■ 農落穂拾記(6)                   羽原 清雅

~ついえた「鳥取英和女学校」の背景~

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 「鳥取県内に女子中等教育の道を開いたのは、鳥取英和女学校である」(「鳥
取県教育史」)と書かれているプロテスタント系の『鳥取英和女学校』は、明治
20(1887)年9月に開校され、明治35(1902)年6月に閉校になっ
ている。このミッションスクールはなぜ、わずか15年間のいのちで燃え尽きた
のだろうか。

 この問題に興味を持って先年、この学校のあった鳥取市に出かけてみた。想像
しなかったことでもなかったが、海外から持ち込まれ、いわば異文化でもあった
キリスト教の学校が立ち向かわざるを得なかった当時の社会の「壁」は相当に厚
かった。

 じつは、この学校の校長は井伊松蔵(1863-1938)で、その長男井伊
玄太郎(1901-98・早稲田大学、桜美林大学教授)は、筆者の大学時代の
恩師である。そのゼミにいたころ、「父は牧師で、女子教育の学校を開いたが、
うまくいかなかった」という話を聞いたことがあり、かすかながらにその沿革を
知りたい気持ちが残っていたことがきっかけだった。

 文明社会学などを考究する井伊玄太郎はかねて、スタール夫人の『フランス革
命文明論』を訳すなど女性の特性を高く評価し、地位の向上を説くフェミニスト
であり、また長くラスキンの研究を重ねるなど美の世界や平和を求めるロマンチ
ストであり、世俗的風潮に逆らう教育者でもあった。このユニークな人物像は、
その多数の著述をもとにいつか取り上げたいと思っているが、ここでは触れな
い。ただ、恩師の思想形成の原点には、牧師であり、女子教育に携わった父親の
体験が大きく受け継がれた、とあらためて感じている。

 鳥取市に生まれた井伊松蔵は明治19(1886)年、23歳のときに洗礼を
受けている。鳥取での初伝道は明治12(1879)年といわれているので、入
信の時期は早いほうだった。その後独立した鳥取教会(日本基督教団)で伝道師
を務め、ついで牧師(1899年・鳥取教会第4代)になっている。
 
  学校づくりは、神戸女学院の前身「神戸ホーム」を設立したアメリカ人のイラ
イザ・タルカット女史(校主)らのリードによって始まったようだ。井伊松蔵は
その教師、幹事としてかかわり、のちに校長になる。当時の県内の女子就学率は
男子の3分の1程度で、女子に教育の必要なし、という風潮が強かった。

 教育ばかりか、女性は父・夫・子の「三従」が美徳とされている時代だった。
だが、この学校は、欧米風に「智徳兼備の女子を養成」「男女は車の両輪」とし
て、教科も英語、物理、化学、歴史、家事、習字、作文など、普通教育を目指し
ていた。学校の概要は、満12歳以上、授業料は高額の月30銭、定員は50
人、修学期間は4年、授業は週20時間以上。創立の理念は高いものであった
が、生徒は平均すると年にわずか36人、教員は同志社女学校卒業生を中心に平
均で6、7人だったから、海外からの援助はあったものの、経済的にはきわめて
苦しかった。

 ところで、布教伝道のためのミッション系女学校の設立は、すでに明治維新以
前から始まっていた。明治学院、フェリス女学院の前身で、大村益次郎、高橋是
清らが学んだヘボン(ヘップバーン)塾は元治1(1863)年と早く、その後
前身となっていた私塾的学校も含めると女子学院(明治3年、東京女子大)、横
浜共立学園(同4年)、梅光学院(同5年)、神戸女学院(同6年)、立教学院
<系列の立教女学院としては明治10年>、青山学院(同7年)、平安女学院
(同8年)、同志社女学校<同志社としては同8年>(同9年)などがある。
  その後も、相次いでキリスト教系の女子校が発足、日本の女子教育の一端を
担ってきた。

 キリスト教の邪教扱いは、キリシタン禁制の高札(明治元年)、大浦の隠れキ
リシタン弾圧(同年)、神道の国教化(同3年)と続き、キリシタンを受け入れ
ることになったのは明治6年2月であったから、キリスト教の学校設立がいかに
大変だったかがわかる。

 それでも、キリスト教女学校の日本の女性教育への影響はきわめて大きかった
ことはまちがいない。明治27(1894)年までに創立された公立女学校とキ
リスト教女学校との校数を比較すると14校と52校、明治31(1898)年
当時では官公立高等女学校(または女学校)とキリスト教女学校との数は25校
対65校で官公立の2.6倍だったという(「神戸女学院百年史」)。もしミッ
ション系スクールが日本の近代化にかかわっていなかったら、女性の意識改革や
地位の向上は相当に遅れていたに違いない。

 話を少し戻すことになるが、日本の近代化の柱は殖産興業、富国強兵ととも
に、教育立国だった。この日本開明期の教育は、キリスト教排除の風潮は残って
いたが、欧米の影響を強く受けて、教育に男女平等の道を開くかたちで始まって
いた。これは、欧米を旅してお雇い外国人受け入れに力を入れたとされる黒田清
隆、維新前に英米に留学してキリスト教にも関心のあった森有礼らの存在が大き
かったのだろうか。もちろん、こうした教育は一般庶民を対象にしたものではな
く、富裕な上流家庭向けの動きではあったのだが。

 それは、明治4(1871)年11月の出発から同6(73)年9月の帰国ま
での岩倉具視の率いる米欧使節団に、きわめて若い5人の女子留学生を随行させ
たことにも示されている。上田貞(16歳)、吉松亮(15歳)、山川<大山>
捨松(12歳)、永井<瓜生>繁(9歳)、津田梅子(8歳)である。このう
ち、吉松は女子英学教授所(設立翌年に彼女はコレラで没したという)を、また
津田は華族女学校教授を経て女子英学塾(のち津田塾大学)をそれぞれ設立、永
井は東京女子高等師範学校教授となり、山川も津田の英学塾顧問となるなど、女
子教育の普及に貢献している。

 さらに、明治5年の学制改革は「邑(村)に不学の戸なく 家に不学の人なか
らしめん」とうたい、また「幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめさるも
のは其父兄の越事(あやまち)たるへき事」として男女の差別を排している。ま
た、明治7年に官営の東京女子師範学校(現お茶の水大学)が設立されたのも、
女子教育を重視した表れだろう。

 だがその後、男女別学など男女間に格差をつけ、妻・母親の役割を仕付けよう
という旧来の教育思想が巻き返してくる。明治12(1879)年の文部省教育
令では、小学校以外の教室での共学を禁じた。男女の交際、結婚の自由など欧化
主義が広がることへの反発だった。女性は従順で貞淑、家事や育児こそ最大の使
命、良妻にして賢母、男は外を治め女は家庭で、など・・・・儒教的な貝原益軒
の「女大学」への復帰、「大和撫子」の育成に向かうのだった。

 教科も、女子の初等教育では次第に読書、算術、手習い、裁縫などの実用方面
に向かい、中等教育でも裁縫、育児法、家庭教育など家政系が重視されるように
なる。そうした復古的教育への推進役の学校として明治20年代には、日本女学
校(のち帝国女子専門学校,現相模女子大学)、三輪田学園などが設立されている。

 この傾向は、明治27、8(1894、5)年の日清戦争、同37、
8(1904、5)年の日露戦争での日本の勝利に追い風を受けている。列強の
仲間入りが進むことにより、強い日本への自信や誇りが強調され、その機運が高
まっていったのだ。これは逆に言えば、キリスト教的教育へのリアクションを意
味した。さらに、その後の日本が次第に軍事大国の道を進んで、戦争のための国
民教育が徹底するに従って、ミッション系の環境は厳しくなっていった。

 脇道にそれるのだが、宗教上の苦難ばかりではなく、麻布鳥居坂にある東洋英
和女学校では、殺人事件に見舞われている。開校7年の明治23(1890)年
4月5日の夜のこと、校長のケージ夫妻が2人組の強盗に襲われ、惨殺されたの
だ。犯人は物取りで、時効になった大正年間になって自首してきたという(篠田
鑛造「幕末明治 女百話」)。

 話を鳥取英和女学校に戻そう。当時の鳥取は大阪、神戸から遠く、交通も不便
な土地であり、明治20年という学校の設立も全国に比べると決して早いほうで
はなかった。鳥取市は山陰地方の拠点都市であり、女性教師の育成のための女子
師範学校は明治11(1878)年、その4年前にトップを切った東京女子師範
についで全国10番目の設立ではあった。

 ところが、明治13年春に、第1回卒業生18人を送り出したものの、翌年に
は島根と鳥取の両県が分離独立した際に、鳥取女子師範は廃校となってしまう。
その後も男子の師範学校の女子部門に組み込まれるなど、その扱いは恵まれたも
のではなかった(篠村昭二「鳥取教育百年史余話 上」)。女性の先生作りがそ
んな具合であったから、女子教育の体制の整備自体も遅かった。

 そのようななかで明治20年に設立された、タルカット女史や井伊松蔵らの鳥
取英和女学校は、鳥取県では最初の女子教育の場であった。先に触れたように、
それは全国のミッション系の女子学校がそうであったように、男女同権・智徳兼
備・全人教育型の教育内容だった。

 ただ、理念は高いものの、その経営は苦しかった。5円の給料が3ヵ月ももら
えなかった、という先生もいたし、足りない教師分の仕事が残った一人ひとりの
負担としてのしかかってきた。当時の米国人宣教師で同校教師が残した手紙には
「井伊氏は俸給を受け取ることなく、少女達の運ぶお米で生活し、自分自身の身
も心も学校に捧げていた」と書かれていた、という(「鳥取教会百年史」)。長
男玄太郎のもとに残されていた松蔵に対する弔辞には、授業の合間に畑に出て野
菜や花を作り、鶏やあひるを飼って自給していた、と書かれていた(「山陰評
論」1967年6月号)。

 加えて、開校の翌年、キリスト教会の学校設立に遅れをとったことが刺戟に
なって、地元有力者の細君らによる鳥取婦人会が結成され、その音頭とりで『鳥
取女学校』(現県立鳥取西高校)が発足する。開校式での婦人会長はその挨拶で
「優良なる女子に非らざれば賢良たる慈母たるを得ず。本校は優良にして有為な
る婦女を養成するを目的とせる・・・」と述べている。明らかに英和女学校をラ
イバル視し、欧化主義に傾斜した路線の修正を目指して良妻賢母の育成を目的と
していたことがわかる。そして社会の風潮は、新しい学校に女学生を向かわせる
方向が強まって、英和学校を一層追い詰めることになる。

 英和女学校設立の明治20年代には、すでにキリスト教的な欧化主義への反
発、つまり復古的な日本優越型の国家主義が強まろうとしていた。つまり、天皇
を神聖化して絶対的統治権を委ねた大日本帝国憲法の発布(明治22年)、つい
で天皇の忠誠なる赤子・臣民を育成するための教育勅語(同23年)ができて、
これがキリスト教的学校への逆風になろうとしていた。

 鳥取県でも、時の県知事は鳥取英和女学校について「此校たるや宗教に誘導す
るの傾きありて、他の学校とは其趣旨を異にするを以て、或は国家主義に悖る虞
あるにより、常に深く注意せり」(明治25・1892年、知事引継書)と述べ
ている。井伊松蔵もこのような風潮に抗して、宗教と教育とは別物であり、「此
ノ英和女学校ハ・・・平民的自由主義ヲ執テ以テ教育界ニ突進シタルナリ」
(「教育新報」第3号、明治24年1月2日号)などと寄稿しているが、奏効す
ることはなかった。

 後発の鳥取女学校は明治34(1901)年、鳥取市立を経て県立に移管され
るが、その翌35年、女生徒がそちらに集中したこともあって、英和女学校は成
り立たなくなり、閉鎖・廃校となった。上級生らは京都に受け継がれ、下級生は
公立校に移った。失意の井伊松蔵は同36(1903)年秋、鳥取教会の牧師を
辞して、県境に近い兵庫県の西但教会に行き、さらに宮崎県日向市の細島教会
(現日向新生教会)、京都の舞鶴、宮津方面の教会に流れていく。

 長男の玄太郎は宮津中学校を卒業するのだが、大正のはじめ、宮津での農村伝
道のころ、コメや食べ物の毎月の支払いに困り、そのことで両親が始終争ってい
た、と10歳ほどだった玄太郎はその思い出を書いている(「山陰評論」
1968年5月号)。早稲田大学に進むのはその後、父親の上京に伴う大正
10(1921)年ころであった。

 恩師は、このような経過をたどったことについて「英和女学校が廃止されるに
至った決定的理由は日露戦争にあったと結論されざるをえない」(「山陰評論」
1968年11月号)と書く。要約すれば、近代の戦争は、ロシアにしても中世
の自給自足的農業国家とは異なり、産業的国家として世界市場の進出を争い、ま
たキリスト者も戦争には反対しても戦争の廃止までには至らず、むしろ異端者を
キリスト教化するために征服するという立場で戦争を擁護する。

 さらに、日本も慢性的な不景気のなかで、戦争には勝ったが、世界市場の争奪
戦に足を踏み入れ、自らを破滅に導いた。「日露の戦争は日本のその明暗の危機
に当たっていたが、・・・鳥取英和女学校はその危機をのりこえることができ
ず、静かに山陰の山かげで消えていった」と記している。

 ちなみに、井伊松蔵の妻、つまり筆者の恩師である玄太郎の実母米子はこの鳥
取英和女学校(4回生か)に学んだあと同志社女学校に進んでいる。また米子の
長兄、つまり玄太郎の伯父西尾幸太郎は組合教会の牧師だった。キリスト教に理
解ある一族だったのだ。脇道に入れば、幸太郎、米子の弟にはのちの陸軍大将西
尾寿造(近衛師団長、教育総監)がいた。

 最後となったが、鳥取英和女学校は15年間で命運尽きたが、鳥取教会の関連
ではその後、明治36(1903)年に現『愛真幼稚園』(当初PLAY 
SCHOOL、ついで鳥取幼稚園)を、同39(1906)年には英和女学校跡
に尾崎信太郎による現『鳥取こども学園』(当初鳥取孤児院)などを設立、1世
紀を超えて運営し、地元に大きく貢献している。幼稚園や育児院などは、社会的
な「壁」が概して薄かったのだろうか。
ともあれ、英和女学校の志だけは時代の風波に耐え抜いたといえるだろう。(敬
称略)

          (筆者は帝京平成大学客員教授・元朝日新聞政治部長)

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