■【オルタのこだま】

鳴門市の賀川豊彦記念館をたずねて          木村 寛

  「時代が賀川を呼び寄せた」とは、鳴門市賀川豊彦記念館の田辺健二館長の言
葉(徳島新聞、鳴潮、2009.1.6)なのだが、明治の終わり頃から広くキリ
スト教的文筆/社会活動をしてきた賀川の記念に、賀川豊彦献身100年記念事
業の軌跡として、「ともに生きる」(288頁)が2010年11月に東京の松
沢資料館から発行された。

 寄稿者にはグラミン銀行総裁のユヌス氏(ノーベル経済学賞受賞)もいる。こ
の本は賀川がノーベル文学賞(1947・48年)、平和賞(1954・55・
56年)の候補だったという史実も掘り起こした。もし日本が太平洋戦争さえし
ていなければ、賀川に受賞の機会があったと思う。

 そういうことも知らずに、たまたま鳴門市に記念館があることを知り、私の訳
本「悲しむ人たちをなぐさめよ」―ニコルソン夫妻の生涯―をお送りしたところ、
田辺館長から展示しますと好意的な返事をいただいたので、訪問したのである。
隣には大きなドイツ館(第一次大戦の時、青島で日本軍の捕虜になったドイツ兵
の収容所が鳴門市にあったので、その記念として建てられた)もあり、一つの観
光スポットとなっている。実はニコルソン夫妻も賀川らと関東大震災以来、付き
合いが続いていた。

 カリスマに満ちたキリスト者として大きな活動をした賀川も、今ではその広い
活動の跡さえも忘れさられている気がするのだが、昔は世間の人たちのやっかみ
も強かったし、日本に根強い「行為主義批判の風潮」(キリスト教は義認論とし
て行為主義を批判する)ともあいまって、なかなか賀川の活動が正当に評価され
なかったことも事実であろう。

 私は宗教の内部に向かう人間と外部に向かう人間とが居ると思うのだが、日露
戦争時「非戦論」を唱え、その後「聖書の研究」に沈潜した内村鑑三が前者だと
すれば、賀川は正に後者だったと思う。宗教をバネに外部問題に立ち向かうがゆ
えに、行為主義の批判にさらされるのである。

 行為主義批判は、「見てしまった責任」(生涯、水俣病に取り組んだ原田正純
熊本大学医学部教授の名言)も、「知ろうとしない責任」も、「何もしない責任」
も回避しようとする人たちの免罪符として機能してきたのではないだろうか。イ
エスの過激な言葉に「主よ、主よと言う者がみな天国に入るのではなく、ただ天
にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである」(マタイ伝7-21)があ
る。

(筆者は堺市在住・理学博士)

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