は合わないよ、と言っているのである。
 現実には、300万もの同朋を死なせ、多くの国々に多大な被害を与えた戦争だった。
 しかも、その責任は誰もとっていない。

 イラクのモスクから、ISを撃退したと報じられている。
 しかし、シリアはまだ闘いが続いていて先が見えない。アフガンもどうなるか分からない。
 住民たちに平安は戻ってきたのだろうか。
 政府軍とISとの攻防で、市民の暮しも命もめちゃくちゃで、多くの住民が犠牲になっている。
 住民にとっては、政府軍であろうとIS支配であろうと、戦争がない方がいいのである。主義主張より、生きること、まいにち穏やかに食事が出来ること、ゆっくり眠れること、つまりふつうの暮しが出来ること、それが一番なのに、世界の指導者も、民族主義者も、自分たちの主義主張が通るまで、戦争をやめない。

 さて、いまの日本について、花森さんだったらどう考えるでしょうね、とよく聞かれる。
 北朝鮮が、核兵器を持った、大変だ、
 北朝鮮が、大型ミサイルを飛ばした、国土を守らなければ、迎撃ミサイルを首都圏に配備した。よかった。
 尖閣列島に中国が上陸したらどうする。

 もっともらしく、危機をあおって防衛力増強を図り、憲法改正して正規の軍隊を創るべし、と主張している人たちがいる。北朝鮮が攻めて来たら、中国が尖閣を取りに来たら、トランプ大統領はあてにならないぞ、どうするどうする、危機感の印象操作に、新聞も世論も、政党も、文化人知識人と称する人たちも、おろおろして明確な回答を持っていない。国民は不安だ。憲法改正も仕方がないかも。安倍政権の思うつぼだ。

 花森さんは、明確に答えを持っている。
 その答えを、いくつも引用してずっと書いてきた。
 ぜひ、読み取っていただきたい。

 (元暮しの手帖編集部・元FM兵庫社長・社会学博士)

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