【沖縄・侃々諤々】

親しくも重い沖縄

羽原 清雅


 1969(昭和44)年夏、初めてパスポートを持って那覇空港に着いた。
 街には、原色のペンキで書かれた『pawn shop』(質屋)、バー、クラブなどの看板があふれ、また恰幅にいい米兵たちが女性をぶら下げるように闊歩していた。
 ちょうど一か月間、チーム取材をして「沖縄報告」を連載、本にもなって本格的な沖縄紹介の書として好評だった。

 いまは年一回、これまでにもう60回以上出かけて、沖縄の変容をなんとなく感じている。
 沖縄独立の声は当時もあったが、発言力を持った屋良朝苗さんら教職員組合を中心に独特の方言と同時に、本土一体の復帰に向けて標準語や本土の風習などの教育に力を入れていた。

 もうひとつ、印象に残ったのは当時、「医介輔」という制度があったこと。戦火を浴びて生命を長らえた医師は少なく、でも風土病、伝染病、困窮からの発病などの患者は多く、戦時下で衛生兵など医療経験のある人が医師でない医師として、占領中の米民政府から起用されていた。当初の120人余から年々減っているころだった。暮らしのなかの知恵なのか、すさまじい戦争被害のなかで、こうして立ち直ってくるのか、と印象的だった。
 そのような変化を重ねて、2015年は70年を迎える。

 いま、次第に基地依存経済から脱皮し、日本の一部として機能しながらも、日中双方の影響を受けた独自の文化を維持している。
 ただ、変わらないものがある。基地である。基地による危険や騒音などの暮らしへの影響、あるいは不当な日米地位協定の矛盾などに耐え、いつしか泣き寝入りかと思われたころ、鳩山由紀夫首相の「基地の県外移転」発言で、自分たちの置かれた状況に目を向け直すことになった。本来なら、自民長期政権の変わったのを機に、アメリカに言うべきところ、国内向け発言にとどまったことから、従来の寝た子を起こされたくない勢力から猛反撃を受け、失墜した。それでも、県民はこれを機に気を取り直した。

 人口密集の普天間から危険を除去して繁栄を求める辺野古へ、と自民党政府はすでに決まった「過去」の問題として取り組む。基地削減を言いながら、新基地を作る。目先のみを考える政府に、怒る県民。

 沖縄ばかりに集中する米軍基地は、大陸包囲網として機能しうるのか。大陸などから一点集中のミサイル攻撃があれば、どう対処できるのか。仮想敵国対応の以前に、日本自体が外交面で努力すべきではないのか。「沖縄」問題は、国内問題ではなく、対米問題ではないか・・・沖縄の人たちは、このように思っているのではあるまいか。
 70年目の夏、また沖縄に行く。一貫して粘る沖縄、戦争を失念せず無知でない本土であってほしい。                (元朝日新聞政治部長)


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