藤村恒雄自分史(3)「私の太平洋戦争史」(2)

■【アーカイブ】

藤村恒雄自分史(3) 「私の太平洋戦争史」(2)

                          藤村 恒雄
───────────────────────────────────


◎ソロモンの消耗戦


  日米の航空決戦は、ミッドウェーに先立つ5月7日サンゴ海海戦、さらに8月5日
第一次ソロモン海戦、8月20日第二次ソロモン海戦、10月26日南太平洋海戦と続
いて全く互角であった。双方とも傷付き兵力を消耗したが、予想を越えてアメリ
カの戦力回復、というより、新戦力の投入が行われて、結局ガダルカナル争奪戦
は苦しくなっていた。例えばラバウル基地からガダルカナルまでは1000kmあり、
ゼロ戦でも往復するのには、現地上空で20分しか戦闘できない。

 18年2月日本軍は莫大な犠牲を払ってもガダルカナルを守り切れず、遂に転進
と称する退却を命ずる。しかしその後も消耗戦は続く。この総称してソロモンの
戦争(ニューギニアを含む)の大消耗戦に個々の戦闘では勝っても全体から見れ
ばもう補充がきかなくなったのである。消耗戦に引き摺り込まれたら負けだった。

 開戦からこの時期まで、7000機の航空機を失い、7100名の搭乗員を喪失したの
である。開戦時4000名の搭乗員しかおらず、この時期までに新たに投入された搭
乗員は戦前から海軍に入隊していた者ばかりでやっと間に合った3000名を含んで
いるのだ。開戦以後に入隊した者はこの戦では間に合わないのだ。つまり戦闘の
経験者はほとんど死んでしまったのだ。飛行機の補充がついたとしても優秀なパ
イロットは3年経たないと育たない。

 戦闘機も新機種がでてきた。ゼロ戦は1000馬力だが米軍のは2000馬力で、上昇
力、スピード、攻撃力、防御とすべて劣って来た。膨大な犠牲は航空兵力だけで
は無い。基地防衛に支えられず戦死という名の餓死した兵はこの時期で30万人と
いう。もう戦争は続けられないのだ。


◎全体の戦局はどうか


  山本元帥はだれも戦争の幕引きをしてくれず、自分の作戦も失敗してこの18年
4月、まるで自爆するように戦死する。
  この戦争で膨大な人々を殺したが、それは幾ら思い病んでも割り切れない。こ
の辺で打ち止めにしなければならなかった。もう少しその戦局を見てみよう。待
ちに待った嬉しい日米決戦だったが、勝敗の鍵はドイツにあると思っていた。そ
うとしか思えない終末となるからだ。

 このころヨーロッパではドイツはどうか。日米開戦の前に、ドイツ軍はモスク
ワ攻略戦に敗北していたと述べた。その後レニングラード攻略にも失敗、大敗北
した。そして18年1月有名な、スターリングラード攻略にも大敗北してしまう。
米国は大量の戦車や兵器を送り続け、極東からも駆け付け、ウラルでも新兵力の
師団を作り送り込めた。しかしドイツは補充の部隊が無く全滅した。18年中には
ソ聯領内にドイツ軍は一兵もいなくなった。
  連合軍は、アフリカ戦線で、反撃して独軍(ドイツ軍?)を降伏させ、遂にイ
タリアに上陸して18年に降伏する。あてにしていた日本は孤立していた。

 また、17年から18年にかけたイギリスの空軍は大規模な戦略爆撃をぞくぞくと
ドイツ国内に向けて実施した。アメリカの空軍も戦略爆撃を続けた。これらは日
本にはなかった、四発の超大型機であった。それも数百機の単位で時には1000機
もが休みなく丸一日、丸二日と爆撃する。日本に落とした爆弾の20倍の数量だっ
た。ドイツの基地、工場は集中的に攻撃された。ベルリン、ハンブルグ、ドレス
デン、エッセンなどの都市は夜間の無差別爆撃に灰塵に帰した。英軍は延べ53万
機が攻撃し、730万発の爆弾を投下した。

 中国大陸でも、アメリカの力で、援蒋ルートが確立し、インドから昆明を経て
重慶に至る、空からの援助、陸からの援助が届き、各地でも飛行場も沢山できて、
日本軍の手に負えなくなった。戦線も負けつづけた。

 日本の戦局についてはどうか。米軍はソロモン・ニューギニアの作戦から海軍
はトラック、マリヤナから日本本土を目指す予定で、陸軍は比島から北上して日
本本土を目指す。それらは提携して進むことにしていた。もう方向ははっきりし
ている。

 それに対する海軍は、兵力量、兵器の圧倒的な差に思考力がなくなり、ただ呆
然としていた。作戦の立てようがないのだ。しかし次々と攻撃を仕掛けられるの
で仕方なく対応しているだけであった。ソロモン・ニューギニアの消耗戦で参っ
てしまった。もう纏まった作戦はできなかった。そして残る空母の飛行機と搭乗
員をラバウルの陸上に挙げて、かろうじて少数のラバウル航空隊として防衛に当
たっていた。それが18年一杯の状況だった。
  無為無策の次には、19年2月米海軍のトラック大空襲に目を覚まさせる。


◎戦争は昭和18年で終わっていた 終結すべきだった


  このような世界の戦局をどこまで、天皇が知っていたか。海軍と陸軍の戦争を
統括するのは天皇一人の任務であった。統帥上そうなのだ。海軍も隠しあったり、
陸軍も大陸の状況は内緒にするし別々に戦争しているので天皇以外は分からな
い事になる。 戦争指導のため、天皇直轄のスタッフや情報本部は作られていない。

 後に取り返しの付かない余りにも沢山の軍人や国民を殺してしまうのだが、こ
の18年に勝負はついていたのだから終結すべきであったと思う。この時期までは
前線の兵隊だけの戦死でよかった。山本元帥の作戦はハワイ攻撃だけであった。
予想より早く米軍が反攻にでてきたので、手に余る広範囲に兵力を展開しすぎて
戦死者をふやしてしまった。もう、兵力は量的にも質的にも格差があり過ぎて戦
にならない。本来、軍人は自分から負けたとは言わないから、天皇が命令して止
めさせ無ければ終わらない。(天皇がスタッフを揃えてやれば出来る)


◎終結のシナリオ


  第一は支那大陸の停戦である。もう支那大陸の泥沼から足を抜かないと大陸の
戦争も蒋介石を懲らしめるどころか、攻守逆転しているのだ。毛沢東の共産軍も
各地で、日本軍を圧倒してきた。

 停戦して半年かけて撤退する以外方法がない。それを言えば、クーデターが起
こったかも知れないし、陸軍が国内で反乱を起こすかも知れないが、天皇に開戦
の勇気があれば、それ以上の勇気で集結してもらうしかない。中国問題は日米戦
争から中立とする。 大陸で散った数十万の英霊に対し申し訳がないと東条は
言って人を黙らせた。しかし戦争が負けた以上撤退するしかない。満州をどうす
るか。ここは中立地帯として国際監視団に見てもらう。将来は中国に返す事にな
ろう。

 第二は絶対国防圏の早期設定だ。これは後にトラック空襲のあと、南洋群島と
蘭印、比島、マレー半島の線で食止めようと設定したのだが、19年6月、マリヤ
ナを攻撃されて破られサイパンも取られる。これを早く決めて、広い南方の島々
から撤退するのだ。前線にはりついた部隊への補給ができない。撤退を命令しな
かった。餓死するより、降伏を許すと前線に告げたほうがよかった。

 手を広げても、懐に穴があいては前線は玉砕するしかない。日本軍は19年6月
の事態を予想しなかった。直ちに本土空襲が始まると言うのに、深刻に考えてな
い。が、思えばえらいことだと、東条内閣を倒したのだ。遅くともこの時期が終
結の最終期限だったと思う。結果が同様であっても犠牲者が少なくなったと思う。
本土空襲の被害も少なく、原爆の惨禍がなかったし、ソ聯の侵入もなかった。
空襲の惨禍はヨーロッパの戦争からみて明白であり、一般国民の犠牲を少なくす
るという思想が必要だったと思う。それは天皇にもなかったし指導者の軍人にも
なかった。過ちだと気付いた時に謝るのが人間だと思う。


◎「戦争による被害の資料」


  私の太平洋戦争史 追補


 "戦争体験"について 加害者の立場が聞けない事
  戦争を国民が身近に感じたのは、昭和12年の支那事変(日中戦争)からであろ
う。沢山の市民が徴兵され、召集されたからである。そして実戦の体験者の多く
はこの人達つまり、12年から18年ごろにかけて兵役に服した人達であろう。普通
陸軍は徴兵が多いからその生年でみると大正4年から大正12年生まれまでである。

 私は「年令は年代によって"戦争の体験"に差異があるのは当然であると思う」
がしかし、あの重大な戦争のことであり、歴史的に重要な国民的体験であるか
ら、戦後もっと素直に体験を語ってほしいと思うのだ。知りたいと思う。しかし
彼等は語らないのだ。
 
  戦後60年以上、「あの戦争」について思い続けて来た私にも、その人達は語ら
ない。気軽に会話を交わす人でも侵略戦争に荷坦した体験は語らない。加害者の
体験は語らない。マスコミや研究者にたいしても同じだ。それはやはり忸怩たる
感情があるからなのだろう。自分だけで心にしまってあの世に持って行きたいと
思うのだろう。

 戦後、まだ多くの体験者が元気だったころでも、活字になって店頭でみること
はなかった。捕虜になったり、餓死寸前でゲリラをやりながら生き残った人達の
体験は一杯出回っているが。
  その理由を類推すると、まず、戦後と言われる時期、詮索する人がなかった。
局面局面でのポイントについて掘り返して調べる人がなかった。と言えよう。自
衛隊が戦史を残そうと作戦の記録を綴っているが、その作戦に関わった参謀クラ
スの人のもので、都合の悪いことは書いていないと思う。

 すこし時間が経って来てからは、今度は書き手に軍事知識が乏しくなってく
る。 もうすこし別の角度からみよう。
 
  それは従軍はしていても事情がよく分からないのだ。一般の兵士に全体像が分
からないということもあるが、作戦の指導部にいた将校か副官でもした人でない
かぎりそれは言える。戦闘の特定のポイントで指揮したとか、住民の犠牲者が多
く出たその局面に遭遇しない限りわからない。従って余程のことが無い限り口を
開かない。
  それでも、何年何月のどこそこでの作戦と言えば「記録」は残っているのだか
ら、多少の関心があればくわしく詮索することはできるだろうと思う。支那事変
の場合そういう文書は見た事がない。

 負け戦の場合は、例えばインパール作戦のあれこれは色々な体験者が詳しく書
き残している。また南方島嶼での「玉砕」体験も沢山出版されていて読んだ。ひ
どい目に遭った人がその戦争のその部隊の指導部のあれこれまで詮索して告発し
ている。従って戦争体験の出版物は偏りがあるのだ。
  中国の戦争のことや、南方作戦で占領したことや、従軍した記者や施政官たち
の体験はほとんど見た事がない。物資を徴発した体験も知らない。しかしながら
そういう事に関わった人は少数だし、一般の兵士は知らないからコメントしない
のだ。


◇東京裁判史観を捨てよと言う人について


  東京国際軍事法廷は、確かに戦勝国が占領政策に都合のよいように始めた。原
爆投下は明らかに国際法に違反しているが知らぬ顔だった。しかしポツダム宣言
には書いてあるしそれを受け入れた以上拒否はできまい。そして何よりも圧倒的
大多数の国民は「東京裁判によってあの戦争の全体像がわかった」のだ。あの時
代の大きな流れもわかったのだ。

 マ司令部以外に日本人のだれがあの戦争の間違いを告発したか。だれもしなか
ったではないか。そういう積極面を理解せずに、東京裁判を抹殺することはあの
歴史が明らかになることで都合の悪い人達だからではないか。日本人の多くは、
死刑になった人は悪かった人々の代表として処刑されたと思っている。加害者の
代表だから同情することはない、と思っている。靖国神社に参拝する遺族会の古
賀会長でも東条に参拝する気持ちにはなれないと言っている。

 BC級戦犯の人の中には気の毒な人もいる。しかし戦犯に値する悪い人がほかに
もたくさんいて、この人達が代表として罪に問われたのだ。多くの日本人はそう
思っている。最初中国は300人の戦犯をリストアップしてきた。それを忘れては
ならない。
  私が戦争体験について思うことの主要な面は以上の通り。

 副次的な側面としてつぎの点が気になる。
  最近マスコミに登場する戦争体験は、子供のとき学童疎開で苦しかったとか、
食糧難で困ったとかいう話が多い。私はそれはそれで重要な事だし否定はしない。
しかし、日本人はあの戦争での全体像は加害者であったことを避けては通れな
いのだ。これはもう60年も経って、まだ戦争の謝罪をしなければならないのはお
かしい、という言葉にもあらわれている。私は「もう」ではなく「まだ」だと言
いたい。足を踏んだ者は忘れても、足を踏まれた者は忘れない、のだ。恨みは二
代、三代とつづくのだ。秀吉の朝鮮侵略を未だに忘れないと言われるくらいだ。

 今生きている人達のほとんどが、戦争には加害者の立場だったのでそれはそれ
で話題が限られるのだが、歴史は正しく認識する必要がある。特に政治家が歴史
をねじ曲げてはいけない。
 
  最近テレビでドイツ・ドレスデンの空襲の生き残りの人の話が出ていた。イギ
リスはヒトラーに報復するため爆撃機を繰り出して空襲した。20年2月、三次に
亘り大爆撃を行い、広島や、東京より上回る13万人の死者が出た。100キロ離れ
たライプチッヒからも火柱が望まれたという。戦争の悲劇は洋の東西を問わな
い。イギリス人の恨みはすごいものだ。そのドイツの人はヒトラーへの恨みは言
わず、無差別爆撃はけしからんと怒っていた。

 そのヒトラーと結託して戦争を仕掛けた日本人も恨まれているのだ。近衛文麿
はそれを予測したか。日本人の指導者のだれが予想したか。だれが責任を取った
か。無責任に戦争を始めてはならないのだ。


◇「第二次世界大戦資料」


海外での戦死数
地域     人数  名    
   中国本土     465,700
沖縄 186,500
   満州       245,400
インドネシア 31,400
   ロシア・モンゴル 54,400 
ミャンマー 137,000
   サハリン・千島 24,400
インド 30,000
   中部太平洋 247,000
ビスマルク・ソロモン 118,700
   東部ニューギニア 127,600
西部ニューギニア 53,000
   硫黄島 21,900
合計 2,261,000

「この数字を読むにあたっての留意事項」
☆統計の取り方によって数字に差があると思う。 陸軍と海軍の合計。
☆傷病兵で戦後死亡した者が含まれているか。 ☆民間人がどの程度含まれてい
るか。
☆地域の区分について。フィリピンは侵攻時と米軍の反攻時と両方か。
中部大平洋は赤道以北の海域は マリヤナ戦などの総称か。
ビスマルクはラバウルを含む。ニューギニアは蘭領と英領で分けているか。
沖縄は沖縄戦全体か。ミャンマーはインパール作戦を含むか。
インドはインパール作戦か。中国は16.12,8以前を含むのか。
満州以下は対ソ戦か 抑留者中の死者が含まれているか。日本本土は含まれな
い。
☆戦傷兵(負傷者)の数は、4,000,000名と言われている。
☆民間人の戦争犠牲者 死者数
(空襲・原爆・沖縄の地上戦・各島嶼の戦争、及びソ聯軍の侵攻に巻き込まれた
人など)
戦後の統計では668,000名または1,000,000名に達するとも言う。
☆民間人で戦災に遭った人
(上記のような状況で家屋や財産を失い生活の手段を奪われ、家族を失った人)
7,000,000名(人口の10%)
東京都の1,500,000名始め大阪府、沖縄県、広島県など全国に及ぶ
☆強制連行された朝鮮人 徴用など330,000名。
☆中国人の戦争犠牲者 死者数(出典不祥)
5,000,000名または8,000,000名に達すると言う(内軍人は2,000,000名)


◇試算


あの戦争を戦った搭乗員の記録(出身別の表あり)

◇戦争の節目
開戦時に参戦していたもの 4,500名
ミッドウェー海戦 珊瑚海海戦 17.6
ソロモンの戦争(ガダルカナルからラバウル)17.8~19.2
損失航空機 7,096機 搭乗員 7,186名喪失
この時期までに参戦した搭乗員 9,500名(別紙内訳)
マリヤナ、比島の戦争(南の島々と海原)19.2~20.1
開戦からの搭乗員喪失総数 13,000名
この時期までに参戦した搭乗員総数 19,200名
本土・沖縄の戦争 20.2~20.8
開戦までの搭乗員喪失総数 16,000名
この時期までに参戦した搭乗員総数 27,300名
〈詮(注または註では?)・参戦数は飛練を卒業して実施部隊に配属された飛行
機全機種の搭乗員総数〉

◇出身別の搭乗員数

1.士官の部(兵学校卒のみ)
  開戦時の搭乗員数(但し昭和10年卒以後) 約500名
  ソロモンの戦争までに参戦していた搭乗員 16卒69期まで 630名
  比島の戦争までに参戦していた搭乗員 17卒71期まで 1,100名
  沖縄の戦争までに参戦していた搭乗員 19卒73期まで 1,900名
  士官の部(予備学生のみ)
  開戦時の搭乗員数 8期まで  170名
  ソロモンの戦争までに参戦していた搭乗員 12期まで 240名
  比島の戦争までに参戦していた搭乗員 13期一部まで 500名?
  沖縄の戦争までに参戦していた搭乗員 14期一部まで 6,000名?
〈註・兵出身で準士官以上に昇進した者はかなりの数になるが調査外〉

2.操縦練習生出身の部(大正からあるがここでは昭和8年以後とする。また偵察
もあるが調査外)他の兵科から採用した
開戦当初の主力搭乗員で総数 1,420名

3.丙種飛行練習生出身の部 他の兵科から採用した(操縦練習生についで主力と
なったが17期でこの制度廃止)
ソロモンの戦争までに参戦していた搭乗員 17年11期まで 3,800名
比島の戦争までに参戦していた搭乗員 18年17期まで 7,200名

4.乙種飛行練習生の部(昭和5年から、高小卒以上で一般から採用した少年飛行
兵 3年間教育する 1期生は最後大尉)
ソロモンの戦争までに参戦していた搭乗員 14年入隊12期まで 2,500名
比島の戦争までに参戦していた搭乗員 16年入隊16期まで 4,900名
沖縄の戦争までに参戦していた搭乗員 17年入隊18期まで 7,500名
〈註・乙飛生の戦死者合計 4,471名〉

5.甲種飛行練習生の部(昭和12年から、中学4年以上で一般から採用した 6年で
幹部に登用予定、当初1年半の教育)
ソロモンの戦争までに参戦していた搭乗員 15年入隊7期まで 1,800名
比島の戦争までに参戦していた搭乗員 17年入隊10期まで 4,200名
沖縄の戦争までに参戦していた搭乗員 18年入隊12期まで 8,600名

@〈註・飛行練習生以上に進んでいた搭乗員 18年入隊13期の半数 14,000名〉
〈註・甲飛生の戦死者合計 6,116名〉

6.乙特飛行練習生の部(丙種が廃止され、乙種合格者から採用 6ケ月で予科練
卒業の促成強行教育)
比島の戦争までに参戦していた搭乗員 18年4月入隊の1期 1,500名
沖縄の戦争までに参戦していた搭乗員 18年8月入隊の3期まで 2,600名
〈註・乙特飛生の戦死者合計 1,248名〉

7.他に民間の乗員養成所出身の予備練習生という制度もあった。
〈註・戦死者の数字は作戦時の数字と食い違いがある。〉

@小生はこの項に該当〈註・予科練は戦争の主役ではなかったこと。〉

◇各国の戦闘機・爆撃機の生産数
米 英 日 独 ソ
戦闘機(単・双合計) 99,000機 48,000 28,000
  内ゼロ戦10,000 58,000 70,000
爆撃機
  双発 25,000 22,000 9,500 25,000 27,000
  四発 35,000内
   B29 4,000 15,000 0 200 90
〔参考〕日本海軍の主力機 爆撃機として
一式 陸上攻撃機 双発 乗員7(航続距離3000km) 魚雷又は800kg爆弾搭載
銀河 陸上攻撃機 双発 乗員3(航続距離1000km) 魚雷又は800kg爆弾搭載
97式 艦上攻撃機 単発 乗員3(航続距離550km) 魚雷又は800kg爆弾搭載
天山 艦上攻撃機 単発 乗員3(航続距離930km) 魚雷又は800kg爆弾搭載
彗星 艦上攻撃機 単発 乗員2(航続距離900km) 魚雷又は500kg爆弾搭載
米・英空軍の対日、対独空襲の実績
ただし空母からの艦載機によるものを除く
日本本土空襲 米軍による 独本土空襲 英・米軍による

爆撃参加機総数 26,000機 延べ数 530,000機 延べ数
  投下 爆弾数 689,000発 延べ数 7,296,000発 延べ数
  未帰還 機数 350機 延べ数 10,600機 延べ数
  未帰還 率 1.4% 延べ数 2.0%

搭乗員犠牲者数 1,700名 延べ数 43,000名 延べ数
  爆弾数は250kg換算
  独軍の高射砲数(43年時点)9,000門
  日本軍の高射砲数 820門

〔参考〕日本海軍の主力機 戦闘機として
ゼロ戦(零式)艦上戦闘機 21型 単発乗員1 航続距離1200km 20ミリ機銃装備
ゼロ戦(零式)
艦上戦闘機 62型 単発乗員1 航続距離800km 最高速度500km/H 20ミリ機銃装備
紫電 局地戦闘機 単発乗員1 最高速度600km/H 上昇力1万m 7分 安定度良 
20ミリ機銃装備
雷電 局地戦闘機 単発乗員1 最高速度600km/H 上昇力1万m 7分 安定度やや
不良 20ミリ機銃装備             (おわり)

               (筆者は京都市在住)

                                                    目次へ