■宗教・民族から見た同時代世界             荒木 重雄 

   ~オサマ・ビンラディンはなぜパキスタンで殺害されたのか~
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  2001年の米同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディン容疑者が、5
月、パキスタンの首都イスラマバード郊外の隠れ家で殺害された。
  深夜、ヘリで飛来した米海軍特殊部隊の二十余人が、側近から銃声一発の反撃
を受けただけで邸内を制圧し、側近二人とその家族、同容疑者の息子らを射殺し、
寝室にいた丸腰のビンラディン容疑者を妻や娘の眼前で射殺した。

 遺体は即刻、北アラビア海に待機する米空母の甲板に運ばれ、「水葬」と称し
て海に沈められた。遺体写真の公表もない。拘束し裁判にかけることを意図的に
避けたようなこの作戦じたい、国連関係者が批判するように国際法違反の疑いが
強いが、「最後の審判」を待つため土に埋葬されることが必須のイスラム教徒の
遺体を海に流した行為は、きわめて残酷な宗教的冒涜であり、イスラム教徒の怒
りを買うことは疑いない。

 だが、米国が超大国の威信と5千万ドルの懸賞金をかけ、さらにいえば、じつ
は口実にすぎなかったとはいえ、そのためにアフガニスタンとイラクで米軍主導
の多国籍軍の攻撃や自国の内乱で殺された幾万の人々の犠牲をもって追ったこの
男が、なぜ、ついにはパキスタンで命を落とすことになったのか。ここには20世
紀からつらなる世界の矛盾が凝縮してある。 


◇◇すべてはアフガンで始まった


東西冷戦下の1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、無神論の共産主義
国家がイスラムの土地を侵したことにたいする憤激がイスラム圏に湧き起こり、
抵抗する地元アフガンのイスラム勢力を支援しようと各地から義勇兵がアフガン
に向かった。サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディンもそのなかにいた。 
富豪の父の遺産を継いだオサマは、その豊富な資金力をもとに、米中央情報局
(CIA)やサウジ王室の協力も受けつつ、イスラム圏からの義勇兵に訓練を施
し、武器・糧食を整えて戦場に送り込んだ。こうしてうまれた対ソ戦を遂行する
アラブ戦士のネットワークが「アルカイダ」である。

 だが、対ソ戦に勝利しサウジに戻ったオサマに転機が訪れる。91年、クウェー
トに侵攻したイラクを米主導の多国籍軍が攻撃した湾岸戦争が勃発すると、サウ
ジ政府は、イラクのイスラム同胞を攻撃するための「異教徒」米軍の国内駐留を
認めた。オサマはこれに反発。敵は一転、これまで協力関係にあった米国やサウ
ジ王室に変わった。


◇◇タリバーンとアルカイダの出会い


  一方、ソ連軍撤退後のアフガンでは地元イスラム勢力が軍閥化して内戦を繰り
広げていたが、これを制圧したのが「タリバーン」である。タリバーンとは、対
ソ戦中に避難してきた大量のアフガン青年をパキスタンが国境近くに設立したマ
ドラサ(イスラム寄宿学校)に受け入れ、アフガンに親パキスタン政権を樹立す
べく武器・資金を与えて送り込んだ部隊である。

 サウジ国籍を剥奪されたオサマは、スーダンを経てタリバーンが政権を掌握し
たアフガンに戻り、98年のタンザニア・ケニア両米大使館同時爆破テロなどを指
揮したとされる。そして、2001年9月11日の米同時多発テロでは首謀者とみなさ
れ、「テロの黒幕」としてその名が世界中に知れ渡った。

 同年10月、米主導の多国籍軍はオサマを匿っているとしてアフガンのタリバー
ン政権を攻撃して崩壊させ、翌々年3月にはオサマが率いるアルカイダと関係あ
りとの口実でイラクを攻撃した。現在に至るそのごの過程は読者がよく知るとこ
ろである。オサマ・ビンラディンは確かにアジの名手であり、ビデオや録音テー
プで声明を発しては反米闘争を煽りつづけた。しかし、実際のテロの遂行にどの
程度関与したのか。殺害によって事実は闇から闇に葬られた。


◇◇ビンラディン殺害の波紋


オサマ・ビンラディンの急襲・殺害は米国とパキスタンの関係に軋轢をうんだ。
パキスタン政府は、事前の通告・承認なしに自国でおこなわれた米軍の急襲作戦
は主権侵害と不快を表明し、米側は逆にパキスタン当局が潜伏を支援していたの
ではないかとの疑念を顕にし、情報漏れを恐れて単独行動に踏み切ったと主張し
た。

米国側の疑念に根拠がないわけではない。対ソ戦中のアフガンで、イスラム戦
士とそれに武器や資金を供給する米軍・CIAを仲介したのはパキスタン当局だ
ったし、タリバーンを育ててアフガンに送り込んだのもパキスタン当局である。
さらに、米・多国籍軍の攻撃で放逐されたタリバーンが、多分ビンラディンも擁
して転戦したのはアフガン・パキスタン国境の山岳地帯であった。これらの過程
を通して、パキスタン当局、とりわけ軍統合情報部(ISI)内に「イスラム過
激派」と気脈を通じるグループがうまれていたとしても不思議はない。

政府間の摩擦は、巨額の財政・軍事援助を米国に依存せねば成り立たぬパキス
タンと、パキスタンの協力なしにはアフガン政策を遂行できぬ米国のこと、早急
な妥協が図れた。だが、同じイスラム同胞、しかも民族的・文化的・歴史的に近
縁なアフガンへの米軍侵攻以来、パキスタンの大衆がもつ根深い反米感情は、マ
グマとしてさらに蓄積することは必定であろう。

オサマ・ビンラディンの死は、「殉教」のシンボルとして意味をもちこそすれ、
それによって「過激派」の活動が衰退に向かうわけではない。タリバーン政権の
崩壊以来、アフガン・パキスタン国境の山岳地帯で空爆を逃げ延びつつ身を潜め
ていたビンラディンにできたことは、折に触れて声明を出すくらいしかなかった。

その間に各地域には、サハラ砂漠周辺国の「イスラム・マグレブ諸国のアルカ
イダ」、イエメンを本拠とする「アラビア半島のアルカイダ」など、アルカイダ
を名乗りながらビンラディンとはかかわりのない独自の組織が広がった。さらに
は、欧米生まれのイスラム教徒が走る「欧米国産型テロ」も相次ぐようになった。
これらをうんだのはオサマではなく、世界に充満する不公正や矛盾である。

ビンラディン容疑者殺害の報を受けた米国では、その夜、ホワイトハウス前広
場や「グラウンド・ゼロ」に集まった数千の市民が、星条旗を打ち振り、歌い、
踊り、歓声を上げたという。殺害作戦を命じたオバマ大統領の支持率が9ポイン
ト上がり、メディア大手ディズニーは人気に与ろうと殺害作戦実行部隊名「SE
AL TEAM 6」の商標登録を申請したという。

だがしかし、オサマ・ビンラディンの殺害によって、世界の悪をなにもかも彼
のせいにする「物語」を語れなくなった米国は、いまあらためて、真摯にイスラ
ム世界と向き合わざるをえなくなったはずである。

   (筆者は社会環境学会代表・元桜美林大学教授)

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