■ブータンのGNHと仏教思想       坪野 和子    

― 伝統的な価値観による国家の自立と発展 ―

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  このメールマガジンが発行されるころは、ブータン国王夫妻の来日が報道を賑
わせていることだろう。ブータン国王夫妻は、先月13-15日に挙式されたばかり
だ。世界中のメディアで、ロイヤルウェディングが伝えられた。

 それまでほとんど話題にものぼらず、地理さえも知られていないヒマラヤの小
国(国土面積は九州とほぼ同じ)であるブータン王国がここまで注目された要因
は、稀代の美男美女のカップルであるがため…ではなく、国是であるGNH(国民総
幸福 以下GNHと記す)が多くの国々で関心を持たれているためである。
 
  しかし、なぜか日本を含めた各国とも、なぜブータンがGNHを国是としたの
か、どういう発想、国情でGNHを見出したのか、十分かつ本来的な解明や議論が
なされず桃源郷幻想や一面的・表面的な理解としか思えない情報が蔓延してい
る。本稿において、GNHの背景を検証したい。


◇1>ブータン王国にまつわる桃源郷幻想による誤解---すべては「自立」のため---


  ブータンに関して、決して間違いではないが、日本のメディアで断片的解釈の
みで伝えられている主なトピックは、「幸福の国」「禁煙国」「鎖国」「仏教が
国教」「民族衣装着用義務」「メディアの制限をしていた」などである。が、は
たしてどうか。

A)「禁煙国」?? 国民の健康を考える国??


  2003年よりブータンは、禁タバコ国である。ブータンでは紙巻タバコ、嗅ぎタ
バコ、ビディ(ミニ葉巻で廉価)、噛みタバコなど各種のタバコを常習している
ものが少なくなかった。タバコはほとんどが輸入品である。したがってタバコ依
存は、国民の健康のみならず国家経済的にも問題がある。また喫煙はマリファナ
も呼ぶことにもなる(自国でケシ科の植物が多数生息している)。「自立」のため
には「依存」を排除しなくてはならない。

B)「鎖国」していた?? 伝統文化を保護する国??


  外国人の観光が制限つきであるのは確かだが、しかし、1974年に解禁され、
2005年には急速に旅行者数が増えている。また、インド人労働者や職人が都市部
に住み、先進国からの国際協力関係者も多数滞在している。そして、自国民は、
インドやチベット、タイへ旅行や商売ででかけている。

 外国人の入国制限は外国からの情報・物品の流入阻止や環境保全のためのみで
はない。近隣のネパールの状況の観察からの反省もある。「ネパールにたくさん
のヒッピーが溜まって、ほとんど住み着いた時代があった。彼らは観光客とは呼
べない」。これはチベット人文化人類学者リンジン野口の考察だ。つまり、観光
で儲かるどころか、税金を払わない国民を増やしただけであり、環境も風紀も壊
されていった。「自立」のためには「自国民の生活を脅かす要素」を排除しなく
てはならない。

C)「民族衣装着用義務」?? 伝統文化を維持する国??


  1980年代後半に、筆者がインド・ネパール・チベットなどで出会ったブータン
人の若者たちは、民族衣装ではなく、ジーパン姿だった。最近の留学生たちによ
れば「学校や役所では制服として民族衣装を着ます。会社などでは自由な民族衣
装を着ます。家や近所では洋服です」とのことだ。前国王の布告ではあるが、ド
レスコードの一種であると考えられよう。

 民族衣装はアイデンティティであるのみならず、洋服を着ることにより、海外
からたくさんの服が入ってくる、そして、伝統的な技術が衰え、環境にも影響す
る。「自立」のためには「民族アイデンティティの衰退」を防ぐとともに「日常
物資の不必要な輸入増加」を排除しなくてはならない。

 そのほか、テレビやインターネットなどのメディアの制限をしていたのは(確
証できる資料が存在しないため筆者の推測となるが)、国内の民衆に対する海外
情報の刺激を抑制するだけでなく、自国の情報が陸続きの近隣諸国に漏えいする
ことを防止する意味も含まれているのだろうと考えられる。

 人口に膾炙するブータンのイメージは、「理想の国づくりのための閉鎖的な伝
統主義」という幻想によって、国策の真意・真相を見過ごしてきたことからうま
れた断片的解釈である。じつはいずれも「自立」のために行われている政策でも
あることを見過ごしてはならない。


◇2>チベット系諸民族国家として唯一残ったブータン王国


  では、なぜブータンの政策には「自立」がキーワードとなっているのだろう
か。それは、ブータン王国の政治地理による。ブータン人とはヒマラヤ地域に広
く分布する複数のチベット系民族である。近隣のチベット系民族の「国」が次々
と亡失し、インド・中国・ネパールに呑み込まれていってしまったなか、唯一、
独立国として残ったのがブータン王国である。
 
  ブータンは王国として成立する以前は、大寺院直轄の荘園だった。王国成立以
前は、シッキムやチベットに軍事的な依存をしていたが、経済的には、自給自足
の生活をし、紙や果物の輸出をしていたために依存状態ではなかった。19世紀末
になると、ブータンの有力豪族の1人、ウゲン・ワンチュクが台頭し、英領イン
ド軍のチベット遠征隊を支援するなどして英国の支持を獲得した。

 英国援助により国内政治の主導権を確保したワンチュクは、1907年に寺院支配
を廃し、自らが国王となって世襲君主制を確立した。1952年、第3代国王ジグ
メ・ドルジェ・ワンチュク王は国連加盟など国際社会への参加をはたすととも
に、第2代まで行われていた権力集中を分散することによって近代国家独立への
努力を重ねていった。

 第3代国王が急逝し、第4代ジグメ・センゲ・ワンチュクが17歳で即位するが、
即位式での演説は、『ブータンの歴史』(ブータン教育省 平山修一監修訳)に
よれば、「現在、われわれの前にある最も重要な課題は、将来にわたるわが国の
継続的な発展を確実なものとするために経済的自立を達成することである。

 ブータンの人口は小規模であるが、豊富な土地と豊かな自然資源、健全な計画
を以って、近い将来にわれわれの目標である経済的自立の達成を実現することが
できる(後略)」というものであった。国家としての独立を得、国際社会での認知
を得たものの、経済的自立を達成しなくては、国家の継続的発展および国家その
ものの存続があやぶまれる。

 即位演説に基づいた在位25年間の施政理念は、「社会・経済的繁栄/国民総幸
福(GNH)/国民参加/強力かつ効率的な行政制度/国家の自立/文化と宗教の保全/ひ
とつの国家ひとつの国民(One Nation, One people)」であった。これらの政策理
念は、国家の独自性を保つためには近代的発展と伝統的価値観を調和させる必要
があるとの判断から、インド・欧米の理数系および法学系的発想のみでなく、
ブータンの伝統的な価値観である仏教思想・論理学を背景とする発想にも依った
ものである。

 技術面・資金面の海外援助によるインフラ整備や興産、民主化による選挙、憲
法制定など形式が整い、立憲君主国としての始動が可能となったと判断した第4
代国王は、憲法に自ら定めた国王退位年齢の65歳より早期に譲位を決意する。

 2008年、現第5代国王も、即位2年後の戴冠式において、「平和、幸福、繁栄」
と常套句のようなことばとともに、「国民総幸福の論理の自性(本質)」とか「法
心性(ほっしんしょう)の思念を持つ地の住民であるみなさんは、浄心、善心、慈
悲、円満、団結、我々の文化や伝統を尊重し」などという言い回しで、仏教思想
に基づく価値観の尊重を強調したのである。


◇3> GNH(国民総幸福)の発想から理論構築まで


  第4代国王以前にも「国民すべての幸福Gross national happiness」という表
現は、保健・医療・福祉の分野で英文の書籍や雑誌等で散見されていた。第4代
国王が1972年に提唱した当初もそのような意味であった。1976年、第4代国王
は、非同盟諸国会議のスピーチで、「GDPよりGNHが重要」と対外的に発言している。
 
  それ以降も国内において学校教育現場や各職場、寺院などで「内向き」に使わ
れていたにとどまり、具体的な理論化・実践方法の探求はむしろ海外との学術協
力のなかで進められていったと考えられる。

 1980年代のブータンから国外へ向けた記述や冊子などではまだ発展はインフラ
や開発に関する記載にのみ留まっている。1998年、ジグメ・ティンレー首相が演
説で、はじめて具体的に「GNH」にふれ、これを皮切りに、水面下で研究されて
いた成果が国際舞台で提唱され、世界に認知されることとなった。

 カルマ・ウラ国立研究所所長は、講演で使うスライドで、転法輪の図を示し、
1.意安楽([仏教用語]快適さ) 2.健康 3.自分の時間の使い方 4.文化的多様性
と再生 5.良い統治 6.コミュニティーの活力 7.生物多様性と回復力(環境)
8.生活水準 9.教育の、9つの構成要素が転輪している中心に、10個目としてGHN
を置いて、その包括的意味を説明している。国家全体の圓満具足(完全な完成)あ
るいは圓満究竟(完全な境地)という仏教概念が反映されているのである。

 ブータンにとって、大国に併合されず、経済的な支配を受けず、また世界とも
孤立せずに、独立国でいるためには、「自立」が必須の命題となる。GNHはブー
タンに根付いている独自の伝統文化すなわち仏教思想を根拠とした発展のための
施政理念である。そして、GDPを否定しているのではなく、GDPを含みかつ超えた
価値観を現代社会に提唱する概念なのである。


◇付記1> GNH(国民総幸福)---ゾンカ語「幸福」の概念---


  ここでは、ゾンカ語原語によるGNHの定義について述べたい。
ギャルヨン・ガーキィ・ペルゾム(rGyal Yongs dGa’ sKyid dpal ‘dzom)
これが原語のGross National Happinessだ。ギャルヨンrGyal Yongsとは、国
民、国家を指す。「全国の」という場合も多い。

 ガーキィdGa’ sKyidとは、熟語として使用する場合は、「happy」
「Happiness」だが、ガーdGaは、単体では仏教用語の「歓喜(かんぎ)」に相当す
る。キィsKyidは、精神的な楽しさ、仏教用語の「楽(らく)」に相当する。これ
を合わせると、健康的・精神的な生活(仏教用語「身」)、文化の智慧・知識を
楽しむ生活(仏教用語「口(く)」)、充実した慈愛ある人間関係と自然との共存
(仏教用語「意」)、これらが「圓満」であることがゾンカ語の「幸福」である。
 
  GNHの9つの要因は、3つの要素をさらに3つに分けて成立したものと分析でき
る。したがって、英語のHappyやHappinessとは、もともと価値観の違う「幸福」
の感じ方だと考えて差し支えないだろう。ペルゾムdpal ‘dzomとは、集積を意味
する。


◇付記2> 仏教は国教ではなく、持続可能な開発が実現する条件の形成追及の
基本原理


  ゾンカ語版ブータン王国憲法では以下のように記述されている。これらには、
仏教は国教であるという記述はない。

「第2条 王制 第2節 政教二元 の本質は、ブータン国王陛下の龍体にこそ
凝集され、仏教徒として宗教をつかさどられるブータン国王陛下は、政教二元の
宣示をつかさどられる方であられる」「第9条 国の政策の基本原理 第20節 
国により、普遍的な人間の個性並びに仏教実践及び仏教理論 に根ざす善行及び
慈愛が施される各共同体において、あらゆる持続可能な開発が実現する条件の形
成が追求されなければならない」

「第1附則  ブータンの国旗及び国章 国旗 基底部に触れている上半分の黄
色は、俗伝統の象徴として顕現される宝たる人そのものの御影であり、その御方
が政教二元の基礎であることを象徴している。頂上部までのびている橙色は、聖
伝統の仏教象徴並びにカギュ及びニンマの教えの永劫を顕示している」
   [諸橋・坪野共訳]

                     (筆者は埼玉大学非常勤講師)

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