船橋洋一『カウントダウン・メルトダウン』を読む
〜福島第1原発事故における日米関係〜

                     濱田 幸生


■原発事故における日米関係の真実

 福島原発事故独立検証委員会、通称「民間事故調」の設立者であり、プログラムディレクターをつとめた船橋洋一氏(元朝日新聞社主筆)による、福島第1原発事故の大著『カウントダウン・メルトダウン』(文芸春秋)が出されました。本書は膨大な民間事故調の聞き取りと、その後の船橋の取材によって構成され、熟達の平易な文体で書かれています。
 評者によっては新たな知見が乏しいと言う人もいますが、米国NRC(原子力規制委員会)、ホワイトハウス科学技術補佐官、国務省、米大使館、米海軍までを網羅した重厚なドキュメントは、これまで存在しませんでした。
 国際政治の狭間で福島事故がどのように受け止められ、そして日米が軋轢を重ねつつ「放射能という悪魔」を封じ込めていく姿は感動的ですらあります。

 この本は、事故の状況と同時に、今までの類書になかった米国政府、軍内部のやりとりが重層的に書かれて思わず引き込まれます。
 閉鎖的な艦船という性格から、いかなる被曝も認めないある種の「ゼロリスク」論に立つ米海軍、日本との同盟関係を重視する国務省・大使館、原子力のプロとして冷徹に事故を分析し、対策を練るNRC(米国原子力規制委員会)が、三者三様の立場でぶつかり合いながら進むというやりとりなどは、日本で初めて公にされるものです。

 事故発生直後、横須賀基地からの全面撤退を主張する米海軍とNRCは相当に違う分析と対策をたてます。
 米海軍は米国の世界戦略の基本である空母をいかなる形でも汚染させることはできないと判断しました。
 もし、いったん汚染されれば、世界のどこにでも自由に航海し、寄港できなくなるからです。そうなれば作戦に重大な支障をまねきかねない、と米海軍は判断しました。そして海軍は横須賀基地の中で放射能が測定された段階で原子力空母ジョージ・ワシントンの緊急出航を決意します。
 また横須賀に近づいていた原子力空母ロナルド・レーガンも急遽寄港を取りやめて遠ざかっていきました。

 しかし、この決定は在日米国人を混乱に陥れます。その時のことを著者は「情緒的メルトダウン」と評しています。
 そして米海軍が突出して米海軍軍人とその家族に「室内避難」をするように米軍放送で放送したために、大使館や在日米国人は混乱の真っ只中に投げ込まれます。
 「われわれはなにもしなくていいのか。海軍が逃げているのに東京にいて大丈夫なのか」。
 ルース大使は悩んだ結果、「館員家族は自主的外国退避を認める」と苦肉の承認を与えました。

 一方、ホワイトハウス高官は、「もしあの時、在日米軍が日本から撤退したら、日米同盟は終わっていただろう」と述べています。この危機意識は、ホワイトハウスと国務省の担当官は共有していました。在日大使館も同様の立場でした。
 そして彼らは米海軍の提案する200マイル(320km)避難案を「身体を張って」阻止したのです。
 もしこの海軍「200マイル退避案」が採用されたのなら、米大使館の移転、東京からの米国市民の全面退避、横須賀基地からの全面撤退は不可避だったでしょう。この瞬間、日米安保は事実上終了していたかもしれません。
 こうして米国は、他国のほとんどの大使館と職員が逃げ出した中で、最後まで日本に留まり、NRC(米国原子力規制委員会)のプロ中のプロを派遣し、放射線モニタリング、事故のシミュレーション、分析、対応策、物資の提供などを行ったのです。

 一方、大統領科学技術担当補佐官のジョン・ホルドレン(原子力の専門家)は、米エネルギー省と共に「最悪シナリオ」を作成していました。
 たとえば、拡散シミュレーションを作る場合においても、機械的にデータを入れればいいのではなく、プラントを操作する人間の判断と決断が重要な要素です。
 もし福島第1原発が撤退となると、「最悪シナリオ」は一気に最大値にまではね上がるわけです。
 ホルドレンは、前提として「日本人が事故を途中で投げ出すとはとても考えられない。日本人はそのようなことはしない」という認識に立っていました。
 これは、吉田昌郎所長以下いわゆる「フクシマ・フィフティ」(実際は69人)の戦いを海を越えて予測したものでした。その結果フルドレンが作った「最悪シナリオ」はこのようになりました。

・米環境保護局の基準を越えるプルーム(原子力雲)は東京から75〜100マイル(120〜160km)までは届かない。
・横須賀の放射線量は海軍の予測の5%にすぎない。
・放射性物質のうちヨウ素は、海軍の予測の1〜2%に留まる。
・したがって、東京、横須賀、横田が放射能汚染の危険にさらされるリスクは当面、考慮する必要はない。

 この予測が正しかったことは後に証明されます。この新たなフルドレン・シミュレーションで米国は日本の支援体制を組んでいくことになります。
 米国は事故直後から、「米海軍原子炉機関」(NR)による福島、栃木、茨城の放射線モニタリングや、無人偵察機グローバルホークを使った空中からのデータ収拾を行いました。
 福島県いわき市、茨城県石岡市、栃木県宇都宮市・・・指示された地点の放射線量を15分おきに24時間、大型のバンで測定し、それは1カ月間継続されました。

 我が国はこの段階ではモニタリングポストによる計測のみでしかなく、それは福島、茨城に限定されていました。文科省、環境省が、このような広域の放射線量実測をするのははるかに後のことです。
 しかし、その米国情報を受け取る官邸中枢では、「なんでも言ってくれ。全面的に協力する」という米国側の申し出に対して、対米依存と対米排除のアンビバレンツな心理が同時に吹き出ました。

 それは民主党政権が持つ反米的体質と、反面の米国への甘えに似た依存体質が、危機のピークにおいて一気に吹き出したものでした。
 官邸中枢は、原子炉が制御不能になるなかで、一気に米国に依存心が高まっていくのと同時に、そうなった場合の米国の介入の重苦しさと政治的自負心の間で大きく動揺していたのです。
 菅首相や細野氏は、「自分たちでかたづけないと米国に占領されるのだ」と真剣に思っていたそうてす。

 ところが米国はそんな「日本占領シナリオ」などはまったく考慮していませんでした。
 「東電が撤退し、日本政府がお手上げになった場合、米国はどうするのか」の一点に問題は絞られていました。
 「最大限の支援はするが、一体で動くわけではない」というのが米国の基本姿勢であり、その「最後の砦」は自衛隊であって米軍ではないと考えていました。
 だから日本政府の重度の情報隠匿体質は、米国をして「日本側が原子炉や4号炉燃料プールの状況を本当に知らないのか、知っていてなんらかの理由でわれわれと共有しないのか、それがわからなかった」という摩擦につながっていきます。
 また日本側の「指揮所」が見えず、原発事故のような巨大科学の反乱に対して、官邸のだれが科学的知見を持っているのかもつかめませんでした。

 米政府高官はこう述べています。
 「通常は外務省を通じてすりあわせるが、外務省は原発事故では脇役でしかない。ホワイトハウスは、強力でたしかなカウンターパートを探したが、そういう相談相手はいなかった。官邸がその役割を果たすべきなのだろうが、官邸は科学的知見の取り込み方が十分でなかった。」
 米国側はこの対策を立てている日本側の責任者と直接に意見交換したいと願いましたがかないませんでした。
 そして米国が恐れたのは、実は既に日本政府が統治能力を欠いているのではないかという不安だったのです。

■「最悪のシナリオ」の存在

 この大著の白眉は、下巻16章「最悪のシナリオ」の部分です。

 当時、15日早朝の4号炉建屋の爆発と、2号炉格納容器の損傷で大規模な放射能汚染が起きるという心配が現実のものになりつつありました。
 官邸スタッフによれば、官邸中枢の抱いたイメージはこのようなものです。
 「原子炉の中の水が減って、燃料棒がバタンと倒れたら、原子炉の底が抜けて核物質がドーンと落ちる。いずれ地下水に至れば、そこで大規模な水蒸気爆発を起こしてチェルノブイリだ。福島第1、第2、合わせて10基の原子炉が飛び、総理は東アジア全体が大変なことになるとおっしゃっていました。」

 つまり官邸は、この3月15日段階で、連鎖的に多数の原子炉でメルトダウン、メルトスルーが起きて大規模水蒸気爆発が起き、チェルノブイリ級「最悪のシナリオ」事態になることを予想し得ていたわけです。
 この時、菅首相たち官邸中枢は、「日本の半分が住めなくなる。そして米国が再占領する」という悪夢に苛まれていたようです。
 内閣危機管理監は天皇を九州に移すことまで頭をよぎったそうです。
 15日早朝に起きた「菅首相東電怒鳴り込み事件」は、まさにこの時期のことです。菅がいかに度を失っていたのかは、この状況背景を照らし合わせるとよく分かります。

 対策統合本部事務局長の細野は、官邸に専門家を中心とする実行部隊の知恵袋的「助言チーム」を作ることを構想し、近藤駿介原子力委員会委員長にリーダーを依頼します。
 近藤は、原子炉の確率論的安全評価の第一人者であり、この時期、海を隔てて同じく福島事故の分析と対応に苦慮していた米国側原子力機関トップとも人的ネットワークを持っていました。
 近藤は、当時原子力委員会委員長という「推進側」にたまたまいたために、斑目安全委員長の領分を荒らさなかっただけでした。
 しかしおそらく、斑目よりはるかにこの危機的状況にふさわしい人材だったと思われます。

 16日、近藤たちは東電本社に向かいますが、この時近藤たちがもっとも心配したのは、吉田所長が事故指揮を執っている重要免震棟の線量が高くなって使えなくなることでした。
 もしそうなった場合、福島原発からの撤退という、米側がもっとも恐れた事態に発展していき、原子炉はもはや完全に制御不能に陥る可能性がありました。
 この状態になった場合、福島原発の「もっとも弱い環」である4号炉使用済み燃料プールの水が抜けて、炉から取り出して間もない崩壊熱の大きな使用済み核燃料がメルトダウンすることもありえます。
 そして4号炉プールがメルトダウンすれば、1、2、3号炉で今やっている注水による冷却作業は出来なくなり、再び連鎖的に炉心融解が始まります。その場合も同じく撤収のやむなきに到ります。

 近藤たちのチームは徹夜で、原子炉の「最悪のシナリオ」、別名「プランB」を計算し、放射性物質拡散の最悪シナリオをシミュレートしていきました。そして25日、その解析結果が出ました。

[政府「最悪のシナリオ」(正式名「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」]
・現在の20kmの避難区域は当面据え置く。
・4号機の燃料プールが損傷し、コアコンクリート相互作用が起きた場合は、50km圏内の住民を避難させ、70km圏内の住民を「屋内退避」させる。
・他の燃料プールでも同じことが起きた場合は、170kmが強制退避、250kmは自主退避を考える。
・最終手段としてはスラリー(※砂と水を混ぜた泥)による遮蔽がもっとも有効。必要量1100トン/基)

 これを見た細野は、「もしこれが外に出たら、だれが漏らしたのかを徹底的に追究しますからね」とメンバーを見据えて言い、この作業で使った資料、データをすべて廃棄するように命じました。
 この「最悪のシナリオ」は、直ちに既に出来ていた米NRC(原子力規制委員会)の「最悪シナリオ」とすりあわされ似た結果だったそうです。
 そして、この政府「最悪のシナリオ」は、北沢防衛相を経て、統合幕僚監部を中心として「作戦計画」が練られていきます。
 これも突貫作業で行われ、フェーズ1からフェーズ4に至るシナリオの悪化に応じた作戦計画と実施要領を作成していきます。

・フェーズ1。福島第1原発の原子炉か格納容器が爆発するか、あるいは新たな建屋の爆発が起きて、大量の放射性物質が拡散する場合の東電と協力会社社員の撤退と救出作戦。
・フェーズ2。放射性物質が拡散した場合の、福島県全域で実施する陸海空自衛隊の救出作戦。その際、原発から半径50km圏内で自力で避難できない住民を輸送支援する。
・フェーズ3。1号炉から4号炉まで連鎖的にメルトスルーし、膨大な放射性物質の拡散の蓋然性が高くなった時、原発から半径250km圏内の治安活動を行う。対象となる総人口は、3500万人を越えるだろう。
・フェーズ4。複数の原子炉や格納容器が爆発した場合、それに伴って完全な制御不能状態が起きる。そうなった時には、コンクリートによる石棺作戦を実施する。

 自衛隊はこれを基にして、部隊動員計画と車両の準備、フェーズ4の石棺作戦に備えた「キリン」(高所コンクリート車)につけるコンクリート圧送機などを準備し、数百名の隊員は既に訓練に入っていました。
 これがもし実施される事態になれば、首都東京の避難を含む3500万人というチェルノブイリを優に越える世界史上空前の避難作戦になったと思われます。 
 菅は、劇作家の平田オリザに「最悪のシナリオ」に至った場合の「総理談話」の草稿を準備するように要請しました。
 このようにして、密かに政府は「最悪のシナリオ」を想定した動きを開始していくことになります。

■B・5・b 核セキュリティとセーフティ

 さて、「B・5・b」という謎のような言葉をご存じでしょうか。
 この言葉は、14日、福島事故対策にあたっていた米国NRCの技術スタッフの一人がこれを利用できないかと発言したことに発しています。
 「B・5・b」は2002年2月にNRCが作成した原発事故・核テロにおける減災対策連邦基準B5条b項のことです。

 B・5・bは
・第1段階。想定される事態に対応可能な機材や人員の準備。
・第2段階。使用済み燃料プールの機能維持及び回復のための措置。
・第3段階。炉心冷却と格納容器の機能の維持及び回復ための措置。

 この際に、第2段階では
・サイト内では給水手段の多重化
・サイト外では給水装置の柔軟性と動力の独立性
を求めています。

 また第3段階では
・原子炉への攻撃に対する初動時の指揮命令系統の強化
・原子炉への攻撃に対する対処戦略の強化
を求めています。

 一読して分かるように、米国は、核テロをも想定しています。テロリストがサイト内に侵入し制御室を制圧し、制御室へのアクセスが不可能になるといった事態です。
 そして全交流電源と直流電源が失われてしまう事態を想定して立てられているのが、この「B・5・b」なのです。

 一方、日本警察の担当者も核・原発テロは4つのシナリオを考えていました。
㈰核施設に潜入して、中央制御室に立てこもり、要求を受け入れないとベントするか爆破する。
㈪9.11スタイルで、乗っ取った航空機で核施設を自爆攻撃する。
㈫電源喪失などの核インフラを切断する。
㈬配管・パイプを切断する。

 テロリストという部分を除けば、㈬こそがまさに福島第1原発事故そのものです。ですから米国NRCは真っ先にこれを援用できると考えて、日本側に打診したわけです。
 しかし、日本側にはそのような「B・5・b」が求める安全防護設計による減災対策は存在しませんでした。それはありえないこと、「想定外」だったからです。
 明石真言放射性医学研究所緊急被曝医療研究センター長は、そのことを事故時に深く悔いることになります。

 今まで我が国は「核テロ訓練」らしきものはやっていました。しかしそれは2010年APECの時の訓練のように、「成田空港に外国から放射性物質が大量に持ち込まれたという想定は止めて下さい」と釘を押され、セシウム検出訓練もできず、ただ救急車がサイレンを鳴らして走り回るだけのものでした。
 あるいは、新潟県のように、原発テロを「想定」しておきながら、県から「被曝者が出たという想定は止めて下さい」、「安定ヨウ素剤は配布しないで下さい」といった現実離れしたものでした。

 2002年既に米国はこの「B・5・b」を日本政府に伝えて協議していますが、原子力安全・保安院は関心を持ちませんでした。
 米国代表団は、東海村や大学の核研究施設を訪問し、東海村ではプルトニウムに南京錠がかかっているだけといった有り様にショックを受けます。原発の警備は、丸腰の門番が行っており、SAT(警察特殊部隊)配備などは検討さえされていませんでした。
 いや、提案はされたのです。IOC事故を受けて茨城選出の議員は、警備員に武装させることを提案しましたが、警察が抵抗し、結局武装テロリストに攻撃された場合、駐在のお巡りさんにご一報をということになってしまったようです。もはや笑うしかありません。

 日本は、このように原発のセキュリティ(保安)が、セイフティ(安全)の強化につながるという思考が大きく欠落していたのです。
 自衛隊や警察のテロ警備担当者からすれば、核テロ対策をしておけば、福島第1原発事故はまったく違った対処があったのにという苦い思いが残りました。

 1990年代から2000年代初めに核テロ問題を手がけた防衛省高官はこう述べています。
 「東京電力に対して、原発が止まって、電源が切れた時にはどうするのかということで、何回も訓練をしようという話を持ちかけたように理解している。それに対して、規制官庁サイドがそんなことをやったら大変だということで出来なかった、という部分がある。」
 ここでいう「規制官庁」とは、原子力安全・保安院を指します。
 そしてこれらの減災対策は、「官僚制度の縦割り構造と、リスク回避のメンタリティが壁となって、脅威への準備ができていない」(シェファー米駐日大使が本国に出した報告書)現状のまま、我が国は3.11当日を迎えてしまうことになります。

 この縦割り構造と縄張りの壁は、本書上巻に描写されているように事故が燃え盛っている中でも随所で見られました。
 福島第1原発正門の守衛たちは、外部電源を確保するための電線敷設をしようと駆けつけた協力会社の作業員の入構を連絡を受けていないと拒否し、支援要請を受けた自衛隊は、東電から空撮した地図を受けとることができず、東電からの政府への情報は遅れに遅れました。
 指揮系統はいくつもの系統にも分かれて相互の連絡を欠き、菅首相の私的独走も手伝って乱れ続けました。

 斑目春樹原子力安全委員長は船橋のインタビューに答えて、次のように語っています。
 「B・5・bなんかに至っては安全委員会は実はまったく知らなかった。今回初めて知って、ああ、これももっとちゃんと読み込んでおくべきであった。あれがたまたま核セキュリティのほうの話としてあったものですら、安全委員会の所掌ではなくて原子力委員会の所掌で・・・」。
 唖然とするような無責任な言い逃れです。このような人が日本の原子力安全行政のトップだったのです。

 原子力安全・保安院はこの福島事故で醜悪な姿をさらしました。
 本書上巻第1章は、本来原発にいなければならない保安院検査官が爆発と共に、オフサイトセンターに逃亡し、しかもそこの放射線量が上がるとそこすらさっさと逃げ出してしまった姿が描かれています。
 これは、多くの作業員、自衛隊、消防、警察の人々が退くことなく留まって戦っていたにもかかわらず、国による事故現場の把握をいっそう困難にしたまさに背任行為でした。

 同じサイト敷地内で懸命の注水活動を行っていた自衛隊化学特殊部隊の指揮官は、この保安院検査官たちを吐き捨てるようにこう評しています。
 「われわれの言葉で言えば、連中は敵前逃亡をした。保安院というところは逃げても罰則規定を作っていない。」
 我が国にNRCの「B・5・b」といった減災対策を導入することを妨げ、事故においては現場から真っ先に逃げ出すような国家機関、それが原子力安全・保安院でした。この惨めに逃亡した保安院検査官たちの姿こそが、日本の原子力安全・規制行政そのものを象徴しているようです。

■SPEEDIはなぜ隠匿されたのか

 SPEEDIがなぜ隠匿されたのか、発表されてもどうしてこんなに遅れたのかについて長い間疑問に思っていました。本書に入る前に、なにがあったのか当時の状況を見てみましょう。政府事故調報告書はこう書いています。
 (政府の避難指示は)ともかく指示範囲の外に逃げよと言っているのみで、住民はどの方向にどの程度避難すれば安全かわからないまま、かつ市町村長が手さぐりで行った判断に従うしかなかった」

 SPEEDIはそもそもはスリーマイル島原発事故の翌年の1980年から、過去30年間に渡って巨額の費用を投じて作られたもので、まさに3.11の為に作られたようなシステムでした。
 単に避難指示だけではなく、政府の事故対応を決定する意味でも極めて重要な基礎データだったはずです。
 しかし、ご承知のようにSPEEDIの結果が「国内向けに」発表されたのが、3月23日午後9時の原子力安全委員会の記者会見でした。事故から遅れること12日後のことです。

 ここで「国内向け」と書いたのは、気象庁はIAEAには事故直後から逐次報告していたからです。
 IAEAは、独自に各地で放射性物質の計測を行っており、福島第1原発から30kmの飯館村での計測で、避難勧告の2倍の値が出たというニュースは、私たち国民を恐怖に陥れました。
 政府が出す4回も変化し、そのつど拡大する避難範囲以外にも、実は汚染地域が拡がっているのではないか、と思わざるを得なかったからです。

 国民はパニックになり、ミネラルウォーターが買い占められ、ネットで見るドイツ気象庁シミュレーションと早川マップに釘付けになります。
 しかし実は、気象庁はSPEEDI情報を把握しており、それはIAEAにだけは連絡していました。IAEAフローリー事務局長の30日のウィーン本部での会見は、実は気象庁の情報を基にしています。
 一体どこの国の官庁なのか、その倫理性すら問われます。

 政府事故調報告書はSPEEDI問題について3つ要点を上げています。
㈰文科省は3月12日から16日にかけて、38件のSPEEDI計算をして、結果を経済産業省の緊急時対応センター(ERC)に送付した。
㈪原子力安全委員会は、3月12日に原安技センターに計算を依頼した。しかし、あくまで内部の検討のためであるとして、結果は一切委員会の外に出さなかった。
㈫保安院は、3月11日から15日にかけて、45件の予測計算を行った。12日午前1時半過ぎに、官邸地下に詰めていた保安院職員に送った。

 その結果は内閣官房職員を介して、官邸地下にいた各省庁職員に配布し共有した。しかし、この情報は内閣官房職員も保安院も一切、菅総理(官邸5階)には報告しなかった。
 つまり、気象庁はSPEEDI情報を知りながら、公表せず、保安院は計算しておきながら国民はおろか、官邸にも伏せていたということになります。

 前置きが長くなりましたが、「カウントダウン・メルトダウン」はこのSPEEDIの内幕を綿密な取材の積み重ねで解いていきます。
 文科省は、事故の翌日から単位量放出に基づいた予測以外にも、様々な状況を予測して計算を行ってきました。
 そのシミュレーションには、原子炉1基分のすべての飛散、複数の飛散、すべての原子炉からの飛散などが含まれていました。
 同時に世界規模の広域拡散シミュレーションであるW−SPEEDIすら動かして計算しています。

 ところが、文科省内部に動揺が生まれます。
 このSPEEDIシミュレーションは避難に利用できるほど、飛散の実態を反映したものではないし、かといってまったく役に立たないものでもない、だから公表してこなかったのだか、いつまでも持っていると追究されるのではないだろうか・・・。
 当時原子炉の水素爆発によって、SPEEDIがにわかに注目を集めていました。このままでは、厳しい避難民と世論の批判を浴びかねない、さっさとよその官庁に渡してしまおう、そう文科省は考えたのです。
 公表しなかったことを情報隠蔽だと批判され、被曝の責任まで追究されてはたまらない。かといって、今までのシミュレーションを全面公開すればパニックになる、それの責任をとらされてたまらない。
 そこで枝野官房長官のモニタリングデータの役割分担指示(「枝野仕切り」)にかこつけて、SPEEDIを原子力安全委員会に「裏口移管」したのです。
 斑目委員長はこれを文科省の「奇襲作戦」と呼んでいます。
 その上、文科省はSPEEDIのデータセットを安全委員会に委譲せず、文科省HPで見ろとまで言い、安全委員会スタッフはひとつひとつ手書きでそれを書き移すことになります。

 一方当時、「(官邸は)みんなプラント収束しか念頭にない」、と「助言チーム」の小佐古(当時内閣官房参与)には思えました。
 小佐古は、鹿野農水大臣や、細川厚大臣と立て続けに面会し、次のように訴えました。
 「最初から食品の放射能検査をやって下さい」、「放射能検査機が自衛隊の大宮(化学防護隊)に2000台あります。あれを直ちに取り寄せていただきたい。」
 小佐古はチェルノブイリの現地調査の経験から、「チェルノブイリをそのままなぞって先回りすれば事故被害を緩和できる」と考えていたのです。
 小佐古は内閣危機管理監にも会いますが、「全部保安院に任せてある」と答えが返って来るのみでした。小佐古は、「保安院はプラント(事故収束)は出来るが、環境影響、被曝はどうなのか」と強い不安を覚えました。彼のこの不安は的中します。

 官邸の反応は鈍く、そもそも彼ら政治家たちはSPEEDIの存在そのものを知りませんでした。枝野(当時官房長官)すらそれを知ったのは、15日頃に「マスコミかなんかから」知ったと明かしています。
 その後、枝野は文科省、安全委員会、保安院にSPEEDIの実態を尋ねると、いずれも「放出源情報がないので動かしていません」との答えでした。枝野は後に、「実際使えない情報として、私にまで隠していた」と文科省を非難することになります。

 海江田経産大臣が知ったのは、枝野から遅れて5日後の20日頃のことでした。実際、当時保安院は、11日に2号機のベントを仮定した環境予測をして以来、何十とSPEEDIの試算結果を出していましたが、一切海江田には報告していませんでした。
 他の関係部署にいた政治家たちもこの時期の前後別々にSPEEDIの存在を知り、官僚に問い合わせています。そしてその答えは決まって、「ソースデータがないから使えない。動かしていない」という偽りの回答でした。

 このような官僚たちの対応は、「環境放射線量モニタリング指針」に違反しています。
 「モニタリング指針」はこう述べています。
 「緊急時には、放出源情報を迅速かつ性格に入手する必要があるが」、「一般に、事故発生後の初期段階において、放出源情報を定量的に把握することは困難であるため、単位放出量またはあらかじめ設定した値による計算を行う」。
 また、この指針に基づいて2010年10月の浜岡原発の原子力総合防災訓練でも、ヨウ素の放出量を単位放出量としたSPEEDIの予測計算は現実に使われています。

 かくして政府は、15日から16日にかけての福島県内から北関東一円に降下した放射線量ピーク時期にこのような発表をしてしまうことになります。
 16日午後5時56分、枝野官房長官記者会見。「直ちに人体に影響を及ぼす数値ではない」。
 これが、後々まで日本政府の情報隠蔽体質として国内はおろか、国際社会からも強い批判を受けるSPEEDI隠匿事件だったのです。

 (筆者は茨城県・行方市在住・農業者)

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