~島人たちを「無理心中」に追い込んだもの~

■A Voice from Okinawa (3)             吉田 健正

~島人たちを「無理心中」に追い込んだもの~

  「オルタ」46号(2007・10・20)に掲載された、「産経新聞7月6日の秦郁彦氏
の文章に触れて」と題する西村徹氏の記事を読んだ。「資料批判を重んじる歴史
学者として」の秦氏の指摘に敬意を払いつつも、戦場を体験した幾多の住民の証
言を無視する秦氏の文章について、西村氏は「よくよく当事者に身を寄せて共苦
を志さない限り、体験の外にあるものには理解困難なことが多い」と述べている。
幼児期に沖縄戦を体験し、沖縄戦に強い関心をもつ者として、私も同感である。


□「崇高な犠牲的精神による自決」?


  そもそも、県内の何か所かで起こった住民の「集団自決(「無理心中」と呼ぶ
べきであろう)」事件は、軍の自決命令書の有無そのものより、当時の沖縄とそ
の住民がどのような状況におかれていたかに目を向けないと理解できない。防衛
庁防衛研修所戦史室の『沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968)は、米軍が沖
縄本島上陸に先立つ45年3月26日、沖縄守備軍司令部や慶良間駐留の海上挺身隊
の意表を突いて慶良間列島に上陸した直後に起こった住民集団自決(同書によれ
ば約700人)について、次のように述べている。
 
「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持にあふれ、非戦闘員といえ
ども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的
理由であろう。……小学生、婦女子までも戦闘に協力し軍と一体となって父祖の
地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は、戦闘員の煩累を絶つ(戦闘員を煩わ
せないようにする)ため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者が生じた」

 元軍人が書いたと思われる殉国美談調のこの文章から、非戦闘員たる住民まで
「軍民一体」や「一億総特攻」の精神、「生きて虜囚の辱を受けず」という陸軍
大臣・東条英機の「戦陣訓」の教えや、住民はひたすら軍人に従い、戦闘員の足
手まといにならないようにするという「崇高な犠牲的精神」を植えつけられてい
たことが容易に察しられる。

 これに続く「(慶良間の守備隊は)特攻攻撃の準備のみに専念し、地上戦闘の
準備は全くしておらなかった。非常事態を考慮して軍民共に主要糧食を安全場所
に保管していたならば食糧難も緩和されたはずである」という部分は、いみじく
も、海上挺身隊が戦闘準備だけでなく住民を守るための態勢にも全く欠けていた
こと、軍が食糧を統制していたことを示唆している。


□軍官民共生共死の沖縄戦


  ちなみに、上記の「軍民一体」とは、沖縄守備軍(第32軍)が「60万県民の総
決起を促し、もって総力戦態勢への移行を急速に推進し、軍官民共生共死の一体
化を具現し……」という県民への「指導要項」にある「軍官民共生共死の一体化
」のことである。沖縄という戦場で天皇陛下の権威を後ろ盾に住民に対する絶対
的支配権をもっていた日本軍は、食糧調達や壕掘りや陣地建設に住民を徴用し国
民学校高等科や中学生まで農作業や監視当番に狩り出しただけでない。

幾多の生き残った人たちが証言しているように、住民に「米軍の捕虜になった
ら女は強姦され、男は戦車でひき殺される(または、男根を切られる)」と教
え込み、住民が潜んでいた壕を乗っ取って住民を壕から追い出した。評論家の
大宅壮一が、1959(昭和34)年、沖縄本島の南部戦跡を見て、学徒隊などの犠牲
を「動物的忠誠心」「家畜化された盲従」と呼んだのは、こうした背景なしで
は考えられない。

 上記以外にも、沖縄戦では壕内で泣く赤ん坊(母親は食糧難で乳がでないため
宥めることができない)を強制されて窒息死させた、うまく標準語で応答できな
かったり米軍に保護されたりした住民が「スパイ」として日本兵に「処刑」され
た、壕から投降しようとしたら後ろから日本兵に射殺された、家畜も軍に徴用さ
れた、八重山では強制的に「疎開」させられた住民がマラリアで死亡した……と
いった、日本軍横暴の例が住民の証言で報告されている。

守備軍が民間人に対して天皇の軍隊=皇軍という階級意識をもっていただけで
なく、本土出身将兵が沖縄人に優越意識(差別意識)や不信感をもって住民に
接していた事例も多く報告されている(沖縄人の側にも、ヤマト魂や天皇への
忠誠心にとり付かれて、進んで軍国主義を支持し、ときには同郷者に残虐行為
を働く者もいた)。

 実際に、将兵約9万4千人(うち正規兵のほか防衛隊員や学徒兵を含む2万8千
人は沖縄出身)と同数の住民約9万4千人――そのうち多くは壕から追い出され
て(注・旧厚生省資料では「壕を提供」して)、炊事雑役に狩り出されて(「炊
事雑役を援護」して)、あるいは食糧を奪われて(「食糧を提供」して)命を落
とした児童や幼児を含む日本軍による犠牲者(「戦闘参加者」もしくは「戦闘協
力者」)――が戦没(大田昌秀『総史沖縄戦史』)したのは、沖縄戦が文字通り
「軍官民共生共死」の戦いであったことを示している。


□「集団自決」訴訟と教科書検定


  住民の「集団自決」が起こった慶良間列島では、慶留間(げるま)島を訪れた
戦隊長が分教場(分校)に集めた住民に、「敵上陸のあかつきには全員玉砕ある
のみ」と訓示し、渡嘉識島では兵器軍曹や防衛隊員が17歳以下の少年たちを含む
住民に手榴弾を二個(攻撃用と自決用)ずつ配り、軍民とも飢餓状態に陥った阿
嘉島では「一木一草と雖も全て天皇陛下の所有物である。許可なくこれを採取し
たものは死刑に処す」という命令を下した(謝花直美『証言 沖縄「集団自決」
――慶良間諸島で何が起きたか』、沖縄県教育委員会編『沖縄県史――沖縄戦記
録』、大田昌秀『総史沖縄戦史』などを参照)。草木以上に「天皇陛下の所有物
」であったはずの手榴弾が、民間人に渡されたのはなぜか……。
 
慶良間列島の「集団自決」については、軍(守備隊長)の命令によるものかど
うかをめぐって、元隊長や遺族が『沖縄ノート』の著者・大江健三郎氏と同書と
家永三郎『太平洋戦争』の発行元・岩波書店を名誉毀損で訴えた。

 大阪地裁は、2008年3月28日の判決で、(明確な判断は避けたものの)集団自
決は軍命によるものだったという「推認」は十分できる、「体験者らの体験談等
は、いずれも自身の体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、
その信用性を相互に補完しあう」、被告(大江・家永・岩波)の記述や出版継続
には「真実であると信じる相当の理由があった」などとして、原告の主張を退け、
被告の勝訴となった。原告は大阪高裁に控訴を棄却され(08年10月31日)、最高
裁判所に上告している。

 想定外の敵上陸で部隊が応戦することもなく逃げまどう極限状況の中で、軍が
住民に自決命令書なる文書を発行し得たか。特攻隊が支配する小島で、行き場を
失った住民を無理心中に駆り立てたのは、「玉砕」を美化し人々に「動物的忠誠
心」を植えつけた皇民化教育と軍国主義、「軍命―絶対服従」の関係の上に構築
された軍官民共生共死の思想、「鬼畜」の上陸にともなう絶望感、「死なば諸共
」という家族観などが作り出した、いわゆる「空気」(山本七平)であったであ
ろう。住民の間に醸成されたそうした空気こそが多くの家族を無理心中に追い込
んだことは、容易に察しられる。その意味で、当時の状況と住民の証言を重視し
た地裁や高裁の判断は評価できる。

 しかし、冒頭に揚げた秦氏は、「沖縄集団自決をめぐる理と情」と題する文章
で、例えば28万余人の住民が米軍に投降したのは日本軍の疎開命令や避難指示が
あったおかげと都合よく解釈する一方で、集団自決に関する住民の証言を信頼で
きないとして切り捨てる。住民が必死に逃げ惑っているうちに命を落としたのは
軍命違反による自損行為、命令書が存在しないのは集団自決への軍や軍人の関与
がなかった証という、沖縄戦の実態とはかけ離れた論法である。軍命文書がなか
ったからといって、住民の証言を否定するのは、沖縄戦の実態を知らないか、そ
れを軍隊(国)の視点から見るせいではないか。スパイ扱いによる「処刑」や壕
追い出しによる犠牲には裁判→判決文や命令書があったのだろうか。


□不問に付された日本軍の残虐行為


  文部科学省は、2007年3月、この訴訟における原告側の主張を背景に、高校教
科書に集団自決に軍命があったかどうかは「明らかとはいえない」との検定意見
をつけた。結果的に、多くの教科書で、日本軍の関与・強制(加害責任)はあい
まいにされ、住民が勝手に自決や殺し合いをした、という表現に変えられた。文
科省は裁判後も検定意見を撤回しなかった。
 
沖縄戦で守備軍の司令官ながら、軍や住民を置き去りにしたまま、「矢弾尽き
天地染めて散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」という辞世の句を残し
て自決した牛島満中将。牛島が護ろうとした皇国と沖縄住民の悲劇の間には、埋
めがたい溝がある。「皇土(日本本土)防衛」「国体護持」のための「前縁(前
線)」「防波堤」と位置づけられて住民を巻き込んだ、悲惨きわまる戦闘が展開
された沖縄。あれから65年の月日が流れた。「皇軍」が住民に対して犯した数々
の残虐行為の罪は問われないままだ。
                 (筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

                                                    目次へ