-上手な嘘つきは良い嘘つきである-

■【横丁茶話】                  西村 徹

-上手な嘘つきは良い嘘つきである-

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  「社会はある程度の洗練された嘘と、思った通りをそのまま言はないといふ基
礎の上にのみ存在し得るものであります」

 林語堂という人の言葉である。林語堂は中国近代化のために魯迅や周作人など
とも行動を共にしたことのある福建出身の文人である。1933年3月4日に「支那基
督教青年會における公民講座」での「言論の自由に就いて」という講演に出てい
る。出典は吉村正一郎訳『支那のユーモア』(岩波新書・1940年)による。八十
年近く前と今と、事情はすこしも変わっていないだろう。

 実はこれに先立つ導入部があって、順序どおりに紹介してもよかったのだが、
そうするとこの結びの部分の印象が薄くなるので、先ず結び部分を題辞のような
格好で掲げた。しかし導入部も省くに惜しいので後先が逆になるが、やはりここ
に紹介しておく。

 「言論の自由についてお話致したいと思ひます。これは大きな問題であります
から、私はできるだけ自由にお話するつもりであります。しかしながら、ご承知
のごとくこれは不可能なことでありまして、と云ひますのは、もし誰かが心中を
これから洗ひざらひ申し上げるなどと云ったら、誰しも怖れをなすからでありま
す。このことは、言論に真の自由などといふものがないことを證明してゐます。
誰にしたところで、隣人たちのことをどう思ってゐるか、当の相手に知られてか
まはないといふわけには行きません」

 思わず拍手喝采ではないか。この講演のおこなわれた1933年はどんな時代だっ
たか。31年満州事変、32年1~3月第一次上海事変、そして日本では5.15事件。翌
33年2月には国際連盟脱退と小林多喜二拷問虐殺事件があり、5月には鳩山一郎文
相の手による京大滝川事件があり、6月には大阪市天六交差点でのゴーストップ
事件が起きている。33年3月、前年の第一次上海事変以来日本軍部が忌まわしい
影を落としている上海で、かくも洗練された大人の智惠が語られていたのである。

 社会生活を営む以上、完全な言論の自由など、誰とも口を利く必要のない隠遁
者を除いてはありえないことである。どうしてもものを言わないではすまない社
会関係の最小単位は夫婦であろう。夫婦の間で心中を洗いざらい話していたらた
ちまち破局に陥るであろうことは明白である。片務的であれ双務的であれ、夫婦
関係は「ある程度の洗練された嘘と、思った通りをそのまま言はないといふ基礎
の上にのみ存在し得るもの」であろう。

 多くの場合、どちらかが言いたいことを抑えて相手を立てる、つまり自他を偽
ることによって辛くも関係は維持されている。かつては妻が一歩二歩退いて夫を
立てる場合が多かった。だから夫が死ぬと急に女は解放されて生き生きする場合
が多かった。妻に先立たれると男は大体において急に紙くずのようにみすぼらし
くなって、そして間もなく後を追った。明治の男が死んで、大正昭和の世代にな
ると、それとは逆に残った男がかえって元気になったり元気であり続けたりする
場合も見られるようになった。百歳以上は八割が女ということはあるにせよ、力
関係に何らかの変化が生じたものであろう。

 国と国との関係もまた似たりよったりだ。国と国との関係はやはり騙しあいで
成り立っている。戦争は血相変えての剥きだしの騙しあいだが、外交は体裁のよ
いニコニコ顔での騙しあいである。だから「外交官とは本気で嘘がつける正直者
だ」というようなことになるわけであろう。外交官でなくても政治家もしばしば
巧みに嘘をつかねばなるまい。BBCラヂオに「6分英語」 というプログラムがあ
る。なかにLyingというのがあって「教師、医者、政治家のうち誰がいちばん嘘
つきか?」という問いに対する正解は自明のこととして「政治家」となっている。

 政治家が嘘をつくいちばんの見本は小泉純一郎という人であろう。この人は亀
井静香という政治家に「あんたの言うとおりにするから」と縋りついて総理にし
てもらって、そして総理になったら約束を反故にした。そして弱肉強食強欲資本
主義を鼓吹して日本国民の貧困率を一気に高めた。橋下徹という人も「大阪府知
事選に立候補する気は?」と問われて「2万パーセントその気はない」と答えて
知事になった。

 そして知事になったらまるで廃仏毀釈のような文化破壊を次々におこなって民
度の低い大衆の人気を得ている。「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」が
論理学で自家撞着の見本にされるが「政治家は嘘つかないと政治家が言った」も
おなじく見本になるだろう。

 一口に嘘と言っても各種あるが、どんな嘘があるか、アウグスチヌスによる分
類を見てみよう。許さるべき嘘はいくつかあって、しかも嘘をつくのが正しい場
合さえあると、彼は言う。もっとも許されがたい嘘から良い嘘にいたるまで順に
八項目を並べている。(http://www.bbc.co.uk/ethics/lying/lying_1.shtml 
による)

 1.宗教教育における嘘
  2.だれかを害し、だれをも助けぬ嘘
  3.だれかを害するが他のだれかを利する嘘
  4.だれかを騙す快楽のためにする嘘
  5.会話において他を楽しませるためにする嘘
  6.だれをも害せず、だれかを利する嘘
  7.だれをも害せず悔悛の機会を与え続けることによってだれかを利する嘘
  8.誰をも害せず、ひとりの人物を肉の罪から護る嘘

 1と8は現代では浮世ばなれが過ぎるので慮外とする。世俗的に言っても、2
と3はたしかによくないだろう。しかし宝くじなんかは絶対絶対絶対多数を害す
るが絶対絶対絶対少数を利するのだから3に属するが許されている。市場原理主
義も3の許容を前提にして成り立つ。4 もよくないといえばよくないが微妙だ。
4にはメールやネットでの匿名の誹謗中傷という、2に含まるべきものがある
のでこれはいけない。しかしそれを除くと、寛容という概念の取り方がこれで決
まるといってもいいような項目でもある。

 騙しても害がなければまさに害はない(innocent)し、多少は怒らせるとか、
がっかりさせることぐらいはあっても、担いだり担がれたりのいたずらはたわい
ない友達同士の遊び、つまりジョークだ。英語でwhite lie といわれる部類に入
ることだ。5,6,7は問題なく大いにけっこうだろう。となると嘘は罪より功
が大きい勘定になる。モーセの十戒にも偽証以外の嘘は含まれていない。4 と
5は組み合わさってお笑い芸の芯になっている。お笑い芸にとどまらず芸術とは
嘘の別名と言ってもいい。聖書にしろ編集者が書き加えた嘘の部分をふくめての
文学なのだ。

 「嘘も方便」ともいう。これは法華経-譬喩品第三に見える「三車火宅」の喩
えに発するのだそうだ。長者の家の中に子供がいて家が火事になっているのに遊
びに夢中で出ようとしない。そこで外には羊の車、鹿の車、牛の車の三車が待っ
ていると嘘を言って誘い出したとかいう話からきているらしい。誘い出されて外
に出た子供の前には三車に勝る大白牛車が待っていた。三乗に勝る大乗を説く喩
えだそうだ。こうなるとアウグスチヌスの掲げる第1項目もあやしいということ
になる
 
仏教にはたくさん戒律がある。なかに「不妄語戒」というのがあるにはある
が、「不飲酒戒」がありながら天野山金剛寺のように寺が酒造の元祖だったり
するから適当でいいということらしい。「不邪淫戒」なんて今のヤングは腹を
抱えて笑ってしまうだろう。そもそも加藤周一はわざわざ「夕陽妄語」などと
いって何冊もの本に積みあがるほど妄語を発したのだからもはや「不妄語戒」
そのものが妄語であろう。

 大体人間が嘘をつかずに生きることなどできるだろうか。よほどのバカでない
かぎり、ものをいえば必ずどこかで嘘が混じるものだ。心中をあらいざらい真っ
正直に曝すつもりでペンをとっても、ペンが紙に触れるやいなやインクの滴ると
ころは燃え上がると、たしかエドガー・アラン・ポーが「マージナリア」に書い
ていたのだったと思う。人はまったく己を偽ることなくものを書くことなどでき
はしない。

 人はかならず己の欲する自己を演じてしまう。戒律は不可能なるがゆえに戒律
なのだ。ある国のある首相など、嘘をいう気は毛頭なくてさかんに誠実に、上手
とはいえない嘘をいって迷走しているではないか。チンパンジ―も単純な簡単に
ばれる嘘をつくらしい。そしてばれるととても悪びれるらしい。嘘は智惠の始ま
りなのだ。

 おなじく林語堂のこの本の175ページに「英国人は誰でも上手に嘘をつくもの
を愛してゐます」という文章がある。先掲「6分英語」Lyingにも「あなたはgood
liarか?」と問うところがある。もちろん「嘘をつくのが上手か?」の意味で
はあるがLying is badの場合のbad は「下手」の意味でなく「良くない」という
意味で使っているのだから、その反対でgood liarは「上手な嘘つき」だけでな
く「良い嘘つき」という意味を当然伴う。上手な嘘つきは良い嘘つき(A good
liar is a good liar)なのである。

 じっさい英国人はたいへん嘘つきである。ひとりバルフォアだけではない。そ
れでも会話のなかで「ほんとう?」(Really?)とは言っても「嘘つき」(You liar!)
は禁句らしい。日本では「ほんとう?」はもちろん「ウッソーォッ!」が咎め
られるどころか驚嘆をあらわすスパイスとしてまかり通っている。このように日
本人はたいへん嘘つきには寛大である。それは悪いことではないが、洗練された
嘘つきであるかどうかは保証のかぎりでない。もっと洗練された嘘つきになるの
が課題かもしれない。
 
  以上はあまり論理的ではない。実感的陳述である。
  (アウグスチヌスの嘘についての言説は信・望・愛のカトリック三徳を説くハ
  ンドブックENCHIRIDIONを出典とする。) 

          (筆者は堺市在住)

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