【マスコミ昨日今日】(11)

2014年9〜10月

大和田 三郎


■第1のテーマ[この50年のメディア史を考える]

 ご存知のとおり50年前1964年の10月10日は、東京五輪開会式の日だった。「50周年」ものの報道が目立った。
 その年10月1日は、東海道新幹線が運行開始した。「東京五輪に間に合わせる」が至上命題だった。新聞・テレビの50年ものは「成功」トーンだ。「夢の高速」を実現し、全国新幹線網が整備された。鉄道事故による死者はゼロ。その技術が諸外国に評価され、輸出もされている。

 さてホントに成功だったのか? 新幹線が開通するたびに、在来線は不便になる。列車の本数が大幅に削減されるのは「当然」とされ、レールがはがされて、なくなってしまった区間もある。つまり新幹線列車が停車する以外の市町村は、単なる「沿線」にすぎない存在となり、騒音と振動に悩まされ続けただけだ。

 新幹線が停車する大都市の場合も。デメリットは大きい。代表的なのは、地域の中心として果たしてきた機能を、東京に吸い取られる「ストロー効果」だ。とくに大阪がひどかった。全国規模の企業はそれまで、東日本の中心である東京に対して、大阪を西日本の中心として運営してきた。新幹線網の整備によって、中心は東京に1つあればいいということになった。商法上の本社を大阪にしていた企業が、それを東京に移すケースも増え続けた。

 大阪で誕生した橋下徹政権(本人は府知事から市長に移行。府知事は橋下亜流)というのは、「欲求不満の産物」というのが私見だ。「大阪都構想」という造語は「東京と同格だった昔日の栄光を取り戻したい」という情念がにじみ出ている。

 大阪は、もはや東京には及びもつかない地方都市になっただけですんでいるが、その他の諸地域はそうは行かない。「過疎化」に悩まされ、人口減は続くばかりだ。「限界集落」という言葉さえ誕生した。「人びとが暮らしていける最低限の限界」となってしまった集落のことらしい。東京一極集中と限界集落は、「東京へ」という単一方向の人口移動がもたらした共通の産物だろう。「新幹線50年」は社説のテーマとなり、連載を掲載した新聞もあったが、いずれもマイナス面の指摘は不十分だった。

 東海道新幹線スタートと同じ日、秋田県大潟村が発足した。琵琶湖に次いで全国第2の大きな湖(みずうみ)だった八郎潟を埋め立て、東京のJR山手線の内側より広い農地をつくった。朝日は10月2日付朝刊に「干拓の村、米価と闘い続けて 秋田・大潟、開村50年」という記事を掲載した。コメ不足時代に計画された巨大事業だったが、完成の時点ではコメ余りの時代に入っていた。大潟村の50年は、入植した農家の「苦闘の50年」となった。

 じつはこの年、4月1日、日本はIMF(国際通貨基金)8条国に移行した。そして同月28日、OECD(経済協力開発機構)に加盟した。IMF8条国というのは、協定8条で定められた加盟国の一般的義務を履行すると約束した国という意味になる。その一般的義務とは、経常防疫取引を制限しない▼差別的通貨措置をとらないこと▼他の加盟国が保有する自国通貨(つまり円)に交換性を付与すること、だとされている。それらの義務を履行しないで良い国は14条国で、それまで日本はその一員だった。おそらく8条国移行は日本が約束することだったのだろう。そしてそれがOECD加盟の条件だったはずだ。当時の新聞記事を読んでいると、OECDについて「先進国クラブ」だと意味づけし、日本が先進国クラブに入ることができたと大喜びだったことを鮮明に記憶している。

 と言うのは、私自身、39年は大学4年になり、就職を決めなければならない年だった。マスコミ志望と決めていたのだが、当時の新聞・通信社、テレビ局は大学推薦関係なしの試験による採用と決まっていた。1次の筆記試験は常識と作文というのもほぼ共通。試験というのは「いかに準備したか」を問うだけ、というのが私の試験観で、大学入試のときも自己流の準備でまず成功だった。マスコミ受験準備は、その前年秋ごろから丹念に新聞を読むことに絞った。「経済に弱い」自覚があったので、経済記事はとくに念入りに読んだ。IMF、OECDなどという言葉が出てくると、じっくり読んだものだ。

 当時の毎日の入試には「グループ・ディスカッション」というのがあった。私のグループのテーマは「国産振興」であった。そこでIMF8条国移行、OECD加盟の意味などをひとくさり「演説」できるという副産物もあった。

 私ごとついでに書くなら、私自身、開通直後の東海道新幹線で、東京・大阪間を往復した。毎日に内定した。9月ごろ(かと思う)、人事部から「君は大阪入社扱いとする」と通告された。研修はもちろん翌年4月のことだが、大阪本社に行き担当者と顔合わしろというわけだ。愉快な旅ではなかった。しかし新幹線の乗り心地はまずまずだったと記憶している。

 私の社会人生活は、新幹線、大潟村と同じ50年となる。それ以前は児童・生徒・学生であり、今後は「老人」となる。じつは今月13日が誕生日で、72歳となった。6回り目の午年年男なのである。安倍晋三は私より1回り下。還暦の年男である。総理大臣より1回り上というのは、「老人」の資格十分だろう。

 東京五輪は巨大イベントで、新幹線開通だけでなく、首都高速道路などをつくって東京を変えた。それが日本全体を変えることにもつながった。しかし1964年は「東京五輪の年」であることが突出して、「先進国の仲間入り」した年であるということは、隠れてしまった嫌いがあるのではないか?

 多少念入りに新聞記事検索をすると、4月9日東京都内で「OECD日本加盟50周年記念行事」なる催しが開催されたことが分かる。各紙ともその日夕刊に、安倍首相が「時間が許せば5月のOECD閣僚理事会で基調講演したい」と述べたことを報じたベタ記事を掲載した。

 この記念行事に出席するため、OECDのアンヘル・グリア事務総長が来日していたことも分かった。朝日のデジタル版で検索すると「OECD事務総長、いわきの高校生と面会」という記事も出てきたからだ。しかしこれは福島県版の記事。こうしてみると経済部の記者たちは、OECD加盟50周年に何も反応していない。これは驚くべきことだというのが、私の実感である。

 「所得倍増」をうたった池田勇人政権(1960年7月−64年11月)が経済の高度成長路線を突っ走った。その「成果」がOECD加盟=先進国の仲間入りだった。以後50年、日本はその路線を変えていない。「この50年」報道・論評は、新幹線ではなく「経済成長」を主要テーマとすべきではなかっただろうか?

 「経済成長至上主義」というべき政策体系を改めるきっかけは何回もあった。イタイイタイ病(68年厚生省が公害病と正式認定)水俣病(73年3月熊本地裁が第1次訴訟でチッソの過失責任を認定)四日市ぜんそく(72年7月、津地裁四日市支部がコンビナート6社の共同不法行為を認定)など、公害報道が華やかな時代があった。当然「経済成長至上」の思想に批判的な論調が盛んだった。
 73年と79年には、2次にわたる石油危機があった。エネルギーをはじめとする資源は無尽蔵ではないことを強調する「成長の限界」論議が花盛りだった。しかし80年代には、地価・株価・物価をはじめ全ての経済指標が右肩上がりとなるバブル経済が支配した。

 90年にはバブルが崩壊したのだが、その後の低成長経済を、「高度成長の終焉」による経済構造の変化とする思想は生まれることさえなかった。経済政策の失敗によって低成長となったとする「空白の10年」という本がベストセラーになり、政策さえ正しければ成長は続いたはずという幻想が支配した。低成長時代はその後も続いたが「空白の20年」などと、「政策の失敗」の期間を長引かせるだけだった。正しい政策がとられたなら、高度成長が続いたというのが経済認識の大勢となっているのが現状だ。

 OECD加盟=先進国の仲間入りが56年、バブル崩壊が90年だから、その間おおむね4半世紀である。そこで経済構造は変わった、成長の時代は終わったと考えても何の不思議もないのだが、多くの人は「変化」を嫌うらしい。成長の時代はおわったと考えると、「成長なき経済」にマッチする生き方をしなければならない。しかし誰もそんな生き方を教えてくれない。幻想であろうとも「成長」にしがみつき、成長できない政策の失敗を批判・非難する「空白の○○年」思想を信じる方が気がラクなのだろう。

 経済に限定しないでこの50年を見るなら、歴史に残る最大の「事件」は91年末の「ソ連の崩壊」だっただろう。ロシアをはじめとする16の共和国が加盟していた連邦国家・ソ連の消滅をゴルバチョフ大統領(当時)も、国会にあたる「連邦会議」も、ともに宣言した。この政治上の「事件」は、欧米では、「社会主義思想の崩壊」と受け取られている。西欧の「左翼」政党は、社会主義・共産主義を理想としていた綱領を改定し、「国民主権」「平等」などを強調するものにした。

 しかし日本の政党構図は変わっていない。議員政党色が濃かった旧社会党の大半は民主党に転じた。しかし社民党も共産党も残っている。崩壊したはずの社会主義・共産主義を綱領に明記する政党が、依然として「左翼」に生き残っているのである。

 以下はこの50年を暮らしてきた人間としての実感次元のことで、卑俗な内容となる。仲間の暮らしを見ると、「寅さんと池波正太郎の50年」と命名したいというのが、私のホンネである。映画・テレビ番組といえば「フーテンの寅さん」を見る。大衆小説の類(たぐい)では池波正太郎を読む……。こんな知人が極めて多かった。池波正太郎はこの間、長期にわたって「オール読物」「小説新潮」「小説現代」の3誌に、毎号読み切りのシリーズものを書いていた。

 寅さんも池波の短編も、「どれも同じ」で共通している。寅さんは毎回、美女に惚れ込むが、「恋」は成就しない。池波短編では、「事件」は必ず解決する。「解決」を勝ち取る主人公は、人びとがつくる社会の法則のようなものに通じており、その法則に沿って謎解きをするから解決できるのである。

 酒席で「どうして面白いの? 毎回見るの?」と問い詰めたことは数え切れないほどある。結局のところ「毎回同じだからこそ、安心して観ること、読むことができる」ということのようだ。多くの人が「いつもと同じ」ことに安心しようとしてきたのが、この50年ではないか?

 OECD加盟、東京五輪の64年から2年遅れの66年にスタートしいまでも続いているテレビ番組に「笑点」がある。命名したのは立川談志(故人)のようだ。64年、朝日新聞の「1000万円懸賞小説」の第1位を獲得したのが北海道・旭川市在住の女流作家三浦綾子(故人)作の「氷点」だった。「氷点」ブームに乗って、そのパロディー「笑点」を思いついたのである。

 ただただ笑いを取るだけで、落語家の藝としても邪道である。落語は人生の一コマを語る「話芸」であり、笑いを取るのは最後の「落」だけなのだ。小三治など本格派は笑点出演を拒否している。かなり長期にわたって司会をやっていた円楽が、師匠の円生に「何時まであんなことやってるんだ」と苦言を呈され、司会を下りるという「事件」もあった。パロディーであり、邪道であるものが残った。キリスト教者である三浦綾子が書いた、人生をテーマとする重たい小説「氷点」の方は、いまやあまり読まれなくなっているようだ。

 この50年は、「考えること」が嫌われた50年といえるかもしれない。新聞記事に「50年」ものは多かったが、読者に「考えること」を促すようなものはなかった。

■第2のテーマ[産経支局長起訴=「日本はうって一丸抗議」で良いのか?]

 産経新聞の加藤達也・前ソウル支局長(48)が10月8日、ソウル中央地検によって情報通信網法違反(名誉毀損)で在宅起訴された。先月3日付で「MSN産経ニュース」に掲載された「追跡・ソウル発 朴槿恵(パククネ)大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」と題したコラムが、大統領の名誉を毀損した、というのが起訴事実である。

 朝毎読に加えて日経、産経の全国紙5紙はそろって10日付朝刊・社説のテーマをこの問題にした。タイトルは以下のとおりだ。
朝日=産経記者起訴 大切なものを手放した
読売=産経前支局長 韓国ならではの「政治的」起訴
毎日=産経記者起訴 韓国の法治感覚を憂う
日経=報道の自由侵害と日韓関係悪化を憂う
産経(主張)=前支局長起訴 一言でいえば異様である 言論自由の原点を忘れるな

 それだけではない。読売の編集手帳、毎日の余録など朝刊1面コラムもこの問題をとり上げた。5紙のうち1紙、朝日の天声人語だけが、他のテーマだっただけだ。

 内輪話になるが、社説と1面コラムは各紙とも論説室でつくる。社説のテーマを決める会議はNHKの昼ニュースを見終わった時間に始める。社説と1面コラムが重複することは避けるのが常道とされている。5紙中、4紙までが、あえて重複を選んだところに、この問題についての「異常な関心」を感じる。

 新聞論調が「言論弾圧」と反発しただけではない。日本新聞協会は、開催中の新聞大会で特別決議を行った。新聞労連も、日本記者クラブも、さらには日本ペンクラブも決議などして、「言論の自由を侵害する行為だ」と批判した。さらに日本政府も外交ルートを通じて「憂慮の念」を伝えた。まさに日本総ぐるみの「批判」であろう。

 コラムの主題は、今年4月16日多数の死者を出したセウォル号事故発生のとき、大統領が約7時間にわたって所在が確認されていなかったことだ。「そのとき」の朴大統領の所在についての国会質問に、側近が「知らない」と言葉を濁す答弁をしたことなどを紹介。韓国最大手紙「朝鮮日報」が7月18日付で「大統領をめぐるうわさ」と題したコラムを掲載したことにも触れている。「大統領はあの日、ある場所で誰かと密会していた」といううわさが流れたことにも言及。そのうわさに登場した元政府要人も実名で報じた。
 さらに「証券街の関係筋」の話として、「うわさは朴大統領と男性の関係に関するもの」と踏み込んで説明。この問題についての国会のやり取りなどから、朴大統領について、側近や閣僚らとの意思疎通ができない「不通(プルトン)大統領」だと批判されていることも紹介。大統領への報告はメールやファクスによる「書面報告」がほとんどだといわれていることなども書き込み、「朴政権のレームダック(死に体)化は、着実に進んでいるようだ」という文章で結んでいる。

 読売の1面コラム「編集手帳」は「証券街のうわさ話として朴大統領の男女関係をにおわせた文章には、コラム書きの端くれとして一片の共感も覚えないが、下品でも言論は言論である」と書いている。「一片の共感も覚えない下品な文章」と断じているのだ。それでも「言論」の端くれであり、刑事犯罪として起訴することには反対している。
 朝日の社説もまた、編集手帳と同じ意味のことを書いている。以下の一節である。
   ×   ×   ×
 今回の問題が起きる前から、朴政権の関係者は、産経新聞や同じ発行元の夕刊紙が、韓国を批判したり、大統領を揶揄(やゆ)したりする記事を掲載していることに不信の念を抱いていた。

 そんな中、独身女性の国家元首である朴氏の男性問題などが「真偽不明のうわさ」をもとに書かれたことで、怒りが増幅したのだろう。
 検察当局は、前支局長のコラム執筆について、うわさの真偽を確認する努力もせずに書いたと指摘した。確かに、この記事には、うわさの内容を裏付けるような取材結果が示されているとは言いがたい。
   ×   ×   ×
 その直後「だが、仮に報道の質に問題があるとしても、公権力で圧迫することは決して許されない」と続けている。

 ここまで書くなら、朝日は産経の意図をもっと端的に紹介すべきだっただろう。対立する国の双方に、「友好関係を大切にしよう」という友好派と、「対立を深めたい」とする強硬派を抱えているとする。双方の「友好派」は手を握っており、強硬派は対立していると考えている人が多いだろう。しかしじつは強硬派の方が固く連帯しているのだ。
 武力を伴う対立となっているイスラエルとPLO(パレスティナ解放機構)の場合、分かりやすい。米国などの仲介で「和平」が成立しそうな情勢となることがしばしばある。その場合強硬派である、イスラエル軍部か、パレスティナ側のゲリラ集団・ファタハのどちらかが行動を起こす。イスラエル軍部ならパレスティナ人入植地を空爆する。ファタハならエルサレムやテルアビブなどで、爆弾を爆発させる。その「戦闘行動」によって、和平成立の気運など吹っ飛んでしまうのである。

 日中・日韓の対立も、ほぼ同様の構図になろうとしている。一貫して中国、韓国に対する挑発的な行動・発言をして、日中・日韓の両関係を緊張させようとし続けてきた政治家に石原慎太郎がいる。中国のことは「支那」と呼び、朝鮮民族の人たちを「第3国人」と呼んだりもする。長期間にわたった石原の行動・発言はようやく実を結ぶ段階に入り、日中・日韓の両首脳会談は、第2次安倍内閣成立後行われていない。

 安倍晋三首相の靖国神社参拝も同じ意図の行動なのである。その行動の目的は、中国・韓国の反発を誘うことの一点でしかない。首相が靖国参拝をするなら、中韓両国は反発を強め、首脳会談に応じない。安倍首相が「前提条件無しの首脳会談をやりたい」と言っておけば、多くの日本人は「中国・韓国が首脳会談を拒否している」と思い込む。それで安倍内閣支持率は上がるというメカニズムになっている。

 靖国神社参拝によって安倍首相は、中国・韓国の両国首脳に対して「日本との首脳会談は拒否して下さい」というメッセージを送ったのである。日本人の多くはそのメッセージを読み取れず、首脳会談を拒否しているのは中韓の側と考える。だから安倍支持率は高まる。実に狡猾な政治戦略と言えるだろう。

 もはや安倍政権の翼賛メディアと言っても良い産経新聞なのだから、そのソウル支局長が日韓関係をさらに悪化させるために一役買おうと考えても不思議ではないだろう。この問題が起こったことにより、日韓関係はさらに解決困難な対立を抱え込んだ。韓国の朴槿恵政権はもちろん、日本の安倍政権にとっても、そして産経新聞にとっても、歓迎すべきことだった。

 双方とも、ここで譲歩すること自体、敗北である。韓国はあくまで裁判による刑事罰を目指して突っ走る以外にない。日本政府も産経新聞も、韓国と戦う以外にない。その結果、日本の安倍政権も韓国の朴政権も支持率を上げる。日韓関係はもはや対立一色になっている。その現実を見ようとしないで、「言論・報道の自由」というきれいごとだけで、論調を展開しても無力なものにしかならない。

■第3のテーマ[火山噴火被災は人災だ!]

 御嶽山(長野・岐阜県境、3067メートル)噴火の犠牲者は60人を超え、戦後最悪の火山被災となる。今年は広島市の豪雨による土砂災害でもほぼ同数の犠牲者が出て、マスコミは「自然災害の当たり年」を嘆くばかりだ。自然災害と見えるものも、人災ではないかと疑うのがマスコミの使命のはず。その使命感を失っている現状に驚く。

 広島土砂災害は前号でとり上げ、「住の安全」という考え方がまったく登場しない巨大メディアの報道を批判した。
 火山被災に話を戻すと、御嶽山被災まで、「戦後最悪」は23年前1991(平成3)年の雲仙普賢岳(長崎県)噴火だった。噴火そのものは90年11月始まり、その後小康状態になったが、91年2月再噴火し、5月には土石流の発生、溶岩の噴出と溶岩ドームの形成などがみられた。今回の御嶽山噴火が水蒸気噴火だったのと比較すると、はるかに本格的な火山活動だったのである。

 その普賢岳噴火で大規模な人的被害をもたらしたのは6月3日午後4時すぎに発生した火砕流だった。死者・行方不明は44人にのぼったが、内訳は取材に当たっていた報道関係者(アルバイト学生を含む)=16人▼米仏両国の火山学者ら=4人(うち1人は案内役)▼警戒に当たっていた消防団員=12人▼報道関係者に同行していたタクシー運転手=4人▼警察官=2人▼選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員=2人▼農作業中の住民4人、だった。

 死者が出たのは避難勧告地域だったが、報道陣は勝手に入り込み、消防士・警察官などが現場で「待避」を勧告したのに無視し続けた。報道関係者や同行していたタクシー運転手らは、民家に無断で侵入し、コンセントの電気を無断で使用するなどの違法行為も行った。消防団員、警察官はいったん後方に下がったが、違法行為警戒のため、再度現場に行かざるをえなくなった。普賢岳被災は、天災ではなく、報道関係者の傍若無人な行動が引き起こした、サイテーの人災だったのである。
 マスコミは、そんなことにはまったく触れずに、今回の御嶽山被災も、「戦後第2」となった普賢岳被災も、「天災」扱いで報道し続けた。あまりのイケズウズウシサには、「あきれてモノが言えない」を通り越して、感嘆したい気分にさえなる。

 御嶽山は1979年に有史後初めて噴火した。それ以前、火山は活火山、休火山、死火山に三分類されていたが、代表的な死火山とされていた御嶽山の噴火によって、その3分類を止めてしまったという。その後91年、2007年にもごく小規模な噴火が発生した。今回気象庁は、9月10日ごろから地震活動の活発化を観測していた。このデータについては、ホームページで明らかにし、関係自治体への情報提供もしていたという。

 しかし一般国民に情報提供するのは「噴火警戒レベル」だった。5段階で、1=平常▼2=火口周辺規制▼3=入山規制▼4=避難準備▼5=避難とされている。2の火口周辺規制にしても、実施したのに何ごとも起こらなかったのでは、「予報の間違い」とバカにされる。だから1から2への引き上げもしなかった、ということのようだ。

 ここで指摘したいのは、この「警戒レベル」というシステムの時代遅れぶりである。2、3は「規制」であり、5、4は「避難」という行動の命令と、その準備指示である。「官」の一角に位置する気象庁が、国民の行動を規制ないし指示するシステムなのだ。「官」こそが正しい認識を持つのであり、「民」は無知蒙昧なのだから官の規制・指示に従わなければならない……。言外にこう主張している。

 警戒レベル最高は「避難」なのだから、このシステムの対象は住民なのかも知れない。しかしじっさいに火山活動についての情報をいちばん知りたいのは登山者だろう。天候についての情報なら、天気予報として提供されるし、天気図を読んで、より詳しい情報に接することも可能だ。火山活動の場合も、観測された全ての動きは、微小なものであろうとも、登山者向けに提供するのが正しい姿勢であるはずだ。

 現在でもホームページでは明らかにしているというのだから、とりあえずは「火山登山者は気象庁ホームページの情報に目を通そう」と呼びかけるだけでいい。
 「官」に位置する人間たちが、自分たちこそ正しい情報を握っている。だから「民」に指示するのは当然、と考えても不思議ではないかもしれない。あまりの古色蒼然ぶりに驚くだけだ。しかし「民」の代表ヅラしているマスコミが、「登山するかどうかは、登山者本人が判断する。だから微動の場合も、観測データはすべて公表せよ」と主張しないのはおかしい。

 マスコミの「民の代表」ヅラは、単なるタテマエで、ホンネは「官僚の言いなり」なのかも知れない。

注)10月15日までの報道・論評を対象にしております。一部敬称略。引用を<>で囲んでいる部分もあります。

 (筆者は元大手マスコミ・政治部デスク・匿名)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧