輝き続けた廉潔の士

山口 希望

 私は加藤さんの社会党本部の後輩であり、同じく江田派でもありましたが、大先輩の加藤さんと在職中にお会いしたことはありませんでした。

 加藤さんとお会いしたのは随分遅く、私が退職した後、社会人大学院生として、江田三郎氏の構造改革論の研究を思い立った2008年のことでした。旧知の大先輩である仲井富さんに相談したところ、「それは加藤宣幸さんの話を聞かなくちゃ」ということで、ご紹介をいただきました。初めてお会いしたのは奇しくも江田側近の構革派三羽烏の一人、貴島正道さんのご葬儀の会場でした。その後、学士会館でインタビューさせていただいて以来、社会党研究者や国会議員秘書の仲間たちとともに、大先輩というよりも、よき兄貴という風情でお付き合いいただきました。

 私の修士論文は、加藤さんのご指導の賜物でした。加藤さんは、その驚異的な記憶力によって、構造改革論争をあたかもリアルタイムのように再現してくださいました。お話を伺っているうち、社会党の構造改革論争はイデオロギーではなく、左派内の属人的な対立から引き起こされていたことがわかりました。新しい構革論に対抗するために持ち出された向坂逸郎氏の古いレーニン型社会主義は、思想的な優位性を競うのではなく、構革派を打倒するためのツールに過ぎなかったのです。しかし、「論争」は熾烈を極めました。
 空襲で焼け残った新橋の党本部で片山・芦田両内閣の与党時代を経験された加藤さんにとって、党内の派閥抗争など現実離れした言葉遊びに見えたのかもしれません。江田三郎氏よりも早く、69年に党本部を退職されます。党の先輩からも「加藤さんは争いを好まない人だ」と聞いたことがあります。

 その後のご活躍ぶりは諸先輩が書かれていることと思います。私どもとのつながりでいえば、インタビューに応じるだけでは足りず、若手の政策勉強会「プログレッシブ」の顧問に就かれました。その中でも、加藤さんは年の差を全く感じさせず、「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言う」という詩を体現しておられる方でした。いつまでも若く、行動的な加藤さんでしたので、不思議とお別れの日が来るなんて考えもしませんでした。

 それでも、お別れの日はやってきました。加藤さんは、メールマガジン「オルタ」の編集を完了し、新聞を広げたまま亡くなっていたそうです。心臓の鼓動の最後の一撃まで現役を貫かれ、93歳の天寿を全うされたのです。廉潔の士という言葉がふさわしい方だったと思います。

 心残りは、加藤さんから法政大学大原社会問題研究所に寄贈された御父君加藤勘十氏の資料について、論文を書くご依頼を受けたままになっていることです。いつまでも加藤さんがお元気でおられるという甘えからでした。いつか加藤勘十氏に関する論考を書くことを怠惰な自分に命じております。

 加藤さんのお顔は、御父君とよく似ておられます。鉱夫組合時代の勘十氏のブロマイドは、銀座の上方屋で大人気だったそうです。「火の玉勘十」といわれ、民衆に愛された社会運動家の輝きを、加藤宣幸さんも生涯お持ちになっていたのだと思います。

 (国会議員政策担当秘書)

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