【コラム】
槿と桜(49)

韓国と日本の印鑑事情

延 恩株

 2018年9月24日付け『朝日新聞』に「ハンコよさらば! 茨城県庁の決裁、ほぼ100%電子化」として、
 「ハンコよ、さらば――。茨城県は、これまで紙文書で占められていた県庁の決裁事務について、電子決裁率がほぼ100%に達した、と発表した。県ICT戦略チームによると、都道府県レベルでは初とみられる」
という記事が目にとまり、ちょっと驚きました。

 その理由は、日本で生活するためには韓国以上に「ハンコ」は必需品として私の中に植えつけられているのですが、それが茨城県県庁では事務処理に「ハンコ」が不要になったというからです。
 まだ限定的ですが、やがて日本の日常生活に占める「ハンコ」の必要性が次第に小さくなっていく先駆けになっているように私には感じられ、歓迎すべき〝現象〟だと思っています。

 韓国でも同様ですが、「ハンコ」にはおよそ3つの役割があるようです。1つは「本人の認証」で、もう1つが書面にある内容に「同意した・認めたという意思表示」です。たとえば、銀行で通帳を作ったり、窓口で出金したりするときの「ハンコ」は前者で、宅急便などの受け取りなどの「ハンコ」は後者でしょう。さらに3つめは、不動産の取得や登記、高額のローン手続きなど重要な本人認証のためには、あらかじめ役所に印鑑登録してある実印を使わなければなりません。

 ところで、ハンコ(判子)の正式名は「印章」(いんしょう)と呼ぶのだそうですが(韓国では「도장」トジャン、あるいは「인감」インガムと言います)、日本では「ハンコ」と言った方がわかりやすいように思います。また私は「印鑑(いんかん)」とも言ってしまいますが、こちらは正確には登録した印章の登録簿を「印鑑」と呼ぶのだそうです。でも日本の方も「ハンコ」=「印鑑」として日常的に使っているようですので、問題なさそうです。

 「ハンコ」(印章)はその他の多くの文化と同じように、中国からアジア諸地域に伝えられたものです。でも日本のように社会全般にわたって浸透し、生活のなかで必需品として使われているのは、ほかには韓国と台湾だけのようです。
 その理由ははっきりしています。台湾、韓国ともかつて日本の植民地として日本の支配下に置かれていたという歴史があったからです。
 韓国では1910年に朝鮮半島が植民地とされた4年後の1914年に「印鑑証明規則」が定められ、それ以降、ほぼ日本と同じように運用されていました。ところが日本の敗戦(1945年8月)後、この制度は廃止されませんでした。大韓民国建国(1948年8月)後には「印鑑証明法」として改めて制定され、現在まで存続してきているというわけです。

 韓国でのこうした「ハンコ文化」の中で育った私でしたので、日本で生活を始めた当初から、私にはハンコへの戸惑いはありませんでした。せいぜいそれまで持っていなかった漢字のハンコを慌てて作ったぐらいでした。

 韓国のハンコは日本と違って基本的にフルネームで作ります。大きな理由は、韓国人の姓が金、李、朴、崔、鄭の5大姓だけで全人口の55%を占めているからです。書体はハングル、漢字のいずれかで、印の形は日本のように円形が主流で、漢字教育を受けていない若者はハングルのハンコが多いと言えます。

 ところが今から9年前の2009年7月29日、韓国の『中央日報』日本語版は次のような記事を掲載しました。

 「日帝時代の産物である印鑑証明を廃止へ
 日帝強占期の1914年に導入された印鑑証明制度が年内60%縮小、5年以内に完全に廃止されることになった。
 国家競争力強化委員会は29日、李明白大統領(第17代―引用者注)主宰で開かれた「第15回国家競争力強化会議」でこうした内容を骨子とした「印鑑証明制度改編案」を報告した。
 印鑑証明制度改編案によると、年内に印鑑証明要求事務のうち60%である125種が廃止され、印鑑証明を無くす代わりに本人の身分証や身分証の写し、銀行通帳の写し、認可・許可証で代わることにする計画だ。ただ不動産登記のような主要財産権関連事務は印鑑制度廃止対象から除いた。しかしこの場合にも自分が直接機関を訪問するか、契約書・委任状などに公証を受けた場合は印鑑証明書を提出しなくてもよい。印鑑証明制度は年内利用が大幅に縮小され、5年以内に完全に消える。政府は申請者が機関を訪問せずにインターネットで公認認証書を活用できるよう電子認証基盤を拡充し、不動産電子登記利用活性化のために申請手続きを簡素化する計画だ」

 韓国でおよそ100年間続いた日本と同じような「ハンコ文化」は、この記事にあるように2009年に大きく転換を始めたと言えそうです。
 韓国では日本によって植民地とされていた時期(この記事にある「日帝強占期」)に日本から強制されたあらゆる事柄を〝日帝時代の産物〟として排除することが現在も行われています。ですからこの印鑑証明制度もその一環と言えます。
 でもこうした転換をするに至った経緯には、単に〝日帝時代の産物〟というだけでなく、偽の印鑑で他人の口座から預金の引き出しを行う犯罪の多発やそのほかの機関などでも偽造印鑑による犯罪が増えていたという理由もありました。

 この2009年以降、韓国では欧米のような「サイン文化」にはまだまだほど遠いのですが、上記の記事にあったように「インターネットで公認認証書を活用できるよう電子認証基盤を拡充」する方針が確実に実行されつつあります。
 その一つの大きな流れとして、3年前の2015年7月30日の『中央日報』日本語版が次のように伝えていました。

 「2017年9月から銀行で口座を開設する際に紙の通帳が発行されなくなる。インターネット・モバイルバンキングの普及で通帳の必要性が大幅に減ったと判断したためだ。1897年に韓国初の商業銀行である漢城(ハンソン 한성)銀行ができてから使われてきた紙の通帳が120年ぶりになくなるという話だ」

 韓国の金融監督院が決定した無通帳金融取引革新案では、2015年9月から5年かけて紙の通帳発行を段階的に廃止し、銀行から適用、次に証券、保険など他の金融機関に拡大するというものです。
 そして2017年9月から2020年8月までの3年間は60歳以上の高齢者でなければ紙の通帳は発行されなくなり、60歳未満の人は申し出制になりました。しかも2020年9月からは紙の通帳発行には手数料が必要になるとのことです。

 それでは現在、韓国での銀行通帳の取り扱いはどうなっているのかと言いますと、通帳を作る時には身分を証明するもの(日本でいえばマイナンバーカードのような身分証のほか、運転免許証、旅券、あるいは携帯などの公共料金支払い済みの領収書なども可)の提示とハンコとサインか、ハンコ無しのサインだけでも作れます。それから窓口で預金を引き出す場合は、通帳にサインが記されていれば、身分を証明するものとサインだけで引き出せます。もちろん日本と同様にハンコで引き出すことも可能です。

 役所に印鑑登録をする場合には、日本と同じく実印とする予定のハンコが必要ですが、右親指の指紋も押します。そして印鑑証明書の発行では、日本のように印鑑登録証と身分を証明するものの提示ではなく、身分を証明するもので本人確認を行います。
 そのほか、住所変更の届け出や不動産売買などの契約にはハンコが必要です。

 このように韓国社会でじわじわと電子認証の拡充が進行しているのですが、印鑑証明制度の2014年廃止という政府の思惑は外れたようです。長年に渡って馴染んでいた制度を変えようとするなら、国民にじっくり理解してもらい、関係機関との整合性をしっかり取るという時間的な余裕が必要だったのでしょう。この印鑑証明制度はまだ完全廃止に至っていません。
 したがって2020年で銀行通帳が廃止されることになっていますが、この期限が先延ばしされる可能性も否定できないでしょう。

 一方日本でも、ある大手銀行が2019年3月までに印鑑の代わりに、指の静脈情報の登録で口座開設を可能とし、ハンコ無しでも良いようにするようです。事前登録した静脈データで本人確認ができれば、窓口でキャッシュカードだけで高額の現金引き出しや振り込みなどができるだけでなく、通帳やキャッシュカードの再発行も印鑑不要となるそうで、銀行利用者へ目が向けられていて歓迎すべき制度改革だと思います。ただちょっと残念なのは、この大手銀行は私が利用していない銀行だということでしょうか。

 冒頭で記しましたが、茨城県県庁の事務処理がすべてハンコ無しでの決済となったという事例からも、日本もそう遠くない時期に日常生活上でのハンコとのつき合いがかなり減少していくことを教えてくれているようです。現在は韓国の方がハンコ無しの生活ということでは一歩先にあるようですが、いずれは同じような状況になるに違いありません。
 どうやら韓国、日本いずれも、やがては「ハンコ文化」が昔語りの材料になっていくのかもしれません。

 (大妻女子大学准教授)

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