落穂拾記(33)

養育施設115年—「悪環境」の子らとともに

羽原 清雅

 「落穂拾記」を書こうとしたところに、ユニセフから冊子が届いた。
 ユニセフと日本の国立社会保障・人口問題研究所が、欧米、日本など31ヵ国の子供たちの状況について、「物質的豊かさ」「健康と安全」「教育」「日常生活上のリスク」「住居と環境」の5分野で比較した調査報告書の結果が掲載されていた。
 5分野の総合順位で日本は、㈰オランダ ㈪フィンランド ㈫アイスランド ㈬ノルウェー ㈭スウェーデン、に続く6位のトップクラス。
 だが、喜ぶのはまだ早い。
 
 「教育」「日常生活上のリスク」では1位で、これが総合順位を上げることになった。だが、所得と物質の両面から測った「物質的豊かさ」では21位。この低さについては「日本の子どもたちの貧困の問題」として、貧困状態にある子どもたちの割合を示す「相対的貧困率」は14.9%で22位、貧困の深刻度を示す「貧困ギャップ」は26位、所得だけでは表わされない子どもの実際の生活水準を物質面から比較するための「子どもの剥奪率」(修学旅行や学校行事の参加費、宿題をするのに十分な広さと照明がある静かな場所などの8項目のうち2つ以上が欠如している子どもたちの割合)は18位で、「子どもの貧困を測るいずれの指標においても下位」と書かれていた。

          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 それで、思い出すことがあった。
 筆者は以前、乳児院の老朽化した建物の新築にあたって、寄付金集めを手伝ったことがあった。そこで、垣間見たこの世界は思いのほか厳しい状況にあった。でも、根底にジーンとくるような豊かな心があるのも事実だった。
 とりとめもないが、そんな思いを書いておきたい。

 新宿区内に、115年を迎える乳児院がある。
 明治のころには当時なりの「貧困」があったが、今は今の「困窮」が生れ落ちて間もない子どもたちの上に覆いかぶさってくる。
 ものの溢れる現代社会ではあるが、吹き溜まりのような社会環境は続いている。
 それでも、この子たちを暖める保育の人たちがいて、ささやかながらも支援する人たちがいてくれる。それに、空気は明るく、苦境を抱えた雰囲気は見えない。
 戦前と変わったといえば、国や自治体の財政的な措置が進んだことだろう。かつては「寄付」に依存したが、いまは9割が行政費でまかなわれる。
 とはいえ、希望通りに子育てができるほどの交付、助成があるわけではない。

 「二葉乳児院」という。
 隣りには、普通の「南元保育園」があり、調布市には「くすのき保育園」とともに、2歳から高校生までの家庭に恵まれない子どもたちの児童養護施設「二葉学園」がある。2010年には小平市に同様の「二葉むさしが丘学園」ができた。この社会福祉法人「二葉保育園」は、この5施設を運営し、こどもたちは300人にのぼる。

 乳児院には、生まれたばかりの赤ちゃんから保育園前の幼児がいる。少し古いデータだが、年間延べ400人ほどが入り、普通は40人程度がいる。
 母親の病気や就労、入院の付き添い、次子出産などで預けるケース。そこには、家庭が機能しない苦しさがある。就労できればまだましだが、不況になると子育ての時間はできるにしても、それでは生活が成り立たない。
 父母の家出、未婚で15、6歳の出産、離婚や別居などで育児ができないケースも少なくない。片親の子どもは確実に増えている。
 かつてはあまり考えられなかった虐待がふえた。親がいたいけない乳幼児をいたぶるなど、考えられなかったものだが、現実には子どもたちを親から避難させる必要がある。

 経済力だけではなく、知識不足や子育ての実感のないための養育不能もでてきている。
 父母のいずれかが外国人で、収入に恵まれなかったり、日本での生活になじめなかったり、そんななかで育児の困難を抱えるケースもある。国際化が進めば、どうしても不正入国などの、思わぬ壁にぶつかることもあるが、しかし育児ということで考えれば放置するわけにはいかない。
 くわえて、置き去りにされる赤ちゃんもいる。いわゆる捨子、である。「赤ちゃんポスト」が熊本市にできたが、そのようなニーズも考えなければならないご時世なのだ。

 多くの場合、半年ほどで引き取られる。ただ、親も不明のまま置き去りにされたような場合、里親養子がまとまれば、それはそれで悪いことではあるまい。養子縁組をするにしても、里親の環境がどうであるか、など難しい課題もある。その成立した数は決して多くはない。養子になる機会がないと、長期にとどまり、二葉学園のような模擬家庭的なグループホームに入ったりする。
 乳児院という施設では、乳幼児はできる限りのぬくもりのなかで育てられる。育児に当たる保育士さんたちをはじめ、衣食住にしても環境はいい。
 だが、乳幼児とはいえ、母親、あるいは父親のいないままの生い立ちは、いつか心理的な負担を生じる。この点ばかりは、解決できない心の問題として、成長するなかで残されていく。

 では、少し成長した子どもたちを受け入れた二葉学園はどうか。
 入所の理由を見ると、少し古いデータで恐縮だが、両親の病気や離婚、養育難、就労、死亡などが4人に1人。5人に1人が不登校や家出、盗み、粗暴などの問題行動を起こしたケース。被虐待や親子関係の不調などもある。
 問題行動などは、子ども本人の責任を問う前に、そこにいたる生活環境など外界に目を向け、その打開に努めなければ、状況の改善はありえない。親のアルコール依存、身柄の拘留といったケースもある。
 つい、本人の責任を問いたくなるが、さらに追い込むのでは教育とはいえまい。このあたりをこなしていくのが、こうした施設での、訓練を身につけた教職員のすごさ、偉さだろう。
 ただ、高校を出るなど自立を求めて社会に出て働く場合、対人関係において、気の弱さ、明るさ、溶け込み方など個性の伸び方次第では、なかなかうまくいかないケースもあるようだ。幼いときの、心の痛手は成長に大きく影を残す。

 この施設の生い立ちを紹介したい。
 1900(明治33)年1月、「二葉幼稚園」として麹町六番町に生まれてまもなく、いまの四谷・信濃町に近い新宿区南元町に移った。
 当時は鮫河橋といって、江戸時代には橋のかかる入江のようなところだった。そして、下谷万年町、芝新網町とともに東京の3大貧窟といわれたようで、「日本之下層社会」(横山源之助著)、「最暗黒の東京」(松原岩五郎著)などには生々しい貧しさが描かれている。  
 ここでは具体的には紹介はしないが、今では思いも寄らない残飯の食事、住居や下水などの不衛生、性風俗や犯罪などに包まれていた。当然、子どもたちの生活は苦しく、その日暮らしの親たちは子育てどころではない状態だった。人足、車夫、小使、鳶職、賃仕事などの職業が多く、収入は微々たるものだった。

 だが、この状態を見かねて、6畳と8畳ニ間、12坪の庭、そして園児16人という小さな幼稚園を、このような地に作ろうとした人たちは、対極にある豊かな人びとだった。
 開園したのは、早くから貧窮の子らの保育に関心を持った野口幽香と、アメリカの貧民幼稚園を経験してきた森島美根(斎藤峰)だった。ふたりは恵まれた華族女学校(現女子学習院)の付属幼稚園の先生であり、クリスチャンだった。
 この運営資金は、すべて寄付に頼っていた。
 のちには内務省、宮内省、東京府市から公費援助もあったが、当初から富裕層の寄付が頼りだった。創始者が女子学習院にかかわっていたことから、当時の華族や公家の夫人や令嬢たちの名が圧倒的に多い。また、当時では珍しい自立できた女性群、さらに各界インテリの知名人たちがずらりと並んでいた。
 筆者は、乳児院新築の寄付を募るため、かつての古い名簿をもとに一ヵ月以上かけて、各家のその後の係累と住所を調べて、お願いの書状を送らせてもらったので、当時の寄付の事情が判明したものである。

 余計ながら、苦労して調べたので、古い寄付者名簿を見てみよう。
 華族、公家では・・・・
 有馬頼寧、伊藤博文、中御門経民、岩倉具徳、正親町実徳、小笠原長生、大給近孝、甘露寺受長、京極高備、西園寺八郎、実相寺貞彦、相馬孟胤、副島道正、鷹司熙通・信熙、伊達宗曜、津軽英麿、田健治郎、徳川慶久・義親・達孝・義恕、徳大寺公弘、戸田氏秀、内藤頼輔・信任、中山孝麿、鍋島直映・直明、南部利淳、浜尾新、広幡忠隆、堀田正恆、前田利男、松平康民・親信・頼孝、万里小路正秀、徳川好敏、山内豊尹、山県伊三郎・有道、などなどの夫人や姉妹の名が連なる。これは名簿の中の一部に過ぎない。

 在野の知名人の名も多い。やはり学者や政治家たちが目立つ。
 荒川文六、有島武郎、巌本善治、金森通倫、岸本辰雄、桑田熊蔵、倉橋惣三、島田三郎、渋沢栄一、鈴木喜三郎、武内桂舟、長岡半太郎、中田瑞穂、橋口信助、服部漸、福羽美静、松井慶四郎、松浦鎮次郎、三上参次、御木本幸吉、山科礼蔵、山本忠興、横田成年ら。

 女性群で知られた名前を拾ってみよう。女性向けの学校を立ち上げたり、女性の社会進出に努めたりしたパイオニアがそろったかたちだ。
 内海乙女、瓜生繁子、大妻こたか、嘉悦孝子、ガントレット恒子、下田歌子、十文字琴子、諏訪根自子、津田梅子、鳩山春子、羽仁もと子、前田園子、宮城玉代、三輪田繁子、安井哲子(てつ)、山野千枝子、吉岡弥生、渡辺(大山)とめ子ら。

 こうして見てくると、かつての著名人やその家庭は、社会的な恵まれた状態への感謝からか、あるいは社会の底辺への気遣いなのか、あるいは名誉あるポジションからの「ほどこし」的な気分があったからか、とにかく「寄付」行為が活発に行われていた。
 だが、昨今は残念ながら、経済人などの富裕層が社会的な事業に資金を提供する事例は少なくなったようだ。

 ところで最近、教育の問題として、生活に苦しい家庭の子どもたちの学力が低い、という統計が出された。
 都市部を中心に、塾通いができること、公立校ではなく進学効率のいい私学に行けることなどは、一般的にいえば学力の向上に役立つのだから、経済力と学力には相関関係があるといって不思議はあるまい。奨学制度や公的な奨学制度も比較的整っているのだから、貧しいから学力が伸ばせない、ということでもあるまい・・・・と思わないでもない。
 貧しさは、たしかに無気力や怠惰というような「自己責任」の場合もある。
 しかし、現実には不況による失業、低賃金の非正規雇用、高齢者や乳幼児を抱えての就労不能、病弱や病苦を抱えての療養、あるいは離婚などによるシングル家庭の困窮など、自己責任を問うわけにはいかない、社会的な構造による貧困も少なくない。
 したがって、親の「自己責任」を問うことはできないし、まして子どもたちに親たちのマイナスを背負わすことも、きわめて酷である。いったい、「学力」不足は親のせいなのか。

 戦後の福祉行政は相当手厚く、目配りもよく、基本的人権を尊重している。
 ただ、行政には、公平・一律・機会均等といったクールな規準があり、個々別々の問題については網の目から取りこぼすことも少なくない。とくに福祉関係の問題は間口が広く、行政の一般的な基準だけでは救済できないことが多い。
 また政治や行政は、全体の姿をとらえる必要から、とかく上から目線になる。同じように、経済や実業は効率と利益でものを考える。そのような特性が顕著に過ぎると、貧困から抜け出す道が広がらないことも事実だ。
 そこで、民間の出番が必要になる。とりわけ福祉関係の行政では、民間の組織などの活動を支えるというか、足らざるところを補ってもらう、という取り組みがどうしても必要になる。二葉保育園のような組織が不可欠な理由でもある。

 いま、この点は十分なのか。
 また、福祉に必要なのは「ひと」に尽きる。福祉従事者が、病弱者や障害のある者を虐待する事例が報道されるが、この育成は十分なのか。心のあたたかさ、奉仕する精神といったものが備わった人材を選び、かつ育てているか。
 たとえば、乳児院の仕事は24時間の勤務になる。人手がかかり、人件費を要する。「こころ」だけではすまない、就労環境の問題が出てくる。
 この対応のこまやかさはまず、「行政」の前に「政治」の課題だろう。

 二葉乳児院、二葉学園の実態を見てくると、こうした貧困との取り組みがきわめて大きくかかわっていることがわかる。
行き着くところ、貧困の問題は政治や行政の姿勢に課題があるようにも思えてくる。
 「学力」と貧しさとの相関関係も同様で、この状態を打開するにはバックアップの道を開かなければならない。具体的には、貧しさの生じる社会構造にメスを入れ、改善することだ。それは行政の網の目からこぼれかかった二葉の子どもたちを、健全に育てることに通じる。

 上の方から富ませていけば、その余波が徐々に底辺に及ぶ、という政策は、ほんとうに下方にまで及んでくるものか。それを待て、というのか。
 二葉の子どもたちは、きょうも明るく成長を続けている。ただし、貧しさから来る心の痛みは消えることはない。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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