■落穂拾記(15)                     羽原 清雅

鴎外 通俗ばなし <下>

──────────────────────────────────

 森鴎外の話をもう少し続けたい。
 鴎外の軍医としての小倉勤務は世紀をはさんでの1899(明治32)年6月
から2年10ヵ月だが、40歳前後の鴎外が地方都市での生活によって新たな目
を開いたことは以前に書いたとおりだ。

 当時の第12師団軍医部長といえば、地元ではほぼ最高のポストであり、軍部
の中央では「左遷」だったとはいえ、九州では、文壇という大きな舞台で活躍し
ていた人物として尊敬され、仰ぎ見るほどの存在であったことに間違いない。

 ところが、彼の周辺では、いかがわしい新聞記者らがいて、鴎外を怒らせるよ
うなことがいくつも続いていたのだ。当時もきちんとした記者たちは多かったが、
一方で横柄、たかり、ケンカの売り込み、トラの威を借りてすごむ、弱みに付け
込むなど、ゴロつきのイメージも抜けなかった。このほか、泥棒騒ぎに遭ったり、
出身地の津和野人の面倒を見たばかりに迷惑を蒙ったり、といった人間くさい事
態にもぶつかっている。

 ただ、鴎外離倉時の送別の宴では、門司新報から名産の石硯、福岡日日新聞か
ら博多織などが贈られたほか、弁護士、政治家、画家ら多彩な顔ぶれに混じって、
親交のあった新聞記者らも参加しており、良い交わりがあったことを彷彿とさせ
る。

≪鴎外を悩ませた記者や泥棒たち≫

 まずは「小倉日記」や在京時の日記から、鴎外の蒙った迷惑を拾ってみよう。

1.東京経済雑誌社員と称する小松埼幹一なるもの。
 「予に帰京の資を給せんことを求む。予辞す」とある。理由もないタカリであ
る。2週間ほど経って、鴎外が小倉の駅に見送りに行くと、この小松埼が汽車の
一等室から窓の外を覗いているのを発見、「予その面を凝視すること久しかりし
に、其人恬然意に介せざるものの如きなりき」と唖然としている。そしてさらに
「その変詐 実に恐るべしとなす」と書いている。
<1900(明治33)年3月29日>

2.中央公論記者と称する原田芳丸。
 朝方、小倉駅で小松埼を見かけたその夜のこと、鴎外はイギリス人宣教師ジェ
ムス・ハインド宅に行くと、原田がそこまで追ってきて「盤纏を借らんと欲す。
その態度強請(ゆすり)に近し。叱して遣り帰す」ということがあり、相次ぐ記
者の姿にさぞ怒りを覚えたことだろう。
  <同年4月11日>

3.東京朝日新聞記者 村山定恵。
 鴎外が陸軍軍医総監・陸軍省医務局長のころ、陸軍担当の新聞記者と懇談する
北斗会という会合が持たれ、これに出席した際のこと。村山は「小池は愚直、汝
は軽薄」と叫んで、鴎外に暴行し、村山と鴎外は赤坂・八百勘の庭の飛び石の間
に倒れて左手に怪我をした、という。翌日には、大和新聞などの記者が見舞いに
来ており、仕事には支障はなかったようだ。数日経って、村山が謝罪に来ている。

 さらにその数日後、旧知なのだろうか、東京朝日の土屋元作が社を代表して謝
罪に来て、「村山は退社せしめず、唯陸軍省に出入りすることを停むと云ふ」と
日記にある。鴎外としては朝日の処分は甘い、と感じていたようにも受け取れる。
取材先の要人に怪我をさせた記者に対して、いまの朝日なら、どのような処分を
するのだろうか。
  <1909(明治42)年2月2日/8日/12日>

4.泥棒遭遇のこと。
 空巣だろうか、外出中の夜、「妻の金剛石を嵌めたる金指輪、金時計、予の銀
時計及金70円許を奪ひて去る」。翌日の夜に警視庁から警部らが捜査に来るが、
数日後に盗まれた宝石を嵌めた金の指輪が、深川万年町からの小包郵便で戻って
きている。一部だけか全部か、新聞で報道されたかどうかはわからないが、泥棒
は鴎外宅を襲ったのかと知って恐れをなしたのだろうか。善人のドロちゃん、と
いうべきか。
  <1908(同41)年10月27日/31日>

 鴎外は小倉時代にも、泥棒騒ぎに巻き込まれている。被害はないのだが、気に
入っていた女中の木村元(もと)の甥である、幼い川村速水が泊まりに来た夜の
こと、「盗あり。雨戸に錐す」と書いている。近隣にでも盗難事件があって、ほ
どほどだった戸締りを強化したのだろうか。
  <1900(同33)年8月30日>

5.室(むろ)卓爾(1879~1937)のこと。
 この人物は、鴎外が満10歳の頃に、オランダ語の手ほどきを受けた、いわば
師である室研(むろ・きわめ)の4男である。

 この卓爾は津和野出身で、日清戦争後の北清事変(1900)の際に一兵士と
して北京城に進駐しており、このときの写真1葉が筆者の手元にある。その後、
食い詰めたのであろうか、ヤマ師として北海道に行って芦別で結婚したものの、
東京に舞い戻ってきた。ここで、父親の研は教え子でもある鴎外を訪ねて、就職
の斡旋を頼む。

 「帝室林野管理局に往き、長官南部光臣に面し、室研の子卓爾の事を依頼す。
室研に書を遣る」。さらに12日後に「・・・室卓爾、南部光臣に書を遣る。庄
田藤治に室の事を言ふ。室卓爾来訪す」。そして10日後には「室卓爾来訪す」
とある。

 恩師の子、という配慮はあろうが、鴎外はもともと出身地の津和野人に対して
は、きわめて親切だ。南部はドイツに出張した時に滞在中の鴎外が面倒を見たこ
とで知り合ったのでは、と思われる。のちに貴族院議員になっている。また、庄
田との関係は不明だが、彼は陸軍少将で、のちに基隆と釜山(鎮海湾)の要塞司
令官と、その間陸軍運輸部本部長を務めた人物。
   <1915(大正4)年10月13日/25日/11月3日>

 この結果がどうなったかはわからない。ただ、のちに鴎外の末弟潤三郎の妻思
都子(シヅ・静子)が次のように漏らしている。ちなみに、思都子は津和野出身
で、子どものころから4歳ほど年上の卓爾を知っていたに違いない。

 「卓兄さんというのが、おりました。鴎外さんを訪ねて行って、迷惑をかけた
んですけえね。・・・・就職のことです。その外に、鴎外さんが、心配して、成
功してよかったと言う人はないのですから、鴎外さんも郷土の人だから、と言う
ので、最初は力を入れたのだそうですが、皆結果が悪かったのだそうです。それ
で、鴎外さんが、わしは、郷土の人たちに知らんと言うことになってしまったの
です。

 すべての人が、皆悪いとか言うのではないのだけれども、たまたま、鴎外さん
をたよって来た人が、そう言う人だったのです。もう、わしは、津和野を信用せ
んと言っていられたわけです。

 そして、鴎外さんの宅は、玄関番が、何人あっても足らないという状態で、直
接に面会を求めて来る人、一々会っていては身体がいくらあっても足らない。あ
らゆる方に面会謝絶と言うような意味になって、中には会いたい方もあろうけれ
ども、それに一々応対し切れないと言うのです。本当に色々の方面の人が行きま
すので、一人位は、それについていなくてはならないと言うのです。役所で鴎外
さんはお会いになるのです。普通は、家庭に訪ねて来られる方は、本当に限られ
た方しか居られません」(「島根地方史研究」20号=1964年12月刊)

 ちなみに、室研が1919年に亡くなったとき、鴎外は香典を贈っている。
    
 じつは、この迷惑をかけた卓爾は、筆者の大叔父である。室研は筆者の曽祖父
で、祖父は中山貞人(室研の長男)で医師となって中山家に養子入りした。室家
は、4男で貞人の弟である卓爾が継いだ。室研は津和野藩の藩医4代目で、維新
前にオランダ医学を学び、子の貞人も跡をついで開業医となったものだ。
                                以 上

 (元朝日新聞政治部長)

          目次へ