【マスコミ昨日今日】(6)

2014年4〜5月

大和田 三郎

【施行67周年を迎えた日本国憲法の激震——動き出す解釈改憲から何処へ?】

◆67回目の「憲法月間」?
 今号が論評の対象とするのは、4月中旬から5月中旬。期間中の5月3日はもちろん憲法記念日だ。「憲法月間」というものがあると仮定すれば、この期間ということになってもおかしくない。
 現行憲法施行は1947年だったから、67周年を迎えたのが今年の憲法記念日だった。その日を含む1カ月の報道を読むと、「憲法月間」と言っていいほど、憲法がらみのニュースが多かった。

 そして本号論評期間の「最終日」といえる5月15日、安保法制懇(正式名称「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」=首相の私的諮問機関)が報告書を安倍晋三首相に手渡し、その後首相が記者会見して、憲法解釈の変更によって集団的自衛権行使を容認していく方針をうち出した。これまで政府の憲法解釈は「憲法9条は、集団的自衛権を行使しないという宣言」というものだったが、それを「9条の下でも集団的自衛権は容認される」という憲法解釈へと180度転換する方針をうち出したものだった。まさに「解釈改憲」にほかならない。

 この「解釈改憲」は、その枠内にとどまらず、条文そのものを変更する「本格改憲」への第一歩と位置づけることもできる。改憲派と呼ばれる政治勢力は、「解釈改憲ができたのだから」と自信を深めていることは間違いない。

◆すさまじい記事量
 新聞各紙の記事量はすさまじい分量に達した。朝日新聞を例に取ると、全40ページ中、全面広告が11ページ。29ページの記事面のうち、この安倍内閣の動きをテーマとした記事で埋まっている面が多かった。

 ページ別に列記すると以下のとおりになる。
▼1ページ(総合)
トップ=集団的自衛権行使へ転換 首相、憲法解釈変更に意欲 基本的方向性を発表
左肩=最後の歯止め、外すのか 集団的自衛権行使へ転換(「政治部長・立松朗」の署名入り論評)
天声人語=集団的自衛権と沖縄
▼2ページ(総合)
左側のメーン記事(3面と見開き)=憲法の根幹骨抜きに 解釈、都合よく切り張り 集団的自衛権行使へ転換
右肩=もつれた糸、引きちぎる暴走 集団的自衛権行使へ転換 石川健治・東大教授(談話)
▼3ページ(総合)
トップ=見えない外交戦略 中国への対抗鮮明 集団的自衛権行使へ転換
左肩=自己愛に偏した歴史認識 集団的自衛権行使へ転換 五百旗頭真・熊本県立大理事長(談話)
▼4ページ(総合)
トップ=公明、平和党是の正念場 軽視できぬ創価学会の意向 集団的自衛権、与党協議へ
 通称「政治面」と呼ばれる記事あり
▼7ページ(総合)
トップ=中韓、募る不信 集団的自衛権行使へ転換
 通称「国際面」の記事あり
▼8ページ(総合)
 安倍首相と山口那津男公明党代表の記者会見発言内容
「政府の基本方針」の内容
▼9ページ(特集)=安保法制懇報告書全文=その1
▼10ページ(特集)=安保法制懇報告書全文=その2
▼11ページ(特集)=安保法制懇報告書全文=その3
▼15ページ(オピニオン)
 社説タイトルは「集団的自衛権 戦争に必要最小限はない」
▼38ページ(社会)
左側(39ページと見開き)=遠のく、憲法守る政治 集団的自衛権行使へ転換
▼39ページ(社会)
トップ=近づく、戦争できる国 集団的自衛権行使へ転換
    ×  ×  ×
 他の新聞も朝日ほどではないが、多くの紙面を割き、膨大な分量の記事を掲載している。朝日の場合、新聞の使命は、日々のニュースを読者に提供するだけと考えてはいないように思われる。「歴史を記録する」という使命感が強いのが、朝日の特色なのではないか? だから「歴史に残る日」には、それらしい紙面をつくってきたという伝統があるように思える。他紙も朝日との比較では少ないといえるが、膨大な記事量であることに変わりはない。

◆「日本の常識」に欠落しているもの
 その膨大な記事量の中で、「書かれていない事実」があることを指摘せざるをえない。それは記者会見で「質問されなかった事項」に通じる。その「欠落事項」は、どの新聞にも共通している。憲法論議の場合、護憲の朝日・毎日と、改憲の読売・産経と二分され、護憲対改憲の対立一色という様相で見られがちだが、じつは護憲・改憲の双方を含めた「日本の常識」に共通する欠落部分が指摘できるように思われる。

◆超法規的措置の前例
 安倍首相の記者会見発言は「いかなる事態でも、国民の命と暮らしは断固として守り抜く」ことが政府の使命であることを強調していた。安保法制懇報告書は、個別か集団かを問わず、自衛のための武力行使は可能だとしている。首相は記者会見で、この提言について「憲法がこうした活動の全てを許しているとは考えず、政府として採用できない」と明言した。
 しかし憲法解釈を含む法体系が、集団的自衛権容認でない場合、政府が「国民の命と暮らし」を守ることはできないのだろうか? 日本政府が同様の問題を突きつけられた「事件」が過去に2回発生したことがある。

 最初の事件は1975年8月に起こった。同月4日、日本赤軍がマレーシアの首都・クアラルンプールで米、スウェーデン両国大使館を占拠した。そのとき事件解決の条件として、日本で拘置中の過激派5人の釈放を要求した。これに対して当時の三木武夫内閣は、人命救助のための「超法規的措置」で5人の釈放を決定した。このとき5人中2人は、出国を拒否したが、3人は釈放された。

 77年9月28日には、日航機がボンベイ(インド=現在はムンバイの表記が一般的)空港で日本赤軍によってハイジャックされ、ダッカ空港(バングラデシュ)に強行着陸した。このときも犯人グループは過激派ら9人の釈放と身代金の支払いを要求。福田赳夫内閣は9人の釈放を決定し(ウチ6人が出国、3人は残留)、身代金600万ドルを支払った。
 このとき、福田首相は「人命は地球よりも重い」という名言を口にしたが、福田一(はじめ)法相は「引責辞職」した。この2度とも、政府が超法規的措置を実行したことについて、国会論議でもマスコミ論調でも、強い批判はなかった。

 集団的自衛権を発動しなければならない「事件」がひんぴんと起こるようでは困る。今後も含めてレアケースであることは確実だと思われる。法体系の整備がない場合でも、ときの首相が「国民の生命を守るためにはこうした措置が必要だ」と説明するなら、「政治」も「世論」も了承するのではないか? つまり憲法解釈を集団的自衛権容認に変更し、関連する法体系も整備しなければ、「国民の生命と暮らし」を守ることはできない、という安倍首相の発言は誤りではないか?

◆首相への質問、記事ともに欠落
 安倍首相の記者会見の場で、こうした主旨の質問は不可欠なものであったように思われる。しかし現実にはこうした質問はなかったし、その点に触れた記事もなかった。法治国家である以上、何ごとも法によって規定されていて「超法規的措置」などないに超したことはない。しかし何ごとも「100%完璧(ぺき)」ではあり得ない。「法治」の原則にも例外的なレアケースはあって当然なのである。
 「9条の戦争放棄は、現行憲法の大原則なのだから、例外は許されない」という主張が聞こえてきそうな気がする。しかし過去2回の拘置中の犯罪者釈放という超法規的措置も、「法の下の平等」という大原則に背くものだった。だからといって時の政権が強く非難ないし批判されることはなかった。

 超法規的措置の前例を十分意識するなら、「国民の生命と暮らしを守るため」という集団的自衛権是認の理由はタテマエだけなのではないかという疑問が生じてくる。いまや「過去の遺物」となってしまったのかもしれないが、そもそも政府は「仮定の問題には答えられません」が得意のセリフだった。それが逆転して、安倍政権は、日本が陥りかねない、さまざまな「脅威」「危機」といったものを想定(=仮定)している。「仮定の問題」を前提に、自衛隊が動けるように法体系を整備する……という政策遂行を目指しているのだ。

◆「仮定の問題」への対応策を誇示する不思議
 脅威や危機を想定し、どんなケースで自衛隊がどんな対応をするか? を決定していく。こういうことは、どの国の政府も「やりたくないこと」であるはずだ。その論議自体、関係各国に情報を与えることになるからだ。そこまで考えるなら、安保法制懇の報告書発表と首相記者会見という15日行われた安倍政権の行動は、日本国民向けの行動ではなく、関係各国向けのものだったのではないか? という疑念が浮かび上がってくる。
 15日行われた安倍政権の行動(安保法制懇の報告書公表と首相記者会見)は、「中国向け」だったのではないかと疑いたい。16日付各紙朝刊に掲載された多くの論評の中で、産経新聞の「正論」の中の一節に注目した。筆者は田久保忠衛(外交評論家・杏林大学名誉教授・元時事通信社論説委員)だ。田久保はその中で、以下のように書いている。

<(米大統領)オバマ氏は同盟、友好国にアジア重視のリバランス(再均衡)政策は不変だから安心してほしいと保証するため、日本などアジア4カ国を4月に訪れた。が、行く先々で「われわれの目標は中国に対抗することではない。中国を包囲することでもない」と気遣っていた様子は尋常ではない。
 つまり、オバマ政権は中国に対し新たな二重路線を取り始めた、と私はみる。一つは同盟国、友好国との関係強化、もう一つは米中間で話し合いが進んでいる「新型大国関係」だ。同盟国絡みで戦争に巻き込まれるのを回避しつつ、中国との間では保険の意味でも話し合いのパイプを作っておこうとの配慮である。
 理由は、(1)米NBCテレビとウォールストリート・ジャーナル紙の最新の世論調査ではっきりしたように、米国民の47%が国際問題への積極的関与に気乗り薄だ(2)予算削減のしわ寄せが専ら軍事費に集中している(3)オバマ政権の性格はアフガニスタン、イラクに軍隊を展開したブッシュ前政権に対する批判にある—の3点だろう。
 二重路線はこのうえない危険を伴う。米中関係が緊密の度を加えれば加えるほど、同盟関係は弛緩(しかん)し、同盟関係を強めれば強めるほど米中関係は不安定方向に進まないか。歴史的にみても日米中3国関係が良好だったのは、「共通の敵」ソ連が存在していた一時期だけだった>

◆冷たいものになる日米同盟
 田久保は産経の右翼イデオロギーに忠実な人物だ。だからこそこの日の「正論」執筆者に選ばれたはずだ。安倍首相のオバマ認識は、田久保と共通するものがあるのではないかと推測する。オバマ政権の対中国政策は、話し合いのパイプをつくっておき、「新型大国関係」構築を目指すものだ。とすれば安倍・習近平両政権が激しく対立しあっている現状の下で、オバマ政権が「安倍支持」を鮮明にすることはないだろう。
 日米安保条約は厳然として存在し、従って日米同盟関係は存続している。しかしオバマ政権は、日中対立の下で、一方的な「日本支持」を鮮明にすることはない。こうした状況下だからこそ、安倍政権は「集団的自衛権容認」という軍事大国化に近い路線をうち出すことにメリットを感じた……。これが、私が感じている唯一の合理的な解釈である。これもまた、どの新聞の論調にも登場しない欠落部分であるように思われる。

◆日中対立を煽る愚
 軍事同盟条約の締結など、一国の軍事的行動があるなら、必ず「どの国に対する行動なのか?」「仮想敵国はどの国か?」と考えるのが常識だ。「集団的自衛権容認」には、「軍事」という言葉が出て来ない。しかし日本が「フツーの国」になろうとするなら、「自衛」「防衛」などの言葉は、「軍」「軍事」などと読み替える必要がある。自衛隊は「軍隊」であり、「集団的自衛権」も「集団的軍事行動権」と読み替えた方が、事がらの真相に迫ることができる。
 「憲法月間」ともいうべきこの1カ月、中国が南シナ海の諸島嶼(しょ)について領有権を主張し、フィリピン、ベトナムなどの各国と紛争状態になっていると報じられた。安倍政権の「集団的自衛権是認」路線を支持する読売、産経などの論調の中では、「中国の無法な行動に対抗するのは当然」という主張も展開されている。しかしこうした主張こそ、最も危険であることを指摘しておきたい。

◆安倍・習近平両政権の「対立による連帯」
 イスラエルとPLO(パレスティナ解放機構)が争っている中東紛争では、米国などの仲介で、和平が成立しそうな状況までは行くのだが、双方が調印して和平の成立まで行くことはない。これはイスラエルの対アラブ強硬派と、PLO(パレスティナ解放機構)のファタハ、ヒズボラなど武闘集団の利害が一致しているからだと説明されている。イスラエル軍部も、PLO側の武闘集団も、和平が成立すると現在の力量を維持することが不可能になる。
 和平が成立しそうになれば、イスラエル軍部ならパレスチナ人入植地を爆撃すればいい。ファタハなどパレスティナ武闘派は、エルサレム、テルアビブなど都市部のユダヤ人居住区で、爆弾テロを実行すればいい。どちらが実行しても、和平成立の気運など吹っ飛んでしまう。この構図を「武闘派同士の連帯」と呼ぶ人もいる。

 現在の日中関係も、よく似た構図が成立しているとみることができる。中国政府が強く反発することを承知のうえで、昨年12月26日靖国神社参拝に踏み切ったのが安倍首相である。習近平政権も、アンチ安倍を鮮明にし、日中首脳会談が実現する見通しは皆無に近い。対立が激化すればするほど、両政権とも国民の「歓呼の声」を受け、政権基盤は強まる。「日中友好」を目指す政治勢力は衰えていく……。日中関係についてのこうした視点も、どの新聞記事にも登場しない。

◆「平和外交」の欠落
 以上、長々と書いた。安倍首相がホントに「国民の生命と暮らし」を守ろうと思うなら、「平和外交の推進」こそ必要なはずだ。ところが報告書には、「外交努力」という項目すらない。「外交」はトータルに欠落しているのだ。
 安保法制懇メンバーが改めて紹介されている新聞も多い。座長は柳井俊二(国際海洋法裁判所長、元外務事務次官、駐米大使など)で、元駐タイ大使岡崎久彦も委員の一人だ。委員の構成からみると、多くの人びとは「外交をよく知った人物たちの提言」だと考えるはずだ。それがまったくの見当違いなのだ。

◆「内交」だけの外交官たち
 柳井も岡崎も日本外交官の典型で、「外交などやったことがない」人物だ。外務省という組織そのものが、「外交をやる」人びとで構成されているのではない。外務省内で最も大切なことは、外務省内で上手に泳ぐ「内交」なのだ。内交が得意だからこそ、安倍晋三の外交指南役というポジションに収まった。
 「外交をやらない外交官OB」だからこそ、軍事大国志向の政策ばかり目指す。安保法制懇報告の致命的な欠陥はこの点にあるように思われる。第2次大戦敗戦後の日本に外交はなかった。安全保障だけでなく、国としての行動の全てを米国に依存し続けてきた。ほんらい国際社会の基本構図が米ソ対立だった時代に成立した日本という国家の存立形態だった。産経の「正論」で田久保が指摘したのは、「米国依存」という国のありようがもはや成立しないという国際社会の現実だろう。
 「米国依存から何処へ?」が、日本の主権者である国民一人ひとりが考えなければならない命題なのである。

【安倍靖国参拝で、「事前報道なし」協定が成立していた!】

 今号は憲法問題に絞るつもりだったが、関連して昨年12月26日に行われた安倍首相の靖国神社参拝について、首相官邸記者クラブで「事前報道なし」のヤミ協定が結ばれていた問題を付記することにした。
 月刊誌「選択」(選択出版社刊)が5月号(1日刊行)に掲載された<知る権利脅かす『報道協定』>と題する記事で暴露した。記事の内容は、全国至るところにある記者クラブで、ほんらい日本新聞協会が認めていない「報道協定」が、ひんぴんと結ばれているというもの。記者クラブの黒板に幹事社が発表予定を書くだけで「協定成立」となる黒板協定システムはひどいもので、各社の特ダネ競走によって成立している「報道の自由」はもはやなきに等しい。国民の側から見れば、「知る権利」がないがしろにされている……といった内容だ。

 安倍首相靖国神社参拝についての「事前報道なし」のヤミ協定は、一つの事例として指摘されているだけ。「選択」誌の記事は<『午前11時まで縛りがかけられていた』(政治部記者)という。理由は『参拝時の警備体制のため』だった>と書いている。「警備体制」を理由に、事前報道なしの縛りを提案したのは、首相官邸であり、官邸クラブはそれを了承したという経過だったのだろう。
「選択」記事は<警備上の問題と言うなら、先月末のオバマ(米大統領)来日のときはどうだったか?>」と問うている。4月23日午後8時14分、首相とオバマ米大統領は東京・銀座のすし店「すきやばし次郎」に行き、にぎり寿司をつまんだ。オバマは世界中のテロリストから狙われているのに、この予定は前日報道されていた。現実に当日数寄屋橋交差点周辺には多数のヤジウマが押しかけ、雑踏警備はたいへんだった。

 以下は私見を交えた「靖国参拝事前報道なし」の弊害である。首相の靖国参拝が事前報道されたなら、靖国神社に押しかけるのは見物のヤジウマだけではなかったはずだ。「首相参拝を許すな」と叫ぶ市民のデモ隊(のようなもの)もあっただろう。あるいは「歓迎」の人びとの隊列も成立したかもしれない。警視庁は雑踏警備ではすまない態勢づくりを迫られたはずだ。
 「首相の靖国参拝」という行動の意味を考えるなら、賛否双方の国民の動きを伴うことこそ、自然だったのではないか? そういう動きが全くなく、平静に参拝が行われたということの方が、異常かつ異様だ。

 問題は現場での国民の動きだけではない。安倍靖国参拝が報道された直後、米国政府は「失望」を表明した。3週間ほど前の12月3日、来日していたバイデン副大統領が、靖国参拝について「慎重な対応」を求めていた。事実上は参拝しないよう勧告したのだが、安倍本人とその政権はともに、「同盟国の忠告」を無視したのである。その忠告に従わなかった安倍に対して「失望」を表明するのは当然というのが、オバマ政権の判断だったのだろう。
 「午前11時まで報道しない」というヤミ協定がなく、「安倍首相が参拝の意思を固めた」といった予告報道が行われたなら、米国政府は、よりダイレクトに「参拝を中止せよ」と勧告することもあり得たのではないか? 
 12月3日のバイデンによる忠告は、首相参拝が行われた26日の時点で報道されてはいなかった。しかし安倍政権はその事実を知っていたのだから、こういう展開を予想するのは当然のことだ。米国が中止勧告したのに、それを無視して参拝すると「日米関係悪化」の兆しと見られてしまう。そういう展開を避けようというのが首相官邸の真意で、そのため「警備上の理由」をタテに、「事前報道なしの縛り」を官邸クラブに提案したのではないか?

 いずれにせよ「事前報道なし」という「ヤミ報道協定」が、事態の展開そのものを歪めたことは確実だ。とくに政治の世界では、自由な報道が前提となって、「民主主義」に値する政治過程が実現していくのである。記者たちもまた「民主政治の主役」の一人だという自意識を持ってもらわなければ困る。
 「選択」記事には、<権力の情報統制に従順な『記者クラブ』>という副題が付いている。書き出しは<安易な『報道協定』がはびこり、権力による情報統制を許すばかりか、記者の劣化を招いている>という文章だ。
 さいきんフリーのジャーナリストの存在感が大きくなり、記者クラブ論議が盛んになった。私自身、記者クラブにどっぷり漬かったような記者で、官邸クラブに所属していたこともあった。それでも権力機関の行動を監視し、国民に知らせることを報道の重大な使命と考えていた。「監視」の対象である内閣官房の要請を受け入れて、首相の行動について「事前報道なし」のヤミ協定を結ぶことなど考えられなかった。
 政治報道が「権力の監視」を使命とする健全なものであったなら、本号の大テーマ、「改憲への動き」も、これほどスムーズにいったか否か……。現役の記者諸兄姉に考えてほしいものだ。

 (筆者は元マスコミ・政治部デスク・匿名)

※[お断り] 本稿は2014年5月16日までの報道を素材にしております。引用文は「」ではなく、<>で囲んでおります。


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