西村先生とオルタのお別れ

【西村徹先生を偲ぶ】

西村先生とオルタのお別れ 

加藤 宣幸


 私は、ほぼ10年前、先生と40年来の深いお付き合いがある旧友仲井富君と連れ立って西村先生を堺のお宅に訪ねた。その仲井君と初岡昌一郎君と私の3人は長い間の気の合う盟友だが、それぞれは会合などで始終顔を合わせてはいても3人だけで食事をする機会は滅多にない。ところが2月25日に全く久しぶりに食事をともにしてあれこれ歓談し、西村先生を堺に見舞う日取りなども調整し合ったが、先生はこの日亡くなられたのだ。虫の知らせとはこういうことなのか。私たちは27日に奥様から訃報をお聞きし一瞬呆然となった。

 私は昨年9月に四国・松山でオルタの最終レイアウト・校閲を担い西村先生を畏敬する文系の土居厚子さんと一緒に御見舞いに行った。先生は奥様に付き添われ堺駅前のホテルに来て下さった。手土産にアメリカにいるオルタ執筆者武田尚子さんの岡山の実家で買った名物黍団子をお渡しし、私はオルタの近況報告、土居さんは文学をテーマに先生と一刻会話を楽しんだ。先生とは、これが最後のお別れになったのだが、今でもお帰りになる後ろ姿が脳裏から離れない。メールマガジン「オルタ」を毎月編集・発信する私にとって先生の存在は余りにも大きい。私の気持ちは学生が10年間毎月レポートを出して教官に指導を受けるような関係にあった。

 もう少し暖かくなったら伺いますとメールに書いていたが、春の足音がそこまで聞こえて来たというのに先生は逝かれてしまった。肺ガンになったが手術はしいないと伺ったのは確か1年ぐらい前だ。そのころ毎月10日前後に戴くメールの中で先生が相当に落ち込まれているのを感じてはいだが、先生は2005年5月20日のオルタ15号から亡くなる当月の2015年2月20日の134号まで、まさに10年間・119回も毎月欠かさずエッセーを送って下さった。

 文字通り絶筆となった最終回の『死の真実』は亡くなる11日前に書かれ、その文章は仲井富君がオルタの今号に書いた惜別の辞に詳しいが、先生が毎号書かれたものは誰もが驚く該博な知識に裏付けられて格調が高く、しかも読みやすいもので、初回の記事はまだ創刊1年でスタイルの定まらないオルタにとっては目指すべき指標ともなった。先生はある酒席で、もともと『天声人語』を書くような記者になりたくて朝日新聞を受けたが落ちたので仕方なく大学教員になったと言われたほど。根っからの文章家というか健筆家というか、文章の隅々まで気を配られる方であった。ついにオルタは 『天声人語』に比肩するコラム『横丁茶話』も失ったことになる。(HP「メルマガオルタ西村徹」で119回分読める。)

 酒席と言えば、私は毎号のオルタ執筆者で、お互いに名前は知っていても面識がない荒木重雄氏・羽原清雅氏・北岡和義氏などを機会を見つけては大阪で先生に紹介するようにしていた。その時には、殆どまず旧友荒木伝氏が経営責任者だったPLP会館で落ち合い、酒席は荒木氏が行きつけの天満商店街にある寿司屋に決まっていた。先生は皆さんが堺まで来るのは悪いからと、いつも木村寛氏が運転する車で都心までこられ数刻の歓談を大いに楽しまれた。先生は知識人として長い人生を歩まれた方なのに会話では決して自説を押し付けない聞き上手の教養人であった。今となってはすべてが楽しく懐かしい思い出ばかりである。

 先生にご指導を受け、育てて戴いたてメールマガジン「オルタ」は、市民のWEBメデイアとして10年前と比べようがないくらい毎月質量ともに成長し続けています、そして『戦争に反対し平和を創ろう』という創刊の旗も高く掲げています。
 どうか在天の西村徹先生、いつまでもオルタの発展を見守って下さい。長くて短い10年でしたがご指導本当に有難うございました。そして119回も毎月のご執筆ご苦労様でした。執筆者・読者に代わって心からお礼を申し上げ、オルタとしてのお別れの辞とします。

 (メールマガジン・オルタ代表 加藤宣幸)


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