見る目さまざま

■「見る目さまざま」 西村 徹

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 古いはなしになる。半世紀あまりも前の映画のはなしである。映画としては古い。
しかし歴史として決して古くはない。私にとっては昨日のことだ。
 野間宏の『真空地帯』が映画になって、これを見た人の感想は、これほど見る人
しだいで違うものかとおどろくほどに多様であった。そのころ私の身のまわりには
私より十歳ぐらい上の先輩、つまり大正五六年生まれの、ほとんど例外なく兵隊か
ら帰った人が犇いていた。そして、その多くは故人となった。
 『真空地帯』の舞台になっているのは1944年戦争末期の大阪の部隊である。陸軍刑務所から隊に帰った木谷をシテ、大学出の曾田をツレに、軍隊内務班の苛酷な実態を描いている。曽田は野間自身であり、野間は陸軍刑務所をも経験している。映画は1951年朝鮮戦争さなかに作られた。
 
 軍医だった人は、『こんなひどい話はない。でたらめだ』と言下に切って捨てた。
軍医学校の、屁のような真似事の教練を物差しにして軍隊一般についてモノをいえばそうなる。これではお話にならない。それは私にもすぐ分った。海軍経理学校の短期現役で、ちょっと兵隊のまねをしただけで「海軍、海軍」と大袈裟にいう中曽
根康弘氏の話のようなものだ。
 故山本政弘氏のように同じ短現でもフィリピンで大変な苦労をした人もいるが、
なにせ軍医学校も短現も古年次兵のいないところでは内務班の陰惨な実状はわかるわけがない。
 
 これとは逆に、徴兵延期の期限が切れて丹波笹山の連隊に入営、関東軍に転属、幹部候補生にならずじまいで六年ほど兵隊のままで通した仏文学者は言った。「内地の部隊はまだ甘いものだったんだな」。上には上があるというか、『真空地帯』以上の惨状を想像することは私にはほとんど不可能だが、音に聞く関東軍と、おそらく「又負けたか八連隊」とでは、内務班の凄さにも、それぐらいの温度差はあったのだろう。フィリピンでは16師団(京都)と守備交代で着任した久留米か小倉か、とにかく九州の師団の兵隊が「なんじゃシロタビの兵隊さんか」とバカにしたという。八路軍は九州の部隊が進軍中は鳴りを潜め、16師団が出てゆくとポンポンと討ってきたとも聞く。関東軍と、16師団ではないが大阪の部隊とでは違いすぎたのであろう。
 もうひとつ映画のはなし。『きけわだつみの声』という、95年のリメイクではな
くて1950年関川秀雄監督によるもの。学徒出陣で兵隊になった第三高等学校生徒が内務班で古年次兵にいたぶられ、陸士出身の若い職業軍人からも報復的な私刑に会う。教育期間が終わり、乙幹の軍曹として野戦に配属、最前線で激戦の真っ只中、旗を掲げて寮歌「くれないもゆる」を歌いながら、弾丸雨と降り注ぐ中を敵中にむかって直立前進、五体四裂して画面いっぱいに飛散するところで終わる。
 
 戦闘現場の惨状がリアルに描かれていて終幕の迫力は圧倒的であった。同世代の「学徒兵」であった私どもは主人公に自らを同定して、見終わったときは、ほとんど酩酊状態。
 少し間を置いて頭を冷やせば、いかにも歯の浮く終幕でもあるが、それに気づく
いとまもなく陶酔してしまっていた。困ったことに私たち大正末年生まれの世代は
「散華」という語の響きそのものに弱い。「手なくんば歯もて足もてみんなみの海に
火と裂けわれもやがては」と歌い残して、45年8月16日こと志しと異なり満州の
野で、ソ連軍の銃弾に斃れた級友の身上に、あるいは大木惇夫の『戦友別杯の歌』
などに、われにもあらず共振してしまうところがどうしてもある。ありていは「引
かれものの小唄」であり、ヤケクソの美学でしかないが、それが天皇に結ぶかどう
かを別として、どうせ死ぬなら花と散りたいというあたりでは、忠君愛国派と乱臣
賊子派は一致していた。追い詰められた挙句ではあるが、無理にもそういうところ
にわれから自分を追い込んでもいた。終幕のスペクタクルに目を奪われて映画の全体を見失ったのはそのためである。
 
 そのとき一緒に映画を見た1902年生まれのアナキストの大先輩は私らとは全く
ちがう意見だった。大時代な終幕には一言も触れず、もっぱら内務班の描き方を批評するものであった。そもそも兵隊の大半は非学徒兵、学歴は高等小学校止まりの労農階級出身者である。靖国神社の祭神も大多数は彼らである。この映画では、彼らは狡猾で卑小な憫笑を買うべき存在として、またもっぱら学徒兵の受難と悲劇性を引き立てる小道具としてしか描かれてはいなかった。学徒兵を描くのはいいとして、エリート主義むきだしの粗笨な差別的構図の中で描いたこの映画は、芸術としてもきわめて低いというのがその先輩の意見であった。言われてわが不明を愧じるほかなかった。
 
 蟹ならずとも人もまた甲羅に似せて穴を掘る。経験の外には理解は届きにくい。
新しい経験にめぐりあっても、おのが古い経験に妨げられて曇る。よくよく他者、
わけても先人の経験には虚心に身をかがめて耳傾けねばなるまい。「分らない」「理解できない」という思考停止のワンフレーズがトップリーダーの口から乱発される
昨今、これは肝に銘ずべきことに思う。
 参考までに大木惇夫『戦友別杯の歌』をここに掲げる。「戦意高揚詩」というので
敗戦後は現代詩人全集などからも省かれているらしいが、たしか保田與重郎は『日本の文学史』の終り辺りにこの詩を敢えて掲げていたように思う。森繁久弥が愛誦するところのものとしても知る人には知られていると聞く。
   
   言うなかれ、君よ、わかれを、
   世の常を、また生き死にを、
   海ばらのはるけき果てに
   今や、はた何をか言わん、 
   熱き血を捧ぐる者の
   大いなる胸を叩けよ、
   満月を盃にくだきて
   暫し、ただ酔いて勢えよ、
   わが征くはバタビヤの街、
   君はよくバンドンを突け、
   この夕べ相離るとも
   かがやかし南十字を
   いつの夜か、また共に見ん、
   言うなかれ、君よ、わかれを、
   見よ、空と水うつところ
   黙々と雲は行き雲はゆけるを。

 この、いわゆる「戦意高揚詩」を愛する森繁久弥は、ならば、いわゆる好戦的、
いま声高に嫌中嫌韓を、また中国の「現実的脅威」を叫ぶ薄っぺらい鉋屑のような
輩と同類ということになるであろうか。同類どころか彼らからは遠く隔たるもので
あることを、次の本人の証言は語っている。
 「この戦争がどれ程『中国』と云う古い朋友の国土を――老若男女を――身の毛
もよだつ無残な目にあわせたか、・・・・・大砲を打ち、爆弾を落とし、焼き払いぶ
ちこわし、殺戮のあらん限りをしたことか。・・・・・文化の恩恵をこそ充分に貰い、
中国によって支えられ築かれても来た日本国なのに、何を発狂してか、この無頼の仕打ちは――神も仏も許せぬ程のものである。にもかかわらず、私達が中国で終戦を迎えた時、肝に銘じて忘れられぬことがある筈だ。敗戦と同時に私たちは、中国人のどんな残虐な揺り返しがあっても目をつぶらねばならぬと覚悟した――その時に何を私たちは聞いたろう。忘れもせぬ・・・・蒋介石命令で『日本人は絶対に保護せよ』の一言である。」(『サンデー毎日』60年1月3日号)
 「元首時代の蒋のこの命令は、国民政府の軍隊よりも、中共軍によって厳格に守
られたのが歴史事実」(竹内好、『世界』64年3月号)であることは十分に踏まえ
ておくべきものとして、「暴にむくゆるに暴をもってせず」という寛仁大度には、そ
の高々しさを仰ぎ見る思いと、あわせて穴あらば入りたいような、身の卑小を思い
知る恥ずかしさをおぼえなかった日本人は少なかろう。
 満州から引き揚げてきた森繁は、満州中国に踏み込み踏み荒らした日本帝国の、支配する側に属する者として、侵略の現場の、いわばその後ろ側に身を置いてきた。その経験のゆえに、なおさらにこの証言は重い。では何ゆえ森繁は片や『戦友別杯の歌』をば愛することが出来るか。

 歌い出しを同じくする詩としてRichard Lovelace(1618-1658)のTo Lucasta, on
Going to the Wars を私は思い出す。Lovelaceは「清教徒革命」とも呼ばれるイギ
リス内戦時に王党派として戦い、傷つき、二度も囚われの身となった詩人、cavalier

poetsの一人である。

先ずはその原詩を掲げる。 
 
  Tell me not, Sweet, I am unkind
  That from the nunnery
  Of thy chaste breast and quiet mind,
  To war and arms I fly.
  True, a new mistress now I chase,
  The first foe in the field;
  And with a stronger faith embrace
  A sword, a horse, a shield.
  
  Yet this inconstancy is such
  As you too shall adore;
  I could not love thee, dear, so much,
  Loved I not honor more.
  
 一見して平明で、淀みなく作られたかに見えるが、隠された技巧の妙を失わず
に日本語にするのは所詮望むべくもない。むしろ中国人の名手を得て漢訳がなされるならば、韻律のみならず、言葉の選択や配置、その結構風趣にいたるまで、はるかにすぐれて写しとることも可能かと思う。ともあれ間に合わせの拙訳を座興までに添える。
  
   言うなかれ、きみよ、つれなしと、
   きみが貞潔の胸、涼やかなる心根の
   尼寺を逃がれ離りて、 
   もののふが戦さのにわに馳せ行くわれを。
   げに、われが今新しく追い慕う想い女は、
   戦陣に初見参の敵のつわもの、
   いやさらにまことを込めて腕に抱くは
   一振りの剣、一頭の馬、一面の盾。

   さはあれどこの二心こそ
   きみもまた讃うべきもの、
   きみよ、われ、斯くきみを賞ずることすらかなうまじ、
   誉れをこそいやましに賞ずることのなくんば。

  詩の鑑賞には今は敢えて立ち入らぬが、この詩が恋愛詩であることは誰の目にも明らかであろう。また別離の歌であることも自明であろう。戦争詩だなどとは、
言って言えなくはなかろうが、よほど文学音痴の石頭でなければ言わぬであろう。

大木の詩もほぼ同じであろう。Lovelaceは愛の詩人、愛の前には「世の常を、また
生き死にを」軽いものと歌い、かつ生きた。大木の詩とこの詩の重なるところはさ
ほどに大きくはないが小さくもなかろう。大木の詩は恋愛詩ではないが友情の詩で
あり、別離の詩ではあるだろう。戦争の詩ではあることはあろうが、そして内外の
勢いに押されて便乗したということは大木にはあろうが、歌いこまれている戦争の
色合いはLovelaceの方がよほど濃いものであるだろう。大木詩の喚起するものは
「海ばらのはるけき果て」「満月」であり「南十字」であり「空」と「海」と「雲」
であろう。「バンドン」も「バタビア」も白秋門下の大木には馴染み深い、南蛮趣
味、異国情緒を掻き立てる言葉の音楽にすぎなかろう。ただあるは大空を翔る晴朗の高揚感のみ。戦争そのものの臨場感は限りなく無に近い。
 
 進駐してきたアメリカ軍は『忠臣蔵』を禁止した。そのあおりを食って禁止され
た戦時中の芸術作品は数多い。日露戦争講和の会議にアメリカに渡った小村寿太郎はセオドア・ローズベルトに尋ねた。「大統領はなぜ日本に好意をお持ちか?」と。大統領は英訳の『忠臣蔵』を示したという。どちらのアメリカが正常か。占領時代初期の小児病から、私たちはどの程度に脱け出しているだろうかを問い直してみることも今あらためて必要なことに思う。
 
 もうひとつこの詩に限れば、中国への侵略がどこをどう押しても侵略以外の何も
のでもないのと異なり、ここに措定されている敵は数世紀にわたってアジアを支配
してきた帝国主義白人だったということもはたらく。結果は「オランダ300年の
支配より日本支配3年の方がひどかった」と言われるようなていたらくではあった。
帝国主義によって帝国主義を否定しようという自己矛盾からは、そうならざるをえ
なかった。そうではあるが、身長10センチ、体重20キロ上回る白人に勝った日
露戦争の成功体験にも支えられて、白人の帝国主義支配から南アジアを解放するという擬似的ではあるが正義の戦という意識もはたらくことになろう。竹内好のいう
民族解放と帝国主義の癒着を剥がす努力もまた今なお課題でありつづけているように思う。