~第8回 賀川豊彦論~

■【河上民雄20世紀の回想】(8)       河上 民雄

第8回 賀川豊彦論

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 本稿は2010年9月8日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党国
際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。9月8日のインタ
ビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏および岡田が参加した。

◇質問:今回は、日本社会党の結党呼びかけ人の1人であり、日本の社会運動の
草分け的存在である賀川豊彦氏についてお話をうかがおうと思います。賀川氏が
ノーベル賞候補にノミネートされていたことが最近、ニュースになりましたが、
賀川氏がどのような人物なのかよくわからない方も今日では多いと思いますので、
まず、賀川氏がどういう人物なのかお教えください。

●河上:賀川豊彦氏は、1888年7月10日、神戸市で若くして財をなした船舶業者
の子として生まれました。母は正式な妻ではなく、そのことが賀川氏に大きなコ
ンプレックスを抱かせることになります。実の両親は賀川氏がまだ幼い時に亡く
なり、賀川氏は、徳島で自分と血がつながらない、父の正式な妻の下で育てられ
るという過酷な少年時代を送りました。やがて、アメリカ人宣教師マヤス博士や
ローガン博士の影響でキリスト教に入信し、明治学院を経て神戸神学校に入学し
ました。神学校在学中の1909年のクリスマス・イブに賀川氏は、寄宿舎から神戸
市新川のスラムに移り住み、殺人事件が起こって誰も住みたがらない3畳の部屋
を借りて、献身の生涯が始まります。

 クリスマスイブに教会に行けない人々にこそイエス・キリストの福音が必要だ
という信仰からでした。途中、アメリカに留学した約3年の時期がありますが、
それから10年にわたって賀川氏は新川のスラムで貧しい人々のために尽くし、そ
の人々のためにキリストの教えを説き続けます。不衛生な環境で生活したため、
トラホームで片目を失うほどでした。

 印刷物を注文した印刷所でもお説教をしますが、そこで働いていた労働者の芝
春子(ハル)さんと知り合い、結婚、二人の生活が新川で始まります。やがて、
賀川氏は神戸の労働者が工場を解雇されて貧窮し、スラムに流れ込んできている
ことに気づき、貧しい人々を救うためには労働問題を解決しなければならないと
考えるようになります。1921年、神戸市の川崎・三菱造船所の労働者のストライ
キを指揮し、賃上げと労働組合の公認を要求します。ストライキの参加者は約3
万人にものぼり、戦前最大規模の労働争議となりました。それまで労働組合運動
の経験のなかった賀川氏がそれだけの規模の労働者を動員できた背景には、アメ
リカ留学中にアメリカの先進的な労働組合運動を見聞したこと、また、スラムに
おける活動によって培われた賀川氏の人望があったと思われます。

 しかし、ストライキは資本家だけでなく、警察のほかに軍隊も出動して労働者
側の敗北に終わり、賀川氏も警察に検挙されてしまいます。賀川氏は争議は自分
の仕事ではないと考え、以後、日本農民組合や全国水平社の結成に尽力します。
1923年、関東大震災が起こると、小さな船を雇って神戸から東京に向かい、東京
で被災者救援運動をおこないました。この運動が後に東京・深川の生活協同組合
に発展します。
 
  戦後は東久邇内閣の参与となって「一億総懺悔運動」を担当し、さらに貴族院
議員に選ばれますが、GHQによって登院停止の命令が出たため、やむなく全国伝
道に乗り出し、多くの人々をキリスト教に入信させることに成功しました。この
とき入信した人々は賀川氏の魅力にひかれて入信した方が多く、その後キリスト
教から離れた方も多かったのですが、一方で多くの優秀な牧師や神学者も生まれ
ています。また、第4回で触れた世界連邦運動に携わったりしました。1947年と
49年にノーベル文学賞候補、1954年から56年まで3年連続でノーベル平和賞候補に
選ばれています。1960年4月23日、71年におよぶ生涯をとじました。

◇質問:戦後、賀川氏が貴族院議員に選ばれたのはなぜですか。
●河上:新憲法の審議を控え、日本政府には新憲法案に賛成するようなリベラル
な貴族院議員を増やしたいという目論見があり、日本社会党の結党呼びかけ人に
勅撰議員にならないかという打診をおこなったようです。まず、安部磯雄氏と高
野岩三郎氏に打診がありましたが、安部氏は「かつて、貴族院の廃止を綱領に掲
げた社会民主党の綱領を書いた自分が、いかに世の中が変わったといっても、貴
族院議員になることはできない」という理由で辞退し、高野氏は「年寄りの出る
幕ではない」という理由で辞退しました。高野氏はその頃、「日本共和国憲法私
案要綱」を発表しており、共和制論者として貴族院議員になることは出来ないと
考えておられたのではないでしょうか。しばらくして、今度は賀川氏に打診があ
り、賀川氏は「国鉄の無料パスがもらえるなら、それでいいじゃないか。国鉄の
無料パスは伝道に役に立つ」と冗談を言って引き受けたのです。

◇質問:賀川氏が貴族院議員に選ばれた時、GHQから登院停止命令が出たのはな
ぜですか。

●河上:1942年、賀川氏の教えの影響を理由に兵役拒否を申し出る青年が現れた
ため、賀川氏は憲兵隊に呼び出されて9日間、厳しく尋問されました。以後、賀
川氏は日本政府への協力を余儀なくされます。やがて、戦場でアメリカ兵が日本
兵の遺体から頭がい骨をえぐりだし、土産として持ち帰っているという噂が広ま
ると、賀川氏はラジオ・トウキョウでアメリカ兵の残虐行為を聖書の言葉を用い
て非難する演説をおこないます。アメリカ側ではラジオ・トウキョウの放送をす
べて記録しており、賀川氏のこの演説がアメリカの逆鱗に触れたようです。GHQ
は賀川氏が命令を無視して登院した場合は公職から追放しようともくろんでいた
ようですが、賀川氏は国会議員に与えられる国鉄の無料パスを利用して全国伝道
を始めます。賀川氏の冗談が本当の事になってしまったのです。

◇質問:賀川氏はノーベル賞候補に選ばれるほど、世界的に有名な人物ですが、
日本国内での知名度は海外ほどは高いとは思われません。それはなぜだと思われ
ますか。

●河上:賀川氏が有名になった背景には彼の自伝的小説『死線を越えて』がベス
トセラーになったことがあります。この本は各国語に翻訳されて、賀川氏の名が
世界中に広まるきっかけとなりましたが、他に賀川氏の名を広めることになった
書物があります。それは、1936年に賀川氏がアメリカで英文で出版した
『Brotherhood Economics』です。この本は世界恐慌後の不況に苦しむ世界に対
して、社会主義でもないファシズムでもない第三の道を説いた書物で、今日から
考えれば、北欧諸国の社会民主主義と通底するものがあります。
 
  この本が当時どのような反響を呼んだのかはっきりしたことはわかりませんが、
1つエピソードを紹介したいと思います。1987年8月に、私はインドのニュー
デリーで開かれた「反アパルトヘイト国会議員世界大会」に社会党を代表して参
加しました。この会議の出席者のためのパーティーで私はスウェーデン社会民主
党のスヴェンソン氏(Evert Svensson)に「あなたは賀川豊彦氏を知っているか
」と話しかけられました。私は父と賀川氏が親しい関係であり、私自身、若いこ
ろに社会運動家としての賀川氏について小論を書いたことがあること(「賀川豊
彦と川崎争議」『近代日本を創った百人(上)』毎日新聞社、1965年)などを手
短に話しました。すると、同氏は「自分がスウェーデン社会民主党に入党したの
は、賀川氏の本を読んだのがきっかけだった」と言い出しました。

 あいにく、そのときに私はその本の名前を聞くのを忘れてしまったのですが、
賀川氏の献身100年を記念して、2009年に『Brotherhood Economics』の日本語
訳(野尻武敏監修 加山久夫・石部公男訳『友愛の政治経済学』コープ出版)が
出版されたときに、スヴェンソン氏が言っていたのは、この本のことではないか
と直感しました。そこで、スヴェンソン氏に「あなたがスウェーデン社会民主党
に入党するきっかけとなった本はこの本のことと思われる。この本はようやく日
本語に翻訳され、日本の読者も読めるようになった」と連絡しました。

すると、スヴェンソン氏から早速「この本の原著の入手先を教えてほしい」と
連絡がありました。スヴェンソン氏の反応を見ても、『Brotherhood Economics』
がどれほど広く読まれたのかがわかります。一方、なぜかこの本は最近まで日本語
に翻訳されず、この本の反響についても日本では紹介されていませんでしたので、
肝心の日本人は賀川氏の思想についても、それが世界的にどのような影響を与えた
のかも十分知ることは出来ませんでした。このことが海外に比べて日本では賀川氏
の知名度が必ずしも高くならなかった理由であると思われます。

 また、賀川氏が色々な社会運動を起している一方で、発足日ならずしてその運
動から手をひいてキリスト教の宣教者の仕事に戻っていることが、賀川氏の評判
が日本ではあまり高くならない原因になっているとも考えられます。日本では一
筋の道を行った人が評価され、逆に色々と首を突っ込む人は評価されません。賀
川氏は後者の典型と言えます。

 賀川氏は「妾腹の子」というコンプレックスから、自分が有名になることに執
着していたと言われています。その執着の強さは恩師であるマヤス博士に「フェ
イマス有名さん」とあだ名をつけられるほどでした。このような賀川氏の目立ち
たがり屋的なところや、猛烈な勉強家で素人学問ながら医学や地球物理学など本
職以外の分野でも、知識を披歴する賀川氏(ご本人にはその気はなかったかも知
れませんが)の姿勢が多くの人々の反発を招き、賀川氏への共鳴が日本で十分広
がらなかった原因になったという可能性も考えられます。
 
  賀川氏自身に問題の認識や学問的にも色々な問題があったことは事実ですが、
賀川氏が様々な社会運動に火をつけなければ、戦前の日本において様々な社会運
動が花開くことはなかったでしょう。さらに賀川氏は社会運動に火をつけるだけ
でなく、資金的にも社会運動を援助しました。先程述べたように賀川氏は自伝的
小説『死線を越えて』がベストセラーになりました。これによって賀川氏は莫大
な印税を手にしましたが、そのほとんどを社会運動に投じています。

 文章を書いて人々に檄を飛ばすだけでは、社会運動は発展しません。賀川氏の
ように実際に運動を始める人がいて、初めて日本で社会運動が花開いたのです。
こんな話があります。中央公論社創業80年を記念して、『近代日本を創った百人』
を10の分野からそれぞれ10人ずつ選んだときのことです。賀川氏は「社会運動」
の分野で10人の一人に選ばれましたが、「宗教人」の分野には賀川氏は入って
いません。

 また私が若い頃、大杉栄の研究をしていた時、社会運動研究の雑誌で賀川氏を
酷評する座談会を読んだことがあります。ところが、それを聞いていた出席者の
一人であった荒畑寒村氏が「ならば、君たちは新川に10年住めるのか」と言うと、
同席者たちは皆黙ってしまいます。賀川氏と荒畑氏はイデオロギー的には対照
的な2人でありますが、共に社会運動家として、実際に活動をおこなうことが重
要であるという思いを両者は共有していたことをこのエピソードは示していると
思います。

◇質問:先程、スヴェンソン氏のエピソードのところで、賀川氏と河上丈太郎先
生が親しかったという話が出ましたが、賀川氏と河上丈太郎先生の関係について
お教えください。

●河上:父が賀川氏の名前を知ったのは、賀川氏が最初の著書『貧民心理之研究』
を出版したころ(1915年)です。この本を出版した警醒社の福永社長が立教中
学で父と同級生で互いに心許す親友であったので、出版前の『貧民心理之研究』
の原稿を見せられ、出版に値するかの相談を受け、まだ無名だった賀川氏の名前
を知ったのです。やがて、父が関西学院の教授に就任して、神戸に赴任すると、
賀川氏は年齢は父とほぼ同年でしたが、すでに有名人で、やがて運動を通じて賀
川氏と知り合いになりました。

 父が2回目の総選挙に落選し、病に倒れ、末の娘も病死、失意のどん底にあっ
たとき、賀川氏は今の西宮の瓦木村にあった自分の家の1軒を療養のために父に
提供するなど、父の政治活動を支援しました。そのような賀川氏の支援には、父
を杉山元治郎氏とともに政治の世界における賀川氏の代弁者としようという思惑
があったと思われます。しかし、父は賀川氏の政治的代弁者とはならず、自分の
道を貫きました。

賀川氏に対する父の尊敬の念は変わりませんでしたが、賀川氏への何かの案内状
の宛名を私が「賀川豊彦様」と書いたところ、賀川氏あての手紙には必ず「賀川
先生」と書くよう、父に注意されたことがあります。そのとき私の深読みかもし
れませんが、父には杉山元治郎氏とはちょっと違った賀川氏との距離があったよう
に感じました。

◇質問:最後に、賀川氏の思想と活動の意義についてうかがいたいと思います。

●河上:18世紀後半、イギリスで産業革命が起こり、労働者階級が出現するよう
になると、英国国教会の牧師、ジョン・ウェスレーは労働者への伝道を始め、日
曜日にも仕事がある労働者たちが教会に来れるように、日曜日以外にも組会(く
みかい)を組織し、それを通じ地域に密着した伝道活動を展開しました。やがて
ウェスレーを中心とする勢力はメソジスト教会として英国国教会から独立してい
きます。大正期の日本は産業革命期のイギリスに情勢が似ており、急速に産業が
勃興して大量の労働者階級が出現し、その多くが困窮していました。そうした中
でクリスマスに教会に来られない人々と共に生活しようと志した賀川氏の行動は
ウェスレーに匹敵するといえます。

 また、賀川氏は全国水平社の結成に尽力しましたが、結成の際に発表された「
水平社宣言」に賀川氏が手を入れている可能性があります。水平社宣言は僧侶の
子であった西光万吉氏が起草したと言われていますが、宣言の中に「荊冠」とい
ったキリスト教的な表現が散見されるからです。もしも、水平社宣言の起草に賀
川氏がかかわっていたとすると、賀川氏は部落解放運動にも大きな影響を与えて
いたということになります。また、賀川氏の名が今日の日本で忘れられている中
で、生活協同組合運動に携わる方々は、今日もなお賀川氏の思想をよく研究し、
後世に伝える努力をしています。このように、賀川氏は今日もなお日本の様々な
社会運動に大きな影響を与えているのです。

 生活協同組合運動だけでなく、様々な社会運動が日本で発展する基礎をつくっ
たという賀川氏の功績が今後、生活協同組合運動関係者以外にも注目されるよう
切望してやみません。生協運動以外のあらゆる社会運動で賀川氏は当時猛烈な批
判を受け、今日でも批判は続いていますが、もし賀川氏がいなかったら大正期に
あれだけの社会運動が勃興したであろうか、ということだけは言えると私は考え
ています。

           (元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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