身辺雑常(一)

■【エッセー】

身辺雑常(一)                   高沢 英子

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 朝日新聞朝刊の生活欄に連載されている「患者を生きる」は既に2080数回を数
えているが、昨年2012年の11月の終わりころ〈免疫と病気〉という項目で、「関
節リュウマチ」も、それら難病のひとつとして、11月27日から12月2日まで6回に
わたって、一人の患者の病歴と現在の生活ぶりを取材しての紹介記事があった。

 最近日本でも、患者数が推定100万人を超えるといわれるこの厄介な病気につ
いては、ここ2、3年テレビなどにも取上げられ、治療法や薬について紹介された
りして、世間の関心は、以前より高くなっているが、まだまだ真の実情は知られ
ていないことも多い。

 この病気の歴史は長く、リュウマチという病名自体ギリシャ時代ヒポクラテス
が提唱した体液病理学に基づいて名医ガレノス(紀元前210年~130年)が‘流
れる’という意味で名づけたといわれ、医学が格段に進歩した現代でも、免疫不
全の膠原病のひとつで、医学の世界では、完治不能の難病として、これといった
快癒の決め手がないとされている。

 ホルモンの関係とかで女性患者が圧倒的に多く、患者の大部分が中年を過ぎた
高年齢者で、比較的肉体を酷使しがちな農村部の老人や、生活環境が劣悪な貧困
層にこの病気が出やすいようだ。社会の表にでていない人が多く、本人さえ苦痛
を耐え忍べば、いわゆる臓器の病気ではないため、癌や心臓病のように、緊急に
生命にかかわらない病気であるとされていることから、なかなか治療法もはかば
かしく進まない。

 しかし、人間の病いで、臓器に影響もないし、死ぬこともない病気などあるだ
ろうか。そんな風にあっつさり決めるのは楽天的過ぎる考え方であることは、か
ずかずの事例を出すまでもないと思う。

 けれども、全身の関節に深甚な激痛を伴い、手足の自由が利かなくなることな
どで、患者自身意欲をそがれる事も多いので、諦めの感情が先に立ち、病人が積
極的に社会に発信することが出来にくい病気ではあるかもしれない。

 さて、件の新聞記事を日を追って興味をもって読んだ。感想をいうと、よく頑
張ってきたと感心し、周囲の理解に支えられて、苦痛にめげず、いい生き方が出
来ているし、それを強調する記事になっていることは理解できたが、あえていえ
ば、リュウマチに限らず、こうした難病の紹介では、それぞれの生活環境や、体
質による症状の多様性があることが見落とされがちで、この病気はこういうもの
です、というレッテルを安易に貼り、こうするのがいいですよ、といわんばかり
の押し付けがましさで、誤解を招きやすい危うさもある。

 長年娘の傍で、この病気にかかわり、多くの同病に苦しむ人たちの人生を見て
きた側からすれば、ともすれば日本では、頑張りすぎが推奨されがちなのが目に
付き、そんなものではないよ、と言いたくなったり、時にはそんなことは、病気
を増悪させるだけだから、しないほうがいい、あるいは、それは普通はできない
と思う、ということを、わざわざ強調しているケースも結構多いのである。

 ともあれ、どんな事柄にも光と影があり、光ばかりを前面に出すことは、本当
に苦しんでいる病者に対する無理解を却って露呈してしまう。そのため、社会的
な誤解がますますひろがり、本当に苦しんできた病人は傷つくことが多く、娘も
この種の記事や番組は読んだり、見たりしたがらない。取材するのはいいが、記
事を書く際は、正確に把握していないことに対して、もっと謙虚であってほし
い、と要求するのは酷なのだろうか。

 わたしの娘は1976年、高校1年の16歳の時、関節リュウマチを発症し、以来35
年、病と共に生きてきた。ここまで来るあいだに、親の試行錯誤や、何人かの医
師の診断ミスによる薬投与の不適正や、また押し付け療法などによる蹉跌は数知
れず、反省してもきりがないほどある。世間の誤解や差別による苦しみや、行政
の扱いの不適切、社会全般の障害者にたいする理解不足などもいろいろ経験した。

 けれども、年若くして発病した娘の病友たちの人生に共通することは、それぞ
れ困難な状況を耐えて、みんな懸命に生きている、ということである。
 娘の発病当時はまだ、内科治療では金製剤(シオゾール)やステロイドによる
免疫抑制剤の投与が主で、整形外科では手首の滑膜を除去したりもしたが、当時
は常時全身の痛みと倦怠感に悩まされ、時には動けなくなりながら、じりじり進
行して行くのをとどめる手立ては見つからなかった。

 大学に進学したものの、卒業するころには、手指の痛みに加え、力が入らない
ことから、論文の清書も困難になり、知人に代筆を頼んでまとめたりした。教授
に大学院進学を勧められたが、到底無理と断念、伊豆の国立温泉病院に入院、20
代のほとんどを入退院の繰り返しで過ごし、一時は鬱状態にも陥った。彼女にと
っていちばん辛い時期だったようだ。

 30歳になったとき、兄の友人にプロポーズされ、二人で病院時代の主治医にア
ドバイスを受けに行き、結婚に踏み切った。サラリーマンの夫とささやかながら
家庭を持ち、主婦としてようやく安定した生活を始めたが、出産を見越して、当
時のかかりつけの医師が性急に薬投与を制限したためか、急激に病状が悪化、5
ヵ月後、突然脚が動かなくなった。

 このままでは車椅子生活になる、と言われ、股関節を人工関節に変える手術を
薦められる。まだそれほどの年ではないので、体の一部を取り去り人工の物に換
える、ということ、またよし換えたとしても、耐久限度が10年あまりが基準らし
い、ということで、決心するまでかなり思い悩んだ。

 情報を集め、自身で検討し、とうとう決意して、人工関節について独自の研究
を積み重ねられ、名医で聞こえた大西啓靖先生に、国立大阪南病院で、最も悪い
左股関節を人工関節に換えていただいた。有り難いことに以来20年経つが、その
人工関節は、娘の左脚をかなりしっかり支えてくれていて感謝している。

 そして、ほっとしたと思うと、今度は、彼女の夫が胃癌を宣告された。幸い早
期だったので、すぐさま手術を受け、胃の4分の3を切除して社会復帰を果した。

 その後、子供を持ちたいと、38歳から不妊治療を受け始め、44歳で妊娠、何度
か流産の危機を乗り越え、2004年の夏、京大病院で、帝王切開で男の子を出産し
た。抗リュウマチ薬の服用は可なり抑え、痛みに耐えていたものの、わたしは内
心気がかりであったが、じつに元気な産声を挙げ、五体満足な健康児だったのが
何より有り難く神に感謝した。

 母親になった娘の膝はすでに曲がらず、跪くことも、赤ん坊を抱き上げること
も出来ない体で、子育てには苦労をしたが、夫の協力と、多くの人の助けで、な
んとかやり通し、子供が生後10ヶ月にこぎつけたところで、思いがけず、夫に転
勤の指令が来て東京に移住することになった。子育てのためには、夫婦二人だけ
では無理というので、母親の私も同居することになる。幸い子供は元気一杯に育
ち、この春には小学校3年生になる。

 しかし、実は3年前、私も同じ病を発症した。突然首が廻らなくなり、笑い事
では済まされないと思っているうちに、手首に激痛が来て、肘が伸ばせなくなっ
た。検査の結果、やはりリュウマチと診断され、治療を受け、薬を飲み始めた。
同じ病気になってみて、今まで以上に、娘のかつての苦しみを深甚に理解できた
気がしている。

 30年前、娘が伊豆でお世話になったこともある慈恵医大の山田昭夫先生の診療
を受け、プレドニンやリュウマトレクスの投与のほかに、3週間に1度くらいの頻
度で、生物製剤の注射なども併用していただき、最近は大分落ち着いてきた。そ
のとき先生が、しみじみ言われたことがある「あのころ、もし、今みたいな薬が
あったら、洋子さんも、もっと良くなっておられたことでしょうがね。残念なこ
とです」と。それにしても、医学がそれだけ進歩したということは、今後のこと
を思うと、有り難く素晴らしいことであると思っている。

 この年末に、娘のところに届いた1通の喪中のはがきに、私たちは、瞬時息を
呑んだ。亡くなったのは、長年関節リュウマチを患っていた娘の病友の一人で、
送り主は、その人のご主人だった。

 娘は退院後も、かつてともに療養していた温泉病院での若い病友のグループ
と、年に1、2度は旅行をしたりして交歓していたが、その人とは、最近暫く疎遠
になっていた。OL時代に発病し、順調とは決して云えない波乱もあった人生
を、彼女なりに、懸命に生きた、という思いが胸を去来し「57歳でした」という
1行を、生前わたしも何度かお会いしたこともある俤と重ねた。
               (筆者はエッセーイスト・東京都在住)