■賃金デフレ脱却と経済再生に向けての視点         鈴木 不二一

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21世紀は賃下げの時代として始まった

 まず、極めて陰鬱な事実の確認から始めよう。21世紀日本の労働世界の幕開け
は、「賃下げの時代」として始まった、ということである。

『連合・賃金レポート2012』の分析によれば、日本の賃金水準は1997年にピー
クをむかえて以降、一貫した低下傾向をたどってきた。労働力構成の変化を調整
した上で時系列比較を行うと、1997年から2011年までの14年間に、所定内賃金は
7.2%減少した。一時金の減少幅は所定内賃金よりもいっそうドラスチックで、
31.9.%にも及んだ。結果として、年間賃金は、16.3%の減少となった。

表1 http://www.alter-magazine.jp/backno/image/114_3-1.jpg

このような賃金水準の下落は、労働者全体に均等に起きたものではなかった。
総じていえば、賃金水準の低い層ほど下落幅は大きい傾向にあった。その帰結す
るところは賃金格差の拡大である。実際、『連合・賃金レポート』の分析によれ
ば、1997年以降の賃金構造の変化として、次のような格差拡大傾向がみられたと
いう。

(1)企業規模間の格差が拡大。特に一時金の格差拡大が顕著。
(2)部課長と非役職者の格差が拡大。
(3)学歴間格差が拡大。
(4)同年齢労働者の賃金分散が拡大。
(5)東京と他地域の格差が拡大。

ところで、21世紀初頭が「賃下げの時代」になったとはいっても、それは労働
力構成を調整した上での賃金水準に関する動きであって、春闘による毎年の賃金
改訂が全体としてマイナスになったことはない。表2の「春闘賃上げ率」をみる
と、2000年台に入って以降の賃上げ率は1.5%前後で、1995~99年平均の2.5%に
比べて1ポイントほど低くなったとはいうもののマイナスを記録したことはない。

春闘賃上げ率がマイナスにならなかったのに、なぜ賃金水準は下落し続けたの
か? その原因は、春闘の交渉結果として労使で確認される賃上げ率が、いわゆ
る「定期昇給」込みの数値であって、そのまま賃金水準の上昇に結びつくもので
はないという、日本固有の特殊事情にある。

そこで、『連合・賃金レポート』は、春闘賃上げ率から、1年1歳先輩の賃金に
追いつくための賃上げ原資(賃金水準の上昇には寄与しない)を差し引いた「理
論上の賃金水準上昇率」と表1にある実際の賃金水準上昇率を対比することとし
た。その結果、きわめて興味ふかい事実があきらかとなった。

「理論上の賃金水準上昇率」(C)と「実際の賃金水準上昇率」(D)は、お
おむね一致することが期待される。実際、春闘メカニズムが健在であった頃の計
測では、おおむね期待どおりの結果を示していた。ところが、1990年代後半以
降、賃上げ率と賃金水準上昇率との関係にも大きな変化があったことがあきらか
となった。

表2の「理論上の賃金水準上昇率」(C)と「実際の賃金水準上昇率」(D)
の残差(E)に着目すると、大企業(規模1000人以上)では一貫して、「実際の
賃金水準上昇率」が「理論上の賃金水準上昇率」を上回っている。とりわけ2010
年、2011年ではその傾向が著しく、実際の賃金水準は理論上の想定よりも1.5ポ
イント前後も高い上昇率を示した。一方、小企業(規模10~99人)では、大企業
に比べて両者の差は小さく、2010年、2011年になると大企業とは逆に「実際の賃
金水準上昇率」が「理論上の賃金水準上昇率」をかなり下回る傾向さえ示してい
る。

このような企業規模間の違いについて、『連合・賃金レポート』は大企業にお
いて普及してきた「成果主義的賃金制度」の影響が考えられるとし、「結果(成
果)に応じて昇給額が決定されるものについて賃上げ原資に含めないことがあり
得る」こと、さらには「労使関係上の賃金交渉の対象範囲が変化した(縮小し
た)ことも可能性」もあると指摘している。

いずれにせよ、企業内および企業間の格差拡大に歯止めをかけてきた春闘メカ
ニズムが希釈化されてきたことが、上述のようなさまざまな格差拡大の大きな背
景をなすことは間違いないだろう。

なお、『連合・賃金レポート』は、春闘の交渉資料として作成されている賃金
構造分析の報告書であるが、ここで紹介した事実発見にとどまらず、多くの示唆
に富む情報の宝庫である。社会経済統計の背後にある人々の営みや暮らしの有様
に対する想像力を欠如させた、お手軽な「軽量分析」が幅をきかせる世の中にあ
って、知的廉直性に貫かれた熟読玩味すべき実証の書であることを、ぜひ付言し
ておきたい。

表2 http://www.alter-magazine.jp/backno/image/114_3-2.jpg

1997年から2011年にいたる14年間は、日本経済にとってまさに苦難の年月であ
った。財政再建至上主義の超緊縮予算にアジア通貨危機が追い打ちをかけた1997
~99年の長期不況、2008年のリーマン・ショックと世界同時不況、そして2011年
の東日本大震災、いずれをとっても未曾有の経済的激震が日本経済に大きなダメ
ージを与えた。雇用は大きく傷つき、賃金は大きく下振れせざるをえなかった。
そして、2002年2月から2008年2月の73か月にもおよぶ戦後最長の景気拡張期間の
間にも、賃金が経済の浮かぶ瀬に乗ることはついになかった。

1997年以降の賃金動向の大きな特徴は、不況期に落ち込んだ賃金が好況期にな
っても回復することなく、一貫して下がり続けたことにある。一度下がった賃金
は、そのまま下方に張り付いてしまい、景気回復の際にもなかなか浮かび上がる
ことができない状態が続いているのだ。長期化するデフレ経済の背景には、この
ような「賃金の下方粘着性」とも呼ぶべき構造化した賃金デフレが存在している
とみることができる。

縮み志向経営のもとで積み上がる資金余剰

60年におよぶ日本研究をふりかえるインタビュー番組の冒頭で、「最近の日本
人の印象は?」と問われたロナルド・ドーア教授は、「ショゲていますね、必要
以上に」と語った(NHK-BSハイビジョン『100年インタビュー』、2010年
10月28日)。たしかに、いまや日本列島はうなだれ症候群で覆いつくされている
かの感がある。

某缶コーヒーのCM「宇宙人ジョーンズ・とある老人」篇で、昨年永眠した名
優、故大滝秀治扮する地球調査の大先輩の宇宙じいさんは語る。「いやー、ずっ
と見てきたけど、今ほどみんなが下を向いている時代はなかったかもしれんな」
と。

若者は未曽有の就職超氷河期に泣き、壮年者は前門の賃下げ、後門のリストラ
の狭間で労働強化に呻吟し、高齢者は福祉の薄情けぶりを前に、寄る辺なき悲哀
をかこつ。そして、経済指標を眺めれば、なにもかもが右肩下がり、下を向いて
歩いているものばかり。そうした中で、唯一、上を向いて驀進中のものがある。
企業の資金余剰である。

近年の企業業績の動向をみると、その堅調ぶりはきわだっている。2002年以降
の景気拡張期において、売上高経常利益率はバブル期を上回るほどの上昇を示し
た。リーマンショック後の今回の景気回復期においても、2011年東日本大震災の
影響による一時的な低下を除けば、経常利益率は極めて堅調に推移している。

しかしながら、『2012年版労働経済白書』が明らかにしているように、近年の
景気回復期においては、かつてのような企業利益の上昇と賃金改善の結びつきは
みられなくなった。実質賃金が労働生産性の伸びを下回る傾向も顕著となってい
る。

では、企業の増加した利益がどこに向かったかといえば、株主への配当金や内
部留保の増加であった。財務省「法人企業統計調査」によれば、民間非金融企業
の利益剰余金(内部留保に該当)は1997年143兆円が2011年には282兆円へと、こ
の14年間に倍増している。

ところで、このように積み上がった豊富な手元資金は、将来のための投資に振
り向けられたのだろうか。残念ながらそうはならなかった。まさに笛吹けど踊ら
ずを地で行くような設備投資長期停滞は相変わらず根強い。そのことは、当然な
がら労働装備率(労働者一人当たり、どれだけの有形固定資産が投下されてきた
か)の動きにも反映されている。

2000年代に入って、利益剰余金の急拡大が顕著になったのと対照的に、労働装
備率はほぼ同じ頃を境に下降に転じたままである。労働装備率の減少傾向にもか
かわらず、この間に労働生産性が下がらなかったことには誰も着目していない。
けれども、これこそ日本の製造現場の強さと同時に、この間の血の滲むような努
力の反映だったのである。

業績回復にもかかわらず、設備投資の抑制傾向はあいかわらず持続した。その
ギャップこそが企業の手元資金急拡大の大きな要因であった。では、なにゆえこ
のような傾向が生じたのか。

一橋大学の橘川武郎教授は、バブル崩壊後の日本の企業部門では、総じて、A
(資産)やE(株主資本)を縮減し、ROA(総資産利益率)やROE(株主資
本利益率)の向上をはかろうとした結果、「投資抑制メカニズム」が広範に観察
されたという。縮み思考の経営だ。
リーマン・ショック以降、こうした日本の経営者の縮み思考は一向に改まらない
どころか、むしろ強まっている。

いつ投資するの? いまでしょ!

投資すべき分野がないのではない。現在日本企業の前には、グローバルには拡
大する新興国市場、国内的には医療・福祉分野に代表されるような、社会構造の
変化に対応する新しいサービス分野の需要拡大という、ふたつの成長フロンティ
アが大きく広がっているのだ。そのフロンティアの開拓に果敢に挑戦する攻めの
経営と的確な成長戦略を打ち出すことこそ、専門的職業人としての経営者の社会
的責務に他ならない。その責務を果たす意思も能力も持たない経営者は「ただち
に舞台から去るべきである」と、橘川教授は批判する(連合総研『DIO』249
号、2010年5月)。

企業の財務体質強化によって生まれたせっかくの資金余剰は、日本の国民経済
や産業の元気の種として活かしてこそ意味がある。無駄な投資は価値がない。け
れども、無投資はむしろ害悪だ。未来を見据え、グローバルな視野に立つ投資戦
略に衆知を集め、「内需」の深化・拡充と成長フロンティアの開拓に総力をあげ
ること、上を向いて歩くことこそが、いま求められている。

そして、長きにわたって続いてきた「賃下げの時代」に終止符を打ち、賃金デ
フレから脱却することは、「内需」の深化・拡充のための不可欠の要件であるこ
とも忘れてはならないだろう。その意味で、危機の中にある労働組合は、まさに
その真価を問われている。

設備投資の復調による産業活性化と勤労者の所得改善による内需の喚起は、経
済再生の車の両輪をなす。それは、口先だけの「アゲノミクス」や、企業と株主
の顔色をうかがうだけの「軽世災民・産業無策」のよくなしうるところではない
ことを肝に銘じておく必要があろう。

(筆者は連合聡合研究所・客員研究員)

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