■臆子妄論

-- 言葉の移りかわり --                西村  徹

───────────────────────────────────

「ふたたびの前口上」
ネットでしらべると帯状疱疹後神経痛は高齢の場合死ぬまで治らないと書いてある。それでは治るまで一服など言っても意味はない。どこかの政府のように朝令暮改であるが、また書くことにする。

■ゲンゴドーダンはゴンゴドーダン

大阪には関西国際空港という赤字でアップアップしている空港がある。赤字でなくても海の上だからアップアップしてあたりまえかもしれない。さほど度々行くわけでないから決め付けるわけにはいかないが、たいてい人影まばらで、大阪経済の地盤沈下を象徴するかのようにひっそりしている。京阪神と関西国際空を結ぶ特急電車の南海ラピートとJR「はるか」は、散歩の途中頻繁に、通過するのを見かけるが、どちらも上り下りともに人間はほとんど乗っていない。大抵空気を運んでいる。成田のように人間でムンムンしている空港でなく、レンゾ・ピアノ設計の風通しのよい構造物とあいまって、はかなく幻想的だ。
なぜ赤字になるかにはいろいろ理由があるが、高速道路も料金が高いし、空港に渡る橋もタダでない。それどころか料金が頗る高い。そのうえ空港の発着料もバカ高いから直行便の撤退相次ぎ、日航までもがロンドン直行便をやめると言い出している。
なんとか日航に思いとどまってもらおうと関空の社長はいろんなことを言う。それがもとで地元の泉佐野市長とケンカになり、泉佐野市長が関空社長に対して「ゲンゴドーダン」だといって怒った。大分昔になるが、ある学校の卒業パーティーで「同窓会長はヤンゴトナキ用事で出席できない」と代理が言っていた。誰かがテレビで「いちばんベスト」と言っていた。「いちばんベター」という言い方も聞いたことがある。いまは「憮然たる」を「怒っている」と解している人が七割にのぼるという。
言葉はゆっくり、あるいは急速に変わっていくものだから、どれもこれもいたし方なかろう。

■エテルノ・テレサかエテルナ・テレサか

我が家の近くに全日空の客室乗務員(スチュワーデスと言ったりエアホステスと言ったり、その後なんとかアテンダントに変わったらしいが、今はなんというかを知らない)の寮があった。つくりのひときわ繊細な、しかし常に重くカーテンに閉ざされた、まるで生活臭がなくて蜃気楼のようなマンションであった。ところが全日空も経費削減で売りに出して、昨年有料ケアマンションに変わった。女の砦は老残の館に変わった。驚くに当たることではない。天が下新しきものはないが、万物は朽ちる。
チラシが入って、関心なくはないので見物に出かけた。その名をエテルノ・テレサという。エテルノでなくエテルナのはずだと思うが、エテルナ・テレサでは日本人の耳には曲がなさすぎて間延びするのだろうか。言葉は変わるものではあるしカタカナは日本語だから致し方なかろうがETERNO TERESA と夜っぴて青いネオンが点いているのは興ざめだ。カタカナでなく、せっかく横文字にするならETERNA TERESAとねがいたい。
いい加減で帰ろうとしたらお茶とお菓子(いやドリンクとスウィーツだったか?)が出て、ことわって立ち去ろうとしたが「お渡しする粗供養がある」という。粗供養はちと場違いなので耳を疑ったが経営主体は葬儀屋だと聞いて笑ってしまった。葬儀場で身につけた接客マナーの自然であった。それはそれでかまわないけれども、ここに入ると葬儀場のよいところを確保できるといって写真を何枚も見せられた。照れくさいほど金ピカの祭壇ばかりだった。
葬儀特約つきケアマンションというのはよいアイディアなのか悪い冗談なのか、どっちにせよ、ちょっと行き過ぎに思う。後期高齢者保険にちょっと似ている。死ぬのを催促しているみたいだ。「縁起でもない」とか「不吉」とかいう古い感覚は、ことビジネスになると吹っ飛ぶらしい。夜になって雨戸を繰るたびETERNO TERESAのネオンが見えてダイマル・ラケットの「青火がポー」を思い出す。

■しょせん言葉、されど言葉―尊厳死でなく安楽死を

 私は言葉についてまったく保守主義者ではない。歴史を止めるわけには行かない。なるようにしかならない。天平をテンペイと言おうが千手観音をセンテカンノンと言おうが木綿の生成をナマナリと言おうが、笑ってしまうだけでそれ以上に憂慮することはない。私自身「無明の闇」などという言葉を間違って使って途端に「しまった」と思ったことがある。書誌学上信頼度の高い書物を「善本」などと呼ぶ。倫理的な善悪が頭にあるから、ずいぶんひとを惑わす言い方に思うが、まかり通っている。
ときには意味が本来と逆になっている語もある。逆でなくてもヘンに横に滑っているのがある。英語でserious は「真面目」であるより「クソ真面目」の意で使われる場合が多い。ブレアとちがってブラウンはseriousだと言われる。民主党副代表の岡田克也氏なども該当するだろう。また、後期高齢者を後期高齢者と言ったら、本当のことを言ってけしからんといってメディアはさわいだ。後期高齢者は後期高齢者であって、それ以外ではありえないが、それといっしょに「後期高齢者は早く死ね」と政府が本音を言ったから後期高齢者は怒った。主語と述語をいっしょくたにして怒った。真実は聞くに耐えがたいものだ。
もし後期高齢者は医療費免除だと言ったら、75歳になった人は得意になって「きょうから後期高齢者だ」と吹聴してまわっただろう。前期高齢者は早く後期高齢者になりたいと思っただろう。ただし、どんな屁理屈でも言うことのできる論客は「タダだといってクスリ漬け検査漬けにして殺そうとしている」なんていうかもしれない。方広寺の国家安康に家康がイチャモンをつけたように。PPK(ピンピンコロリ)はファシズムだ、社会保障費を減らしたい国の思惑を助けるものだ、しっかり介護保険を使って手間ヒマかけて、じんわりゆっくり死ぬべきだと主張する社会学者もいる。自分の思惑に合わないものをファシズムというのだからナンセンスである。うしろにヨシモトでもついているのだろうか。
ファシズムであるかないか、そんなピントのはずれたことはどうでもよい。それよりも、どうして安楽死法、それもうんと大胆な安楽死法を後期高齢者法とセットにしなかったのだろう。個人差はもちろんあるが、老いれば人は多かれ少なかれ「生ける屍」である。「生ける」の程度はじわじわと薄れて「屍」の色の方が濃くなってくる。客観的にのみならず自覚的にそうなってくる。思わぬ病が次々とやって来て冥土の土産が重くなる。そうなるとPPKはもはや望めないから、願わくは長患いでなく安楽に死にたいと思うようになる。介護する側の身にもなればそう思わずにはいられない。
8月3日の新聞に6年間意識のないまま昨日死んだ漫画家の記事が出ていた。ドイツから有料安楽死のできるスイスへ越境する老人が跡を絶たないという記事もおなじ日のおなじ新聞に出ていた。私の知人でゴミ拾いを趣味とする老人がいる。ユーモアの分かる仁だから、ゴミがゴミを拾っているようなものだと半ばは自認しているようでもある。
地球上の最大のゴミは人間だし、もっとも大量にゴミを出すのはアメリカだから日本の老人だけがゴミだというわけではさらさらないが、高齢化社会だというのなら、いつまでも尊厳死などと金ピカ仏壇みたようなことを言わずに、正面から安楽死法を論じないのは、言葉の欺瞞であるにとどまらず政治の大きな怠慢であろう。
ケータイからレアメタルをオートマチックに回収する技術を、ある日本の会社は持つという。そのうち人体を単に焼却するのでなく、人体から有用物質をオートマチックに回収するシステムを匠の日本は持つかもしれない。安楽死を選択する人はその種のリサイクル法に従う、という案はどうであろうか。
                           (筆者は堺市在住)

                                                    目次へ