韓国と私

■韓国と私                 西村 徹

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 10年ちかく前の1996年、台湾で李登輝総統再選の国民投票のようなものがあ
った。観光旅行のヴィザは要らなくなっていたし、長年日本に亡命していた台湾
独立運動の人々は自由に行き来できるようになっていた。当然本国でも台独の人
たちはみんな牢屋から出ていた。選挙の賑わいを見たい気もあって二月か三月か
に、二度目に勤めた大学のツアーに入れてもらって飛行機に乗った。70歳まで働
いた褒美を自分で自分にやるような気分で、のほほんと出かけた。
 空港では大陸からの留学生たちもすいすいと入管を通っていった。なにも思わ
ず出した私のパスポートだけが待ったをかけられた。ヴィザがないからだという。
なぜヴィザが私にだけ要るのかと問い詰めても、役人は返事ができなくて只ただ
困惑のていであった。台湾人はすべてブラックリストから抹消されていたが、外
国人は蚊帳の外で抹消が忘れられていたらしい。

 さらにその10年前のころ、我が家と同じ町内に住むアジアフリークの知人に
誘われて台独の人たちとメシを食ったり、「台湾青年」という雑誌を講読したりと
いうほどの付き合いがあった。一方を支持するしないより、能天気な気分の好奇
心だった。ある夜、一緒にメシを食った中に当時津田塾大の先生をしていて現在
は駐日代表(大使)の許世楷氏もいた。メシを食った中華料理店のオヤジはじつ
は国府の特務だと後で知った。それでブラックリストの「好ましからざる外人」
のA級に私が入っていたのであるらしい。
 
 ちょっと脇道に逸れるが、独立派だろうが国府の特務だろうが、台湾人同士は
お互い知った仲、つまりは同胞、特務にもたまには仕事のタネをやろうじゃない
かぐらいのことだったろうか。そのアジアフリーク日本人も台湾に出かけるたび、
支部(領事館)でヴィザを寄越せと押し問答するのを、むしろ愉しんでいる風に
もあった。こういうおおらかさは、留学生などを見ていると、台湾人と本土の中
国人との間も同じで、国外にいるときはとりわけそのようだ。日本の右翼と左翼
もいがみあってばかりいないで少し見習ったらいい。韓国と北がどんどんそうな
っている。
 
 そういうわけでバカバカしい話だが、それから10年ちかくも経ってから台北
の空港で回れ右の飛行機に乗せられて戻ってきたというお粗末。以来肚のどこか
でアジアには行くまいぞという気分が出来上がってしまっているらしい。意地と
いうほどのものではない。「国境(くにざかい)は、どこの国でも腫れ物なのだ。
触れれば相手は飛び上がる。・・たえずいたわってそっとしておくほうがいい」と
いうのは北条早雲の言葉を司馬遼太郎が訳したものだが、それに似た気分が出来
上がってしまっているらしい。アツモノに懲りて云々の他愛もない話ではある。
 
 韓国と私の関係もまた、まことに貧寒たるものである。一度も訪れたことはな
く、この歳になっては、これからもたぶん訪れることはありそうにない。訪れた
い気はなかったわけではないが、一昔前までヴィザが取れそうにもない気がして、
われからそういう気持ちを封じ込めてしまい、ヴィザの心配などなくなると、今
度は身体の衰えがその気を萎えさせてしまった。
 
 しかし台湾とちがい韓国は近い。地理の上で近いというより物心ついてこの方
目に入る風景として、「朝鮮人」と呼ばれる日常の風景として韓国は存在した。子
供の私の世界像のなかに最初から存在した。日本人はきものを着て下駄を履いて
いた。朝鮮人はチマ・チョゴリを着て沓を履いていた。男の老人は鍔の広い冠のよ
うな帽子を被っていた。
 今にして思えば、胸のうちにたぎる鬱勃たる民族の誇りを、そして屈辱を、目
一杯彼らはその民族の服装を身に纏うことによって語り出していたのだったろう。
その鬱屈する心組みを、日本人の心の側から受け止めたものとして、中野重治の
「雨の降る品川駅」の一行「君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる」が思い
出される。

 しかし子供の私にそんなことが覚れるものではなかった。朝鮮人は日本人でな
いとも、外国人であるとも思わなかった。日本人とか外国人とかいう抽象的な、
あるいは人工的な概念そのものが子供の自然ではなかった。朝鮮人は「朝鮮人」
と呼ばれる人でしかなかった。服装がちがっていたり、少し言葉に癖のある、ち
ょっと変った貧しいらしい人でしかなかった。異形の人というほどではなかった。
山伏、虚無僧、托鉢の僧、あるいは大原女を見るほどの珍しさであった。日常か
らは少しばかり遠い風俗あるいは風景でしかなかった。なぜそういう人がいるか
も、無論考えなかった。

 中学に入って地理の時間に「北は樺太千島から南は台湾澎湖島・・」と領土の
ことが教えられ、見せられる地図は朝鮮半島も赤く塗られていて、その上の満州
は桃色で、桃色はいずれ赤くなる予定の色だと教えられた。格別の疑問も関心も
なく、それをそのまま無感動に既定のこととして受け取っていただけだった。
差別というものの存在は年齢が進むにつれて知るようになってはいたし、おぼろ
げに差別を不条理と感じる違和感と言えばいえる気持ちも絶無ではなかったと思
うが、はっきりした形をとるのは戦後になってからであった。そういうものを対
象化するほどの自意識そのものが出来ていなかった。
中学に入っていきなり想像を超える暴力的な教育の中に投げ込まれ、「校門は営門
に通ず」などと軍事教練の教官は云い、「この戦争は永久戦争である」とも聞かさ
れ、軍人勅諭の暗誦から「臣道実践」、「戦陣訓」と、いぶせきことのみ背も砕け
よと押し付けられ、いずれ兵隊に行く事は不可避という運命に対しては、ただた
だ恐怖と、暗い緊張があるだけであった。その理不尽は変革も廃絶も可能だなど
とは、つゆ考える批判力を持たなかった。

 女に生まれていれば兵隊に行かずにすむという思いも頭をかすめたが、それは
全く一瞬のことで、ひたすら上級学校に入って先ず徴用を逃れ、次いで、いくら
かでも徴兵を先に延ばすことだけが生きる唯一のよすがであった。ましてや朝鮮
人差別など、それすら覆しうる理不尽として捉える力はまったくなく、恐ろしく
もあり不快でもあるが、大地のように動かぬ万古不易の天然自然として受け取っ
ていたのであった。それ以前に、なぜ天皇というもののために兵隊に行って殴ら
れたり死んだり、ざまざま酷い目に会わねばならぬのかが、どうにも解せぬ理不
尽として意識の上では先立っていた。

 高校には多少ながら片隅の自由があるものと思っていたが、それも幻想であっ
た。ただこれまでよりも朝鮮人が多く、いままで見たことのない優秀な朝鮮人が
多くいることを初めて知った。ひょっとすると朝鮮人は日本人ではなくて外国人
なのではないか、日本人であって日本人でなく、外国人であって外国人でない、
万古不易の天然自然でないものがそこにはあるらしいという、端的にいえば大日
本帝国の、拭いようのない矛盾というものが皮一枚剥ぎ取られる想いで知らされ
るようにもあった。それは朝鮮人と私とを遠ざけるものとしてよりも、逆に距離
を近づけるはたらきをしたように思う。
 
 そして戦争も末期になり、戦争の終わる前の年の9月から放り込まれた富山県
の工場で、マグネシウムを精製した残滓の岩石を、割って砕いて溶かして泥にし、
それを漉して鍋で煮詰めて塩を採るという、湿気と寒気と熱気と、そして塩素ガ
スの四拍子揃った、その工場では最低最悪の、文字通り泥まみれの仕事をした。
作業衣は塩分を含んでじっとりと濡れ火にあたる時だけパリパリになった。冷え
ればまたじとじと。仕事をする人間は私ども高校文科の生徒と朝鮮北部山岳地帯
から強制連行されてきた朝鮮人だけであった。
 
 日本語をほとんど話せない朝鮮人がいることを初めて直かに知った。目から鱗
の驚きであった。帝国の統治は朝鮮の全土に及んではいなかったのだ。大日本帝
国の矛盾を包み隠している覆いは、さらに皮一枚どころでなく二枚三枚剥がれた
ようであった。その朝鮮人が畑の作物を抜き取り畑の持ち主が咎めた。「ニッポン
朝鮮 取った。これくらい取ってもいい」と朝鮮人は胸を張った。目撃はしていな
いが、時に監督の陸軍准尉による制裁は凄惨を極めるものであったという。戦後
になって知ったことではあるが、憲兵や山縣為三のような特高による拷問も、朝
鮮人に対する拷問は「朝鮮ヤキ」といって、日本人に対する場合より特段に惨烈
をきわめるものだったという。
 
 「朝鮮ヤキ」にもめげず昂然と胸を張る朝鮮人がそこにいるという事実、それ
が現実に目の前にあるということ、これもまた目から鱗の驚きだった。帝国の支
配にまつろわぬ者、正面から目を据えて抵抗する者がいるということは、もはや
日本人が当然の原理みたいに諦めきっている、あるいはひれ伏してしまっている
権力のタガが、じつは当然の原理ではなくて綻びのあるものかも知れぬというこ
とを、糸ひと筋ほどに微かにではあるが照らし出すもののようであった。
 
 夜勤には雑炊が出た。その雑炊は日本の学生のやわな消化器では必ず下痢にな
った。雑炊券は朝鮮人が喜んでもらってくれた。境遇的にすでに近い彼我の距離
は飛躍的に縮んだ。顔が合えば互いにかすかな頬笑みを交わすぐらいには縮んだ。
少なくとも敵意のない関係、さらには連帯感の芽生えのようなものが生じていた
ように思う。その芽生えのなかには、朝鮮人に「行ってあのかたい 厚い なめら
かな氷をたたきわれ」(中野重治・同上)と言うとき、日本人もまた彼らと横に並
んで共にその氷に立ち向かうべきことへの目覚めをも、かすかながら含んでいた
ように思う。

 私は途中兵隊に行ったので彼らとの付き合いは短かったが、敗戦の日まで一緒
だった者によると、彼らとの連帯感はますます深まり、隊伍を組んだ彼らと出会
うと、一斉に他の者には絶対しない挙手の礼をしたという。上級者への敬礼では
なく対等の、連帯友好の意思表示であったのだと私は思う。一緒に働いていて「ト
ラジ」を聞かせてくれたともいう。またあるときはお礼だといって配給のタバコ
をたくさん持ってきて、どうしても受け取れときかなかったという。その義理堅
さには恐縮したという。お互い徴用の苦渋を共感していたのだろうとも、同人は
いう。

 私が知る初期の状況からして、その後の連帯感、多分に彼らからの一方的なも
のではあったろうが、とにもかくにもその深まりには想像を超えるものがあった
らしい。いささか調子よすぎるはなしにも思うが、素直に信じたい。Suspension
of Disbelief(不信の停止)は事を評するときの第一原則だとS.T.コールリッヂも
言う。

 いくらかはシベリア抑留中の日本人と土地のロシア農民との間に生じた交流に
も似たところがある。しかし違うところもある。朝鮮人には頭の上にのしかかる
分厚い氷を叩き割ろうとする昂然たる意志が先ずあったであろうし、その意志の
強靭に比べて、日本人学生が同じ徴用の理不尽に対して抱く不満は、やわな消化
器と同じくやわなものでしかなかったであろう。その意志の強靭ゆえに、いち早
く日本人学生との間にありうる連帯、抑留日本人とシベリア農民との間に生じた
と同じ連帯の道筋を、彼らは敏感に嗅ぎ出したのでもあったろう。それに比して、
ほとんどひれ伏してしまっている日本人は、はるかに鈍感でしかなかったであろ
う。「その義理堅さ」として受け取るところで止まってしまうところに、その限界
はあったであろうと思う。

 その到底かなわぬところ、兄事せざるをえぬところ。中野重治は朝鮮人を「日
本プロレタリアートのうしろ楯まえ楯」(同上)と歌って「朝鮮人を日本人の楯に
する気か」と後に批判されたが、それにはそういう、むしろ仰ぎ見る思いがあっ
てのことであったろうと私には思える。その思い、兄事せざるをえぬ思いは、今
も、中国を含めてであるが韓国の、民衆がときに噴出させるエネルギーを見聞き
して変るところはない。
 彼ら、ひととき私と同労者であった朝鮮人は、戦後ソ連邦占領下の朝鮮北部に
帰郷の途上、日本海上で触雷沈没、全員が死亡したと聞く。敗戦の直後、サ条約
調印以前すなわちいまだ戦闘続行中に「日本人」として戦死した。謀略か事故か。
調査はなされたか。沖縄から鹿児島へ疎開する途中、撃沈された対馬丸に乗って
いた千五百名は靖国に祀られている。朝鮮人犠牲者に対する保障はどうなってい
るのだろうか。

 それらの償いを曖昧にしたまま、この国の総理は猿芝居のサルのように脱ぎ替
え着替え、ぶざまに靖国に出かけて、アジアを怒らせ靖国を汚している。
とにかく国というものは厄介なものだ。国民国家とか近代国家とかいうものは厄
介なものだ。厄介だからなんとかしようというのでEUは出来たのだからAUも
いずれは出来るのだろうと淡い期待はある。今のような国家臭い国家がなかった
頃は、竹島なども、どちらのものとも区別はなくて、韓国人は魚を採り日本人は
鴎の糞から燐を採っていたと松本健一はいう。早くそういう日は来ないものであ
ろうか。
                     (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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