2014年8月〜9月

【マスコミ昨日今日】(10)

2014年8〜9月

大和田 三郎


■第1のテーマ【オール戦争責任無し史観に驚く=昭和天皇実録報道に接して】
(お断り=長文になってしまったので、小見出しを付けました)

◆昭和天皇の戦争責任「無し」とする史観

 宮内庁が作製していた昭和天皇実録(以下、「実録」と表記)が完成し、公開された。その内容報道は、9月9日付朝刊解禁(放送は同日朝から)となったようだ。新聞各紙は1面など総合面、社会面などで報じたほか、数ページの特集面を特設。特集記事を収録した。朝日の場合、特集面は13から17面の5ページに及び、うち4ページは広告無しで全15段を記事・写真で埋めていた。新聞各紙を併せると膨大な情報量になる。

 実録の内容を端的に言えば、昭和天皇の戦争責任を「無し」とする史観にたった記述だといえよう。昭和史を語るさい昭和天皇の戦争責任について「有り」とするか、「無し」とするかは重要な争点である。あらゆる昭和史の記述は、昭和天皇の戦争責任を「有り」とする史観のものと、それを「無し」とする史観のものに二分される。これは当然の見解だろう。

 歴史を語るさい、個々の事実が大切なことは言うまでもない。しかし歴史を書く人たちは、何の脈絡もなく事実を集めるのではない。大本(おおもと)に「史観」があり、その史観に沿った事実を集めて記述するのである。

 実録は宮内庁が作製した「歴史書」なのだから、昭和天皇の戦争責任「無し史観」に立つのは当然といえよう。しかし新聞各紙の膨大な報道もまた、その「無し史観」を無条件に肯定していることは、私にとっては大きなショックであった。安倍晋三現政権の中韓両国との「対決」路線の背景には、マスコミを含めたオール「無し史観」だという、論争消滅状況があるのではないか?

◆昭和天皇死去のさいの「竹下首相謹話」の意味

 昭和天皇の戦争責任問題にこだわるのは、4半世紀も前、1989年1月7日、昭和天皇死去の日の、私自身の活動があるからでもある。このとき私は毎日新聞社員だったのだが、政治部筆頭デスクというポジションにいた。辞令上は「政治部副部長」となる。筆頭デスクというのは、5人いる副部長のうち最古参の人間がやらされる仕事である。「やらされる」というのは、報道だけでなく、「庶務担当」が仕事になるからだ。入社以来ずっと避け続けてきたカネ勘定も含めた「庶務」は、まさにやりたくない仕事で、「やらされる」ものだ。私自身は「単なる雑用係」と自嘲していた。「Xデー」となった1月7日夕刊の当番デスク席に座ったのは、その見返りの華の舞台だったかもしれない。

 ともかく多量の原稿が送られてきて、多忙だった。政治の世界でも、さまざまな動きがあり、その一つひとつが原稿になるのである。ときの首相・竹下登の名による「内閣総理大臣謹話」が公表されたのは、その一つである。閣議決定されたうえで正式に発表された首相談話で、後に戦後50年の95年8月15日に発表された村山(富市首相)談話などと同様、正式な日本国政府見解となるのである。

 謹話の全文は以下のとおりだ。
<タイトル=天皇陛下崩御を悼む竹下登首相謹話
 本文=大行天皇崩御の悲報に接し、誠に哀痛の極みであります。御快癒への切なる願いもむなしく、申し上げるべきことばもありません。
 天皇皇后両陛下、皇太后陛下を始め皇族各殿下、御近親の方々のお悲しみはいかばかりかと、お察しするに余りあります。

 大行天皇におかせられましては、御年二十歳で摂政に御就任、御年二十五歳で皇位を御継承になり、その御在位は六十二年の長きにわたらせられました。顧みれば、昭和の時代は、世界的な大恐慌に始まり、悲しむべき大戦の惨禍、混乱と窮乏極まりなき廃虚からの復興と真の独立、比類なき経済の成長と国際国家への発展と、正に激動の時代でありました。
 この間、大行天皇には、世界の平和と国民の幸福とをひたすら御祈念され、日々実践躬行(きゅうこう)してこられました。お心ならずも勃発(ぼっぱつ)した先の大戦において、戦禍に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとの御決意から御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下されたのでありますが、このことは、戦後全国各地を御巡幸になり、廃虚にあってなす術(すべ)を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせて下さったお姿とともに、今なお国民の心に深く刻み込まれております。

 爾来(じらい)、我が国は、日本国憲法の下、平和と民主主義の実現を目指し、国民のたゆまぬ努力によって目ざましい発展を遂げ、国際社会において重きをなすに至りました。
 これもひとえに、日本国の象徴であり、国民統合の象徴としてのその御存在があったればこそとの感を一入(ひとしお)強く抱くものであります。

 大行天皇の仁慈の御心、公平無私かつ真摯(し)誠実なお姿に接して感銘を受けなかった者はありません。その御聖徳は、永久に語り継がれ、人々の心の中に生き続けるものと確信いたします。
 新陛下におかせられましては、この清き明(あ)かき御心を継承しつつ、国民とともに歩む皇室を念願され、既に、これまでも内外各分野において種々お務めいただいているところであります。この度の御即位により、皇室と国民とを結ぶ敬愛と信頼の絆(きずな)が、ますます強く揺るぎないものとなるとともに、諸外国との友好親善も更に深まることを念願してやまない次第であります。
 癒(いや)す術のない悲しみを胸に、ここに、国民とともに、衷心より哀悼の意を表するものであります。>

◆毎日新聞が掲載した「謹話の意味」記事

 この竹下謹話は、その日「天皇逝去」の記事で埋まった各紙夕刊はそろって全文を掲載した。毎日新聞の夕刊には、全文のほかに、<首相「謹話」で「天皇に戦争責任はなかった」との政府見解>という見出しの記事が掲載された。全文は以下のとおりである。
 
<7日午前の臨時閣議で決定された竹下首相の「謹話」は、第2次世界大戦について「お心ならずも勃発した先の大戦」との表現で天皇陛下の開戦責任を否定したうえで、「戦禍に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとのご決意から……戦争終結のご英断を下された」と終戦決定における天皇陛下の役割を前面に出す内容となった。政府筋はこれについて、天皇陛下に戦争責任がないとの認識を示したものだとしており、今後、天皇陛下の「戦争責任論」をめぐる論議は、皇位継承儀式の国事行為化、「元首論」などとともに尾を引くことになりそうだ。

 首相の「謹話」は天皇への哀悼の意を表する政府見解であり、内閣参事官室が中心となって内閣法制局や各省庁とすり合わせたうえ最終的に閣議決定された。謹話は天皇陛下在位の62年間に触れるため先の大戦と天皇陛下とのかかわり、天皇陛下の戦争責任への言及が不可避であるため「従来の国会答弁などあらゆる資料を丹念に調べて文言を決めた」(政府筋)とされている。

 謹話は弔意を表すという性格もあって、「大行天皇は世界の平和と国民の幸福をひたすらご祈念され、日々実践躬行(きゅうこう)してこられた」と強調。天皇陛下の開戦責任については言及せず、逆に「お心ならずも」と天皇陛下と開戦のかかわりを切り離すことで責任を否定する表現に落ち着いた。

 また終戦の「英断」を強調するとともに、「戦後全国各地をご巡幸になり、廃虚にあってなす術(すべ)を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせて下さったお姿は国民の心に深く刻み込まれております」と戦後復興への貢献をたたえている。

 政府は「ご在位60年」式典などを通じ、天皇陛下が「平和主義者であった」(中曾根前首相)など「平和」「救国」の側面を強調、その定着を狙ってきたが、この謹話もその延長上にあるとみられる。

 戦争責任をめぐっては中国、韓国などが教科書問題などを通じ再三、「日本政府の戦争正当化姿勢」を批判してきたが、今回の謹話は国内のみならず国際的にも論議をよぶものとみられる。
   = ◇ =
 「謹話」に関して政府筋は7日午前、「天皇陛下には戦争責任がないという認識を示したのか」との記者団の質問に対して「当然そうだ。だから全く触れなかった」と述べ、首相の「謹話」が天皇陛下に戦争責任がなかったとする内容であることを明らかにした。また同筋は首相が「大行天皇のご聖徳」という表現を使ったことについて「天皇を神格化するというものではない。単にお人柄をしのんでということだ」と述べた。>(和数字を洋数字に変えた以外は原文のまま)

 この記事こそ、竹下内閣が「昭和天皇の戦争責任なし史観」を確立・表明したことを明らかにしたものである。じつは私自身は、この「謹話」がFAXで送られて来たとき、「全文掲載だな」と思いながら、何も考えずにそのまま出稿した。

 その「処理」を終えたところで、テレビは竹下首相本人(あるいは小渕恵三官房長官だったかもしれない)が、首相謹話を読み上げる場面を中継していた。「大行天皇(亡くなった天皇の尊称)は世界の平和と国民の幸福をひたすらご祈念され」という下りあたりで、「これは!」と気が付いた。「昭和天皇の戦争責任否定ではないか」と思ったのである。

◆本島長崎市長の「天皇に戦争責任あり」発言

 「Xデー」となったその日のちょうど1カ月前88年12月7日、本島等長崎市長(当時)が市議会で共産党議員の質問に答えて「昭和天皇の戦争責任は、私はあると思う」と発言した。この発言に対して、右翼団体が抗議の動きを展開。本島は自民党長崎県連顧問だったが、同県連は発言の撤回を求めた。本島は拒否、県連は顧問を解任するという争いがあった。他方で本島の発言を支持する人たちも多く、激励の集会が開催されたりしていた。

 こんなこともあって、「昭和の終わり」を目前にして、天皇の戦争責任は論議の焦点になっていたのである。毎日新聞の記事中「政府筋」としているのは当時の官房副長官・石原信雄である。彼をトップとする日本の官僚システムは一致して、「天皇に戦争責任あり」という本島の主張を、国の権威によって否定しなければならないと考えていた。それを実行にうつしたのが、謹話の文言だったのである。

 私の行動にもどろう。こんなことを考えながら、官邸クラブに電話した。相手もデスクの一人だが、この日は現場取材の総責任者格で現場に出ていた。「いま竹下が読み上げるのを聞いていたか? これは天皇の戦争責任否定だろう」と言うと、「オレもそう思う」という返事。「じゃあ、原稿にしてみてくれよ」と依頼。30分ほど経つと、石原官房副長官が「当然だ」と言っているという連絡が来る。ほどなく原稿も送られてきた。

 じつはわれわれデスクは関係なく、官邸クラブ「天皇担当」の若い記者が、同じ主旨で取材していた。記事中、「天皇陛下には戦争責任がないという認識を示したのか」との記者団の質問に対して「当然そうだ」と答えた政府高官は、当時の内閣官房副長官・石原信雄(現地方自治研究機構会長)である。記事中には「記者団の質問」とあるが、その記者は石原と1対1の場で取材している。正確には「記者の質問」であったのを「記者団」と書いたのである。
 
◆「意図的な印象」と編集トップ

 こういう経過は、登板デスクの役割を果たしている私には、すぐに分かった。つまり私は何もしないでも、この原稿は出てきたのである。整理本部に出稿するとき、「紙面は狭いだろうが、何とか載せてくれヨ」と声をかけた。担当者は一読して「分かった」と言った。そこまでは極めて順調だった。

 しかしゲラ刷りになった段階で、編集局トップから横ヤリが入った。新聞社ではどこでも、編集各部デスクを統括する形で、その日の紙面づくりに責任を持つ編集局次長を置いている。正確には「その日」ではなく、某月某日の夕刊番・朝刊番などと、ローテーションで勤務を決めている。その当番局次長を朝日では「編集長」と呼び、読売では「局デスク」と呼ぶようだ。毎日では何故か「交番」と呼んでいる。

 その当番局次長は政治部の先輩だったが、その原稿を読んで、「意図的な印象を受ける」と言うのである。天皇死去を伝える紙面なのだから、「純粋に弔意を伝える」だけの紙面にしたい……。これが彼の考え方だったのだろう。前提にその心情があるから、「首相謹話」の政治的意味を探る原稿は「意図的」ということになる。

 「政府がやることの政治的意味を探るのが政治部の仕事ですから」とか言い返すことは簡単である。議論になって最終的に「じゃあ、この日は <政治部の仕事ヤメ> ということですか」とケツをまくることだってできる。議論に負けない自信はあった。

 しかし議論に勝ったところで、原稿がボツになっては何の意味もない。私には珍しく、議論するのはヤメという選択をした(そのころはまだ、組織の中で有効な戦いをする意欲も能力も失っていなかった。何といっても46歳の働き盛りだったのだから)。

 「官房副長官が<当然だ>と言ってますから、間違いないですよ」「この原稿がなければ<謹話>の意味が消えてしまいますよ」などという言い方に徹した。何か無理をして、意図的につくった原稿ではない。官房副長官の発言から自然に出てきた原稿なのだと訴える作戦である。結局、局次長も、見出しに注文を付けたり、扱いを穏当なものにするよう指示するにとどまった。記事は最終版まで生き続けたのである。

 じっさいの紙面扱いを決めるのは整理部員である。彼らの大多数は、政治部デスクの「やる気」と、局次長の消極姿勢の「落差」を読みとっていた。もちろん彼らは、私の方を支持している。その「社内世論」を感じて局次長も折れたのかもしれない。
 
◆「政治的な意味」報道を自粛した他紙

 デスクワークをやりながら、他紙はこの件をどう扱っているのか? 気になっていた。じっさいに他紙の夕刊を見てびっくりした。どの新聞にも同種の記事は載っていないのだ。
 朝日は3面に<竹下首相が天皇陛下のご逝去に伴う謹話を発表>という見出しの記事を掲載している。
 本文は
 <政府は7日午前の臨時閣議で、天皇陛下のご逝去に伴う竹下首相の謹話を決め、首相自ら発表した。謹話の全文は次の通り。> というだけ。
 読売も同じ3面扱い。見出しは<天皇陛下崩御を悼む竹下首相の謹話の全文>
 本文は
 <政府は七日午前の臨時閣議で、天皇陛下崩御を悼む首相謹話を決定、竹下首相が午前八時五十一分から首相官邸で読み上げた。> というだけだった。

 何のことはない。朝日も読売も、竹下首相謹話発表=天皇の戦争責任否定という政治的な意味づけを紙面から排除したのである。「自粛」の極みと言うべきであろうか? この紙面だけは「哀悼」一色のものにしたいという強い意思があって、石原官房副長官が「当然だ」といっていた首相謹話の政治的意味さえ報道しなかったのである。

 岩波新書「昭和の終焉」(新書編集部編、1990年1月)では、立教大教授、門奈直樹が「天皇死去報道の思想」という文章を書いている。新聞各紙の記事を紹介しながら、その内容が「首相謹話」に沿った内容になっていると批判している。私の言う「昭和天皇の戦争責任否定史観」が報道を支配していたということだろう。

◆「実録」でも貫かれた「戦争責任無し」史観

 宮内庁といえども政府の1機関であり、閣議決定された竹下謹話の史観=昭和天皇の戦争責任否定史観に従うのは当然のことだろう。しかし新聞に限らず、メディアの報道は、その史観をまず紹介し、それとは対照的な「肯定史観」に立つ記述は成り立ちえなかったか否かを検証することであろう。その後は新聞・通信社やテレビ局ごとの「社論」に関わることだが、一部のメディアが「戦争責任否定論」による記述を批判するということになるべきだったはずだ。それでこそ国民主権の政体の基礎をなす言論の多様性が健在だといえる。

 しかしどの新聞・テレビでも「昭和天皇実録」の記述の大本にある史観についての記述はなかった。新聞各紙は9日付朝刊でそろって社説のテーマとしたが、「史観」の言葉さえなかった。社説だけではない。朝日では<元編集委員・岩井克己>の署名入り記事が掲載されていた。タイトルは<「戦争と平和」の日々、詳細に 「昭和天皇実録」公表>である。

◆報道でも「無し」史観を肯定

 岩井は皇室担当が長期にわたり、文字どおりの皇室専門記者だった。著書の奥付を見ると1947年生まれだから、66歳か67歳。2006年の時点で現職が「朝日新聞編集委員(皇室担当)」。「1994年から現職」とある。編集委員となる以前、社会部記者時代の皇室担当もあり、すでに書いた昭和天皇死去の年、89年にはそのポジションだった。つまり皇室担当が20年前後に及ぶ大専門記者なのだ。

 岩井の署名記事のキーワードは「孤独」である。書き出しは、
<昭和天皇は日記をつけていた。孤独からか、負った責務の重さと束縛のつらさからか死をも考えたが、妻への愛情と生物学研究が救いになったことや、自分が国や国民のためにどれほど役に立っているか慙愧(ざんき)にたえないと何度も精進を誓う記述もあったという>
 結びは
<軍人、政治家、官僚らに囲まれ祭り上げられ天皇は孤独だったこと、国民の側もあがめ奉ることで天皇を孤立させていったこと、国の主人公は一般の国民であるべきだと双方が敗戦で目覚めたことを、改めて実感させられる。「昭和」はまだ、「過去の歴史」になりそうもない>
 となっている。

◆皇室専門記者・岩井克己の二つの記事

 昭和天皇の戦争責任については直接触れていない。しかし幼少期から死まで「孤独」だったという記述からすれば、日中15年戦争・太平洋戦争の時代も、軍部支配の下で孤独だった。戦争責任は軍部が負うべきであり、孤独な昭和天皇に責任はないというニュアンスの記事のように思える。

 岩井は月刊誌「選択」(選択出版)にコラム「皇室の風」を連載している。「皇室取材余話」という副題のこのコラム・9月号(1日刊行)のタイトルは<「独白録」ふたつの「結論」>だった。
「独白録」というのは、一般には月刊誌「文藝春秋」1990年12月号に全文掲載された「昭和天皇独白録」を指す。その後文藝春秋(出版社名)から単行本として刊行され、文庫化もされて、合計100万部を超えたといわれる。

 内容は1946年3月から4月にかけての5日間、1日8時間にわたり、日中・日米両戦争の開戦や敗戦の決断等の事情について、昭和天皇が語ったことの記録。聞き取り側は松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長と寺崎を含む5人だったとされる。天皇は何も「メモ」を持たず語った。

 寺崎は本来外務省職員で、敗戦直後宮内省に転籍した。宮内庁での職務は東京裁判対策。マッカーサーの副官、ボナー・フェラーズ准将が「天皇の戦犯訴追を避けるための理論武装」として要請されたという。マッカーサー支配の下ではそれに従わなければならないという認識で、天皇からの事情聴取という乱暴なことが行われたのだろう。「文藝春秋」記事になった内容は、寺崎の関係者が提供されたといわれる。原文は英文で、寺崎を通じてマッカーサー指令部にわたっていたと思われる。

 この「独白録」には、昭和天皇なりの「結論」部分があり、とくに対米開戦が避けられなかった事情が、敗戦の決定との対比で語られている。この結論部分に関しては、共同通信記者だった高橋紘が発掘した木下道雄の「側近日誌」(文藝春秋刊、1990年)にも「聖談拝聴録原稿 結論」と題するメモが添付されている。「選択」9月号掲載の岩井原稿タイトルで<「独白録」ふたつの「結論」>としているのは、寺崎「独白録」の記述と、木下「側近日誌」の記述を対比したものだ。その対比を私なりに読み取って要約すると、以下のようになる。

 [寺崎版・結論]終戦のさい、鈴木貫太郎首相は、閣議での議論が分断したため、私に「聖断」を求めた。開戦のときは、内閣の意思は決まっていた。私がベトー(拒否権)を行使したなら、国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周辺の者たちは殺され、私の生命も保障できない。それは良いとしても、結局凶悪な戦争が展開され、今時の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びることになったであろう。
 [木下版「結論」]わが国の国民性について思うことは、付和雷同性の多いことで、大いに改善の余地がある。戦前及び戦時中のことを回顧してみても、吉田(茂)のように自分の主義を固守した人もいたが、多くは平和論ないし親英米論を肝に持っていても、これを口にすると軍部から不忠呼ばわりされたり、非愛国者の扱いをされるものだから、沈黙を守るか軍部の主戦論に付和雷同して戦争論をふり回す。

 末尾近くで岩井は、元駐日米大使・ライシャワーについてのエピソードを紹介している。昭和天皇が倒れ最後の病床に伏した直後というから、1988年10月か11月のことだっただろう。「朝日ジャーナル」編集部員・Aのインタビューに同席し、ライシャワーの発言を聞いたというのである。

 ライシャワーは昭和天皇の戦争責任について「責任なし」と明言した。Aが「しかし、数多の国民が天皇陛下万歳を叫びながら戦死したではないか」と食い下がった。ライシャワーの答は、「Aさん、あなた、遙か彼方の崖の上から勝手に『Aさん万歳』と叫んで飛び降りた人びとの責任をとれますか?」だったというのである。

 その後、亡命して反ナチス活動を展開したヘルマン・ヘッセが、ナチスに屈した人びとに対して戦後も厳しい言葉を投げつけていたことを紹介。末尾の文章を
<独白録の二つの「結論」を読むたび、ライシャワーとヘッセの言葉が脳裏をよぎる>
 としている。

 つまりは、昭和天皇の戦争責任について岩井は「有り」か「無し」か、自身の見解は明言しない、と宣言しているのだろう。

 「ナルホド。賢い記者なんだ」と感心した。これが私の読後感である。
 日本のマスコミは「客観報道」を原則としている。だから自らの専門分野で見解が分かれる重大問題について、主観的な私見など明らかにしないのが、賢い姿勢なのである。昭和天皇に戦争責任は「有り」なのか、「無し」なのか? この問題について私見を表明することを、いまだに避け続けているからこそ、岩井は皇室専門の大記者の座を確保したのだろう。

 ここで岩井が書いている内容について、私(大和田)の見解を表明しておきたい。対米開戦ときの首相・東条英機は、昭和天皇の信頼が最も厚い人物だった。寺崎版・結論で言っている、日米開戦についての「ベト−」など、あり得ない事態だったのである。

 東条への信頼の理由は、東条が何ごとに付いても、自信をもって発言していた。天皇の質問に対しては、どんな問題についても回答を用意しており、言いよどむことなどなかったからだといわれる。東条の先代首相である近衛文麿が何ごとについても、思いつき的な発言が多く、天皇の質問についてもその場で答えられないことが多かったのと好対照だったのだろう。

 「天皇のお気に入り」になるため、東条は軍部の下僚たちに対して些事に至るまで調べさせた。その「細かさ」が嫌われ、軍部の組織内では不評だったのが、東条の実像だった。こういうことは、東条を語るさいの「常識」にすぎない。その常識から見ると、昭和天皇の東条偏愛は異常なほどのものであり、そこから導き出される昭和天皇の戦争責任問題の結論は、必然的に「有り」となる。それを無視して、自らの見解を示さない岩井の姿勢は、まさに客観報道のオニというべきものだろう。

 以上の批判は措いておこう。岩井は「選択」の連載記事では、昭和天皇の戦争責任問題を主テーマとして語っている。朝日の記事では、その問題を無視した文章をつくっている。朝日のような巨大マスコミでは、昭和天皇の戦争責任問題に触れることはタブーだという先入観でテーマ設定を決めているとしか思えない。このタブーは、昭和天皇が最後の入院を余儀なくされてから死去するまでの「自粛」と同じ論理である。そして竹下首相謹話の「世界平和を祈念されていた昭和天皇に戦争責任無し」という論理に結びつく。
 「昭和天皇の生涯をどう考えるべきか?」を語らなければならないとき、マスコミが足並みをそろえて為政者の見解に同調する……。これは恐ろしいことである。

◆今上天皇の「実録」づくりもあるのか?

 ここまで昭和天皇実録の内容と、その報道を、戦争責任の問題に焦点を当ててみてきた。最後に、今上天皇についても「実録」はつくられるのだろうか? という疑問を提示したい。現行憲法の下で即位し、「国政に関する権能を有しない」(憲法4条)存在となった初めての人物である。昭和天皇と同様、首相をはじめとする大臣や政府高官の内奏を受けていることは確かだが、憲法のタテマエに沿って、内奏のさいの天皇の発言は一切公表されていない。

 報道されている今上天皇の発言は、天皇誕生日直前に行われることが慣例化している記者会見の内容が多い。憲法に関するもの、日韓関係に関わるものなどもあるが、最近、皇太子と雅子妃に関する発言も増えている。一般国民の家庭ならどこにでもある、息子の嫁と孫に関わるプライバシーでしかない。今上天皇についても「実録」をつくり、こんな問題を記述するなら、恥ずかしい内容となってしまうのではないか。

「実録」づくりが「慣習」であるかのような言い方もされるが、明治・大正・昭和3代の天皇に限って行われただけだ。つまり天皇を元首と位置づけた「明治憲法国家」で行われただけにすぎないのだ。

 私見を表明するなら、実録づくりは打ち切るべきだということになる。当然、宮内庁書陵部は不要な機関となる。実録についての検討をきっかけに、巨大な官僚機構となっている宮内庁についても、現行憲法下の天皇の地位にふさわしいものに改める必要があるだろう。

■第2のテーマ【朝日新聞の完敗——「全国紙冬の時代」が始まる】

◆お詫び紙面をつくった

 朝日が11日の木村伊量(ただかず)社長会見で、「全面敗北」を認めた。12日付朝刊は、前例のない「お詫び紙面」といえるだろう。
 1面はトップに
<朝日新聞社、記事取り消し謝罪 吉田調書「命令違反し撤退」報道>
 を据えただけではない。
 左肩に
<みなさまに深くおわびします 朝日新聞社社長・木村伊量>
 つまり社長署名入りのお詫び社告を掲載した。
 両記事の内容をみると、「吉田調書」報道で、
<東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる、およそ650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した>
 と報じたことを誤りと認めた。

 また9月5、6両日付朝刊で特集を組み、朝日自ら誤りであることを認め、「撤回」を表明していた従軍慰安婦報道についても、「遅すぎた」ことを認めた。
 1面だけではない。2面も
<吉田調書をめぐる朝日新聞社報道 経緯報告>
<「命令違反し撤退」と、なぜ誤ったのか>
 など関連記事で埋めた。
 社会面(39ページ)は
<「読者の信頼傷つけた」 朝日新聞社社長「改革に道つけ進退」>
 のトップ記事をはじめ、
<「ゼロから再スタート」>
<編集担当を解任>
 など、大部分を「お詫び記事」で埋めた。
 社会面を見開いた場合、社会面トップの右隣にくる2社面(38ページ)の左肩は
<慰安婦問題の特集を巡る経過>
<池上さんコラム問題の経過>
 とした。
 歴史に残る「お詫び新聞」といえるだろう。朝日だけでなく、日本の新聞史上「空前」であることは間違いない。「絶後」であることも祈りたいものだ。

◆「軽い社長」木村伊量

 木村伊量という名は、私にとってなじみのものである。この「マスコミ昨日今日」では初登場の120号(2013年12月20日)に登場してもらった。このときのテーマは「マスコミと秘密保護法」で、キャンペーン的な「反対」論調だったが、マスコミ各社の「行動」次元で捉えるとホンネで「反対」していたかどうか疑問だという主旨の文章にした。

 「行動」というのは、2012年の年末、12月27日に成立した第2次安倍政権の下で、マスコミ各社の社長・会長らトップが、例外なく安倍晋三首相との会食・懇談に応じていたということである。安倍個人ではなく、菅義偉官房長官らを含む政権中枢の意思だろうが、「宴会政治」の主要な標的を巨大マスコミのトップとしたのである。

 各紙の首相動静記事で明らかになっているが、年明けの1月7日夜、安倍は東京・丸の内のパレスホテル内の日本料理店で渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長と会食懇談した。
 翌8日夜は、赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京内の日本料理店で産経新聞社の清原武彦会長、熊坂隆光社長と会食・懇談した。読売と産経は安倍政権肯定のメディアであり、この2社トップと安倍の宴会政治にとどまったなら、問題にすることはなかったはずだ。

 マスコミトップとの宴会政治は、その後は2月7日、内幸町の帝国ホテル内の中国料理店で、相手は朝日新聞の木村伊量社長らとなった。たぶん菅義偉が口説いたと思われる。「朝日が応じたら、他各社も応じるはず」という目論見があったはずだ。このとき朝日側は木村だけでなく、編集担当取締役(現在テレビ朝日社長)の吉田慎一、政治部長(現在編集委員)の曽我豪が同席した。

 こういう場合、その席で対話を交わすのは安倍と木村であろう。吉田と曽我は原則「聞き役」だったはずだ。つまり木村は、首相と社長の会話を、ナンバー2の編集担当取締役と政治部長に聞かせようとしたのである。

 話の内容については、消費税問題があったのではないか、と書いた。月刊誌「選択」(選択出版刊)の最終ページは「マスコミ業界ばなし」だが、93年8月号(8月1日刊行)に以下の記述がある。

<新聞業界の「ご都合主義」が官邸の失笑を買っている。七月二十二日、東京・永田町の日本料理店で、安倍晋三首相が出席する会食が設けられた。二時間弱にわたって首相と相対したのは、木村伊量朝日新聞社長と大久保好男日本テレビ放送網社長らだ。席上、木村社長から安倍首相に対して、「来年四月からの消費税引き上げを先送りし、二〇一五年十月に一気に一〇%まで引き上げてはどうかという主旨の発言があった」(首相周辺)という。

 新聞業界の悲願である軽減税率適用は、来年四月に予定されている八%への引き上げ時には行われないことが確定している。仮に一〇%引き上げ時に適用されたとしても、「一度八%に引き上げられたら、軽減率は二%に留まる」(大手紙政治部OB)。つまり来年四月の税率アップが先送りになれば、現在の五%のままでいられるという算段だ。

 これに対して、「首相はやんわりと『五%も一気に増税すれば経済が壊れる。外国にも例がない』と説明した(前出首相周辺)という。「説明した」というより「諭した」のだ。安倍首相にしてみれば、初歩的な経済知識も持たずに虫のいい要求をする新聞社を腹の中で嘲笑していただろう。>

 どうやら木村には「消費税10%で新聞社は経営危機」という認識があり、その適用を免れるために政権に対して「陳情」するのが社長の役割という思い込みがあるようだ。新聞社のトップとして、「取材先」である首相とも、対等でなければならないという矜持はどこかに置き忘れてしまったのだろう。

 消費税について、安倍にお願いしていることを編集担当取締役と政治部長に聞かせる……。これこそ安倍に対する最大のゴマすりだろう。
 これ以後安倍が招く、マスコミ各社のトップとの「宴会政治」が続いた。共同通信石川聡社長(2月15日)▼日経新聞喜多恒雄社長(3月8日)▼フジテレビ会長でフジサンケイ・メディアグループ最高経営責任者日枝久(同15日)▼テレビ朝日早河洋社長(同22日)▼毎日新聞社朝比奈豊社長(同28日)となる。しかし木村と同様、編集の責任者、政治取材のトップを同席させた例はない。
 こうしてみると木村は、マスコミ各社トップの中でも例外的な「小さい人物」ではなかっただろうか?

◆君子豹変の見事さ

 「週刊文春」9月18日号は特集「朝日新聞が死んだ日」を掲載。その中で木村が8月28日全社員にあてたメールの内容を紹介している。朝日新聞社員しか読めないもので、外部に流出することも避ける、特殊な仕掛けになっているという。その中で紹介されている木村の言葉に、
<「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力には断じて屈するわけにはいきません>
<私の決意はみじんも揺らぎません。絶対にぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか>
 といったものがある。
 社内向けだからこういう文章が必要だといった認識だったのだろうか? 11日の社長会見とは真逆の「発言」である。8月28日の時点では「反朝日キャンペーンには屈しない「私の決意は揺らがない」と考えていた。しかし11日までに、揺らいでしまったのか? どちらだと考えても、木村の軽さを見せつける行動でしかない。

◆誤報の歴史

 朝日に限らず。新聞の歴史は「誤報の歴史」と言っていい。私がマスコミに入社し、記者をやろうと決意したのは、東京五輪のちょうど1年前1963年秋ごろだったはずだが、そのころすでに「戦後3大誤報事件」は知っていた。(1)1950年9月27日付朝日に載った伊藤律架空会見記(2)52年4月11日付長崎の地方紙が報じた、「もく星号墜落・大辻司郎は生きていた」報道(3)55年6月、共同通信が配信した「セイロンの日蝕観測成功」報道である。

 いまや説明なしで分かる人はごく少数だろう。まず(1)(2)項のころ、新聞に夕刊はなく、朝刊だけだった。(1)の伊藤律という人物は、当時37歳の武装共産党幹部。共産党が非合法化され、幹部は「地下にもぐって武装闘争を展開する」極左路線をとっていた。同じ立場の人物は9人いて、「日共9幹部」関連記事が新聞紙面を賑わしていた。記事は兵庫県宝塚市の山中で、伊藤と会見したとし、その一問一答を報じた。その全てが執筆した記者の創作だった。

 (2)の「もく星号」とは日航の旅客機(プロペラ)で、羽田発福岡行き。前々日の9日午前8時羽田を発って20分後消息を絶った。10日早朝、伊豆大島・三原山に墜落していたことが分かり、乗員乗客37人は全員死亡だった。大辻司郎は、当時大人気の漫談家で、後に息子が襲名して2代目となった。長崎の地元紙には何故か「大辻は助かった」という情報が入り、「良い経験だった。漫談のネタが増えたよ」という談話付きの記事を「創作」してしまった。

 (3)で「セイロン」とあるのは、現在「スリランカ」と表記される国。珍しい皆既日食で日本から観測隊が派遣されていたが、現地との通信事情が悪く、電話が通じなかった。共同通信社員が、必至に外国のラジオ放送に波長を合わせ、「観測成功」のニュースを聞いたと判断した。この「情報」にもとづき、あらかじめ加盟社に送っていた「観測成功」の予定稿を使うよう連絡した。実際には悪天候で観測は失敗。共同通信の連絡に従った各紙は誤報となった。

◆サンゴ事件で退陣した一柳との対照

 「平成の3大誤報事件」というのもあった。いずれも1989(平成元)年の誤報で、朝毎読の「3大紙」が誤報の揃い踏みをするというマンガチックな事態だった。

 朝日はこの年4月20日の夕刊に、沖縄・西表(いりおもて)島のオオアザミサンゴの表面を削って「KY」と書いた写真を掲載。「KYって誰だ」という見出しと、ひどい自然破壊だという主旨の記事を掲載した。出張していた写真部員が、ストロボの下部でサンゴを削り、自分自身が自然破壊してつくった写真だった。

 毎日は6月1日夕刊で「グリコ(・森永)事件 犯人取り調べ」を、読売は8月17日夕刊で「宮崎のアジト発見」を報じた。いずれも一面トップ記事だった。グリコ・森永事件は、84年3月の江崎グリコ社長誘拐事件をきっかけにあい次いだ食品会社に対する「商品に毒を入れる」という連続恐喝事件。未解決のまま時効となった。読売の「宮崎」というのは首都圏連続幼女殺害事件の宮崎勤(死刑判決確定・執行)のこと。ともに紙面に掲載した釈明は「警察情報として誤った内容が記者の耳に入り、確認不十分のまま記事にした誤報」だという主旨だった。

 二つの「3大誤報事件」で、ともにもっとも罪が重いのは、朝日の誤報である。伊藤律架空会見記も、サンゴ破壊も、ともに悪質な捏造だからだ。大辻司郎生存記事も捏造であり、平成3大誤報のうち読売・毎日の記事も、捏造の可能性を否定できない。しかし朝日の場合、1面トップ扱いが可能な記事・写真を捏造するという、すさまじい悪質さがある。

 サンゴ事件は、私が現役時代だったので強い印象を受けた。とくに当時の社長・一柳東一郎があっさり辞職したことの印象は強烈だった。朝日が写真部員の捏造だったことを認めたのだが5月20日。当時の社長・一柳の引責辞任は6日後の26日だった。写真部員の捏造と一柳とは、何の関係もない。接点が皆無だったにもかかわらず、一柳は引責辞任を決断・実行したのだ。「社内で起きた『事件』は全て社長の責任」という強烈な責任意識があったからこその引責辞任だったのだろう。

 その前例にならうなら、今回の「完敗」をうけた木村の選択は社長辞任以外にあり得ないはずだ。それなのに編集担当取締役・杉浦信之の解職にとどめ、木村自身は<先頭に立って編集部門を中心とする抜本改革など再生に向けておおよその道筋をつけた上で、すみやかに進退について決断する>とするにとどめた。

 こんなことを言って、「抜本改革」をやり遂げた社長の前例も、その成功後に潔く退陣した社長の前例も、寡聞にして知らない。朝日の病気は相当に重く、重体と言っていい状態なのかもしれない。
 
◆日本の新聞の戦争歓迎体質

 戦後だから誤報は、件名をあげて数えられる程度におさまっている。1937(昭和12)年から45年までの日中戦争の間、新聞は誤報ばかりで埋まっていた。誤報は個別の点ではなく、連続した線だったのである。朝日新聞の連載をまとめた「新聞と戦争」「新聞と『昭和』」(ともに朝日文庫、上下2冊」を読むと、誤報が異常ではなく通常だったことがよく分かる。

 この「線としての誤報」時代が、軍部の強制によって実現したというのはウソである。朝日と毎日が企業経営を確立するのは日露戦争(1904——05年)の時代だった。とくに大阪で朝毎両紙が、激しい号外合戦を展開した。

 戦闘状況についての陸軍省発表は「ロシア軍を圧倒し、勝った」に決まっている。日本軍の進路をたどって行けば、次の戦闘は○○で起きる、と戦闘地点も予測できる。次第に陸軍省発表前に号外紙面をつくっておくようになった。「日露両軍は○○で会戦、日本軍が圧勝した」という号外用紙面をつくっておき、日付だけ入れて印刷、配布すればいい……。こういう状態になったため、号外競走は「勝った勝った(カッタカッタ)と下駄の音」と揶揄(やゆ)された。

 そのとき以後、新聞は一貫して「戦争歓迎」だった。朝日の両書のうち、とくに「新聞と戦争」では、日中戦争開始後、朝日は飛行機をどんどん買い入れ、航空取材を強化した。新聞記事を書き、写真を撮るだけでなく、映写機で撮影して、ニュース映画をつくった。テレビのない時代だから、戦争映像はニュース映画しかない。新商品のニュース映画はどんどん売れた。さらに戦意高揚の歌を作ったり、「銃後の支援」を名目に婦人会を組織したり、戦争関連事業の拡大に励んでいたことがよく分かる。

 冒頭に紹介した9月12日付朝刊の「お詫び紙面」に次いで、13日付社説は
<論じることの原点を心に刻んで>
 だった。これだけの「1本社説」であり、文章は「ですます体」だ。
 このお詫び社説も含めて、朝日の「公式論」であろう。
 
◆「行き過ぎたキャンペーン」とは?

 14日付朝刊2面の「日曜に想う」が<特別編集委員・星浩>執筆の<事実と正直に向き合いたい>というタイトル。
 結びの部分を引用すると
<慰安婦問題を含む人権問題に厳しく目を向ける。東京電力福島第一原発の事故原因とその影響、そして原発のあり方にしっかりと目を凝らす。その姿勢を保ち続けるためにも、報道の誤りをきちんと検証し、事実と向き合う態勢を整えなければならない。

 35年間の記者生活で感じるのは、朝日新聞内で時折、事実の発掘・報道とは別に、行き過ぎたキャンペーンを展開しようという動きが出てくることだ。そうした点が、今回の問題などに通じることなのかどうかも検証すべき課題だろう。>

 である。どこまでが有意義なキャンペーンで、どこからが「行き過ぎたキャンペーン」になるのかは、新聞社が日常的に判断を求められる難題である。

 朝日は8月12日から16日まで「戦後70年へ」を連載していた。「戦後70年」の終戦記念日はいうまでもなく、来年2015年の8・15である。そのときまでのキャンペーン的な長期連載となるのでは? と思いながら読んでいた。それもまた「行き過ぎたキャンペーン」となるとするなら、「戦後70年報道」は不十分なものとなりかねない。

 イスラエルとPLO(パレスティナ解放機構)が対立している中東紛争でよく言われることだが、武闘路線のイスラエル軍部と、パレスティナ側の「ファタハ」は事実上、手を握っているのである。米国などの仲介で、和平までは行かなくても戦闘中止の合意が成立しそうになると、イスラエル軍がガザなどのパレスティナ人入植地を攻撃する。あるいはファタハがエルサレムなどで爆弾闘争を行う。それによって紛争は武力闘争に転化し、戦闘中止は夢になってしまう。

 尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権などをめぐる日中対決もまた、安倍・習近平両政権による強硬路線が手を握っている状況になっているのではないか。互いに強硬路線をとることによって、双方の国内世論は「政権支持」を強めることになる。

 日中関係を「友好」に転化させるために、「日本の世論」の役割は大きいはずだ。その状況下で、朝日の「戦後70年へ」が「行き過ぎたキャンペーン」とされ、しぼんでしまうとするなら、そのダメージは大きいだろう。

◆「地方紙の時代」の期待

 朝日の完敗によって、読売・産経は「はしゃいでいる」と言っていい紙面展開だ。喜んでいるだけでいいのか? と言っておきたい。流れとしては、朝日も読売・産経批判を強め、全国紙は「対立の時代」に入るだろう。いがみ合いが露骨に出ている新聞を毎日読むのは不愉快なことだ。各紙そろってそんな紙面になると全国紙は「冬の時代」に入ることになる。

 そういうトーンのない、地方紙が歓迎される時代に移行するのではないか? 私自身は数年前から、知人に東京新聞を薦めている。「こちら特報部」などの掘り下げた調査報道に読み応えを感じているからだ。
 「地方紙の時代」に向かっていくのは良いことのように思われる。

■第3のテーマ【欠落している「住の安全」認識】

 広島市の水害が連日報道された。土石流が襲った現場だから、中央は沢である。沢の両側に人家が密集している。「どうして?」と不思議な気がしたのは、私だけだろうか。

 当然のことながら、大雨になれば、ふだん水量の少ない沢も、多量の水が流れ落ちる急流になる。水だけの場合でも、近くの民家は被害を免れない。「沢の近くに住むな」は、私のような田舎者にとって、当然の「生活の知恵」であった。特別なものでなく、みんなが知っている常識だと思っていた。

 そのうえ現場付近の土質は、花崗岩(かこうがん)が風化した真砂土(まさど)というもろいものだという。水に漬かると、アッという間に崩れ、土石流になってしまう。つまりあの災害現場は、土石流災害が起こりやすい危険地域だったのだ。

 新聞記事をつぶさに読んでみる。朝日21日付朝刊社会面に「普段はちょろちょろとしか流れていない沢が大洪水になった。沢のことは誰も気にしていなかった」という被害者(69)の声にめぐり会った。いまや常識は「沢のことなど気にしない」となったのだろうか? 沢が危険と思わない人は、真砂土のことも気にしないはずだ。

 被災した家屋の中には、宅建業者製のものと見受けられるものも多かった。業者が宅地造成し、さらには住宅建設までやって、住宅が欲しい人に売るわけだ。その業者の方は、沢や真砂土が危険だということを知らないですむのだろうか?

 宅地や住宅もまた、売買の対象となる商品だ。危険な商品を買った消費者が、その商品のせいで生命(いのち)を落とした場合、売った業者は業務上過失致死の疑いで捜査対象となる。ところが新聞・テレビなどには、「警察は業者の刑事責任を追及すべきだ」という主張がまったく登場しない。

 「食の安全」はひんぴんと「ニュースの言葉」となる。中国製食品などに危険なものがあるからだろう。毎日のように購入・消費する食品の安全性に神経質な消費者たちが、「一生に一度」の大きな買い物である住宅のとき、「安全性」を考えないというのは奇妙なことだ。
 「不謹慎」とお叱りを受けるかもしれないが、3年半前の東日本大震災のとき、内心ほくそ笑んでいたことがある。東北地方中心の被災地の中で、飛び地のようになっていたのが東京ディズニーランドで知られている千葉県浦安市だった。

 浦安市のホームページを見ても、都市機能がほとんど全滅状態となっていたことが分かる。被害の状況や、給水所の案内などのほかに、被害を示す写真特集もあった。音声が出てくるわけではないが、「悲鳴」が聞こえてくるという印象を受けた。

 ディズニーランドは、全施設が休園・休館となった。浦安市は、ほとんど全市がすさまじい液状化現象に見舞われた。新聞記事によると、「地面からドロが吹き出し、切り立った壁のようになって襲ってきた」と語る被災者さえいたと言う。

 私ごとだが、千葉県四街道市の自宅に引っ越したのは1979年春のことだった。そのとき真面目に考えた転居先候補が浦安だった。勤務先まで、地下鉄(東京メトロ)で乗り換えなし、20分程度で着く。四街道市はJRとバスを乗り継ぎ1時間半もかかる。それでも四街道の方を選んだのは、浦安市は埋め立て地だからだ。「液状化」などという言葉は知らなかったが、埋め立てに使うのは、東京都などで排出されるゴミの残滓(ざんし=残りカス)だ。地震でユサユサ揺られると、ゴミは締まってしまう。地盤沈下が起こり、海底に沈まないとも限らない……と考えたのだ。

 実際には浦安の宅地・住宅は高価で、安月給の身では手が届かなかったのだが、自分を納得させるために考えたのが、ゴミの上で暮らすことになる浦安は危険という論理だ。それから30年余も経って、ともかく考えたとおりの事態になった。「他人の不幸」の意味もあって、大声で言えない分だけ、内心の快哉感は強い。

 浦安市の場合、死者が出たわけではないから、宅造業者を業務上過失致死罪に問うことはできない。しかし広島市の災害では、多数の死者が出たのだから、当然のことながら、業務上過失致死罪の適用は検討すべきだろう。
 業者だけではない。一定面積以上の宅地造成には、市町村長の許認可が必要だ。住宅建設の場合も、建築確認を申請し、行政のOKが必要だ。危険な沢の近く、しかも真砂土という土質のところに、宅地造成も建築確認も業者の言いなりにOKしていた行政の責任は大きい。

 新聞・テレビなどでは、「異常なほどの大雨」が強調されるだけ。「住の安全」という言葉さえ出て来ない。「衣食住」というのは、日常生活で欠かせない三分野と言えるだろう。「食の安全」はひんぴんと登場し、衣服の場合も、ときに「危険な商品」が指摘される。しかし今回の災害に関する巨大メディアの報道には「住の安全」という考え方がまったく登場しない。新聞の社説等に出て来ないだけでなく、広島市長らの記者会見で質問さえなかった。

 「住の安全」意識を誰も持たないからだろうか? 被災者の言葉の中にも「どうしてあんな場所で住むことにしてしまったのか?」という嘆きも出て来ない。いまの日本人の思考の、巨大な欠落部分ではないか。その欠落は、マスコミの責任だといえる。

■第4のテーマ【来年9月、野田聖子政権誕生の予感】

 来年9月の自民党総裁選で、安倍晋三の対抗馬は野田聖子(54)に決まった……。3日行われた内閣改造・自民党役員人事から、この断定的な「予言」ができそうな気がする。
 「一寸先は闇」と言われるのが政界だから、こんな予言は禁物と言われ続けてきた。しかし政界の構図は変わった。政治家が変わったと言った方が良いのかもしれない。大胆な行動に出て「一寸先は闇」の世界の主役となろうとする政治家がいなくなってしまっては、政界は予言可能な世界になる。

 自民党役員・閣僚人事の前、安倍の対抗馬と衆評される筆頭の政治家は、石破茂(57)だった。しかし石破は幹事長を外され、地方創生担当相として閣内に取り込まれた。当初、安倍が求めた安全保障法制担当相に難色を示し、暗に幹事長留任を求めたが、坦務変更で押し切られた。

 谷垣禎一(69)もまた安倍の対抗馬となることを期待されていた政治家だった。安倍は自民党タカ派だが、谷垣は池田勇人、大平正芳、宮沢喜一などを輩出したハト派の宏池会を受け継いだ政治家。宏池会トップとして2009年9月の自民党総裁選で勝利した。

 2012年9月総裁選でも再選を目指していたが、幹事長だった石原伸晃が立候補を表明。「執行部を含めて党内を掌握できなかった責任を取る」として再選出馬を断念した。この総裁選は安倍の勝利に終わり、自民党は谷垣総裁のハト派路線から、安倍総裁のタカ派路線へと急カーブを切ることになった。この経過を考えれば、谷垣が来年9月総裁選で、「12年の雪辱戦」を目指しても何の不思議もない。しかし谷垣は、石破の後任幹事長に指名され、「総裁経験のある幹事長」という前代未聞のポジションを受けてしまった。

 報道によると安倍は以前から「谷垣幹事長」構想を温めていたという。谷垣には、根強い「秩序を重んじる性格」があり、安倍はそれを見抜いていた。12年総裁選での、石原の立候補は、谷垣から見れば明智光秀と同じ「主殺し」。だからこそ強く反発し、自ら責任を取るとして総裁再選出馬を断念した。今回の党・内閣人事でも、石破茂の安全保障法制担当相就任拒否について、「あの言動はいかがなものか」と眉をひそめ、安倍らに耳打ちしていた。「政権与党の一致団結」が口癖だから、幹事長就任を拒否することはないというのが安倍の読みだったという。

 石破は閣内に、谷垣は幹事長にそれぞれ取り込まれてしまった。逆に野田聖子は総務会長の再任はなく、無役となった。野田は岩波書店の月刊誌「世界」6月号(5月8日発売)でインタビューに応じた。「人口減少の現実をふまえ、持続可能な安全保障を考えよう」という見出しで紹介されている。このインタビュー記事は、月刊誌「文藝春秋」7月号(6月10日発売)の政界内幕もの「赤坂太郎」で、「野田聖子の“野心”」という小見出し付きで紹介された。

 赤坂太郎の見立ては、単なるインタビュー記事ではなく、ポスト安倍をにらみ自らの存在感を高める狙いがあると、「政権構想」同然の扱い。野田が周辺に「次の自民党総裁選には出たい」と漏らしていることも紹介し、野田が「初の女性宰相の座を虎視眈々と狙っている」と書いている。

 赤坂太郎の記事も含めて、こういう形で活字になった場合、更迭されるのは当然だろう。野田本人にとっては、来年9月の総裁選を目指して「行動の自由」を得たとプラスに考えることもできる。

 改造後の安倍政権を待っているのは地方首長選という試練。7月13日投票の滋賀県知事選では、自公推薦の元経済産業官僚小鑓(こやり)隆史が「優勢」といわれながら、前民主党衆院議員の三日月大造に敗れた。10月26日投票の福島県知事選では、現職の佐藤雄平が不出馬を表明。どんなパターンになるか予断を許さない。「原発問題」の現場だけに、「推進・再稼働促進」の安倍政権がすんなり勝てるとは思えない。

 11月16日投開票の沖縄県知事選では、3選立候補を表明した現職仲井真弘多の勝利はおぼつかない情勢。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する立場で、翁長雄志・那覇市長が立候補することは確定的で、翁長優勢が伝えられている。

 統一地方選は来年4月だが、滋賀・福島・沖縄の「知事選3連敗をうけた」という枕言葉付きの報道になる可能性もある。安倍政権にとっては厳しい戦いだろう。

 その後8月には「第2次大戦後70周年」を迎える。戦後50周年のときの村山(富市)談話に相当するものを、安倍政権もまた発表せざるをえないだろうが、中韓両国の「反日」姿勢を強めるだけに終わりそうだ。その直後になる9月総裁選だけに、日本初の女性首相誕に結びつく可能性も高いと予言できそうな気もする。

注)9月15日までの報道・論評を対象にしております。原則として敬称略。引用は<>で囲んでおります。

 (筆者は元大手マスコミ・政治部デスク・匿名)


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