被災者からメッセンジャーへ

【北から南から】オランダ通信(5)

被災者からメッセンジャーへ
——福島の子ども達をオランダに招いて——

リヒテルズ直子


◆<福島の子どもたちの声をオランダの子どもたちに届ける会>の発足と趣旨

 去る3月21日、Sさん(18才)、Tさん(14才)、Aさん(14才)という、福島出身の女生徒3人が、引率者とともにオランダを訪れてくれた(*個人情報漏洩リスクを避けるため仮名表記)。28日に帰国するまでの1週間、3人には日本人女性がいる家庭でホームステイを通してオランダの日常生活を体験てもらいながら、同世代のオランダの生徒たちと交流、その後は、保養の意味で国立博物館やゴッホ美術館、風車やチューリップ園などオランダの名所も楽しんでもらった。

 企画したのは、2年前にオランダ在住の日本人の母親たち3人と共に立ち上げた「福島の子どもたちの声をオランダの子どもたちに届ける会」。私たちは、福島の原発事故で被災した子ども達に、単なる保養にとどまらない異文化交流経験をオランダ滞在中に積んでもらいたかった。具体的には、オランダの同世代の子どもたちと交流することだ。福島の原発事故による被害は収束していない。被災者の間では国からの支援の相違等をめぐって利害対立から軋轢が生じているとさえ聞く。他方、現政権は、原発再開やオリンピック招致といった政策で、原発事故未解決の現実から国民の目を逸らさせ、事故後の被害状況についてもマスコミへの圧力をかけて開示努力を怠っている。

 そんな中で、被災した子どもたちはこの5年間何を考えてきたのだろう。原発事故の衝撃が「風化」していく中でどんな思いでいるのだろう。今、子ども達はどこでどんな風に暮らしているのだろう。オランダにいる私たちに何かできることはないだろうか。そんな思いから思いついたのが、オランダでの保養とともに、彼らの率直な思いや不安をオランダの同世代の子どもたちと共有してもらうことだった。被災者というだけではなく、心の中の思いをメッセージとして地球の裏側の同世代の子どもたちと共有することで、未来を担う世代としての連帯感に繋いで行くことはできないだろうか。原発事故が引き起こした災害は、日本だけの問題ではないはずだ。そのためのファシリテーションを担いたい、、、

◆資金調達の苦労・NPO団体「シャローム」の協賛

 しかし、理想は高く掲げたものの、資金調達という現実の問題では、思いのほか苦労することとなった。賛同者はいても資金協力をお願いできる団体は皆無に近かった。当然ながら、日系企業関係者、在留日本人自身が、全て反原発に積極的であるとも限らない。ある種の、奥歯に物が挟まったような感覚が在蘭日本人の「原発」議論にも感じられた。オランダの日本人コミュニティという小さな集団の中で講演会を開いたり、手芸品や中古品を販売するバザーなども開いたが、会場経費などを支払えば、ほんのわずかばかりの収益にしかならない。ましてや、そのような場ですら「なぜ福島の子ども達をわざわざオランダに呼んでオランダ人に対して経験談などをさせるのか」という批判めいた声や態度が感じられた。オランダにある幾つかの環境保護団体にも打診してみたが、「いい企画だね」と言ってはくれても、彼らもまた、資金に余裕のない中で活動をしており、資金確保の見通しはいつまでも立たなかった。

 結局、日本で、ご縁のある身近の方にお願いして頂戴した寄付金とボランティアの力を合わせても、滞在中のお世話をするだけが精一杯で、子ども達の渡航費すら捻出できず、ましてや、当初なんとか達成したいと思っていた保護者の同行費を提供するには遠く及ばないという状況だった。そうして、企画の実現をほぼ諦めかけていた昨秋、福島の「シャローム」という団体から「ぜひやってみましょう」との力強い声がかかってきた。人権擁護や共生社会を目指して福祉活動を行っている団体で、フランスで子どもたちの保養キャンプを企画した経験を持っておられる。昨年6月の帰国の折に、あるご方の紹介で福島を訪れて知り合った団体だ。「こういうキャンプなら渡航費を払ってでも行きたいという中高生がいると思います」とのアドバイスに私たちは勇気付けられ、にわかに準備に奔走することとなった。

◆生の声(英語)でのメッセージ

 まず、私たちが何よりも実現させたかったのは、福島の子どもたちが、自分で自分の考えを直接オランダの子どもたちに伝えることだった。そのためには、彼女たちにどうしても英語でスピーチをしてもらいたかった。

 けれども、日本の中高生にいきなり「英語で話してください」と言っても無理なのは目に見えている。それでも、せめてプレゼンテーションだけは英語でやってもらいたい。後の交流は私たちこちらのボランティアが通訳に入れば良い。

 私たちは、オランダにやってきてくれるという3人に、まず、自分がオランダの子ども達に伝えたいメッセージをそれぞれ日本語で作文して送ってもらった。それを、できる限り優しく読みやすい英語に翻訳して送り返し、渡航前に日本で読む練習をしてくるようにお願いした。写真や図表をたくさん入れたプレゼンテーションも作ってもらい、その翻訳もこちらで準備した。シャロームの関係者は、その間、連絡や準備の援助で奔走してくださった。嬉しかったのは、子どもたちの学校の英語の先生が仕事の合間を見つけてスピーチの特訓をしてくださったことだ。

 Tさんは、学校やお父さんの職場が津波に押し流されるのを目の当たりにし、以後、高い線量の放射能の悪影響を不安に思いながら生活していること、また、日本国内で原発事故への衝撃が風化しつつあることへの不満を語ってくれた。
 Aさんは、住んでいた福島市が線量が高いにもかかわらず避難地区に指定されなかったために、両親の判断で自力で全国各地を転々と避難する生活を強いられることとなり、今も、仕事のために福島に残った父親と遠く離れ、京都で1年先の住まいの保障もないまま母子生活を続けている苦労や、「福島出身」であることを理由に級友にいじめられた経験を語ってくれた。
 またSさんは、生まれ育った両親の大切な自然農場が事故によって奪われたにもかかわらず、その衝撃を自分自身で受け入れることができないまま学校でもやる気をなくしてしまったこと、そして、後に寄宿制の高校に通いながら、事故発生前に両親が自分たち子どもらの大切な命のために自然農業をやっていたことに気づき、自分もその志を継いでいこうと考えていることなどを語ってくれた。
 原発事故被災という実体験に根ざした3人の作文の内容は、それぞれに重い現実感があり、翻訳に携わった私たち自身、今更のように、子どもたちが受けた被害の大きさ、現実の生活の厳しさに深く心を打たれた。

◆オランダのティーンエージャーたちとの交流

 オランダの子どもたちと交流するための訪問先として、私自身訪問したことのある3つの場所を選んで受け入れの準備をお願いしていた。アムステルダムに本部を持つ、中等学校(中高一貫)の生徒自治組織「全国生徒行動組織(LAKS)」と、地方都市ズウォレにあるイエナプラン教育の中等学校、そして、政府所在地ハーグにあるホフスタット・リセウムという中等学校だ。
 いずれも、福島の子どもたちの訪問と交流を提案すると、二つ返事で歓迎し、それぞれ授業時間を変更して、大きなイベントとして企画に参加してくれた。しかも、どこでも、生徒たちが主体的に企画し受け入れ準備を進めてくれていた。

◆<LAKS>

 LAKS というのは、1980年代に、中等学校の生徒たちの自治権を認めるためにできた組織で、毎年、全国の中等学校の候補者の中から議長・書記・会計ら運営委員が選ばれ、中等教育に関する政策・制度の現状に対して生徒らの利害や意見を代表して発言する機関だ。もともと全国統一卒業試験の試験問題の不備に対して苦情を呈する組織として始まったものだが、現在では、学校運営に対する生徒の発言権に関する法律を法律家から直接学ぶ合宿研修をしたり、生徒たちに政策や制度に対するアンケート調査を行い、それに基づいて政権に対する抗議運動を組織したり、政策に異議を唱えて国会でスピーチを行うなどしている。全て、法律で守られた生徒たちの権利に基づく活動であり、活動資金の全ては国が支給しているほか、勉学中の生徒が担えない本部の事務職は国費で雇われた常勤が職員を担っている。

 初日、スピーチのリハーサルをした後、LAKS本部を訪れた私たちを迎えてくれたのは、議長以下4、5人の運営委員たちだった。今年議長を務めているアンドレ君は、両親がボスニア出身の移民だ。皆全国から立候補して選ばれた優秀な生徒たちだが、運営委員になると、授業への出席が減免となり、毎週3、4日はアムステルダムの事務局に詰めて仕事することが認められているという。でも、オックスフォードへの留学を考えている会計担当のロラン君は「進学のために卒業試験には合格しなければならないので、勉強もおろそかにはできない」と笑って話してくれた。
 オランダらしい、長テーブルに無造作に並べられたサンドイッチのランチと、日本側ボランティアによる手作りのお寿司を交換していただきながら、LAKSの運営委員たちは、福島から来た子ども達の緊張している様子を察してか、さまざまに冗談なども交えながら話題を提供してくれた。彼らが次々に投げかけてくる問に答えながら、日本の子どもたちも、徐々に打ち解け、こちらからも質問をしたり、笑顔を見せるようになった。

◆<二つの中等学校で>

 二日目と三日目は、それぞれ、ズウォレとハーグの中等学校へ。
 ズウォレの学校は、小規模だが、イエナプラン教育をベースとしていて各学級が異年齢の生徒から成り、学校が一つの大きな家族のように温かい雰囲気だ。生徒会長のヒデくんは大学では国際関係論を学びたいという高校2年生。両親と共に海外に出かけた経験も多く、外国からのゲストの待遇にもサバサバとそつがなく、下級生たちをうまく促してこの日のプログラムを進めてくれた。髪の毛を真っ青に染めた中学二年生の女生徒が、流暢な英語を使いながら校内を丁寧に案内してくれたのも、福島から来た子どもたちには新鮮な驚きだったようだ。
 この日、福島の子ども達のためにと通訳ボランティアを買って出てくれたのは、アムステルダムのインターナショナルスクールに通う二人の日本人の中学生だったが、毎日英語で授業を受けている彼らが驚くほど、この学校の子どもたちの英語は流暢だった。受け入れ交渉を担当してくれていたアンドレ先生は、交流プログラムをすっかり生徒たちに任せているという風で、その場にはいても口を挟むことはほとんどなく、子ども達の様子をそばから静かに見守っているという風だった。

 生徒会の役員たちが用意してくれたオランダ名物のパンケーキのランチの後は、いよいよ福島から来た子ども達にとって人生初めての、しかも、前々日にやってきたばかりの未知の国オランダでの英語プレゼンテーションだ。3人は、100人余りの全校生徒が集まり見守るホールのステージに上がり用意していた英語のプレゼンテーションを読み上げた。後で話を聞いてみると3人ともコチコチに緊張していたというが、そんなそぶりは一つも見せずに、抑揚のある調子で時には笑顔も見せながらしっかりと話をしてくれた。全体として、午前中に訪問した教室内の子ども達が、気軽に挨拶をしてくれる人懐っこい生徒達だったこと、会場に集まっている子ども達が、リラックスした姿勢で聞いていたことなどが、話しやすい雰囲気としてこちら側にも伝わっていたのではないかと思う。
 プレゼンテーションの後は、オランダの生徒たちの中から30人ほどの希望者を募り、3人それぞれ、別々の教室に入り、10人ずつぐらいのオランダの生徒たちと教室で輪になってインフォーマルに対話する時間を持った。

 翌日訪れたハーグの中等学校は、「寛容」というスローガンのもと、以前から、ドイツ、イギリス、スペイン、トルコなどの高校と、短期の交換留学をしたり、ウェブカメラを使った同時授業をしたり、モデル国連・モデルユネスコに代表の生徒を送るなど、国際交流では長年の経験のある学校だ。学校は、オランダ人家庭と移民家庭が混在している地域にあり、生徒人口そのものが多国籍の学校でもある。この学校には、ユネスコスクールのアンバサダー(大使)と呼ばれる生徒たちがおり、彼らの主導でプログラムが進められた。前日の学校に比べると生徒規模が大きく、校舎も立派で、家族的な雰囲気はなかったが、国際交流に意欲的で日本の高校との交流も始まったばかりだったためか、生徒たちの関心も大きかった。
 昼食後のプレゼンテーションは、上級生(高校2年生)120人ほどが集まる中、講堂のステージを使って行われた。校長先生が自ら出席して「歓迎の辞」を述べられ、3人のプレゼンテーションを見守ってくださった。小さく和気藹々としたイエナプラン校とは違い、フォーマルで生徒との距離感もあったが、生徒たちの関心は高く、プレゼンテーション後の質問も積極的だった。

 二つの中等学校での交流を経て、まず思ったことは、両国の生徒たちが置かれている環境のあまりの違いだ。一つは、原発を巡る社会意識としての環境、もう一つは、学校の生徒に対する態度という意味での環境だ。
 原発によるエネルギー供給の議論は、ある意味で、オランダでは、70年代に収束していると言える。今でも、オランダには、ボルセレという地に原発が1基だけ存続しているが、70年代初頭に政府が出した32基の原発建設計画は、当時、米ソの冷戦体制で反核運動に熱心だった若者たちの運動で反故となり、実現されることはなかった。福島原発事故の直前、ヨーロッパでも二酸化炭素排出による地球温暖化問題からクリーンエネルギーへの転換の議論が行われ、原発再開を支持する論議が出てはいたが、福島の原発事故で、それは一気に消えて無くなった。
 かと言って、オランダのエネルギー政策が欧州内でも特に優れているか、というと、天然ガスの使用や外国からの電力輸入などへの依存が強く、代替エネルギーへの転換が必ずしも順調に進んでいるとは言い難い。ただ、オランダの子どもたちにとって、原発に取り囲まれているという意識はほとんどなく、その意味では、54基の原発の今後の処理がわからないままで地震や津波の危機にさらされている日本に比べると意識の差は大きい。
 しかし、2度目の学校でのプレゼンテーション後の質疑の最後に、14歳のTさんは、オランダの生徒たちに向かってきっぱり「オランダには、まだ1基の原発が残っていると聞きますが、それについて皆さんはどう思われますか」と問い返した。オランダの子どもたちは、それをどう受け止めただろうか?

 両国の子どもたちの置かれている環境のもう一つの違いは、未成年である彼らの権利と、学校での学びのあり方に関するものだ。
 すでに、LAKSの箇所でも説明した通り、オランダの子どもたちは、自分たちが受けている教育のあり方に対して、意見を述べ抗議運動を起こし議会で主張をスピーチする権利を国から認められている。表現の自由を認められ、自分たちの責任で生徒組織を運営している大人びた彼らの姿を見て、日本の子どもたちは何を思っただろう?
 オランダの学校の子どもたちが、外国からの訪問者の受け入れプログラムを任され、教員らに対してもフランクに対等に話をしている様子を見て、何を感じただろうか。

◆子どもの権利とシチズンシップ教育

 オランダの学校は、子どもたちの主体性を尊重する。だが同時に、イスラム国によるテロリズムの危機、それが起きる背景にある貧困や差別という現実を前に、個人主義がエゴイズムと他者への無関心ないしは排斥へと走りがちであることにも教育者たちは気づいている。家庭と学校と路上という3つの異なる価値体系が混在する中で育つ移民子弟らのアイデンティティの危機と、経済不況が進む中でこうした移民を排斥して厭わないオランダ人大衆、ヨーロッパの大半の国で見られる社会の分極化に対して、現在ヨーロッパの国々では、シチズンシップ教育が広く行われてきている。
 単に政治制度を知識として学ぶ公民科や、何か一つの価値観に基づく道徳教育とは異なり、自由を認められた市民の「公共の利益」への貢献と社会参加を学ばせるために、様々のアクティビティを通して経験的に学ぶ授業だ。生きた時事を取り上げて議論することはもとより、今日ヨーロッパ各国の初等教育で広がりつつある哲学授業やクリティカルシンキングを育てる総合的な学習、また、職員と生徒がともに心身の健康を保証されることを促進する「健康推進学校」の運動などにも、共生社会における民主的なシチズンシップの考えが影響を与えている。

 オランダでは、2006年に、<能動的シチズンシップ>教育が、幼稚園から高校までのレベルで義務化された。「教育の自由」によって、公私立を問わずすべての学校に同じ教育費を拠出し、それぞれの学校の自由裁量権を最大限に認めているオランダでは、国は、この「能動的シチズンシップ教育」の義務化においても、指導要領のようなものは一切提示せず、以下の項目を「民主的な法治国家の基本的な価値意識」として提示するにとどめ、それをどのようにして生徒たちに教えるかは、一つ一つの学校の自由裁量権に任せた。なぜならば、学校職員が国の管理下に置かれ自由と責任を任されていない状態で、生徒たちに責任ある市民としての行動を教えることは不可能であるだからだ。また、こうすることで、種々の独創的な取り組みが一斉に始まるという利点もある。

 その項目とは、(1)表現の自由、(2)平等、(3)他の人への理解、(4)寛容、(5)自律、(6)不寛容の拒絶、(7)差別の拒絶だ。
 中でも(1)表現の自由について、国は「他の人の意見に反対の意見を言っていいということだ」と説明している。秩序を維持するために同調的な行動を求めるのではなく、価値観の異なる他者を積極的に受け入れ共存することを子ども達に教えようとしているのである。(3)平等や(4)寛容の項目があるにもかかわらず、さらに(6)不寛容の拒絶、(7)差別の拒絶の項目が加えられているのは、<能動的>という言葉が示す通り、良き「市民」であるためには、社会における不正に対して意欲的にただす姿勢がなければならない、との考えが基本にあるからであろう。
 しかも、こうした学びは、知識を「教えて」学ばせるものではない。教員が教壇に立って権威的に知識を伝達するのでは、子ども達に主体的市民としての姿勢は育たないからだ。教員が、子供達全ての存在を平等に受け入れるところから、子ども同士の互いの受容が始まる。子ども達に自由を与えるところから、責任ある市民として能動的主体的に判断し行動する態度が生まれるのだ。
 こうしたシチズンシップ教育の背景にある社会状況や教育界の理論について、福島からやってきた3人の子どもたちにゆっくり説明している余裕はなかった。でも、二日間、実際に学校の中に入り、生き生きと主体的に行動している子ども達の生の姿に触れた彼女たちは、日本の学校との違いを肌身で感じたはずだ。

◆振り返って、、、

 さて、私たちの今回の企画は、私たちが目指していたものを達成できたのだろうか。
 文化も言葉も行動様式も慣習も、全てにおいて異なるオランダへやってきた福島の3人の少女たちは、一体何を学び何を受け止めてくれただろうか。何かを学んだ、というよりも、あまりの違いに衝撃を受けた、というのが、率直な感想だったのではないか、と思う。もしかすると、頭の中がすっかり混乱しているのかもしれない。
 だが、英語を自分で話し、自分の言葉で福島の話をオランダの同世代の子供たちに伝えた、という達成感だけは、きっとあったことだと思う。最終日のボランティアたちとのお別れ会では、「帰りたくないね」「また大きくなったらお金を貯めてきっともう一度来る」「学校を訪問したのが一番印象的だった」といった感想を漏らしてくれた。

 他方、果たして、オランダの子どもたちに、彼女たちのメッセージが100%伝わったかどうかも、率直に言って確信は持てない。彼女たちの英語が伝わっていたか、プレゼンテーションは十分な情を提供していたか、などと言った技術的な問題もなかったわけではない。しかし、国際交流異文化交流とは、まさに、そういう違いから始まるものなのだ。言葉や表現の仕方、コミュニケーションの取り方そのものが、文化的に異なるところから乗り越えていかなければならない。少なくとも、福島の原発事故で被災した子どもたちが、わざわざオランダにまでやってきてメッセージを残していったということだけはきっと心のどこかに残ったはずだ。

 異文化交流の成果はすぐに目に見えるものだけとは限らない。自分自身の経験を振り返ってみても、異文化衝突からの印象は、年を経て、人生経験を積むごとに、違う意味で再帰してくることがよくある。そうした、長い意味での成果を福島の子ども達と、また、できれば、オランダの子ども達に期待したい。

 実を言えば、3人がオランダに到着した日の翌朝、隣国ベルギーの首都ブリュッセルの空港と地下鉄の駅で、イスラム国を名乗るテロリストによる襲撃事件が起きた。資金不足にもかかわらず、無理を押してオランダに3人の生徒を招いた私たちは、初日から、未成年の彼女たちの身に危険が降りかからないようにしなければならないという重い責任に、心がひしがれることとなった。日本の家族がどんなに心配していることだろう、帰国して両親の元に帰るまで、なんとか無事に日程を過ごせるように、と緊張の日々が続いた。ましてや、襲撃の直後に、ベルギーのティアンジュ原発で、主要な技術職員だけを残して残りの職員を家に返し厳戒態勢に入っているというニュースも流れてきた。まさか、福島で原発事故にあった子ども達が、オランダ滞在中にまたもや放射能拡散の危機にさらされることにでもなったら、、、、。企画を発起した私自身、ほんとうにこんな企画をしてよかったのだろうかと自問自答をくりかえしていた。
 その意味で、この企画を今後も継続して続けていくべきなのかどうか、正直なところ、確信が持てないでいる。むしろ、学校間交流など、インターネットを最大限に利用した交流の仕方などを今後考えていくべきなのかもしれない。結論はまだ出ていない。

 しかし、極論との批判を恐れずに言えば、原発事故そのものも、その後の被災者に対する非人道的な待遇も、テロリストたちが生まれてくる背景にあるヨーロッパの移民が置かれている貧困や失業の問題も、突き詰めて考えれば、根っこは同じところにあるのではないか。その根っことは、産業化社会が生んだ人間の傲慢、とりわけ、つい先ごろ大ニュースとなったパナマ・ペーパーが象徴している通り、一部の政界・財界エリートたちのエゴイズムに他ならないと思う。しかも、それが目隠しにされてきた間に、民族や宗教の対立にすり替えられてきたのではないのか。正しい情報にアクセスできず、他者を受け入れること、物事を批判的に考える練習をしてこなかった大衆が、まんまとその罠にかかってしまっているのではないのか。
 福島からきてくれた3人の少女には、原発事故という問題が決して日本だけの問題ではないということに気づいてもらいたい。そして、根本問題の解決に迫るに当たって、彼女たちが、どれほどたくさんの稀有な経験を伝えられるメッセンジャーの立場にあるのかということにも、、、

 (筆者はオランダ在住、教育・社会事情研究家)


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