~石場湛山(1~

■【河上民雄20世紀の回想】(5)        河上 民雄

第9回 石橋湛山論(1)

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  本稿は2010年9月29日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党
国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。9月29日のイ
ンタビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏・山口希望氏および岡田が参加した。

◇質問:尖閣諸島で中国漁船の船長が公務執行妨害罪で逮捕されて以来、日中間
で緊張した関係が続いております。このような時こそ、中国をはじめとするアジ
ア諸国と日本の友好を訴え続けた石橋湛山氏の思想を振り返ることが必要である
と思います。生前の石橋氏に河上先生がお会いしたことがあるということもあ
り、先生に石橋湛山氏についてお話をうかがおうと思います。まず、先生が石橋
氏にお会いしたのはいつごろのことでしょうか。

●河上:私が石橋氏と最初にお会いしたのは、石橋氏が首相を辞任した(1958年
2月)後のことです。当時、延島英一氏(第4回参照)が日本人とアメリカ人の英
会話の練習を兼ねた勉強会を主催しており、その勉強会に石橋氏がいらっしゃっ
たのです。石橋氏は少し歩けるぐらいまで回復していましたが、まだ体の具合が
悪く、両脇を秘書の方にかかえられながら出て来られました。そのため、椅子に
座るまでけっこう時間がかったのですが、一度話を始めると、話しぶりは見事で
あり、内容も素晴らしく、「『目からウロコが落ちる』ということはこういうこ
とか」という感想を抱きました。

◇質問:そのときの石橋氏のお話はどのような内容だったのでしょうか。

●河上:日米中露による平和機構をつくれ、というお話でした。内容は日本社会
党が唱えていた新ロカルノ構想に似ていたと思います。中ソ対立に巻き込まれ、
中国派とソ連派が激しく争うようになる以前の日本社会党が石橋氏とある程度、
外交政策を共有していたということは誇っても良いことだと思います。

◇質問:他に石橋氏の話で印象に残っている話はございますか。

●河上:第4回の「世界憲法」の回でも触れましたが、石橋氏が公職から追放さ
れていたころ、延島氏が石橋氏の事務所をたびたび訪れて話し相手になっていま
した。その延島氏から石橋氏から聞いた話をよく聞かされていました。また、延
島氏の紹介で、石橋氏の側近で後に、東洋経済新報社の編集局次長から同局長、
そして最後は常務となった大原万平氏の編集局次長の頃、若干のお仕事の手伝い
もさせて頂いたこともあり、大原氏からも石橋氏のお話をよく聞かされました。

 延島氏同様、大原氏もまた石橋氏に傾倒しており、その傾倒ぶりは大原氏の死
後、夫人が「夫は湛山教の信者でしたから」と私に語ったほどでした。大原氏は
石橋氏の生前から『石橋湛山全集』の刊行に着手し、また、匿名で誰が書いたか
わからない東洋経済新報の社説の一つ一つに目を通し、石橋氏が書いたものかそ
うでないかをチェックして、どれを全集に掲載するべきか決定する仕事もこなし
ています。

 世界の政治指導者の中で全15巻にも及ぶ全集が刊行されている人物はほとんど
存在しないと思いますが、石橋氏の思想が後世に語り継がれることとなったの
は、石橋氏の思想が素晴らしいものであったということの他に、大原氏の尽力が
大きかったと思います。

 延島氏や大原氏からうかがった、パージで逼塞していたときの石橋氏のお話で
印象に残っているのが、「日本はそのうち米が余って困る時がくる」という話で
した。当時、日本の食糧不足は深刻で、私も栄養失調が原因で結核にかかって、
高校教師の職を失った直後でしたので、「この人は何を言っているのだろう」と
困惑してしまったのを覚えています。

 しかし、その後、米は政府が減反政策をとらなくてはいけないほど余ってしま
う時代が本当にやってきたわけで、石橋氏の先見の明に驚かされます。また、戦
後、インフレーションがひどかったときに「今の経済記者は物価というものは上
がるものだと思っている。しかし物価は下がり始めて止まらなくなった時の怖さ
を誰も知らない」とも述べています。石橋氏は昭和恐慌のときのデフレーション
を念頭に置いて話をしたのだと思いますが、やはり当時の私には実感できない内
容でした。

 後に1986年に、私が衆議院物価特別委員会の委員長になったときに、委員長就
任あいさつで、私は石橋氏のこのエピソードを話ししました。私は物価特別委員
会の任務は物価がどんどん上がっていく中で国民生活をどう守るかにあるけれど
も、必ずしもそれがすべてではなく、そう思い込むのは間違いだという意味で石
橋氏の話を取り上げたのですが、バブル景気が始まりつつあった当時の情勢では
私の話は実感がわく話ではなかったらしく、私の話を聞いていた通産省の官僚が
「今日はどういうことを言われようとしたのですか」と聞き返しに来たくらいで
した。
 
  しかし、バブル崩壊後、日本は深刻なデフレに見舞われ、今なお、デフレ不況
から日本は脱却していません。石橋氏のような問題意識を持った人物がバブル期
の日本にほとんどいなかったことは日本の不幸であったと言わざるを得ません。

◇質問:先生のお話をうかがうと、石橋氏は一歩も二歩も時代の先を見る、大変
な先見の明を持っておられたように思われます。そのような先見の明でも特に、
評価が高いのは、植民地の広さが国力の大きさを現わすと信じられていた時代(
1921年)に「一切を棄つるの覚悟」「大日本主義の幻想」といった社説で「小日
本主義」を唱えたことです。石橋氏の小日本主義という発想はどこから生まれた
ものだと思われますか。

●河上:小日本主義はもともと東洋経済新報社の社是でした。日本が大国化に怒
涛の如く向かおうとした時代に時流に抗して、第3代主幹・植松孝昭、第4代主幹
・三浦銕太郎氏に受け継がれ、唱えられたものです。三浦氏は石橋氏の才能を見
抜き、早めに代表取締役、主幹を退き、石橋氏に会社の将来を託しました。

 石橋氏の小日本主義は三浦氏の思想を受け継ぎ、さらに発展させたという側面
があります。しかし、石橋氏の小日本主義は当然、石橋氏ならではの要素も存在
します。その1つが、徹底した合理主義です。石橋氏は朝鮮・台湾といった植民
地とアメリカ・インドといった他国との貿易を比較して、植民地との貿易が利益
を生みださず、むしろ日本にとって負担となっていると説きました。

 そのような合理主義的な発想は、早稲田大学時代の恩師・田中王堂氏の教えに
基づくものです。田中氏はジョン・デューイの研究家であり、デューイのプラグ
マティズムを石橋氏に教え込みました。もうひとつはキリスト教の影響がうかが
われることです。たとえば、「一切を棄つるの覚悟」の中で「何を食い、何を飲
み、何を着んとて思い煩うなかれ、汝らまず神の国とその義とを求めよ、しから
ばこれらのものは皆、汝らに加えらるべし」という聖書の言葉を引用しています。

 身延山久遠寺第81世法主を父に持ち、自らも日蓮宗の僧侶の資格を持っていた
石橋氏が聖書の言葉を引用するというのは一見、奇異ですが、これには石橋氏が
旧制甲府中学校時代に、札幌農学校でクラーク博士の教えを受け、キリスト教徒
でもあった大島正健氏の薫陶を受けたからかと思います。

 石橋氏が通っていたころの旧制甲府中学校は大変荒れた学校であり、石橋氏も
悪童ぶりを発揮し、2年生と4年生と2度留年を経験しています。石橋氏が5年生の
とき、校長として赴任したのが大島先生です。大島先生はやがてこの山国の少年
たちを愛し、クラーク博士の教えを生徒に説き、荒れた学校を立て直すことに成
功します。石橋氏も大島先生の教えに感銘を受け、それまでの自分とよほど違っ
た学問や生活の覚悟、方針に切り替えたことを告白しています。

 大島先生が亡くなって(昭和13年)から25年後の大島先生の追悼晩餐会に出席、
甲府第一高等学校(もとの甲府中学)の玄関脇に大島正健先生彰徳碑を建てたいと
提案、その除幕式(昭和40年)の日の記念講演で、「落第もまた良し。普通に卒業
していたら、先生と会うこともなかっただろう」と述べています。石橋氏は、そ
こで絶句し、「不思議なことです」と結んだといいます。

◇質問:その後も石橋氏は小日本主義を唱え続けたのでしょうか。

●河上:戦時中の1944年、石橋氏は戦争が終わった後の日本経済の在り方を考え
る研究会(戦時経済特別調査室)を開いています。この研究会では1943年のカイ
ロ宣言をベースに議論がおこなわれていたのですが、カイロ宣言では日本は植民
地を放棄し、4つの島に戻るベきであると書かれていました。まさに石橋氏がか
つて主張した内容と同じです。

 しかし、研究会の出席者の大多数は「それでは日本民族は地球から抹殺され
る」と憤慨しました。近代経済学者の中山伊知郎氏ですら「せめて朝鮮ぐらいは
残してほしい」と言ったそうです。こうした意見に対して石橋氏は「いやそうで
はない、そうなってこそ日本は初めて繁栄するのだ」と反駁しました。その中山
氏はのちに、「われわれはその夜の議論で湛山に敗れたが、歴史の中でもう一度
敗れた」と語っています。
 
  1945年8月15日、日本が無条件降伏すると、翌日、石橋氏は「更生日本の門出
─前途は実に洋々たり」という社説を書きます。多くの日本人が植民地を失っ
て、これから日本はどうなるのだろうと茫然自失の状態にあったときに、石橋氏
は植民地を失ったことが日本の繁栄につながると説いたのです。このような石橋
氏の発想は当時の日本人にはまったく理解されませんでした。石橋氏の論説に惚
れ込んで東洋経済新報を購読していた読者ですら「石橋氏は頭がおかしくなった
のではないか」と東洋経済新報社に苦情を寄せたほどでした。
 
  さらに石橋氏は矢継ぎ早に国の根幹に触れる鋭い論説を発表していきます。19
45年10月13日号では「靖国神社廃止の議」を発表しています。「もし靖国神社を
残すならば、日本民族怨念の象徴になる。占領軍に取り壊されるより、日本人自
ら涙しながら取り壊そう」と石橋氏は訴えます。

 石橋氏は1944年に次男を戦争で失っています。にもかかわらず靖国神社の廃止
を涙ながらに訴えたのです。のちの小泉純一郎元首相が8月15日の靖国神社参拝
を強行し、アジア近隣諸国との間に無用な摩擦を引き起こしたこと、そして今な
お、靖国問題が日本とアジア諸国が心から和解することを妨げていることを考え
ると、石橋氏の慧眼に改めて驚かされます。

 また、1946年1月12日号では「元号を廃止すべし」という社説を掲載していま
す。現在もなお公文書では元号が採用され、来日した多くの外国人留学生を悩ま
せています。また、日本の新聞の日付はすべて順序はともかく元号と西暦とを必
ず併記しています。石橋氏は今日の国際化社会を既に60年以上前に見通していた
のです。

 こうした石橋氏の論説がおさめられている『石橋湛山全集』(全15巻)のうち、
第13巻は全集の中でも私が一番思い入れがある1冊です。実は第13巻は全集の第1
回配本で、石橋氏が存命中の1970年に刊行されました。石橋氏は病床でそれを手
にし、大変喜んだといいます。大原氏から第13巻が送られるや私は早速、目を通
したのですが、敗戦直後に上記のような主張をおこなっていたことに対して私は
大変衝撃を受けたことを今でも思い出します。(つづく)

         (元日本社会党国際局長・元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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