~主として麻酔科医のはなし~

■臆子妄論                   西村  徹

~病気、病院、電車のはなし(その2)主として麻酔科医のはなし ~

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◇病院由来


  このたび入院手術に引き続き、放射線治療のために通院した大阪府立急性期・
総合医療センターは768床の大病院である。当初330床の府立病院として発足した
のは1955(昭和30)年 1月であった。それより先に難波病院というのがここにあ
った。名前の通りもともと難波にあったのが移った。難波の少し南に飛田という
大遊郭があって、これはそこで働く娼妓ご用達病院だった。東京ならば吉原遊里
における吉原病院である。しかし難波は都心でありすぎた。だから遠ざけられた
のだったろう。

 ところが1956(昭和31)年公娼制度が廃止されることになり、この病院の存在
理由もなくなった。かわって府立病院ができたというわけである。その頃私はこ
この内科で受診したことがある。西正門を入って右すなわち南側に東西に延びる
一棟だけ(木造だったように思う)難波病院の病棟は残っていて、ほとんど最後
の女性患者が窓から外を眺めていた。飾り窓の女のいたましいパロディーのよう
で、見てはいけないものを見たといえば月並みになるが、場違いなところで場違
いなものを見たときの狼狽があったことをおぼえている。
  その後私の長男はここで生まれ、義祖父はここで死んだが、私自身この病院の
世話になるのは半世紀ぶりである。あるいはここで死ぬこともありうる、この病
院について、このたびいくつか印象に残ったことを記しておきたい。


◇老残を思い知る


  83歳という年齢からすれば当然だろうが、入院すると直ぐ「一人で歩けるか?」
とか「杖は要るか?」とか、直接ではなく付添いの家族が訊かれる。介護の
必要の有無や老耄の度合いがまず調べられるのは少し傷つくが可笑しくもある。
該当するものに丸をつけよという問診表が来て自分で記入せよという。「いま聞
いたことをすぐ忘れる」などとあると、それに丸をつける。かけているメガネを
捜したり、二階から何しに下に降りたのか忘れてもう一度二階からやりなおした
りするのだから、これはどうしても丸だろう。そういう記入が積もり積もって担
当の男性看護師が「耄碌の度合いは相当高い」ようなことをいう。本人の主観が
客観的に正しいかどうかの責任は私にない。まるで私の責任であるかのように看
護師は言うので可笑しい。その種の、自覚症状など患者が伝えるべき治療に関わ
る情報とは直接に関係しない質問に対して老人の心理は屈折する。素直に答える
と思っているのがやはり少し可笑しかった。

 老人が老人扱いされて不思議はないが、なにかというと「奥さんは?」という
。堺病院の耳鼻科で組織検査の結果を告知するときも、「家族もいっしょに来い
」といった。声帯から3箇所ほど組織をチョン切るときは麻酔もこってりだし時
間も相当にかかるから、へたばって歩けなくなる患者もいるらしい。だから「同
伴」を求めるに多少の理由はある。しかし結果を告げるだけのために同伴者の必
要はない。同じ堺病院で三年前に妻は乳がんの手術を受けた。そのときは家族同
伴の要請はなかった。やはり年齢差別かと思われる。まさか性差別ではなかろう
。府立病院でも「奥さん」がたびたび呼び出される。

 あるいは年齢だけでなく介護の負担を社会から家族に押し戻そうとする風潮の
一環かもしれない。ジェンダー学者が煽ったりして「おひとりさま」化が進み、
いまや家族は崩壊に瀕している。絆は軛にも転化しうる。確執のない夫婦は古来
稀だし、夫婦はかならずしも常に互いに怨憎会苦から自由なわけではない。逆に
今日の夫婦は、その関係を遺制として受け入れはしても、帰属意識や従属意識か
らは自由である。同伴者が先立って後に俄かに元気になる、特に女性が多いのを
見てもわかるだろう。そもそも独居の老人はどうするのか。老人でなくてもどう
するのか。夫婦のままで別居の夫婦もある。物理的には独居でなくても心理的に
独居の、いわゆる同居別居の夫婦もある。さまざまに人は孤独でありうる。悪政
によって余儀なくされてではあろうが、病院の対応は今の家族関係の実態と乖離
している。


◇麻酔科医の問診


  手術前には多くの人に接する。病室に来る場合もあればこちらが出かける場合
もある。今回もっとも印象深かったのは麻酔科医だった。麻酔科外来の存在は初
めて知った。戦前のきわめて危険度の高いものを含めて全身麻酔は三度目、腰椎
麻酔は二度経験しているが麻酔科医の診察は今回が初めてである。手術の前々日
午後4時半に麻酔科外来で麻酔科の主任部長に面接した。問診というべきか。

 ムンテラという医者用語がある。患者に病状を理解させ医療を信頼させる話術
のごときものらしい。医学部に進んだ連中からよく聞いた。Mundtherapieという
ドイツ語の略で「口先で煙に巻く」ような意味にもなるらしい。しかし患者を安
心させ納得させるのなら今で言うインフォームド・コンセントを含むものでもあ
る。きわめて大事なことだろう。今日の医者にこの話術の衰弱いちじるしいよう
に思う。さすがに近ごろは減ったが、時に診察といいながら診察を拒んでいるよ
うな、実験中の技術屋か村の鍛冶屋のように無口な医者がいた。

 過日の「朝日新聞」投書欄にも間質性肺炎71歳の女性が書いていた。「気管支
鏡で診ればよく分かる―そういわれてセカンドオピニオンを求めたが、おなじよ
うに言われた。せめて聴診器で聴こうともしてくれなかった。患者の心を分かっ
てほしいと帰りのタクシーのなかで涙を流した」と。気管支鏡が辛いからセカン
ドオピニオンを求めたのはセカンド医者にも分かっているはずだ。こんな時こそ
ムンテラ。少しでも気管支鏡検査を受け入れる気持ちに導く役目がその医者には
あるはずだ。それをこの医者はサボった。ほとんど不作為の責任を問われてよい
怠慢である。 

 麻酔科問診はちがっていた。もっともよい意味でのムンテラを、しみじみと感
じさせるものであった。診療上の個人情報は電子的に関係各診療科で共有されて
いる。そのデータをただ確認するだけでなくて、さらに掘り下げて補充するよう
な、そこから知らず知らずのうちに、結果として医者と患者の距離が縮んでいる
ような、そういう具合のものだった。麻酔の経験を訊かれたのはこのときがはじ
めてだった。「十一歳のとき中耳炎の手術は全身麻酔でした」には「そのころの
麻酔は危険なものでした」。「四十九歳のとき胃潰瘍の手術は全身麻酔でした」
には「それはもう近代麻酔です」。直接治療に関わるわけでもないのに、それを
口にするだけのことが何故私の気持ちを軽くするのか、それはわからないが、事
実気持ちを軽くした。

 こういうこともある。「タバコを止められてよかったです」とおっしゃる。あ
えて「止」の字を使ったのは、「トメられて」と発音されたからである。やめて
ひと月余にしかならないから私は恥じ入る。「やめたといっても三月十七日から
です」。「それでも手術に必要な日数は満たしてる」と、「それでも」に力を入
れて前向き評価を強調された。「肺気腫もありますが、これでとまります」。堺
病院の耳鼻科でもCTの結果について「肺にもちょっとなにかありますが有意のも
のではない」と言われていた。

歯を調べて、「この挿し歯は取らしてもらいます。ぐらぐらしている。気管に
入るといけないから」など。なぜか目のことにも話しは及んだ。「右だけ黄斑
変性症です」といったら「左だけで見てる」と、終始微笑が絶えない。とにか
く問診の終わる頃には何故だかほとんどユーフォリアともいうべき、ある種の
安堵感に包まれて病室に戻った。手術を目前に、そして手術の後に喉頭がんの
治療が控えているというときに。既に麻酔は始まっていたのだろうか。

 ただこれだけのことだが、その気息に不思議な浸透力、いつのまにか人の心の
武装を解いてしまう、少し大袈裟になるが日本語化する以前の、本来の意味のカ
リスマ性があった。そしてきわめて主観的に言うのではあるが、今どきの医者に
はあまり見受けられない、いかにも医者=Healerの風韻を私は感じた。「やめら
れて」でなく「とめられて」という個性的な語法が格別にその風韻を強めるもの
に聞こえた。あえて屁理屈をつける。「やめる」(give up)には「あきらめる」
に近い消極性がある。「とめる」(stop)にはギュっと栓をひねるような、自由な
意志の働く積極性がある。言葉の暗示力はそういう微妙なところから生じる。ひ
とつには他の医師の平均より年齢が高いらしいこともあった。この病院は目だっ
て医師が若い。手術後に移った病室にはタッチパネルのパソコンがあって、つれ
づれに病院のHPを見た。麻酔科にたどり着いて主任部長の個人ウェブページに出
会った。


◇よい戦争,悪い平和があったためしはない


  同ページPC版冒頭にはベンジャミン・フランクリンの「よい戦争,悪い平和が
あったためしはない」(There never was a good war nor a bad peace)がエピグ
ラフとして掲げられている。右端にはエイズ対策推進を目的とするレッドリボン
が付けられている。そしてその下には「医療は,病気や外傷に対する人類の闘い
です。」とある。こういうメッセージを発信しうる、つまり哲学を持つ医師がい
ま私のいる病院の中に存在し、しかもほかならぬ手術前に面接した人だと知りえ
て思わず私は胸をふくらませた。

 「よい戦争はあったためしがない」という傍ら「医療は人類の闘い」というの
がミソだがその整合性を理解するには「戦争」と「闘い」はまったく別物である
ことの確認が必要だろう。日本語で「たたかい」というといっしょくたになるか
らなおさらだ。「戦争」はWarだがこの際の「闘い」はStruggleあるいはFightだ
ろう。War against warは自己矛盾だが、Struggle against warは、それがなけ
れば平和はなりたたない、むしろ平和の必要条件である。平和とは平和ボケなど
のいとまもない戦争との闘いである。

 健康を平和とすれば病気や外傷は平和の敵であり人間社会における戦争に位置
づけられる。医療は健康という平和をまもるために病気、外傷という戦争と闘う
ものだということになる。この類比はさほど間違ってはいないだろう。生老病死
といって四苦は人間には逃れがたい存在の不条理とされてきた。しかしES細胞や
IPS細胞などによって不条理からの脱出はあながちまったく不可能ともいえない
雲行きになってきた。地球上から戦争を絶滅することの可能性とならべて五分五
分ぐらいになっているのではないか。アメリカに黒人の大統領が登場したり、日
本国の政権がひょっとすると変わるかもしれないのだから、ひょっとすると人間
はやはり少しずつだが進歩しているのかもしれない。皆がみなではないが、ひょ
っとすると死なない、いや死ねない人間があらわれるかもしれない。

 しかしそうなると、こんどはなんとかして死ねないものかと、死ぬ方法を人間
は一所懸命研究し始めるかもしれない。それは地球が滅びるまで待てばいいだけ
だから心配に及ばぬことかもしれない。いずれにしてもいまのところ医学が、そ
して科学が、四苦を敵として闘う方向にそのスタンスを置いているのは間違いな
い。そうでなければ医学も科学も存在理由を失うだろう。だからそれで当然だが
、やはりそこに陥穽もある。手段を目的と思い込む危険だ。「闘い」が「戦い」
に摩り替わる危険だ。似ても似つかぬ別物に変わる危険だ。

 私の母はかねがね延命治療を断りたいと言っていた。86歳のとき肺がんで死ぬ
と判ってから、最後の段階で抗がん剤を投与された。医者に母の意志を告げたが
「病院は治療するところだ」の一言でにべもなく斥けられた。母はまったく意味
なく不必要な吐き気に苦しんで、そして死んだ。1994年11月時点で「病院は治療
するところ」は、世間一般に、既に過去のものになっていた。後述する世界医師
会の「患者の権利宣言」が公にされたのはその13年前の1981年である。「手術は
成功したが患者は死んだ」に次ぐほどに陳腐な型落ちの常套句になっていたはず
である。すでに緩和ケア(Palliative)という言葉も聞かれる時代になっていた
。その古色蒼然たる常套句を田舎のゼニゲバ病院の医者の口から、そのまま生で
聞いて、呆気にとられて二の句が告げなかった。何も言えなかった罪障感はいま
も消えない。


◇患者の自己決定権


  いまは少なくともこの病院では世界医師会の「患者の権利宣言」(リスボン宣
言)に立脚した「患者の権利に関する宣言」を各所に掲げており、その重要な項
目として「自己決定権」が強調されていて、私の母が被ったような没義道は、も
はやありえない。その項のみ以下に掲げる。

 自分の治療計画を立てる過程に参加し、自分の意見を表明し、自ら決定する権
利があります。
  患者さんは、自覚症状など治療に関わる情報をできる限り正確に伝え、十分な
説明と情報提供を受けた上で、自分の意思で治療方法等を決定する権利がありま
す。
  また、してほしくない医療を拒むことや他の医療機関を選択し、転退院するこ
とができます。
  これはリスボン宣言、最初81年の「患者は十分な説明を受けた後に、治療を受
け入れるかまたは拒否する権利を有する」や2005年サンチャゴにおける第171回W
MA(世界医師会)理事会で編集上修正された「患者は、自分自身に関わる自由な
決定を行うための自己決定の権利を有する」に相当する。大阪大学医学部付属病
院も「患者の権利」として「自由意志に基づき治療を選択する権利があります」
としている。また京都大学医学部付属病院も「患者の権利宣言」のなかに「充分
な説明と情報提供を受け、自らの意思で治療法などを決定する権利」を入れてい
る。

 この「患者の権利宣言」に私が接したのは今回の入院時が初めてだから、これ
が日本でどの程度に普及しているかなどを私は知らないが、どうやら基幹病院と
いわれる大病院では採用されている様子だ。標榜すればかならず実行するとはか
ぎらないが、なにも標榜しないよりいいにきまっている。そして興味深いのはこ
のリスボン宣言を個人サイトにバナーとして掲げている医師に麻酔科医が比較的
多いと思われる点である。


◇麻酔は魔法!


  こんなことを言ったからといって私は麻酔科について知るところはほとんどな
い。渡辺淳一の小説ひとつ読んでいないし「風のガーデン」なるテレビドラマも
見ていない。しかし、なんとなく麻酔科医は気になる存在であった。じかに接し
たのは今回がはじめてである。これまで麻酔科医を一度も見たことはなかった。
常に麻酔科医は黒子だった。それだけに、いっそう謎めいて、ひょっとすると黒
子であるよりも黒幕に近いのではとすら思った。今回は麻酔科主任部長の診察が
あっただけではない。手術前日に若い女性の麻酔科医が病室に来て「マスクをし
て喉のオデキに触らないように管を入れます」というような説明があった。気管
内挿管というものらしいと後に知った。
 
手術室でもその麻酔科医が顔をよせて「麻酔科の○○です」と言った。そして
ナースではないらしい若い女性がひと塊になって賑やかだった。私のマスクがず
れて麻酔科医が位置を修正した。つい「鼻が低いから」と私は言った。それでな
のか、あるいは別な理由によるのかは分からないが彼女らは弾けた。なんだか祝
祭が始まるかのような華やいだ空気が漲って、さし詰め私は祭壇に屠られる生贄
であるかのような役まわりだった。「ひとーつ、ふたーつ・・」もなかった。ざ
わめきの直後に「終わりましたよ」という声を耳にして私は目を覚ました。なか
なか目を覚まさなかった三十四年前とは様変わりだった。しかし、あのときも麻
酔から覚めて最初に思ったのは「まだか。早く始めればよいのに」だった。

 いましがたネット上で「麻酔科医ハナ」なる漫画をほんの少しタダ読みしてい
くらかのことを理解することができた。テレビなどで神の手などと持ち上げられ
る外科医が仮に調子に乗るとこうなるのかと、おもしろかった。外科医がかなら
ずこのような体育会系であるとはかぎらず、セクハラの標的がかならずこのよう
な麻酔科女医であるとはかぎらない。だからこれはどこまでも漫画であるが、小
児科、産婦人科と並んで麻酔科もたいへんな医師不足であるらしいことは分かっ
た。

 ただ英語で医師はphysicianだが外科医surgeonを含まなかった。前者の関わる
ところは「癒しの技」(art of healing)であり後者の関わるところは「手作業」
(hand working)であった。いまは花形の外科医も19世紀には理髪と兼業でphysic
ianより低い身分とされた。また多少ファンタジーなどに親しんだ者には、麻酔
科医は、遡ればアーサー王伝説における哲人、賢者、預言者そして偉大なる魔術
師であるマーリンを想像させる。だから麻酔科医が外科医に軽んじられるなどは
想像できない。いずれを先に立てるのも勝手な思い込みにすぎまい。手術はチー
ムワークのはずである。三十四年前に私の胃の切除手術をした外科医は「ここは
麻酔科医が優秀だから」と言ったのを覚えている。

 麻酔というのは生命活動をいったん停めておきながら、なおかつ生命活動を維
持するという、まるで逆のことを同時に行うのだから魔法だ。死と生を同時に成
り立たせるのだから魔法だ。すくなくとも詩的で哲学的だ。このあいだテレビで
東大放射線科の準教授が話すのを聞きかじった。日本人はモルヒネなどに対する
アレルギーが強いが、痛みを軽くすることでかえって延命すると。

日本人の医療用麻薬の使用量はアメリカの二十分の一だと。そんなこんなで、
このところ私はすっかり理屈抜きで麻酔科医というものに痺れている。ほとん
ど文学的に痺れている。なにしろ麻酔によって死を知ることができたのだか
ら。実際には死んでいないのだから擬似的かもしれないが実感として、あれは
死の現実だと思う。死とはあのような状態にちがいない。存在は消え、時間も
また消えたのだから。死があのようなものなら少しも恐れる必要はない。あれ
が空というものだろうか。ただ麻酔から覚める時の、つまり蘇る時の新生の気
分もまた頗るよいものなので、本当に死んでしまっていいとは、なかなか思え
ないのが困るといえば困る。
                        (筆者は堺市在住)

                                                    目次へ