■ 「九条」と私たち

~今、何をどうすればよいのか?-憲法学者の「護憲論」批判的視点から~

                              松村 比奈子
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  安倍元首相が2006年に憲法改正を政権の公約に掲げて当選してから、憲法改正
に対するいわゆる護憲・革新派の危機感は一気に増したように思われる。ただし
安倍内閣は2007年9月に突如解散し、代わって登場した福田内閣では憲法改正は
特段、公約としては語られていない。そのせいか、今年5月3日の憲法記念日に各
地で行われた改憲・保守派の憲法集会は、今ひとつ盛り上がりに欠けていたと感
じる向きがある。

http://www.japancm.com/sekitei/hanaoka/index.html

また、改憲論をリードしてきたとされる読売新聞が3月に行った世論調査では、
改正賛成派が42.5%、反対派が43.1%と、反対派が上回った。これは、しんぶん
赤旗によれば、1981年から読売新聞が実施してきた「憲法世論調査」において、
15年ぶりの逆転である。しんぶん赤旗では、それは草の根の運動の力であるとし
ている。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080408-OYT1T00041.htm
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-09/2008040901_03_0.html

 それでは、憲法改悪の「危機」は去ったのか?草の根の運動を続けていけば、
ますます日本は改憲・保守勢力が後退していくのだろうか。とてもそうは思えな
いのが、大方の人々の感覚だろう。では、それは何故なのか?憲法改悪を防ぐ有
効な手立てはないのだろうか?
日本国憲法が制定されてから、すでに61年が経過した。今まで九条は有効に機能
してきたのだろうか、また今後も機能し続けるのだろうか? その疑問を今後に
生かすため、まず私なりに現在の護憲派危機感の理由を以下に考えてみた。
  その1.保守派が未だに政権を担い、虎視眈々とその機会を狙っている。その
2.平和ボケした日本人の多くは、そうした政権担当者たちの思惑に気付いてい
ない。で、そうだとしたら、これらの事態の原因はどこにあり、これらの事態の
結果は誰の責任なのだろうか。


◇危機その1.保守派が未だに政権を担い、虎視眈々とその機会を担ってる?


 実は、私は政治にあまり詳しくない。もちろん、政府や国会の動向は毎日、新
聞やTVやネットの掲示板・ブログにいたるまで、これでもかというくらいに報道
し解説してくれるので、その気があろうとなかろうとそれらに関する様々な情報
は自動的に私の下に流れ込んでくる。
だがそれらはあくまでもオモテの話である。個々の出来事はいわば政治という庭
に咲いた花であって、どれが実を結ぶのか結ばないのか、あるいはそれは単なる
一年草なのか多年草なのか、そもそもそのタネは誰がまいたものなのか、という
ウラの事情になるといま一つよく分からない。とはいえ、まあこのテの話になる
と永田町の事情通の記者や評論家が結構いるもので、それなりに情報発信してい
るから、興味のある方々はそれを参考に議論されるのも良いだろう。
しかしそれらをざっと眺め渡しても、まだ腑に落ちないものがある。それは、憲
法改悪という問題に限っても、そもそも俎上にある日本国憲法の内容やその現実
の運用における看過できないほどの大きな矛盾が、大抵の人々にとっては眼中に
ない、ということだ。
民主主義社会において、言論の対立は必然である。むしろ、複数の意見の存在が
許されない社会は民主主義社会ではない。日本は国民主権を標榜し、間接民主制
を憲法前文で謳っているのであるから、保守派が改憲を求めて政治活動を行うの
は当たり前であり、民主主義社会の健全さを考えるならその存在はむしろ好まし
いと言わねばならない。それでこそ護憲の意義も生きる。
だが、これは大変に重要なことだが、そもそも「憲法改正」は国民の権利なので
ある。これを否定しては、護憲も改憲もあったものではない。
しかるに、日本社会はこの権利に対してどのような保障を与えてきたのか?明白
である。かの安倍政権はいろいろな批判を受けてきたが、少なくとも憲法学的に
意味のあることをした。いわゆる国民投票法※を作ったからである。その内容の
是非は別にして、このことは重大な意味を持つと私は考える。つまり、戦後60年
もの間、日本において憲法改正は具体的な権利でさえなかったという事実である
。トーマス・ホッブズの著「リヴァイアサン」が指摘し、世界中がその抑制に凄
惨な歴史を重ねてきた国家権力への、最後にして最大の鎖であるべき憲法が、実
は我々の手の届かないところにあり、絵に描いた餅でしかなかったのである。

※ 正式には日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年5月18日法律第51号)
 
  しかも、絵に描いた餅でしかなかった憲法を問題視するどころか、その維持に
躍起になっている野党さえある。国民投票法の成立については、たとえば社会民
主党の『参議院憲法調査特別委員会における「改憲手続法案」採決強行に抗議す
る(談話)』によれば、「憲法改悪の道へひきずりこむ改憲手続法案は絶対に廃
案にすべきである。社民党は、広範な市民との連携を強め、日本国憲法を守るた
めに全力を挙げる」とある。つまり、改憲派から憲法を守るためには、国民投票
法を作らず、日本国憲法の改正権を国民に行使させるべきではないということに
なるのだろうか?

http://www5.sdp.or.jp/central/timebeing07/danwa0511.html

 仮に社会民主党のいうように、憲法改悪阻止には立法の不作為しかないとした
ら、それは国会の権能の否定であり、国民主権の否定である。そしてまた、今ま
で護憲派が優位であった理由も、草の根の運動や改憲派の些少ではなく、この国
には憲法改正権がなかったという、信じられないような非民主的な現実に支えら
れてきたということになる。護憲派は、これに目をつぶっていて良いのだろうか
? そんな方法でしか、憲法の精神は守れないというのなら、私にはこれは護憲
派の怠慢以外の何ものでもないと感じられる。
また知人のある憲法学者は、国民投票法は一部を除き公布から3年後の2010年5月
18日まで施行されないのであるから、憲法改正の権利が3年間「行使できない」
ことが定められた、として憲法違反ではないかとさえ言っている。しかし立法に
よって権利を具体化する手続において、公布と施行の間は最低20日を要するもの
であるから、期間の長短を除けば、本質的に問題があるとは思えない。やはり、
国民投票法が存在しなかったという法的事実の、問題は重い。
見方を変えれば、憲法制定61年目にしてようやく国民は憲法改正を具体的に語れ
るようになった。その時、護憲派が危機感を感じるとすれば、改憲派の存在など
ではなく、もっと別の理由でなければならない。


◇危機その2.平和ボケした日本人の多くは、そうした政権担当者たちの思惑
に気付いていない?


すでにその1の論説において、どのような改憲の思惑があろうとも、日本が民主
主義国家である以上、改憲を語る権利があり、政治活動の自由があることは述べ
た。そして彼らの言説を受け入れ、政治に反映させるようとする人々の存在もま
た否定してはならない。もし日本人の多くが、改憲論者の思惑に気がついていな
いというなら、それを語る者が少ないか、あるいはその言説が人々を納得させら
れないということになろう。民主主義とは、つまるところ、言論において闘うこ
とを意味する。民主主義を守るつもりなら、民主主義の土俵で闘うしかない。今
や国民投票法によって、ようやく改憲派と護憲派は同じ土俵に立った。ここで日
本人の多くが改憲になびくなら、それは護憲派の力不足である。護憲派は、今ま
で図らずも国家権力によって改憲派から保護されてきた。しかしこれまでのとこ
ろ、その恩恵を利用して何か有益な点を稼いできたのだろうか?
そこで気になるのが、草の根の運動である。最近、「日本の青空」上映会が各地
で開催されている。憲法学者鈴木安蔵の民間憲法草案とGHQ案の近似を題材にし
た映画であることは、知っている人は知っていると思う。私は(恥ずかしながら
)安蔵のことは最近知ったし、その史実を否定するつもりもないが、だからこそ
私は絶望的になる。なぜ日本では、このような民主主義憲法が正当な手続を経て
作られないのだろうか、と。
ご存じの通り、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正手続によって生まれた改正憲
法である。しかも欽定憲法が、改正手続で民定憲法になり得るのか、という根本
的な問題が残されている。憲法制定権力は主権者の特権であり、日本はポツダム
宣言の受諾により主権者の交代が強制的に行われているのであるから、大日本帝
国憲法と日本国憲法との間に法的連続性を持たせることは非論理的である。その
ため八月革命説という、バーチャルリアリティを地でいく学説が誕生した。今日
においては一応多数説と呼ばれている。
だが、これが日本国憲法の現実である。ありもしない事態を想定しなければ憲法
制定の正当性が語れないという現実に、どのくらいの人々が気づいているのだろ
うか?そしてそのような詐欺的態度を続けることが護憲なのだとしたら、日本人
の多くはむしろその欺瞞を見抜いた上で改憲に走ろうとしているのではないだろ
うか?
更にいえば、改憲の是非は九条だけの問題ではない。現行憲法には、当然のこと
ながら環境権やプライバシー権などいわゆる戦後の新しい人権が盛り込まれてい
ない。九条を変えないためだけに、それらの明記の必要性を無視しても良いのだ
ろうか? だとすれば、それは護憲派のひとりよがりな論理であるとの批判を免
れないのではなかろうか。


◇なぜ「九条」に賛同するのか?


  さて、本題の「九条」について考えてみよう。憲法第九条といえば、私の子ど
も時代は小学生の頃から暗記させられた、ある種の呪文だった。九条解釈の詳細
は、紙面の関係もありここでは割愛する。だがそれはやはり呪文でしかないので
はないかと、最近、改めて思う。
  なぜなら、多くの護憲派の主張の根底に感じるのは、常に「戦争は悲惨だから
…」反対するという論調である。要するに「アタシ、戦争ってイヤだからやるべ
きじゃないと思うのよね~」である。この理屈が黙認されるなら、次はこう返さ
れる。「なんで人を殺しちゃいけないの?」あなたはこの疑問にビシッと答えら
れるだろうか?できなければ、護憲派の理論の危うさに気がついていないことに
なる。
  では先に、「なんで人を殺しちゃいけないの?」から考えてみよう。民主主義
社会において、自由とは何を意味するか。特にそれは「何からの」自由なのか、
を。
  既にホッブズの「リヴァイアサン」を紹介しているので見当はつくと思うが、
民主主義社会における自由とは「国家からの自由」が基本※2である。国家権力
という怪物からいかに人々を守るかというのが、近代民主主義のテーマであった
。ホッブズは「万人の万人に対する闘争状態=人が人を殺す」から説き起こして
、国家の成立を社会契約としてあげている。つまり、我々は自由を享受するため
に契約して国家を作り、殺人を捨てたのである。ただし殺人という暴力は、個人
から国家へ管理が移行した。すなわち警察や軍隊という装置によって温存された
のである。そして問題は、この暴力装置ともども、国家権力という怪物をどうコ
ントロールしていくのかに焦点が移ったわけである。

※2これは自由権の定義であるが、その他にも「国家による自由」(社会権)や「
国家への自由」(参政権)など、人権の定義の基本は国家と個人の関係性を「自由
」として表現する特徴がある。

 このように考えれば、戦争放棄の是非を個人の好き嫌いで説く愚にも気付いて
いただけることと思う。日本人は、基本的に争いごとを好まない。それはいみじ
くも聖徳太子が17条憲法に記したように、「和」の信仰からきている。和という
のは、大事な物事は皆の話し合いで決め、不満や争いを避けるべきという考え方
である。従って日本人は対立が嫌いで競争も好まない。波風が立つことを恐れる
あまり、表現の自由すら認めない。戦争が「悲惨だから」嫌というのは、対立や
軋轢をさける日本人の信条にはマッチするかもしれないが、反戦呪文を唱えれば
、日本や世界に平和が訪れると考えるのは非常識である。
  さらに九条を守りたいと強く願う人々に伺いたい。あなた方は九条のおかげで
戦争によって他国の人々を殺さないことを誇りに思うかも知れない。だがその同
じ憲法において、自国の人々を合法的に殺す制度を認めているのは疑問に思わな
いのだろうか? すなわち死刑制度の存在である。
  戦争とは、ある意味では国家が「害悪である」と認めた国の人々を合法的に殺
す制度である。自国の人々さえ合法的に殺せる国が、他国の人々を合法的に殺せ
ないということがあり得るだろうか?人間の尊厳とは、たとえどのような存在で
あれ、それを合法的に抹殺することはできないという前提に立たなければ、成り
立たない。それゆえ日本国憲法の戦争放棄の理念は、一方で政府に自国民の処刑
を平然と認めている点で、多くの人々を納得させることができないのではないか
と感じるのである。


◇今、私たちがしなければならないことは何か?


  民主主義は、人間の自然でも本能でもない。大人になれば誰もが自然と民主主
義を実行できるというような、万物普遍の法則でもない。近代市民社会が、血み
どろの闘いの中から勝ち取った、一つの理念である。憲法がありながら、民主主
義のない国も世界にはたくさん存在する。それは、憲法第九七条においても記さ
れている※3。このことを肝に銘じるなら、今後、私たちのしなければならない
ことは、自ずと明らかになるのではないだろうか。少なくとも、九条を守ること
=民主主義を守ることについて、近道もなければ即効性のある方策もない。
  民主主義の心臓部は、人権である。人権の対極にあるのは特権だ。つまり、特
権社会を否定したところから民主主義は始まる。今、私たちの社会は人権社会だ
ろうか、それとも特権社会だろうか? 社保庁のずさんな年金管理、防衛省・文
科省の収賄疑惑、これら官僚の暴走に対して国会は有効に機能しているだろうか
? 裁判所は、自衛隊官舎のビラまき罰金判決に対して国民の自由を守る憲法の
番人として機能しただろうか?
  民主主義への道のりは遠い。しかし、今ある現実を見据え、そこから手をつけ
ていかなければ、憲法を守るなどとうていできまいと感じるのである。日本国憲
法の制定は、いうなれば一つの偶然であった。だがそれは、さほど恥ずべきこと
ではない。どの国も完璧な憲法など持ってはいない。困難に突き当たり、修正し
ながら今日に及んでいるのである。
偶然の産物を必然に変えるために私たちがやらなければならないことは、難しい
ことではないかも知れないが、勇気が要る。それは、「戦地に行きたくなければ
、戦地に行け」ということである。前者の「戦地」はまさしく武力行使の戦場、
後者の「戦地」は言論コロシアムである。現代の民主主義社会は、暴力で他人を
殺すことを禁じたが、その代わりに言論による決闘を認めた。憲法において、「
議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない※4」とあ
るのは、まさに争いごとは武力でなく言論でしろといっているに等しい。つまり
、あらゆる言論の場を利用して、(1)特権をことごとく否定し、個人の尊重に格
差をつける制度や言説を論破し、(2)人権とは何かを考える場を人々に提供する
こと、である。残念ながら、当代の政治家たちやメディアの暴走によって言論は
あまりにも薄っぺらないかがわしいものに転落してしまったが、それでも言論に
よる闘いのみが護憲派に許された戦争である。言論によって日本国憲法の数々の
矛盾を明らかにし、考えることの大切さを訴えるべきである。その上で、私たち
はまだ軍隊がなければ人権保障ができないかどうかを、人々に問うてみよう。し
かしそれもまた「和
」の信仰ゆえに放棄するのなら、憲法が守るべき民主主義はどこにも存在しない

  ただし勇気というのは誰もが持っているわけではない。私は現在、大学で非常
勤講師として教えているが、高等教育機関である大学においても教員間の特権に
よる横暴が日常的にまかり通っている。この矛盾を主張すれば、来年の仕事は取
り上げられるかも知れない。その恐怖が時として口をつぐませる。また報道メデ
ィアは、学識経験者として非常勤講師を表舞台に出すことはほぼない。学位があ
り、真摯に研究していても、正規の教員でなければまともに扱われることがない
のである。この事実一つをとってみても、どれだけ特権社会の実態を拾い上げて
問題視できるかが、護憲派の今後の発展にかかっているように思う。
       (筆者は東京理科大学講師)

※3 第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年に
わたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ
、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された
ものである。

※4 第五十一条 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について
、院外で責任を問はれない。


○松村比奈子のプロフィール

1962年生まれ。
専門は憲法学(現在はセクシュアルマイノリティの人権研究)。
駒澤大学大学院公法学研究科後期博士課程修了。
文学修士・法学修士・博士(法学)。
東京理科大学他非常勤講師。
「家族とともに暮らすGIDの会(TFN)」顧問。
「同性パートナーの法的保障を考える有志ネットワーク」発起人。
「首都圏大学非常勤講師組合」委員長。
著書に『政教分離原則の適用基準に関する研究』(成文堂)他。


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