韓・日青少年平和交流を振り返る

<日中・日韓連帯拡大のために>

韓・日青少年平和交流を振り返る

—韓・日作家紹介の視点より—

金 正勲


 第5回目の「韓・日青少年平和交流」に参加、名古屋に足を運んだのは昨年(2014年)8月7日〜10日のことだった。

 1998年、戦争時代に被害を受けた元朝鮮女子勤労挺身隊の少女たち(現おばあさん)の支援活動を目的に結成された日本の市民団体「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」が2010年、韓国の市民団体「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」(2009年結成)に韓国の青少年たちを招聘、交流したいと提案し「韓・日青少年平和交流」は始まった。

 その後、光州と名古屋の青少年たちは、相互に訪問を行いながら韓・日平和の価値を実現するために友情を培ってきた。で、もう5回目を迎えたわけだ。光州市教育庁(教育委員会)からの支援がなければできなかっただろう。予算編成の難しさを抱えているにも関わらず、韓・日青少年交流に毎年大きな金額を支援する光州市教育庁に感謝の気持ちを抱かざるをえない。本当に心からありがたかった。

 教育庁の支援もあるので、当然光州市所在の高等学校の学生が優先的に選ばれた。多くの学生が日本人学生との交流に参加したいという希望を出したところ、面接を通じて選ばれた学生は18人。それに歴史意識の強い京畿道の高校生2人が加わった。

 光州市庁(市役所)前から仁川国際空港に向かって出発するために待機していたバス。そして、引率の先生4人と光州の高校生18人を見送りに来た学父兄たちを見つけ、私は重い責任感を感じずにはいられなかった。一昔前、大学の語学研修プログラムがあり、大学生たちを引率した経験があるとはいえ、高校生たちを連れて日本に行くのは初めてのことだ。

 ほかの3人の先生に甘えることにしても(通訳の先生もいたので)自分の果たす役割がたしか与えられるだろうと思うと、若干の緊張感が湧いてくる(8月7日、午後2時半から名古屋名南ふれあい病院近くの会館で韓・日交流参加者たちに「安重根に影響を受けた日本人たち」というテーマで講演することになっていた)。

 私は出発前、こちらの市民団体事務局長に「韓・日青少年交流資料集に載せたいので文章を送れ」といわれ、「みなさんが、まさに平和のメッセンジャーです」という題で次のように述べたことがある。

 韓・日の未来を担う青少年たちは、過去の歴史を直視、その土台の上に立って韓・日友好増進をはかる努力が切実だと思います。(略)「韓・日青少年平和交流」はそのような意味を実践に活かすよい機会となるでしょう。日本の作家帚木蓬生は、『三たびの海峡』(14回吉川英治文学新人賞に輝いた作品)を通じて若い青年に「不幸な歴史を繰り返さないためにも、海峡を挟む二つの民族の優しい懸け橋になって欲しいのです」と強調しました。(勤労挺身隊の懸案もそうですが)その不幸を繰り返さないために教訓として受け入れ、韓・日未来を開こうというメッセージこそ真理ではないでしょうか。韓・日青少年平和交流に参加する皆さん! こうした韓・日友好精神のもとに心の門を開き日本の青少年たちと交流しましょう。みなさんが、まさに平和のメッセンジャーです。(「2014年 韓・日青少年交流資料集」5ぺージに収録)

     *  *  *  *  *

 思い出せば帚木蓬生は『三たびの海峡』で、戦前日本に強制徴用され一緒に働いていたが帰国せず日本に定着した同僚の徐鎭徹から1通の手紙をもらって、47年ぶりに海峡を渡る河時根を主人公とした。河時根が日本に入るために釜山から船に乗って海峡を渡る理由は、戦争時代あらゆる方法で韓国人労働者を苦しめた山本三次がN市長選挙で4選目を狙う目的下に、市の南側にあるボタ山やその周りの廃鉱跡を壊し、企業を誘致しようとするからである。

 しかし、そのボタ山には太平洋戦争の時に強制徴用され、重労働に苦しめられ犠牲となった被害者たちの墓と位牌がある。河時根は海峡を渡って、自分と日本人女性との間に生まれた子、時郎の協力を得る。そして市長選挙の公開討論会で山本の過去を暴くことによって、ボタ山を壊して加害の歴史を消そうとする山本に打撃を与え復讐する。

 帚木は精神科医者で、病院生活を素材にした作品や心理小説を発表しながら、韓国人被害者の証言や医療対話などを通じての経験を活かし強制徴用の問題に焦点を当てた歴史小説の執筆にも心血を注いだつもりだったのではないか。が、何より作者が主人公を通じて自分の血肉(いわば韓・日の架け橋の子)を分けた息子に言い残した遺言に注目せざるをえない。韓・日の未来を担う青年に対するメッセージとして受け取られるからだ。

 「生者が死者の遺志に思いを馳せている限り、歴史は歪まない」

 真の意味での韓・日友好はこうしたものではないか。過去はいくら歪曲しようとしても美化されるのでもなく、いくら消そうとしても忘れられるわけでもない。不幸な過去を二度と繰り返さないように辛い思いを率直に教訓として受け止めながら手を携えてともに未来に向かっていくのが真の友好であるに違いない。作家は、『三たびの海峡』でその真意を的確に提示していたと思われる。

 実は帚木自身が父親の過去につらい思いを経験した人である。戦争時代、帚木の父は香港で憲兵をやっていたのであり、日本が戦争に負けると彼の父は戦犯として日本の警察に逮捕されたからだ。帚木は、父は国の命令で香港に送り込まれ、「スパイの役割を担わされました。民間人を取り調べ、対象には英国人も含まれた。戦争ですから暴力もあったでしょう。(略)その行為が戦後になると犯罪とされた」(『朝日新聞』2014年8月6日付、「戦争を想像する」というインタービュー)と証言している。

 帚木は家族のことなのにその過去を決して隠そうとはしなければ消そうともしない。むしろ、真正面から社会的メッセージとして一般の人々に堂々と発信しているわけだ。父親のことを知る人から直接そういう話を聞いて、『逃亡』という作品の執筆にも至ったらしい。だから『三たびの海峡』でも作家としての良心が韓国人徴用者に目を向けさせ、「自らの歴史を、どうとらえ直すか」と、内部のほうに省察の目を投げかけていたともいえよう。

 韓国人徴用者の問題が公の場で捉えられる雰囲気ではない日本で『三たびの海峡』が何十刷も増刷になるほど読まれる理由は何だろうか。

     *  *  *  *  *

 中部国際空港に着いたのは7日11時過ぎだった。名古屋ふれあい病院近くの会館行きのバスの中で日本の高校生は、韓国の高校生に代わる代わる自己紹介をした。日本の高校生の数は韓国の高校生より少なかったが、言葉が通じないだけに芸能人の真似をしながら好奇心を表現するなど楽しそうな顔をしていた。

 わが青春像はどうだったのか。これほど活気溢れるものではなかったのではないか。空港に迎えに見え、私の隣の席に座っていた名古屋中京大学の先生と私は、羨望の眼差しで彼らを眺めるしかなかった。

 会館に到着後の昼食。日本の弁当を現場で食べるのが初めての韓国の学生が多かった。だが、韓国高校生の自己紹介をかねての時間だったので、みんな美味しそうに食べながら紹介者に注意を払っていた。昼食後の懇談会の時間にはあの時代、三菱重工名古屋航空機製作所・道徳工場で働いていた村松寿人様からの体験談が披露された。

 「東南海地震と三菱に動員された勤労挺身隊の話」という内容で、重い空気に包まれた会場の雰囲気だったが、歴史の片鱗に触れる話であるだけにみんな真剣に聞いている。これこそ生きた教育になるだろう。通訳を挟んでの講演だったとはいえ、韓国では到底聞けない大事な話だったに間違いない。

 その後、参加者たちは「名南ふれあい病院」構内北側花壇に設置されている「東南海地震被害者追悼記念碑」にそれぞれ拝礼し、献花した。その記念碑には1944年12月7日に発生した東南海地震でなくなった(旧三菱名古屋航空機道徳工場倒壊による)犠牲者57名の名前が刻まれていた。

 記念碑は1988年、道徳工場跡地を受け継いだ日清紡構内に立てられたが、2012年医療法人名南会が移設受け入れを許諾したらしい。「悲しみを繰り返さぬようここに真実を刻む」。記念碑に書かれた語句から辛い歴史を風化させることなく、戦争の悲惨さや人間の真実をそのまま伝えようとする素晴らしい精神が窺えた。日本の良心は生きているのだ。

     *  *  *  *  *

 私が並々ならぬ衝撃を受けたのはその翌日(8日)のことだった。8日の午前、私たちは半田市に位置する中島飛行場跡地の見学などに出掛けたのだが、移動中のバスのなかの出来事だっただろうか。主催側が高校生たちに配った印刷物に日本の童話作家新美南吉の「アブジの国」という作品がハングルに訳されて入っていたからだ。

 「アブジの国」は、愛知県半田市の市民団体「半田空襲と戦争を記録する会」(佐藤明夫代表)によって最近発掘された作品。これは半田市で生まれ育った南吉の体験(履物店を運営した母と、出稼ぎに来た朝鮮人家族との交流—佐藤氏分析)に基いて書かれたもので、主催側としては南吉の反戦平和の精神を受け継ぐ目的だけではなく、韓・日交流にも意義あるものとして判断し、小冊子(翻訳は朝鮮学校の教員カンヤンスンによる)にまとめて半田市を訪れる皆様に宣伝しているらしかった。

 告白すると、その瞬間私は、日ごろ南吉について関心を持っておらず、非常に恥ずかしい気持ちだったことを思い出す。私は大学院時代からむしろ宮沢賢治について接する機会が多く、うちの大学の日本文化講読の時間でも『銀河鉄道の夜』などの作品を取り上げることはあった。しかし、植民地時代にも国境と身分を越えて真の交流を求めていく韓・日庶民の姿を描いた南吉とその作品については無知だった。それで非常に恥と思った。

 同時に松田解子と花岡事件について聞いた瞬間(=『地底の人々』における韓・日労働者連帯の姿に接した瞬間)のような強烈な刺激に駆られた。
 
『お父さん』はあちらの言葉で何て言う?
そう言って、下駄屋の小母さんがたずねました。
「アブジ」
『お母さん』は?
「おんまあ」
「おんまあ?」
「ん、おんま」(「アブジの国」の場面」)

 たしかに「朝鮮人への偏見が強かった戦前、在日朝鮮人が主人公となる文学作品は珍しい」(『中日新聞』2014年8月17日付)といえども、「アブジの国」が書かれた時は1930年である。植民地朝鮮から出稼ぎに来た朝鮮人労働者の子に「国」を与える作家の視点をどう理解してよいだろうか。つまり南吉は、あえて「アブジ(日本語ではお父さん)の国」という題目をつけたが、そもそも当時日本の俗国だった朝鮮を他国として認め、まるで他人の国であるかのように、「アブジの国」と使い分けているのはどうしてだろうか。

 南吉は、履物店の継母「志ん」が足袋を買いにきた朝鮮の女の子に優しく声をかける場面を目撃したはずだ。日本帝国主義による朝鮮語抹殺と創始改名の政策が本格的に根を降ろす前の時期だったとしても、日本国内で暮らす朝鮮の女の子に朝鮮語で何というかと声をかけ、「アブジ」、「おんま(お母さん)」と繰り返すように進める場面はあまりにも印象的だ。

 主催側は(佐藤明夫氏の講演を含めて)、「太平洋戦争末期の半田と朝鮮人」というテーマのもとに学生たちに「中島飛行機半田製作所とは」、「「任意渡航」朝鮮人労働者と中島」、「強制連行朝鮮人青年と空襲被害」、「日朝青年の交流と帰国」などの内容も伝えようとしただろう。けれども、そのなかみとは別に新しい発掘の資料にインパクトを感じたためか、私の関心が南吉に注がれたのはいうまでもない。

 もっと驚いたことに、「アブジの国」だけではない(「ごん狐」などは大いに知られているので取り上げないにしても)。たとえば、南吉には交流と平和精神を思わせる「少佐と支那人(後に「張紅倫」に改題)」や「ひろったラッパ」という優れた童話もあることに気付いた(それに目を通したのは帰国後)。1929年に書かれた作品「張紅倫」では、日露戦争の時に日本軍として満州に渡り、戦場の様子を偵察していた少佐が井戸に落ちて生死の境をさまようところ、中国人の親子に助けられるという、時代と背景を越えた人間的交流が繰り広げられる。

 少佐は無事に帰国し会社の重役になり、偶然に会社に物売りに来たその中国人の子に再会するが、知るふりをしたら少佐の名前に傷をつけると思い込んだ中国人の子は、恩返しをしようとする少佐に知らないふりをして去っていくという、ヒューマニズムが濃く漂う作品である。国家や戦争に翻弄される個の運命について鋭いメスを入れた作家を思うと、夏目漱石という名が頭に浮かぶ。国家主義を念頭におくときには「個人」という概念はなくなるといって、戦争の弊害とその矛盾を漱石ほど強調した作家はいないからだ。

 ところが、南吉も国家と戦争が強調される時代に、いかに生きるかを悩む、あるいはまったく異なる地位と環境に生きる人間同士が交流するというような人間像を描くことによって、平和と人間性の問題を問い続けているわけである。南吉にも個の運命が抹殺される戦争の時代をいかに乗り越えるか、という深刻な苦悩が少なからず存在していたに違いない。

 1935年に書かれた「ひろったラッパ」にも、ラッパを拾った貧乏な若者が戦争に出て(ラッパを吹き)、手柄を立てようとするところ、道で出会ったある老人に助言を聞いて平和主義者に変貌していく姿が生き生きと描かれている。私は探してきた作家や求めてきた視点を見つけ出したような興奮感を味わわずにはいられなかった(その後から今まで新美南吉翻訳に取り掛かっている)。

     *  *  *  *  *

 そういえば光州でも一貫して平和と民主主義を求めてきた民衆作家(詩人)文炳蘭(1935年〜)がいる。韓国には結構知られた著名な作家だが、日本にはあまり紹介されず不思議に思わざるをえない。たとえば文炳蘭は、韓国の民主化が実を結んだ「6月民主抗争」の後、『ニューヨークタイムズ』特集版(1987年7月31日付)に高銀、金芝河と並んで「火炎瓶の代わりに詩を投げた韓国の抵抗詩人」として紹介された。

 韓国の『東亜日報』(1987年8月18日付)はその記事を紹介し、「去る31日、『ニューヨークタイムズ』は‘火炎瓶の代わりに詩を投げた韓国の抵抗詩人たち’を紹介した。高銀、金芝河、文炳蘭、鄭喜成、梁性佑などに受け継がれるいわば‘民衆詩人たち’が韓国の民主化を先導してきたという評価だ」とふれているので、その名声については予測がつく。

 ここに少し変わった経歴を紹介しよう。文炳蘭は1969年に朝鮮大学国語教育科に専任教員として赴任するが、1971年、朝鮮大学を私有化しようとした朴哲雄一家の反民主的で独裁的な経営に失望し、大学に辞表を出して全南高等学校の教師となる。

 ところで、1975年、維新独裁政治が続く雰囲気の中、全南高校の教師たちの指導力に不満を持った学生たちのストライキで首謀者として指定された学生が退学処分を受けると、今度はその学生に対する責任感から学校に辞表を投げる。そして予備校に入って浪人生たちの指導にあたる。

 その後の1988年、ようやく朝鮮大学の民主化が成し遂げられ、朴哲雄一家が経営の第一線から退くと、周辺の人たち(先輩や後輩など)の要請によって朝鮮大学国語国文学科に復職するのだ。それほど民主、正義への信念に満ちた行動の持ち主である。

 1980年には「光州民主化運動=光州民衆抗争」の背後操縦者として指名手配され、麗水の教え子の家で1カ月ほど隠遁生活をした。しかし6月28日に自ら警察へ出頭し投獄される。そして9月中旬に起訴猶予処分を受けるのだ。その後も全斗煥軍事独裁政権の暴圧政治が続く中、光州民主抗争の正当性、その真相や歴史的意義を知らせる講演、コラム、追慕詩(光州民衆抗争犠牲者への)発表などの実践運動と文筆活動を展開した。

 いわば透徹した召命意識を持った作家である。ここに文炳蘭を紹介する理由は、時代背景や作風、作品傾向は帚木や南吉のものと異なるとはいえ、南吉や帚木の求めた作家精神や使命感を念頭におくとき、文炳蘭の場合とさほど違わないよい例になるだろうと思われるからだ。

 文炳蘭には次のような詩がある。

「正当性・2」

ときどき僕のこぶしは
殴るところを探す。

どこかの空であれ
どこかの岩角であれ
こぶしは
殴るところを探して孤独だ。

しらばくれた顔や
傲慢な鼻柱にむけて
かたく握られたこぶし。

凝固した血のかたまりを噛んで
四角いジャングルの中に
火花を散らす
その瞬間、
粉々に砕ける
絶頂に向かって
僕のこぶしは血を流す。

いま闘いは終わり
敗北を慰撫する
孤独なこぶし、
どこかの空に向かって
真っ暗な闇を狙っている。

いつか熱い流血にぬれ
血を噛んで壊れていくだろう
悲しい黙示よ、
こぶしは正当性をさがしている。(中央大学広岡守穂教授と共訳)

 考えてみれば、作家はこうした作家精神を持って生まれるべき人ではないだろうか。文炳蘭の作家精神は、不正に負けず、正義を追求する信念、民意を踏み躙ろうとする国家や支配層に反旗を翻し、民衆の視点に立ってすべての強圧的な権力(平和を侵す戦争のイメージでも構わない)に堂々と抵抗していこうとするようなものだ。

 だからたとえば、文炳蘭においてもその「正当性」は、帚木が指摘する「自分たちの職能集団としての機能が、より発揮できる世の中にするにはどうすればいいか。日ごろから考え、志をもって行動する」(『朝日新聞』8月6日付)ような文学のイデオロギーとして根付いているといえなくもない。

 帚木は、「私自身、朝鮮人が戦前・戦中に日本に連れて来られ、炭鉱で働かされていたことも知らなかった。26年前、筑豊の病院に赴任して初めて知ったんです。炭鉱でなくなった朝鮮人労働者の墓の写真を見て衝撃を受けました。ぼた山の片隅に石ころが無造作に並んでいた。まるで犬猫のように埋められるなんて、あってはならんと思った。よーし、この人たちの無念を書いてやろう、と徹底的に調べ始めました」(同新聞)と述べている。

 それだから、この内容がほかならぬ『三たびの海峡』の執筆背景となったことが分かる。しかし、こういった精神、あるいはその書く行為は、文炳蘭のいう「殴るところを探す」ような過程を経てうまれるものであるともいえよう。

 「殴るところを探す」ことは、作家としての義務感から「どうすればいいか。日ごろから考え、志をもって行動する」ことと一脈相通じると見て差し支えない。南吉にしても、戦争反対の正義を叫ぼうとするその精神がなかったなら創作はできなかったわけで、いってみれば、「殴るところを探」して正当性を求めることに怠けることはなかったわけだ。

 ただ、新美南吉の名声を意識すれば、一面だけ知られて、彼が社会的意識に目覚め、反戦平和の声を高めたのは勿論、資本主義矛盾や貧富の格差、疲弊した農村の現実などにも注目した事実を知らない人が意外と多いようだ。それが残念でならない。

     *  *  *  *  *

 交流最後の日(8月9日)、雨の降る中、名古屋市名東区所在の「戦争と平和の資料館 ピースあいち」に寄って、様々な展示物を見たことが思い出される。特に秋田県出身の小林多喜二について詳しく説明された文章を見出し、多喜二関係の理論書を韓国に紹介した訳者として嬉しく思う反面、多喜二の位相を改めて確認したような気がする。

 沖縄戦で戦死した朝鮮人特攻隊員の光山文博少尉の写真を見てびっくりした。私は2006年「朝鮮人特攻隊と桜」という題で『京郷新聞』にコラムを載せたことがある。その時に知覧町の特攻平和会館についても調べたわけで、光山文博という名前と彼の顔写真に馴染んでいると思えてきたからだ。日本のために米軍の軍艦に突撃した朝鮮人神風特攻隊の犠牲には歴史的過ちが齎した何ともいえない悲運が漂っている。辛い気持ちとなったことを覚えている。

 名古屋市公会堂で行われた「2014 あいち・平和のための戦争展」は、「戦争する国を許していいのですか? 私たちは国の武力行使を認めません」というスローガンのように平和精神を内外に発信する目的下に規模から見ても、展示物の量から見ても緻密に用意されたもののような印象を受けた。光州でもこうした本格的な戦争展が開催されれば平和に対する市民の意識も高まるだろうと思うと、何だか羨ましい。

 「安重根から影響を受けた日本人たちの活動」の話し、そして「2014 あいち・平和のための戦争展」のピースステージで行われた「在日コリアン」をめぐっての講演会、「韓・日高校生討論会」で感じたことも多く感想がないわけではないが、次の機会に譲りたい。歓送会の時に同席した同胞学生とは思う存分にしゃべているつもりだったが、心残りがする。朝鮮プロレタリア作家について詳しく調べる気持ちもあるが、すぐに自分の研究テーマに戻ってしまい、伸ばしておいたままである。幸いに最近文炳蘭研究に凝っているので、それを言い訳にしたい。

 帰る日、台風で電車に決まった時間に乗れず、帰国便の時間も延期されて不安だった。日本でそれほど強い風に会ったことはないような気がする。よい思い出となるだろう。
 その時から今まで新美南吉を思い浮かべずに過ごした日はない。高橋信代表をはじめ、今回の韓・日青少年平和交流でお世話になった名古屋の皆様に心から感謝する。

 (筆者は韓国・全南科学大学副教授)


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