若かりし周恩来・河野一郎・川俣清音

≪連載≫落穂拾記(27)

若かりし周恩来・河野一郎・川俣清音

                      羽原 清雅


 これは元社会党代議士川俣健二郎氏から聴いた話がきっかけだった。

 彼は1926(大正15)年、秋田県で生まれた87歳。壮健にして記憶力抜群、声高で逞しい。早稲田大学雄弁会育ちで同和鉱業に勤務、あまり社会主義風の姿勢を感じさせない。

 養父川俣清音(1899‐1972)も早稲田大学在学中に、稲村隆一の影響もあって社会主義運動に取り組む建設者同盟を結成、三宅正一、浅沼稲次郎たちとともに過酷な労働と収奪にあう農村に下放、秋田での農民運動を指導する。日本農民同盟には杉山元治郎、鈴木文治たちもいた。北海道出身ながら、尾去沢鉱山の労働争議などに加藤勘十たちとともに関係して、秋田に根差すことになる。
 1936年、社会大衆党から衆院選に出て初当選。このとき三宅、浅沼、杉山、鈴木、河上丈太郎、松本治一郎、片山哲、麻生久、河野密ら社大党から18人が当選している。加藤、黒田寿男らも他の無産党から当選した。翌年には安部磯雄率いる社大党から、清音ら38人が選出された。戦後の社会党結成に関わった闘士も多く、戦後の労組を足場とした左派とは違って、河上をはじめ右派が多い。

 この清音のあとを継いで、健二郎が横手市など秋田2区の社会党から出馬、1969年に初当選している。連続当選8回。社会党中執、シャドウキャビネットの農水相、また社会党議員初の韓国訪問が話題になる。モンゴルとの関係強化を目指してその友好協会会長などを務める。党内は右派の河上派に徹し、派閥の政権構想研究会(政構研)代表も務めた。

 前置きはこの程度にして、本題に入ろう。
 健二郎が訪中して、周恩来首相を表敬訪問した際に、「川俣キヨネさんのご子息ですね」といわれ、ビックリしたという。養父の通称はセイオン(清音)だが、戸籍ではキヨネなのだ。
 じつは、清音が早稲田大学在学中、近くの鶴巻町に下宿、そこにはのちに自民党の実力者となる河野一郎(1898‐1965)も住んでおり、若い周恩来(1898‐1976)もその下宿辺りにいたのだという。
 ただ、清音関係の著述、河野の自伝などを見る限り、周恩来との交流があったという記述は、今のところ見つからなかった。ただ、周恩来自身が、健二郎に言ったというのだから、事実だったのだろう。
 のちの中国をまとめ上げ、日中関係を築く周、自民党の暴れ者の印象を持たせる河野、それに労農の世界でリーダーシップを取った清音・・・同世代の三人、面白い組み合わせではないか。

 そこで、「周恩来『十九歳の東京日記』」(矢吹晋編・鈴木博訳/小学館文庫)を開いてみた。
 ロシア革命があり、第1次世界大戦中だった1917年9月、東京に留学した。すでに瀋陽、天津の学校を優秀な成績で出たあとで、まず神田の東亜高等予備校で日本語、受験科目の補修を受けるが、東京高等師範学校、一高の受験に失敗する。官費留学生の道が閉ざされたのだ。日本語はむずかしかったようで、「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう・・・官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない」と若き周は悔やみに悔やんだ。失意の日本だったが、日本人を知る機会にはなった。
 在日中に、のちの法政、明治大学の前身校などでも学んだようだ。翌18年8月ころにほぼ1ヵ月間帰国、9月に再来日した。1919年4月に、母校の南開学校に大学が出来るということで帰国。1年8ヵ月ほどの日本滞在だった。その後3年半ほどパリに滞在している。

 来日した周恩来は最初、新宿区牛込の中国人の友人の下宿(矢吹晋の註には「牛込区矢吹町」とあるが、この町名はない。山吹町か、矢来町か)に入り、その後は神田神保町界隈に下宿している。日記によると、周の出入りしていた神田界隈の中国の食堂は「漢陽楼」「維新号」「第一楼」などがあり、漢陽楼は今も神田小川町にあり、維新号や第一楼は全国にチェーン化している。滞在中の周は、日本橋の三越、丸善、浅草のオペレッタや映画に行ったり、また京都・嵐山に寄ったりしている。どのように思ったかわからないが、靖国神社の遊就館にも足を運んでいる。
 周恩来の日記を見ると、たしかに早稲田方面には頻繁に友人を訪ねている。川俣や河野の下宿に近いか、同じ下宿に中国人留学生がいて接点が生まれたのかもしれない。

 この時代の中国の歴史を振り返っておきたい。
 孫文が、十数年の独立と民主化に向けて革命闘争を挑んだ結果、清朝が倒れ、中華民国を成立させた辛亥革命は1911年から12年にかけてのこと。14年に始まった第一次世界大戦に乗じて、大隈重信内閣が中華民国に対して、山東省・南満州などで日本の権益を主張する21ヵ条の要求を突きつけたのは翌1915年。国内の混乱は続くが、この要求受け入れを機に中国民衆の間では「国恥記念日」として民族自決の機運が高まる。折からロシアでは10月革命(1917年)があり、この機を逃すまいと列強諸国とともに、日本もシベリアに出兵する(1918年)。この出兵を進めるために、日本は日華共同防敵軍事協定を結び、中国領土内での軍事基地の設置や日本軍の自由な活動などを認めさせた。このような中国民族軽視の日本側の対応は当然、中国人の誇りを傷つける。これが北京、天津、上海などの各地で排日・反軍閥を掲げる激しい抗議運動、つまり「五・四運動」を招いた(1919年)。

 周恩来は滞在中、受験勉強に専念する道を選んでいた。留学生たちの傾向を、革命支持の激烈派と帝政志向・軍閥台頭を見守るかの穏健派に分けて分析するなど、客観というか中間的な姿勢だった。こうして、日中関係が激しく動くにしたがって、祖国の置かれた状況に目覚めていったようだ。
 18年5月、留学生の間で「大中華民国救国団」という組織を結成、神田の「維新号」で秘密の会議を開いている。だが、すぐに釈放されたが、西神田署に拘束された体験もある。このことは周恩来にとっての、ひとつの転機であったかもしれない。
 留学中の中国学生たちも、ひそかに集会を持ち、情報を交換し、怒りを強める。周恩来は帰国した直後、「五・四運動」の渦中に飛び込んでいる。その後、天津での学生運動のリーダーとなり、中国共産党でのリーダーとして頭角を表わしていく。

 日記には、「もっとも奇怪なのは、一部の留学生が日本人と付き合っている者を目にすると、漢奸(売国奴)と罵ることだ・・・天下のことについては、英雄はもともと普通人の議論など気にかけないが、大半の人はやはり衆人の輿論に従って歩んでいるのだ。まずこの道を遮断すれば、あえて衆人の怒りに触れようとする者がいるだろうか。日本留学も無用といえる」とある。
 これは、周恩来のクールだったといわれる政務処理の姿勢の萌芽、といえるかもしれない。また、日中復交に取り組む根底に、このような対日観があったようにも思えてくる。

 周恩来の日本滞在は19‐21歳のころ。日記によると、下宿での朝、女中が不意に部屋代、食事代を請求したが、1元余(当時の1円程度)不足していたので、数日待つように頼んだが、まったく取り合わない。「これほど無礼に取り扱われ」たうえに、女中は玄関まで追いかけてきたので、逃げ出した。夜、帰宅して払うと、翌朝女将が「申し訳ない」とわびた、という。周は「日本人の料簡は、本当に卑にして小だといえる」と書く。

 このことで思うのは、今もアジア諸国から多くの留学生を受け入れているが、このようなちょっとしたつれない仕打ちにあうことが、本人を傷つけ、悪い対日感情を持たせることにならないか、という点である。
 中国や韓国、北朝鮮をはじめアジア諸国と日本との歴史について考えることなく、ヘイトスピーチやそのデモ行動が目立つが、これはどうしても将来に禍根を残すことになるだろう。日本人自身にとっても不快な言動は、日本滞在の外国人にはもっと不愉快な思い出になるだろう。中国や韓国での理不尽な対日攻撃も出ているが、これと同じような対応をして亀裂を深める幼稚さでいいのだろうか。

 加害の歴史を考えることを否定することからヘイトスピーチは生まれてくる。自虐史観と称する論調も、加害の事実を「まぼろし」としたり、「愛国心欠如」と攻撃したりするが、歴史をゆがめるのではなく、事実にもとづき是は是・非は非と冷静に考えるところから、人にしても国にしても交流が始まり、育つものだ。

 明治維新直後、日本は欧米に学ぶために岩倉使節団を送り、国の統治から国際関係のあり方、津田梅子ら女子教育を伸ばすなど、近代化への多くの契機をもたらした。その後こんどは、開発途上の中国などから、先進日本に学ぼうと多くの留学生がやって来るようになった。周恩来もその一人だった。先進、後進の国々、そして若い学徒の交流が図られることで、長期的な関係が生まれる。日本とトルコの関係もそうだし、今後は発展途上のアジアやアフリカの国々との間で、もっともっと工夫と努力が必要になるだろう。

 「中国人日本留学史」(さねとう・けいしゅう著、くろしお出版)から、外務省、満鉄史料による数字を孫引きすると、1930年代の中華民国要人45人の学歴は日本留学18、日本と西洋4と半数に上り、あとは米国6、英仏独各1、留学していないもの14、だったという。また、中国の著作家332人の学歴(1937年版)は、半数の167人は不留学だが、日本57、日本と西洋2、米国48、仏20、露12などとなっている。だが、抗日戦争下では激減し、中国の留学生が増えたのは戦後のことである。

 別段、偉い人材でなくてもいいが、日本に学び、日本人の気質や風習を知り、母国に戻って良い印象であったかどうかを語ることで、次の世代の判断に影響する。アジア、アフリカなどからの留学生は、学業を身に付ける一方で、ささやかにしても日本での体験を印象付けられて帰国する。
 それらの人々は、祖国でいつかそれなりの影響力ある仕事や任務に就くだろう。そのとき、日本で感じてきた印象がものをいう。日本にお返しするくらいの想いでいるか、どうにも気に食わないということか、いずれそのことは日本の国際社会での重さを左右するに違いない。

 周恩来ばかりではない。当時の留学生には、両親の留学時に東京で生まれた廖承志はじめ、革命、抗日参加の陳独秀、薫必武、黄炎培ら、女性の革命家何香凝(廖承志母)や秋瑾たち、魯迅、郭沫若、夏衍、田漢、周作人といった著名の人びとがいる。現代中国に行かず、国民党系に向かった人々を見ると、蒋介石、張群、何応欽らの陸軍士官学校出身者、汪兆銘、周仏海、蔡培たちがいる。
 このように国を動かす人材が、日本で学び、国のありようを考えていたことが、日本と中国の復交、あるいは台湾の戦後日本に対する許容などに投影していただろう。

 周恩来、河野一郎、川俣清音の青春期に、中国留学生たちも東京などの一隅にあって、人間を、国を、民族を考えていた。
 では、今の日本はどうか。在日の外国人と良い付き合いが出来ているか。将来を見据えた留学生の受け入れができているか。とりわけ日本の外交が各国と中長期的に安定的な関係を築こうとしているか。国家として歴史的に反省すべき点と、主張すべき点の整理が出来ているか。国民の意識に冷静な歴史的事実を教え、啓発する教育システムはできているか・・・そのようなことを思いつつ、思わぬ方向の原稿になったようだ。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)

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