~不殺生と無所有を教義の第一に掲げるインドのジャイナ教徒~

■宗教・民族から見た同時代世界            荒木 重雄

~不殺生と無所有を教義の第一に掲げるインドのジャイナ教徒~

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 年の瀬の慌ただしいとき、あるいは心静かに来し方・行く末を考えたいとき、
宗教紛争の話でもあるまいと、今号では少々趣を変えてみた。

 インド独立の父マハートマ・ガンディーが、非暴力(アヒンサー)を掲げた大
衆運動で英国植民地支配と闘ったことは誰しも知るところであろう。 ガン
ディー自身は敬虔なヒンドゥー教徒であったが、彼の非暴力思想の形成には、じ
つは、彼が生まれ育ったグジャラート地方に多いジャイナ教徒の影響が指摘され
ている。

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◇◇不殺生を生きる人たち
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  ジャイナ教徒とは、インドの人口の約0.5%、600万人余りを数える少数派だ
が、その徹底した不殺生(アヒンサー)と苦行・禁欲主義で特異な位置を占めて
いる。 ジャイナ教の僧侶は、たとえば、口を白布で覆い、手に箒の役目をする
払子を持つ。これは、呼吸をしながら羽虫を吸い込んだり、歩いたり坐ったりす
るさい小虫を踏み潰したりするのを避けるためである。水を飲むにも、誤って小
虫を飲み込まないよう必ず布で濾して飲む。

 植民地時代の話だが、インドにきたキリスト教の伝道師が、あるジャイナ教の
僧侶に顕微鏡で普段飲んでいる水を見せたところ、その水に微生物が溢れている
ことを知り、彼はそのまま一滴の水も飲まずに衰弱死を選んだと伝える伝道師の
報告もある。

 彼らが損なわないよう気を配るのは動物だけではない。植物に加え地、水、
火、風にも生命(霊魂=ジーヴァ)を認め、そのアヒンサーに細心の注意を払
う。 したがって彼らは厳格な菜食主義だが、植物でも、タマネギのような、そ
れを掘りだせば植物自体を殺生してしまう球根・根菜類は食べない。 何かを食
することは即ち何らかの生命を奪うこととの観念から、彼らが理想とする究極の
行は断食死である。

 菜食や断食の奨めなどは一般の在家信者にも同様である。僧侶(出家者)が必
ず遵守すべき五つの大誓戒は不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有だが、在家信
者が守るべき五つの戒も、「不淫」が「不邪淫」になるくらいで基本的に同じで
あり、敬虔で禁欲的な生活が求められている。

 厳しい殺生戒の故にジャイナ教徒が就ける職業は限られている。軍隊や狩猟、
漁業はもちろん、虫や微生物の生命を奪う危険性のある農業も避けるとなると、
いきおい商業、とりわけ宝石・貴金属小売業や金融業に集中することとなった。
その結果として、彼らの結束力ともあいまって、インドでは比較的裕福なコミュ
ニティを形づくっているのである。

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◇◇煩悩に打ち勝った者
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  ジャイナ教の開祖ヴァルダマーナは仏教のゴータマ・ブッダと同時代人で、仏
典ではニガンタ・ナータプッタとよばれる六師外道の一人である。王族出身で、
結婚生活をへて三十歳のとき出家してニガンタ派の沙門となり、苦行の結果、大
悟してジナ(勝者)あるいはマハーヴィーラ(偉大な英雄)と称えられるように
なった。ジナ(勝者)とは一切の煩悩に打ち勝った者のことであり、ジャイナ教
とはジナの教えの謂である。

 こうした開祖の出自や生涯、反バラモン教の立場から説いた教えの内容、ま
た、教団形成や聖典編集などにおいてもジャイナ教と仏教は類似点が多く、一
方、苦行をめぐる評価や形而上学的学説では立場を異にするなど、両者の異同比
較は興味のあるところだが、それはこのコラムの任ではない。ここではジャイナ
教の輪廻と解脱の観念にのみ触れておきたい。

 ジャイナ教の説くところでは、生きることは「苦」である。その苦の原因は、
霊魂が日々の行為(業)の結果に縛られて、地獄、畜生、人間、天界という迷い
の世界の中で生死を繰り返すところにある。その苦から脱するためには、苦行と
禁欲によって、すでに付着した業の作用を滅するとともに、新たな業の付着を防
止する必要がある。そうして完全に浄化された霊魂はもはや輪廻転生することは
なく世界の外に上昇して解脱を得る。

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◇◇すべては解脱のために
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  その解脱を得るための苦行・禁欲の最大の戒が不殺生である。そしてもう一つ
が徹底した無所有(アパリグラハ)である。そのため出家者には、衣服を着るこ
とも霊魂の浄化の妨げになると、一糸纏わぬ裸形での修行が奨められる。炎暑や
蚊や蠅に裸身をさらして禅定三昧に住し、移動も裸足でけっして車に乗ることは
せず、食は托鉢乞食にのみ頼り、ときには幾月も水を断ったり断食したりの苦行
を修めるのである。
 
のちに白衣を纏う白衣派が現れるが、本来の裸形でとおす厳格派は空衣派とよば
れ敬われている。
 
  在家信者にはそこまではできないが、一定以上の金や家畜や飲食物を所有しな
いとか、蓄えた財産をすべてジャイナ教寺院の建設に投ずるなど、それなり無所
有を心掛けている。
  しかし最近、ジャイナ教徒のコミュニティで気懸りなことが出てきている。そ
れは次のようなことだ。

 ジャイナ教徒にとって忌むべきヒンサー(殺生、暴力)は身体的行為のみなら
ず、言論的行為、心理的行為も含まれる。すなわち、人を傷つける言葉を発する
ことや心の中で憎むことも殺生と理解されるのである。また、古来、商業に携わ
りながらも長距離の交易は、船や荷車で生き物を損なうおそれがあるとして好ま
ず、機械力による大規模生産や不特定多数を対象とする大型商取引も殺生につな
がるものと避けてきた。

 そんな、闘争や競争を厭い、禁欲主義で爪に火を点すよう励んできた自分たち
ジャイナ教徒が、今の、そしてこれからの、グローバリゼーション下、なりふり
かまわぬ強欲資本主義を突き進むインドではたして伍していけるのか、という悩
みである。 この悩みこそ、現在のインドを象徴的に表しているものであろう。

               (筆者は社会環境学会会長・元桜美林大学教授)

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