1941年12月8日~私の記憶~

北の大地から            南 忠男

1941年12月8日~私の記憶~

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  1941年12月8日は日本が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した日で、
私が小学校3年生のときであるが、その日のことについて特別の印象は残ってい
ない。
  農家である我が家にはラジオもなく部落の外とは閉ざされた状況で、特段のニ
ュースも入らない。普通に登校し、学友と悪フザケをしながら、普通に下校した。
勿論朝礼で校長先生から特別の講話があったはずだが内容まで記憶していない。

 今年の冬は灯油・ガソリンが高騰し、北海道の生活はますます厳しくなってき
た。「湯たんぽ」「綿入れ」の復活など、あの手・この手の対策が試みられてい
るが焼け石に水で目に見えた効果は生まれない。
  家に帰ると、薪ストーブが赤く燃え、架けてあるヤカンのお湯は湯気をたて、
茹でたカボチャがストーブの上で焼かれている。遊びつかれた空腹のお腹には最
高のオヤツであった。開戦当時のこの生活がむしろゆかしく感じられる今日この
頃である。

 北海道新聞の今日(12月8日)の朝刊のコラム(卓上四季)は、徳川夢声の
日記で「身体がキューッとなる・・・昨日までの神戸と別物のような感じだ。
温室のシクラメンや西洋館まで違って見える」と書いている。太宰治は短編「十
二月八日」で「開戦の放送を聞き・・・私の人間は変わってしまった。強い光線
を受けて、からだが透明になる・・・日本もけさから、ちがう日本になったのだ」
と書いていると紹介している。当時の私いかに鈍感であったのか?
  勿論小学校3年生(8歳)の悪ガキの感性では比較にならないだろうが。

 渡辺淳一の著書「鈍感力」を借りれば、日本国民は鈍感力があったからあの戦
争にも耐ええたし、米国のイラク戦争に協力する現状になんの疑問ももたないこ
とになるのか?作者の発想・思想は云うにおよばず、「鈍感力」と云う本がベス
トセラーになること事態はもっと恐ろしいことだ。
  渡辺淳一は北海道生まれ、しかも上砂川と聞く。上砂川は夕張と並ぶ北海道で
も有数の産炭地である。北海道の名誉のためにも彼を糾弾したい。
  地下で石炭を掘る炭鉱マンは死と隣るあわせで仕事をしているようなもので
ある。安全性は限りなくゼロに近い。これも鈍感力と云うのだろうか?
 
  私の父親は農家の跡継ぎであるにもかかわらず、農業を嫌い、昭和恐慌の中で、
学歴もない父には仕事を探すのも容易ではなかった。数年間、網走刑務所旭川支
所に看守として勤務したが、刑務所の看守ではウダツが上がらず、日本の侵略に
より建国された旧満州に渡った。関東州巡査として旅順~大連~瀋陽(当時は奉
天と云われた)~長春(当時の新京)まで北上し、私は満6歳の就学期をこの長
春で迎えたが、父がソ連との国境にある黒河に転勤となった。黒河は日本人学校
もない寒村のため、私は父の実家の祖父母に預けられた。ここで、41年12月8
日を迎えたのである。
 
  42年10月父がハルピンに転勤となり、私もハルピンの日本人学校に転校した。
転校後が大変であった。田舎の小学校と都会の小学校では学力格差は大きかった。
旧満州の日本人社会自体が格差社会であった。「満州にでも行かなければ仕事に
ありつけなかった」、「満州でしか希望をもてなかった」、私の父のような「でも・
しか族」から、一攫千金に成功した、いわゆる「勝ち組」、各般・各分野のエリ
ート層、軍人等々。45年に私の進学した中学校では同じクラスに「宮川ハルピ
ン総領事」「秋草ハルピン特務機関長」(両氏ともソ連に抑留
中に獄死)の息子がいた。
 
  私の父は自称、軍国主義者であった。軍人勅諭を金科玉条のようにしていた。
それが証拠に、子どもの名前は、忠・礼・武・信の軍人勅諭の五カ条より引用し
ている。私が長男で忠男、中二人が女で、礼子とむつ子、末っ子が信義。四人目
が生まれなかったことは父にとって大変残念なことであったろう。父は兵役義務
で2年間の軍隊教育を受けている。除隊の延期と職業軍人への道を志願したので
あるが、親の反対で、その道もふさがれたのである。 
  父は、自分では軍国主義者だと思っていただろうが、「主義者」といわれるほ
どの思想もなかっただろう。「日本人に生まれた以上、必ず軍隊にとられる。な
らば最初から軍人を志願し、エリート軍人を目指すべし」と、子どもが将来、将
軍さまになることを期待していた。(カエルの子は蛙であることを忘れて)。これ
が父が2年間の軍隊経験から学んだ教訓なのであろう。所詮平凡な功利主義にす
ぎないと思われるが。
  東大法学部を卒業して官僚になり、事務方トップの事務次官をめざし(守屋は
東大卒ではないが)、このレースに負けたものが天下り競争で退職金を稼ぎまく
る官僚機構の構造~父には軍隊も似たり寄ったりに見えたのではないだろうか。
  当時の農業労働がいかに過酷であったか、あるいは、軍隊で鍛えられた「鈍感
力」故のことか?
 
  <「父親が出稼ぎから帰るまでストーブが焚けない。風呂は3日に1回」。>
<「玄関に新聞がたまっている」という住民の連絡で急行すると、独居の男性(78
歳)が居間でストーブもつけずに寝込み、毛布をかぶって「寒い、寒い」とふる
えていた~「夕張・超高齢化の現実」9日の「北海道新聞」朝刊>。
  永田町に住む野党の先生たちよ、もう少ししっかりしてくれ、この
ままでは第2の小泉・安倍が出現するぞ。
                         (筆者は旭川市に在住) 

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