-三宅正一の農村医療分野における「社会運動的農民運動」(上)―

■【研究論叢】
  戦時期保険医療政策と社会民主主義政党政治家の職能性

-三宅正一の農村医療分野における「社会運動的農民運動」(上)―

                            飯田  洋
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◇◇始めに


  本稿の目的は、三宅正一の戦時期における農村医療運動を通して社会民主主義
政党政治家―ここでは主に社会大衆党を念頭に置いている-の戦時期社会政策、
とりわけその中心をなす保健医療政策における職能代表的側面について論じ、同
時に戦時国策協力との関係を明らかにしようとするものである。なお本稿におい
て戦時期という場合は主に昭和六年の満州事変勃発から昭和二十年の敗戦までの
いわゆる十五年戦争の期間を指すものとする。
  三宅正一は、早稲田大学在学中に「建設者同盟」の創立にかかわり社会運動に
入った。また日本農民組合の創立にも参加、卒業後新潟県各地で小作争議を指導
、一貫して農民運動の指導にあたった。戦前は社会大衆党に、戦後は日本社会党
に所属した。戦時中を通じて、産業組合特に医療組合との結びつきが深く、その
職能代表的側面を持っていた。そのため農村医療としての国民健康保険法成立を
中心として戦時社会政策に関与した。
 
  戦時社会政策は、総動員体制の一環であり、その中心をなすものは「健兵健民
政策」と呼ばれた保健医療政策・人口政策などの厚生行政領域であった。従って
、農村医療問題を主な活動分野とした三宅が戦時社会政策と深いかかわりを持つ
こととなったのは当然のことであった。また後述する昭和十三年に設置された厚
生省設立の目的が、戦争遂行に必要な「人的資源」を育成するための保健国策の
強化にあったように、戦時社会政策は軍部の影響力下にあった。このことが、後
に三宅が戦時国策の協力者として批判を浴びる理由となるのである。しかしなが
ら、当時の社会政策、特に社会保障政策の性格と戦時国策との関係を詳細に検討
することによって、三宅の立場が戦時国策協力一辺倒ではなかったことを章を追
って論証していきたい。
  なお、三宅が行ってきた農民を対象とする運動が、従来の農民の経済的利益を
守るという狭い領域を中心に限定されてきた活動範囲を社会的領域に広げ、社会
或は政治体制レベルでの農民階級の利益或は社会正義を追求するものであったこ
とから、その運動を「社会運動的農民運動」と名づけることとする。

 次に本稿に関連する先行研究の傾向とそれに対する本稿の視角について述べる

1. 政治学的用語としての「職能」とは、職業団体、業界団体、労働団体、宗
教団体などの各種団体によって異なる固有の特性からくる機能、あるいは、その
機能を政治的に代表する機能を指すとされている。(本稿では、後者の意味で用
いることとする。)
  現在も、戦前も、職能的活動は保守政党政治家に顕著にみられる。保守政党が
政権を握ってきた日本においては、当然の事ながら、経営者・資本家団体系、つ
まり財界の政治に対するプレッシャーは強力であり、政界との癒着として保守政
治家は職能性を帯びることになる。
  また農業問題については、農業協同組合が強力な発言権を政権保守党にもって
いることから保守党政治家と農協とのつながりも密にならざるを得ない。
  一方、社会民主主義政党については、労働組合を中心とする諸団体とのつなが
りが指摘されるが、それ以外の職能的動きに関しては、あまり注目を浴びてきた
とはいえない。特に、昭和初期の社会民主主義政党政治家については、思想や運
動の面での研究は進んでいるが、職能代表的側面についての研究はあまりみられ
ない。本稿では社会民主主義政治家の戦時社会政策への関与を解く鍵として彼ら
のもつ職能性を取り上げることにする。
  勿論、農民組合運動や労働組合運動出身の政治家が、小作農や労働者の利益を
目指すといった階級的立場を前提とした職能的性格を帯びていたのは当然である
。本稿において職能性という場合は、階級性を前提とした職能性ではなく、保守
政党政治家や、官僚、軍部などの体制内の政治アクターとの時には共同行動をと
るようないわば"超階級的"職能性をさすものとする。

2.産業組合史の研究は、農村史研究の分野において昭和恐慌期に国家の意図が
産業組合を媒介として農村に下降していく過程について多くの実証的研究が積み
重ねられているが「農山漁村更生運動」などの社会経済活動に関するものが主で
、政治的側面とりわけ政治運動的側面がなおざりにされてきた。また産業組合の
性格づけとしては、戦時体制を整える役割を担った地主・小作間の階級宥和機関
として民衆を国家建て直しの方向へ動員する目的をもったものとして描かれる場
合が多く、産業組合の重要な運動の一つである医療組合運動に関するものはほと
んどない。本稿では医療組合運動に焦点を当て、医療組合運動に果たした産業組
合の政治的活動が戦時国策一辺倒でなかったことを論証する。

3.戦時社会政策の中心であった国民健康保険については、その機能面に着目し
て人的資源としての国民体力の強化を推進する「健兵健民」政策であるとするも
のが多い。そこでは、戦時体制を背景にした「上から」の制度として位置付けら
れ、医療組合の果たした「下から」の主体的な「医療の社会化」の動きの役割を
矮小化している。即ち、医療組合を通しての農民の切実な医療要求に応じた面が
多かったという戦時社会政策としての国民健康保険のもう一つの面が見逃されて
いる。本稿では、「下から」の医療の社会化の動きに注目する。

4.戦時期の社会民主主義政治家の動向については、社会ファッショ、協調主義
的思想の限界、合法的社会民主主義政党の限界、転向論などがある。即ち、戦時
国策に対して「本気の遂行」であったのか、「仕方なしの協力」であったのか、
「ぎりぎりの抵抗」であったのかとすることで論が分かれる。本稿では、社会民
主主義政党政治家は、全ての抵抗勢力が解体を強いられた当時において、運動の
中で培って来た「たてまえ」と「本音」を区別する知恵と工夫をもって、戦時社
会政策の中から社会主義と総力戦の類似点を見出し、「社会主義の模型」として
該当する社会政策を追求する道を選んだのではないかという視点をたてる。


◇◇農民運動を基盤とする医療組合運動へ


  前述したように、大正十二年日本農民組合関東同盟の活動家として新潟県に入
り、多くの小作運動を指導した三宅は、政治家としては、昭和七年二月、新潟三
区から衆議院議員選挙に立候補したが最下位で落選、同年六月の長岡市会議員選
挙にも立候補し当選し、議員生活の第一歩を踏み出した。 それ以後三宅はそれ
までの農民運動の枠を越えて、医療組合運動を展開することになる。
  この時期、三宅は、北越新報等の労働争議、長岡その他の都市における借家争
議、電燈料値下げ運動など小作農民の利益代表としての活動以外にも運動の幅を
広げたが、そのハイライトは、医療組合運動とその結果として長岡市に設立され
た中越医療組合病院(現厚生連長岡中央病院)であった。
  三宅の進めた医療組合運動は、当初は産業組合との関係はあまりなかった。『
医療組合経営事例』(産業組合中央会発行)によれば「本組合は賀川氏等社会運動
家の提唱により長岡市民之に賛同して設立準備が進められたものであって、区域
内町村、またはその産業組合との関係は当初よりほとんど顧みられては居らぬ。
」とあり、この点では、この組合は、多くの医療組合運動が産業組合運動と密接
な関連のもとに進められたのとは異なり、農村医療組合として沿革上特異なもの
であったといえる。
 
  その原因は、この医療組合が、当時地主や中農の勢力が大きかった新潟県の産
業組合と距離を置くと同時に農民組合との関係があまりにも直接的であったこと
に起因するもので、三宅の医療組合設立の理念が当時の医者にもかかれない悲惨
な小作民の自助的救済活動という小作運動の一環にあったことによるものである
。三宅は、これについて「小作争議を指導した農民組合の幹部の作った医療組合
だけに、地主側の反発は強かった。医療組合が産業組合法による認可を得たあと
でも、地主会の影響下にある県の信用組合は加入を認めなかった」と述べている

 
  一方、新潟県における医療組合運動は、無産派だけの運動ではなく産業組合も
医療組合運動を推進していた。最初、三宅は、実費診療所型のものを農民運動の
一環として設立しようとしたが、地主などの強固な反対により実現が困難を極め
たことから、結果として三宅らが創立した中越医療組合病院も産業組合法に拠る
ものとせざるを得なかった。当時の情勢の中で最も実現が可能な方法として産業
組合法により推進する途を選択したのである。三宅を産業組合法による病院設立
に踏み切らせた理由には、下記のような彼を取り巻く人的関係の影響があった。
  
  三宅の運動の物質的、精神的後援者であった賀川豊彦が産業組合推進者であつ
た。直接的には賀川の創立した東京医療組合病院の推進者黒川泰一(当時日労党
書記)から産業組合法で推進するよう助言を受けそれ以後経営の指導を受けた。
  産業組合中央会頭であった有馬頼寧より金銭的援助を受けるなど親しい関係に
あった。
  産業組合を推進した新官僚石黒忠篤とは学生時代から旧知の関係にあり、彼に
よるアドバイスを受けた(石黒は賀川に産業組合による医療組合病院の設立を勧
めた)。
 
  この辺のいきさつについては、『年史 新潟県厚生連』について次のような叙
述がある。「新潟県の産業組合は特に地主の支配が強かったので、三宅氏らの計
画は二つに分断され、縮小されてしまった。これらのこともあって、三宅氏は無
産病院というイメージをなるべく薄くすると同時に、具体的に保守党内の進歩的
有力者の協力を得るため、保守党の有力議員四氏を発起人に加えた。」その結果
医療組合の役員には市議のほか村長、県議などの地方の名望家が名を連ねること
になった。
  三宅は、計画の実現の為には既成政党の枠を破って同調者を広げることに躊躇
しなかった。医療組合運動は、三宅にとってそれ以前の支持層からより広汎な階
層を含む支持層を拡大する結果となり、それ以後の活動が産業組合活動と密接な
関連をもってなされる端緒となったという点で、彼の政治的方向を決定づけた重
要な運動であった。
 
  前述したように、三宅は昭和七年の総選挙では得票数六、九〇五票で落選した
のに対し,初当選した十一年は一八、〇七八票と大幅に票数を伸ばしている。こ
れについて,山室建徳は、医療組合運動を始め雪害対策などの運動などで運動の
幅を広げた事が、小作農民だけでなく、「中農クラス」にまで支持基盤を拡大し
たとしている。
  三宅の運動の軸足の変化は、落選した昭和七年と初当選を果たした十一年の総
選挙における選挙スローガン比較してみれば明白である。
  七年の選挙では、小作争議を中心とする農民運動指導者としての面が強調され
ており、スローガンの中には、極めて階級的イデオロギーを強調した実現不可能
な理想論的なものも多い。選挙時に一般に配布した「三宅正一立候補宣言」には
「小作料減免、借金据え置き、納税猶予令の発令」と並んで「廃兵戦死家族の国
家永久生活補償」「ファッショ反動の粉砕」「没落資本主義の打倒」などがあげ
られた。
 
  これに対して十一年のスローガンは、より具体的現実的で医療組合の代表とし
ての政策を多く含むものであり、小作農民の利益代表の立場に固執することなく
、中農層、中小自営層までをまきこむ運動方針を掲げている。代表的なものを挙
げれば、「重要産業の国営」「雪害地方救済国策の樹立」「国民年金制の確立」
「国民健康保険制の確立」「無医村の根絶、大衆的医療制度の確立」などで、農
民組合の代表的側面にとどまらず、医療組合運動、産業組合運動のリーダーとし
ての側面が強調されている。この時期彼は、すでに産業組合中央会のもとに作ら
れた医療組合の全国組織である全国医療組合協会(以後全医協と略)幹事、産業
組合全国組合会議構成員の肩書きを有していた。
 
  山室は、そのような三宅の活動で最も注目されるのは医療組合運動であるとし
て、「医療組合運動が、産業組合運動の一環として行われたというところにも窺
われるように、明らかにこれまでの無産政党運動、小作農民運動とは異なった形
態をとっていた」と指摘する。すなわち「この運動は従来の小作農民運動よりも
っと広い階層を対象としていたのである」。更に三宅は選挙のスローガンの一つ
として掲げた「雪害地方救済国策の樹立」にも見られるように「階級的問題と称
しながら地域的利益代表として行動する姿勢をとっていた」としている。もっと
も山室は「地域的利益代表といっても従来の既成政党のそれとは違って、中農、
貧農を対象とした」ところに三宅の特徴を見出している。そして「政党内閣期の
三宅の活動が小作農民運動を中心としていたのに対し、昭和七年総選挙の敗北を
経て、挙国一致内閣期においては、彼の活動は多様化し新潟三区全体に浸透して
いった」と結論づけている。
 
  三宅が産業組合との連携を深めた理由の一つには、選挙事情もある。初めて衆
議院選に立候補した昭和七年には、すでに農民運動はピークを過ぎており、農民
組合員数も漸減しつつあった。従って、小作農民の票数だけでは当選圏内に遠く
及ばないことは明らかであり、当選するには、小作農民一辺倒にこだわらず、中
農層までの支持の拡大は避けられない課題であった。しかしながら、三宅の行動
方針が選挙事情によってのみ変化したとみるのは間違いである。三宅は選挙演説
の中で、『私は過去十余年、貧しい農民諸君のために闘ってきました。そうして
得た貴重な体験を生かしこれからは、労働者、農民、中小商工業者など広く勤労
大衆のために私の全生命を捧げていきたい』と述べているように、あくまでも小
作争議指導を通しての農民運動に原点があり、その上で従来の枠組みを超えて中
農・貧農を含めた幅広い運動を展開したと見るべきであろう。即ち、農民運動と
産業組合運動に共通する「協同主義」に行動の基点を置いたのである。「協同主
義」は、一般的に近衛のブレーン集団であった昭和研究会の三木清などによって
唱えられた「東亜新秩序」建設と日本改造のために提示された資本主義・全体主
義・共産主義を乗
り越えた自由と統制を媒介とする新体制の理念を指す場合が多い。しかしながら
、農村の隣保扶助を内容とするものから、農地あるいは農業の協同化を内容とす
るものまで協同主義という言葉は曖昧模糊としたものである。もともとその基盤
をなすものは、「フェビアン社会主義的協同組合理論」であり、思想的基盤は社
会民主主義であった。ここでいう協同主義を定義付けるならば、自由と平等、個
と全体の統一的調和に重点を置く漸進的社会改造といえよう。
  このように、医療組合運動は、三宅にとって、集票機構的効果を発揮しただけ
でなく、産業組合の政治的代表としての性格を付与するものであった。三宅の産
業組合への傾斜に対しては、「農民組合運動から産業組合運動への転向だ」とい
う表現がなされるなど、農民組合の立場を放棄するものだという批判もあるがそ
れは正鵠を射ていない。三宅は従来の小作農民運動による農民の貧困の脱却から
、より広汎な政治的、社会的地位、社会的利益の獲得のための「社会運動的農民
運動」へと運動の幅を広げたと見るべきである。
 
  三宅の運動の展開は、当時の産業組合の動向と無縁ではない。昭和八年から産
業組合は五ヶ年計画を実施し、事業重点主義から運動主導体制へと方向転換した
。従来の農本主義的な中小農民の権益擁護にとどまらず、資本主義経済体制に取
り込まれた農村経済を計画的統制的方策によって改良しようとする立場を取るに
至ったのである。当時の産業組合は、商工業者、医師会などの反産業組合に対抗
するため、従来の社会経済的活動に加えて政治的進出の姿勢を示しており、産業
組合に理解がある立候補者に対しては、政党の別なく選挙資金の援助を行った。
援助は、政友会、民政党、社会大衆党など各政派に及んだが、社会大衆党に対し
ては、個人だけでなく党に対しても献金が行われた。三宅に対しても当然選挙資
金の援助がなされ、昭和七年の選挙での想像を絶する資金不足は、十一年には貧
乏選挙は相変わらず続いたものも、ある程度緩和されることになった。
 
  当時の産業組合中央会会頭の有馬頼寧は、とりわけ産業組合の政治的進出に熱
心であった。彼は講演の度に「産業組合に理解のある政治家の選挙に狂奔するだ
けではなく産業組合自身が経済のことばかりやるのではなく政治的に進出するの
だ」と述べ、後に農相時代には産業組合の政党化をも目論んだ。
  昭和十一年の総選挙の結果、社会大衆党は十八名の当選者を出し,議会の中で
無視し得ない勢力となると同時に、産業組合との接近を強め、党全体としても産
業組合の利益職能代表としての役割を果たしていくことになる。これまでの産業
組合の研究では、大半が社会経済的な側面に焦点が当てられて、その政治的側面
とりわけ政治運動的側面がなおざりにされてきた嫌いがあるが、産業組合が政治
的活動の場を強め、積極的に社会政策に関与していく過程で、彼らの産業組合運
動における役割も当然のことながら重要度を増していった。


◇◇国民健康保険法案と産業組合


  代議士としての三宅が、産業組合・医療組合の代表として職能的政治行動を顕
著にするのは、国民健康保険法の制定過程である。同法の立案は昭和八年に開始
されたが、国民健康保険法案関連予算要求に反対する大蔵省に対し、全医協(賀
川豊彦会長)のほか産業組合中央会、社会大衆党、全国農民組合、日本労働総同
盟などは猛烈な抗議活動を展開した。ここでも医療組合運動を通しての産業組合
中央会と社大党系団体の接近ぶりが窺われる。
  全医協が国民健康保険の実現に積極的運動を進める中で、法案は昭和十一年林
内閣の第七十回国会に提案され、衆議院を通過したが、いわゆる食い逃げ解散の
ため貴族院で廃案となった。昭和十三年次の国会において近衛内閣のもとで漸く
成立するが、成立過程で、医師会の猛烈な反対と、産業組合の国民健康保険代行
問題で、医師会と産業組合、政府の三つ巴となり、大きな政治問題に発展した。
  成立に危機感を感じた政府は、産業組合側に改めて法律制定の応援を依頼した
。それに応えて産業組合側は、産業組合中央会会頭の有馬、全医協顧問の賀川、
三宅などが中心となって各方面に陳情を行った。ここで注目されるのは、総理大
臣、内務大臣、内務大臣、農林大臣などのほかに陸軍大臣、海軍大臣という軍部
関係大臣を陳情のため訪問していることである。軍部の政治力が増大していたほ
かに、軍部は、国民の「健民健兵」の立場から法案成立に賛成を表明しており、
農村医療に積極的姿勢を示していたのである。それ以前から産業組合と軍部とは
良好な関係にあった。

 前述したように昭和八年、産業組合五ヶ年計画によって、「農本主義的な中小
農民の権益擁護にとどまらず、資本主義経済に取り込まれた農村経済を計画的統
制的方策の導入による改良」に取り組むことになった産業組合と総動員体制に取
り組む軍部との間に、農村問題を主題として協力関係を結ぶ話し合いが持たれて
おり、昭和十一年陸軍が衛生省(十三年厚生省として実現)設置を提唱した際、
全医協は「保健運動上まことに結構」として賛成した。衛生省創設の目的は国民
体位の向上にあったが、その真の目的は、軍部による「健兵健民政策」の要請を
満たすことにあり、衛生行政が長期総力戦体制の一翼を担うことにあった。賛成
の理由は「その指導方針がただ非常時における人的資源の涵養という点のみに視
野を限らず、広くその背後に広がる未開拓地とも云うべき労働、貧困、児童、母
性等々の問題まで関心を払う」というものであり、目的こそ違ったが、内容にお
いて全医協の運動方針と合致するものがあったのである。
 
  第七十回議会において医療組合側の中心として活動したのは、衆議院では三宅
であり、貴族院では有馬であった。この議会においては、政友会、民政党は代行
組合を既設の医療組合のみに限定する趣旨の付則をつけるという意味の修正を行
った。つまり、以後医療組合を新設しても国民健康組合の代行は認めないという
ことである。これに対し社大党は原案支持、修正案反対の立場に立ち、三宅は本
会議や委員会で長時間の論戦を繰り広げた。三宅は、議会で農村から女工として
都会に行き、結核で帰郷しながら医者にかかれず死んでいく悲惨な実情を例に引
きながら、開業医制度の欠陥と無医村問題を取り上げた。

 開業医制度を「病人が減れば食えなくなる,病気がはやらなければ儲からない
制度、積極的に予防医学に貢献して病人が減れば困るというがごとき制度」とき
めつける一方「農民の相互扶助機関である産業組合が、農村更生の一環として医
療組合を組織し、計画的にメディカルセンターとしての中央病院、そのブランチ
としての農村診療所という体系を以ってすれば、始めて無医村問題も解決する」
と述べ、医療制度を開業医制度とともに非営利、協同主義の医療組合制度の二本
柱とするよう主張した。社大党の中には、「この際、開業医制度を撤廃し、公的
医療制度一本でいくべきだ」との論もあったが、政策の実現を第一義とする三宅
はあくまで現実可能な路線として両制度を併設すべきとした。この演説は、三宅
の代表的な演説とされ社会的に大きな反響を呼んだが、これを聴いた軍の医療部
門を代表する小泉親彦医務局長(東条内閣において厚生大臣)は感激し、後に設
立された日本医療団に三宅の理事就任を懇請する契機となった。

 こうした中で、農村関係代議士は党派を越えた職能的動きを見せる.彼らは、
各党派を網羅した議員により六十人を越える人数をもって「農村振興議員連盟」
を立ち上げ、国民健康保険法案は「協同組合を核心に置く」旨の申し合わせを行
い、原案支持の立場から職能的結束を示した。発起人の一人である吉植庄亮(政
友会)によれば「これは一つの政党政派を超越した、真に農村を憂い、国家を憂
うる議員だけで、農村挺身隊を作り政界の中央突破を試みんとするもの」で社会
大衆党からは三宅や杉山元冶郎らが参加し中心的役割を果たした。同連盟は後に
「農村議員同盟」に改組され、当時の新聞に「産業組合の外郭団体の観あり、有
馬頼寧、千石興太郎、石黒忠篤らの領導により産業組合を中心として政治活動を
しつつあり」と評されたように産業組合との密接度を深めた。彼らに対し同年四
月の第二十回総選挙には、有馬は再び選挙資金の援助を行っている。

 昭和十二年、第一次近衛内閣が成立、有馬が農林大臣に就任するとともに情勢
は有利に展開し、翌十三年、国民健康保険法は第七十三回通常議会で、国民総動
員法、電力国家管理法などの重要国策とともに成立した。産業組合や農村関係代
議士の主張が、医師会や政党幹部の意向を抑えた形となったのであるが、成立に
は当時の社会状況が影響した。十二年七月に勃発した盧溝橋事件を契機として日
中戦争は本格化する様相を呈してきたが、このことは国家総動員体制の確立を促
進させ、国防力の充実強化が時局の要請となった。その一環として国民の体力向
上という役割が国民健康保険に求められ、国策を農村重視の方向にスライドさせ
たことが国民健康保険法成立の結果につながったといえる。国民健康保険法案は
、元来農村救済のための社会立法として計画されたものであったが、同法の内容
について『内務厚生時報』が「今や国家非常時局に際して、この難局を打開して
躍進日本の輝かしい未来の基礎をうち建てるものは、不撓不屈の如く強き国民の
精神と身体であることを想う時、国民の健康を庶幾することまことに切なるもの
がある」と述べているように、戦時立法であることを強調している。銃後農村の
安定と健民健兵の
育成が国家的要求となっていったのである。

 国民健康保険制度の形成過程に果たした医療組合の歴史的な役割としては、次
の点があげられる。
  従来の研究においては、戦時体制下の国民健康保険をその機能面に注目して人
的資源としての国民体力の強化を推進する「健民健兵」政策であることが強調さ
れた。即ち、国民健康保険の成立を単に戦時体制を背景とした「上から」の制度
として位置づけ、医療組合運動は国保法制定の一背景に過ぎないとするものが多
かった。これらは、国民健康保険法成立に果たした医療組合運動の役割、いわば
「下から」の推進役割を矮小化するものである。

 医療組合運動の原点は昭和恐慌期にさかのぼる。恐慌の影響を最も深刻に受け
た農村は極度に疲弊し、貧困問題が深刻化していった。小作争議が激化し、弾圧
が強化される中で、衛生環境、住環境の劣悪化は疾病を一層増大させ、病気にな
っても医者に見てもらえない者が増大した。開業医が常住していない、あるいは
常住していても窮乏と地形や交通の不便さにより一部の住民しか医療を享受出来
ない市町村を含む「無医村」と「結核予防」は、昭和恐慌期以来の最も深刻な問
題であった。こうした農村の医療窮乏に対処するための手段として、「自衛運動
」として医療機関を独自に確保しようとする自主的な動きが生じたが、その運動
の取り組みの一つとして医療組合運動があった。そうした動きは医療機関の経済
的・地理的偏在の解消を目指す「医療の社会化」を求めた民衆の「下から」の主
体的運動であった。無医村問題に象徴される農村の医療問題の顕在化は、地方に
おける医療要求運動の出発点でもあった。やがて、三宅などの運動推進者が政治
的進出を果たし政治的影響力を強めるに連れて、医療組合運動が無医村解消や国
民健康保険法制定の「下から」の重要な動きとなるのである。
  このように、医療組合を国民健康保険法制定の「下から」の動きとして評価す
れば、昭和恐慌時に同法の制定の基盤が既に存在したということが出来る。国民
健康保険法制定を促したものは総力戦体制であったことは事実だが、それは農民
の医療に対する要求、つまり医療組合運動に呼応したものでもあった。戦時体制
の過程の中で支配体制、とりわけ兵力資源を農村に依存していた軍部は、戦時動
員のために「下から」の動きを取り込まざるをえなかった。即ち、「上から」と
「下から」の双方の「医療の社会化」が進行したのである。

 政府が国民健康保険法制定に踏み切ったもう一つの理由は、総力戦遂行のため
の階級対立の緩和、解消にあった。国保組合設立には一定の加入率を確保するこ
とが必要であったことから、村内では地主対小作の階級対立関係の解消、挙村一
致体制の構築が前提とされ、階級対立の緩和、解消の有力な手段として利用され
たのである。事実、村内に対立、対抗が存在する地域では国民健康保険の普及が
遅れたことが立証されている。

 戦時中の国民健康保険普及の影響についてはさまざまな証言がある。国民健康
保険が、戦時体制を背景にして「上から」の「健兵健民」政策として制定が促さ
れたことから、このことが国民健康保険の機能であるとするものがある。また、
階級的統合を目的としたことが強調され、それが総動員体制の基礎になったとす
るものもある。確かに、国民健康保険が多くの無医村に対して医療を供給すると
いう一定の役割を果たしながらも同時にそれまで自主的に展開していた医療体制
を一つの方向に統一したことは否定出来ない。しかし、これらの論には、医療組
合などを通しての農民の切実な医療要求に応じた面が多かったという戦時社会政
策のもう一つの面が見逃されている。また国民健康保険制度の果たした具体的な
中味の機能が評価されておらず,近代的な社会制度としての国民健康保険制度導
入の意義が充分に検討されていない。従って、国民健康保険成立のために行動し
たとりわけ「下から」の活動を推進した運動者の評価は必ずしも正当になされて
いるとはいえない。  (続く)

               (筆者は立教大学大学院博士課程在学)

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