2015年2月〜2015年3月

【読者日記——マスコミ同時代史】(16)

2015年2〜3月

田中 良太


■【第1のテーマ=朝日・天声人語への疑問】

 「天声人語」は各紙の1面コラムを代表する存在であり、朝日自身もそう自負してきた。しかし短期間に「おかしいナ」と感じるものがあい次いだ。「朝日新聞は変わっているのか否か?」「どう変わっているのか?」は、大きな問題で、このコラムで問い続けていくべきだろう。今回はまず、疑問に感じた「天声人語」を指摘することから始めたい。

◆「人を殺したい」少年少女を論じた元裁判官

 2月18日付(朝刊の)「天声人語」は「人を殺してみたかった」名古屋大女子学生(19)と、1997年の神戸市須磨区の連続児童殺傷事件がテーマ。その中で神戸の事件の審判を担当した元裁判官の井垣康弘氏が昨年秋、朝日紙上に登場していたことを紹介している。井垣氏は「なぜ事件が起きたか、社会は克明に知るべきだ」「『捨てられた』と子どもに感じさせてはいけない」などと主張しているという。
 私自身、記憶になかったので、朝日の記事検索で探し出した。井垣氏の登場は昨年10月3日付朝刊オピニオン面「耕論」というコラム。「少年事件を考える」というテーマで語っている。「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った少年(犯行当時中2〜中3)についての井垣氏の発言の一部を紹介しよう。

<当時中2〜3だった彼が事件を起こした動機は、脳の未発達が原因での性的サディズムです。面談して射精のときにどんなイメージが浮かぶのかと聞くと、『人間の内臓にかみつき、むさぼりつくシーンを思い浮かべる』と答えました。自分が異常だと悩み、こんな状態では生きていく希望を感じられないと、人を殺して死刑にしてもらおうと考えたのです。

 防ぐことができたかもしれないという機会はありました。年月を経たので話しますが、親がスパルタ教育をしないで普通に育てていれば切羽詰まった彼が相談していた可能性がありました。
 また、中1のときに精神科医の診断を受ける機会がありました。医師は思春期の少年に対する初歩的な問診を怠り、射精時のイメージを聞き忘れました。もしそこで性的サディズムを発見し、その後に正常に発達する可能性があることを伝えていれば、犯行を食い止められたかもしれません。
 殺人の前に彼は2人の小学生をハンマーで殴ってけがをさせています。2人は制服を着ていた「犯人」の顔を覚えていた。地元中学の在校生の写真一覧を見ればわかると警察に行きましたが、対応してもらえませんでした。このときちゃんと捜査していれば、殺人事件には至らなかったでしょう。>

 「裁判官は語らず」と言われる。通常の裁判の場合、判決文で全てを語り尽くすのが至上とされる。それ以外の発言は、「場外乱闘」の原因になるだけで有害無益だからだろう。少年事件の場合も同じことで、審判によって「決定」するのが裁判官の職務だが、決定の内容は公表されないことも多い。担当裁判官が語るケースは稀だ。弁護士でさえ、弁護士法23条で「職務上知りえた秘密は漏らしてならない」守秘義務を課されている。裁判官の守秘義務は、それより厳しいとみるのが常識となっているのだろう。

 こうした背景を考えると、井垣氏の発言は異例のものと言える。指摘した「防ぐことができたかもしれない」チャンスのうち、「親がスパルタ教育をしないで普通に育てていれば……」というのは、言われることは多くても、実践されたケースは少ない。しかし精神科医が思春期の少年に対する初歩的な問診を怠り、射精時のイメージを聞き忘れたというのは、明らかに診断ミスだ。ハンマーで殴られてけがをした2人の小学生が、制服を着ていた犯人の顔を覚えていて、地元中学在校生の写真一覧を見ればわかると警察に行ったが、対応してもらえなかったというのは、警察の怠慢だろう。

 井垣氏の発言は、昨年7月長崎県佐世保市の県立高校1年女生徒が、同級生を殺した事件にも触れ、以下のように続く。

<社会は重大事件を起こす子どもを「モンスター」「野獣」とみます。実際は、母親から「あんたみたいな子、産まなかったら良かった」などと嘆かれ、教師からは「お前は学校に来るな」とののしられ、だれからも認めてもらえないために生きる意欲を失った子どもです。自殺する子も多いのですが、親や教師を含む社会に「恨みの一撃を与えてから死にたい」と思ったごく少数の子どもが無差別の殺人事件を起こすのです。
 だから、事件後もそのまま生きる意欲を失ったままです。証拠のひとつとして、少女は生理が止まり、少年は性欲がなくなるようです。須磨区の事件を起こした彼も事件後2年は一切の性欲が消えました。その間は「死なせてくれ」と言い続けました。その後、脳の性中枢が通常の発育を遂げ、性的サディズムから回復、事件後3年ほどしてやっと生きることに前向きになりました。被害者や遺族の深い悲しみについて考えられるようになったのはそれからでした。

 今回の佐世保事件では、15歳の少女が自分の人生を捨てる決心をせざるを得ないような状況に追い込まれていたことに心から同情します。しかし、社会では彼女に対して「かわいそう」という声が全く出ません。凶悪事件を起こしても子どもは保護されて生きる機会を与えられることを知っている世間は、被害者と同じ視点で彼女を加害者としてだけ見ます。>

 末尾に井垣氏の紹介記事があるが、1940年生まれで、67年に任官した裁判官を05年に退官。その直前にがんを患い声帯を摘出、笛式人工喉頭(こうとう)を使うという。口頭で語ることは困難なはずだ。末尾では、以下のように「社会的虐殺」を告発している。<私は家裁で約6千件の少年審判を担当しましたが、鑑別所に入る中学生はほとんどが離婚家庭の子ども。養育費の支払いもなく父親から完全に捨てられた形になっている子は、月に5千円でも送金されている子よりはるかに自己肯定感が低い。そのうえ彼らは学校でも落ちこぼれ、分数はできず、漢字もほとんど書けません。親の離婚、再婚に関連して子どもを放任するのは、「社会的虐待」です。>

 インタビューでこの記事を引きだしたのは「編集委員」で、実名も入った記事になっている。この証言を引きだして、当初の目的どおり、オピニオン面で紹介するだけでいいと考えたのだろうか? 私自身がこの「告発」に出会ったと仮定すると、「神戸事件の裁判官/社会的虐殺を告発」という記事に仕立て上げようとするはずだ。何とか1面トップ記事に仕立て上げ、社会面も関連記事で埋めるような扱いを目指すはずだ。当初の予定どおりオピニオン面に掲載して、それで良しという内容ではないはずだ……。

◆著書「少年裁判官ノオト」を読む

 以上が2月18日付(朝刊の)「天声人語」と、昨年10月3日付「耕論」を読んだ感想だった。しかしそれは大間違いであることに気付いた。「耕論」の末尾にあった井垣氏の人物紹介で著書「少年裁判官ノオト」のタイトルだけ紹介されていた。2006年2月、日本評論社刊の本なのだが、アマゾンで購入し、読んでみた。その結果分かったことは「この内容で1面トップ記事を」などというのは大間違いであることだ。9年前に出版された本で明らかにされている事実を、1面トップ記事にしたら笑いものだろう。

 それは私自身の過ちだったのだが、朝日の記事としてはどうなのだろうか。「天声人語」「耕論」を通じて、いちばん大切な情報は「少年裁判官ノオト」は、読むべき本であるということだ。2本の記事には、その情報が欠けている。もちろんニュースではない記事だから「誤報」とは言えない。しかしポイントを外したコラムは、誤報に匹敵するマイナス情報と言えるはずだ。

 「少年裁判官ノオト」を読むと、「酒鬼薔薇聖斗」事件の担当が井垣氏になったことは、少年A本人にとっても、われわれ国民にとってもたいへんな幸運であるという思いに至る。井垣氏はたいへんに深い愛情をもって、少年審判をすすめたことがわかる。少年の生育歴などは調査官が調査することになるが、通常2人の調査官を、「4人にしたい」というのが調査官側の希望だった。それをすんなり了解し、4人体制とした。
 また鑑定人については精神医学の大家として知られる神戸大名誉教授中井久夫氏に依頼することに決まった。「東の土居健郎 西の中井久夫」と言われる人だが、調査官たちの希望もあり、依頼したところ全ての予定をキャンセルして引き受けてくれた。つまり井垣氏は、少年Aの審判で「異例の体制」をつくりあげたのである。

 97年10月17日に最終審判(審判としては5回目)で言い渡した決定は「医療少年院送致」だった。当時の新聞記事は、井垣氏が処分決定「要旨」の中で「いつの日か少年が更生し、被害者とその遺族に心からわびる日の来ることを願っている」と書いたと報じている。

 井垣氏は決定を言い渡した後も少年Aを見守り続けた。そのうち職務と言えるのは、少年Aが成人となった以後も収容を継続するという決定で、2002年7月に言い渡した。この言い渡しをしなければ、成人に達する前日に、自動的に決定は終了となるのだそうだ。
 その職務以外でも井垣氏は少年Aが収容されている医療少年院を訪ね、教官から様子を聞いたり、少年Aと会ったりした。決定までは、「殺してほしい」「どこか静かなところで死にたい」などと言っていた。しかしその後「無人島のようなところで1人で暮らしたい」さらには「社会で温かい人たちに囲まれて生きたい」と言うように成長したという。そして殺してしまった少年少女に対して「償いをしたい」と言うようになった。さらには社会に対しても「ささやかでも償いをしたい。具体的なことは考えて行きたい」と言うようになった。

 2003年9月、最後の動向視察を行ったが、そのとき成人したAが「驚くべきことを言った」と井垣氏は書いている。その内容は「みんなで『生きろ』と言い続けてくれたことについて、心から感謝をしたい。みなさんの暖かい気持ちが初めてわかった。許されるなら、お詫びと感謝の気持ちを手紙にして送りたい」だったという。
 この本「少年裁判官ノオト」の第1章(本の表記は「㈵」)は「少年Aとの7年5カ月」となっている。決定を言い渡せばそれで終わりではなく、7年5カ月もフォローし続けたのは、井垣氏が誠意あふれる裁判官だからだろう。

◆受験秀才とほど遠い元裁判官

 井垣氏は京大法学部卒で司法試験に合格、裁判官を選んだ。その経歴からは「大秀才」に見えるが、実際は大違いであることを自ら明らかにしている。京大2回生だった19歳の春、バイク(250ccのスクーター)の無免許運転で捕まった。「親と一緒に来い」と家裁に呼び出された。裁判官が京大法学部の学生であることに目を付け、「隆々たる国立大学の法学部学生がなんということをするのか」と「嫌味たらたらの説教を浴びせた」(井垣氏の記述)というのである。その経験談の後、以下のように書いている。

<そのころ私は、「将来法律家になろう」などと思ってはいなかった。授業にもあまり出席せず、アルバイト以外は、連日の徹夜マージャン、昼間はテニスや草野球で遊び暮らす生活を続けていた。
 大学生の終わりごろ、私は寮に個室をもらって生活していたが、1回だけ母に部屋を見せたことがある。そしたら泣かれてしまった。当然である。部屋には法律書の1冊もなく、マージャンパイだけが転がっていたのだから。父は大阪で漢方薬の小売商を営んでいた。私は6人兄弟の3番目の長男。生活は苦しく、姉2人は当然のように高卒で働き家計を助けていた。私もその予定であったが、授業料免除で奨学金を貰い、アルバイトで生活費の目処がつけば大学へ行ってもよい(つまり家計の足しにならなくてもよい)ということになっていたのである。
 一瞬で息子の生活ぶりを察した母に泣かれて、私は「司法試験に合格して見返してやろう(恩返しをしよう)と咄嗟に決意した。>

 井垣氏は1940年生まれで、私より2歳年長。おおむね同世代と見ていいだろう。東大、京大といった難関校出身で司法試験にパスした知人はかなりいる。司法試験並みに難しい試験として国家公務員上級職試験もあり、キャリア官僚は全てがこの上級職試験合格組である。難関大学の入試と、司法試験・国家公務員上級職試験と、2度も挑むチャレンジ精神に驚嘆してしまう。「猛勉強など不要なんだヨ」というツワモノもいる。私自身の経験からしても、試験にパスする技術というのは、正解を得ようとするのではなく、間違いを避けようとすることである。

 試験で間違わないのは良いことかもしれないが、仕事の上で間違いを避けるだけの技術を発揮して貰うと困る。職務上の課題に直面しながら、「ミスを犯した」という批判・非難を避けるためには、自分自身で判断しないのがベストだ。自分自身で判断しないなら、それが間違っていると責任を問われることはない。判断放棄のためには、前例踏襲、大勢順応という確立された手法がある。その双方とも見つからない場合には、上司の判断を仰ぐ、あるいは部下に判断させるという手法が残っている。いずれの場合も、自分自身が判断ミスを犯したという批判・非難は避けられる。

 井垣氏の「少年裁判官ノオト」を読むと、こうした判断放棄の場面は皆無だと言っていいほどだ。何ごとについても自分で調べ、自分の判断で処理しようとするのである。マージャンなどで遊びまくっていた学生生活も、司法試験受験もともに自分で選んだ道である。生きることが即、自分で考え、行動することになっておられると想像する。

◆裁判の世界は異常な事なかれ主義

 神戸家裁少年係の前、井垣氏の所属は大阪家裁岸和田支部だった。離婚調停が主要な仕事だったが、そのときも「井垣流」の新手法を生み出した。1996年2月4日付朝日新聞社会面の記事になっているので、その記事を引用して紹介しよう。この記事は大阪本社発行版のみに掲載されたものであることをお断りしておく。

<見出し=同席調停で離婚スムーズ 成立4割が7割に 家裁岸和田支部
 本文=離婚は人生の再出発。せめてわだかまりを残さずに解決できれば。大阪家裁岸和田支部が、「夫婦同席」の離婚調停を始めて、飛躍的な成果をあげている。離婚相手を前にすると本音が聞けない、などの理由から全国の調停は別席が主流だが、その成立率は四割台。それが、同席にしたとたんに七割にまで伸びた。年間の離婚数は去年、過去最高の二十万組に達した。調停に持ち込まれるケースも年間約五万件にのぼる。大阪弁護士会も家事調停改善の本格的な検討を始めた。

○「大切な時間失った」
 大阪府南部に住む電話交換手の女性(二八)は、二十歳で結婚。二人の子供がいるが、夫の暴力に耐えられなくて一九九三年二月に調停を申し立てた。夫婦が交互に調停室に入る別席の調停で、妊娠中も暴力をふるわれたことや、財布で顔を殴られ、あざができたことなどを訴えた。
 続いて調停室に入った夫は、「財布を投げて渡そうとしてたまたま当たった」「妻は弁当も作ってくれない」と話した。調停委員を介してのやりとりなので反論できない。十一月まで七回の調停を繰り返してまとまらず、九四年一月に提訴。養育費、慰謝料などの条件が合い、離婚にこぎつけたのは十月。一年八カ月がたっていた。
 「前の夫と同席した最後の調停は言いたいことを言い合って、話がまとまりかけた。夫の暴力は不安でしたが、二人だけになるわけではない。最初から同席での調停も受けられると後で知って、大切な時間を失ったような気がしている」とこの女性は振り返る。

○当事者に聞き取り
 岸和田支部で、同席調停の推進役になっているのは井垣康弘裁判官(五六)。きっかけは、初めて家事を専門に扱った前任地、福岡での体験だった。
 調停を利用した人たちの聞き取りをしたときのことだ。四回の別席調停で決裂し、五回目に同席にして離婚が成立した夫婦から、「裁判所は当事者のしんどさをわかっていない」といわれた。
 「個別調停の限界を感じた。当事者が向かい合って思いのたけを話さないと、争いの原因は見えてこない」と、井垣さんは言う。
 一九九三年に転勤したのを機に、年間約二百件の離婚調停を抱える岸和田支部で「同席調停」の実践を始めた。この結果、九三年まで四〇%台だった成立率は九四年に六三・九%に、九五年には七〇・八%にまで伸びた。

○「3倍の情報」実感
 十年以上のキャリアをもつ同支部の女性調停委員(六四)は「人柄などの事前調査をして状況に応じて同席にすればトラブルは避けられる。言い合いになることもあるが、そのうち当事者自身が恨みつらみを言い立てることの愚かさに気付く」と話す。交互に話を聞くのに比べて、三倍の情報を得られる感じだ、という。
 同支部の調停委員らは、「同席」したときに起きるトラブルの処理方法などについて研究していく方針。大阪弁護士会は一月末、司法改革推進本部内に家庭裁判所審理改善改革部会を新設した。「同席調停」の導入などを視野に入れながら、「時間がかかりすぎる」などと批判の出ている家庭裁判所の審理の改善策を探る。

○ひとつの工夫
 最高裁事務総局の話 別席、同席ともそれぞれ利点があり、どちらが原則ということはない。岸和田の試みはひとつの工夫で、各地の調停委員会も状況に応じていいところは取り入れたらいいと思う。>

◆陰口で家事担当を外される

 以下は「少年裁判官ノオト」の記述の紹介である。こういう「実績」を残して、定年まで約8年を残す再任期に、神戸家裁への転勤を持ちかけられた。井垣氏は当然家事部への配属と思い込みOKした。しかし実際には少年部への配置だった。以下引用する。

<岸和田で全件同席調停を貫いていることについて陰口がささやかれていることは知っていた。いわく、「当事者を同席させていると、そのうちきっと、調停室で刃傷沙汰が起きる。同席調停でなければ避けられた事件だと騒がれたら、そのとたん所長の出世が止まる。井垣は、所長にかけるかもしれない迷惑のことは案じないのか? 変わった裁判官だ。嘆かわしい」
 私は、安全対策は完璧を期していたから、陰口は意に介していなかった。けれど、まさか家事から追放されるとは夢にも思っておらず、本当にショックだった。そして、神戸家裁に移ってからも、暫(しばら)くは「家事へ移りたい」とばかり言っていた。
 しかし今度は少年事件の方が面白くなり、これをライフワークにしようと決意した。>

 井垣氏が紹介している陰口は、推測(そのうち刃傷沙汰が起きる)に推測(所長の出世が止まる)を重ねたものだ。荒唐無稽というべき陰口が、じっさいの人事に生きていた! 裁判所という世界がいかに因循姑息なものであることを示すものであろう。しかしその結果、井垣氏が酒鬼薔薇事件の担当裁判官になるという幸運が生じた。
 井垣氏と、「少年裁判官ノオト」についての記述が多量になりすぎたかもしれない。しかし「少年裁判官ノオト」を読んでみて、日本の裁判と裁判所の実態を知るうえで、いわば必読と言える名著であるという感を強く抱いた。「天声人語」でも「耕論」でも、いちばん伝えるべき情報は「『少年裁判官ノオト』を読むべきだ」という単純なものだ。それが欠落しているのだから、欠陥コラムだと言えるはずだ。

◆「陸軍記念日」が出て来ない東京大空襲記述

 つぎに指摘したいのは3月10日付「天声人語」である。この日は1945年の東京大空襲70周年の記念日。当然のようにテーマは東京大空襲だった。
 後半部分を引用したい。

<無差別爆撃という蛮行が、第2次大戦で大手を振った▼来日中のメルケル首相の国、ドイツも米英軍の爆撃を浴びた。手もとの本によれば、全土の死者は計60万人ともいわれ、うち約7万人は子どもだったとの数字もある▼日本と同様に、降伏が濃厚だった国への執拗(しつよう)な空爆だった。中でもドレスデンの被害は甚大で、重なる遺体の写真は痛ましい。ドイツもまた無差別爆撃を行っている。そうした非人道の行きつく先に、広島と長崎の原爆があった▼一夜にして約10万の命が奪われた東京大空襲から、きょうで70年。非業の死をとげた犠牲者を追悼したい。そして東京だけでなく、全国、世界で起きた空襲の惨禍を呼び覚まし、将来へつなぐ日として3月10日をとらえたい。炎の記憶を絶やさないために。>

 さて東京大空襲は本当に無差別爆撃だったのか。軍事施設でなく、都市部だったという地点の問題では「無差別」だった。しかし3月10日という日どりは「選ばれた」のである。ほんらい誰でも知っているはずのことだが、この日は当時「陸軍記念日」だった。当時の首相は小磯国昭。東条英機政権こそ終わっていたが、小磯もまた陸軍大将であり、陸軍政権は続いていた。「陸軍記念日に首都・東京を大規模空爆で叩く。徹底的に首都を破壊することによって、日本を降伏に導く」というのが米軍の作戦目的だった。

 空襲が始まったのは3月9日だった。岩波書店の「近代日本総合年表」は、東京大空襲を1939年3月9日の項で記述している。記述どおりに引用すると、以下のとおりだ。
<3.9 B29,東京を大空襲(〜3.10),江東地区全滅(23万戸焼失,死傷者12万。>

 空爆は9日夜に始まった。10日午前0時の時点では、空襲そのものは終わっており、事態は江東地区の「大火災」となっていたという見方さえある。空襲は少なくとも「3月9,10両日」に行われたことは明らかなのだ。それなのに何故「3月10日の東京大空襲」と呼ばれるのだろうか。その理由は、3月10日が陸軍記念日であり、その日を目標にした前例のない大空襲だったからなのだ。

◆「終戦」を忘れていた戦争指導者たち

 当時の日本は、東京大空襲という米国の「終戦勧告」を一顧だにしなかった。4月1日には米軍が沖縄本島に上陸し、沖縄地上戦の全面展開となった。6月23日、沖縄守備軍が全滅したが、戦死者9万人、一般島民の死者10万人を数えた。4月5日には小磯内閣が総辞職し、2日後に鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木は海軍大将から侍従長に転じた人物で、「重臣グループ」の一員でもあった。鈴木内閣の使命は、誰が考えても終戦であり、5月7日にはドイツが無条件降伏した。
 にもかかわらず6月8日には、昭和天皇が臨席した最高戦争指導会議で「本土決戦」方針が決まる。同月下旬以降は、マリアナ、硫黄島、沖縄などからの米軍爆撃機がひっきりなしに飛来し、地方中小都市や鉄道網を襲った。その延長線上にヒロシマ・ナガサキの被爆があった。

 広島、長崎に投下されたのが原爆であり、すさまじい惨禍をもたらしたことを知りながら、当時の支配者たちは「終戦」を決断しなかった。ポツダム宣言の受諾に踏み切らせたのは、8月8日のソ連参戦だったというのが正確らしい。翌9日の御前会議で「国体護持」を条件にポツダム宣言を受諾することが決まった。

 原爆がいくつ落ちても「国民の犠牲」であるだけだ。それは東京大空襲でも、沖縄地上戦でも無視してきたものであり、いくら数が増えても敗戦の決断に結びつくものではなかった。
 ソ連の参戦によって「赤化の恐怖」が現実のものとなった。ロマノフ王朝を打倒したのがロシア共産党なのである。日本がソ連に支配されることになったら天皇制廃止が実現することは間違い亡いだろう。その状況下で天皇制が生き残るためには、ポツダム宣言受諾以外にあり得なかった。「国対護持」など言い出せない状況になりそうだ。だから敗戦を決断したというのが真相だろう。

 3月10日、陸軍記念日という日どりが選ばれた大空襲の意味を考えれば、「終戦」など考えようともしなかった当時の政府=戦争指導者たちの罪は明らかだろう。この日朝日は社説のタイトルも「東京大空襲 被害と責任見つめ直す」だった。

 冒頭部分は、以下の文章だ。
<米軍の無差別爆撃で推定10万人が犠牲になった東京大空襲から、きょうで70年になる。
 約300機のB29爆撃機が首都の夜空に飛来し、33万発の焼夷(しょうい)弾を投下した。
 当時、下町一帯が炎に包まれても、市民には消火活動をする義務が課せられていた。子どもや女性、老人が逃げ場を失い、命を落とした。
 東京大空襲は、都市そのものの徹底破壊をねらった米軍の絨毯(じゅうたん)爆撃の始まりとなった。この後、名古屋、大阪、神戸が大規模な空襲を受け、終戦までに主要都市は焦土となった。
 沖縄の地上戦や広島、長崎への原爆投下、艦砲射撃を合わせれば、市民の犠牲者は国内だけで50万人を優に超すともいう。>

 「被害者」の視点で書かれた文章だと感じるのは、私だけではないだろう。社説全体を見ても、「陸軍記念日」という言葉は見当たらない。まして日中15年戦争、第2次大戦(太平洋戦争)についての加害者責任を重視する文言はない。

◆戦後70年論議に影響しない?

 いま大きな政治問題として、戦後70年にあたっての首相談話の問題がある。それについて朝日新聞の立場は1月3日付朝刊の社説「日本人と戦後70年 忘れてはならないこと」で表明ずみということになるだろう。さわりの部分は以下の文章だ。

<首相が繰り返し「未来志向」を強調するのが気がかりだ。
 首相は過去2年の全国戦没者追悼式の式辞で、90年代以降の歴代首相が表明してきたアジアへの加害責任に触れなかった。
 もし、「安倍談話」が式辞のように戦争責任を素通りしてしまったら、どうなるか。
 村山談話は、植民地支配と侵略によってアジアの人々に多大の損害と苦痛を与えたと認め、痛切な反省とおわびを表明。以後、安倍内閣まで引き継がれてきた政府の歴史認識の決定版であり、近隣諸国との関係の礎となってきた。その価値を台無しにすることは許されない。
 「未来志向」がいけないというのではない。だが、過去と真剣に向き合ったうえでのことでなければ、被害を受けた側からは「過去は忘れようと言っているのか」と受け取られるおそれがある。>

 末尾の主張部分は以下のとおりだ。
<戦争責任を直視することは、父や祖父たちをおとしめることにはならない。平和主義を確かなものにすることは、むしろ先人の期待に応える道だ。
 うわべだけの「帝国の名誉」を叫ぶほど、世界は日本の自己欺瞞を見て取る。この不信の連鎖は放置できない。断ち切るのは、いまに生きる者の責任だ。>

 年初の社説で「加害責任」「反省とおわび」は不可欠という原則を表明したから東京大空襲など「戦争被災」の記念日には、「被害者の視点」が前面に出るのはやむをえないという認識だろうか。しかし東京大空襲をはじめ、5月23日の「沖縄慰霊の日」、8月6日の広島被爆、同9日の長崎被爆など記念日ごとに、「被害者の視点」が前面に出るなら、「加害責任」など忘れ去られることになるのではないか?
 朝日でさえも「被害者の視点」による天声人語や社説を掲載し続けるなら、おそらく8月15日に発表される安倍晋三首相談話に「加害責任」と「反省とおわび」が欠落していても、多くの人々が「自然だ」と受け入れるのではないか? 朝日はそこまで考えて3月10日付の天声人語や社説を書いたのだろうか? 意図的に「変えた」のだとすると、朝日は危険な方向に変わってしまっていると言えるだろう。

 いずれにせよ、「陸軍記念日」だったことを忘れた「東京大空襲」記事は、キーワードを欠いた欠陥商品だと言える。朝日新聞の論説委員は50代と考えると、1965年からの10年間に生まれた人々ということになる。「陸軍記念日」など強く意識したことはない。「東京大空襲」を書くときにも、思い浮かばなかったという推測も可能だ。

 以下は付け足しのようなことだが、日本人は(「日本のマスコミは」と言い直すべきか?)忘れることが上手だいうことも指摘しておきたい。第2次大戦の日本人戦犯を裁いた東京裁判で、A級戦犯で死刑宣告を受けた7人の処刑=絞首刑執行が、1048年12月23日、つまり現在の天皇誕生日に行われたことをご存知だろうか?

 前述の岩波書店「近代日本総合年表」にも、その記述はない。その日の項目はある。「政治」の欄では、「衆議院、内閣不信任案を可決。衆議院解散」となっている。当時は憲法7条による(天皇の国事行為)による解散はできないと考えられていた。69条の、内閣不信任案可決の場合、総辞職か衆院解散かを選ぶという規定による解散だった。与野党合意の上で、解散のための不信任案が可決されたので、「馴れ合い解散」と呼ばれた。「社会」の欄では、「社会保障制度審議会設置法公布」と記述されている。

 もう一つ。手許にある分厚い年表が毎日新聞社刊の「20世紀年表」(1997年9月刊)である。この年表の48年12月23日の項も、馴れ合い解散の記述だけだ。翌24日の項があり、「GHQ、岸信介らA級戦犯容疑者19人を釈放と発表」とある。
 この年表には各年ごとに死去した人を並べるスペースがある。48年の死没者は菊池寛、美濃部達吉らだが、末尾に広田弘毅が登場している。「12/23 広田弘毅(70)」が項目名であり、記述の冒頭は「A級戦犯として巣鴨プリズンで絞首刑」。その後、800字を超える記述があり、大きな記事となっている。
 「戦後史大事典」(三省堂、1991年3月)では「A級戦犯」の項で、「(絞首刑が宣告された)7名の戦犯の処刑は、48年12月23日に執行された」と明記している。岩波や毎日の年表が何故この記述をしていないのか? 謎という他ないが、天皇誕生日がA級戦犯処刑の日だという「不愉快な真実」を忘れるために役立っていることは間違い亡い。

■【第2のテーマ=自公協議は報道に値するのか】

 朝日が「検証・集団的自衛権 閣議決定攻防編」を長々と掲載し続けた。第1回は2月17日付で、3月15日付は20回目が掲載されている。タイトルを並べると以下のとおりとなる。

1 クギ刺した「平和の党」代表
2 交渉役「北側さんしかいない」
3 「もう一つの法制局」に相談
4 連立離脱の“封印”が波紋
5 限定容認「折衝は高村さんに」
6 与党協議「3+3」に深い溝
7 「悪代官」と「越後屋」、頼る絆
8 「メシでも」、動き出した寝業師
9 弁護士同士、まずは携帯番号
10 「裏法制懇」砂川判決に着目

11 高村氏、砂川判決で自民平定
12 空中戦、「理屈」がつなぐ2人
13 「3+3」崩壊、山口氏「退場」
14 「安保屋」石破氏、無念の離脱
15 「神学論争」打開へ「私の考え」
16 「腹案」のカギは72年見解原文
17 72年見解、論理構成に着目
18 原案を北側氏が赤ペン修正
19 訪中時、「情」も近づいた2人
20 5・15首相会見、ひと山越えた

 毎回目を通しながら、「真面目に読む」という姿勢にはなれなかった。協議が決裂し、自公連立の崩壊となることなど、ほとんど考えられない。連立継続を前提に、「改憲」の安倍自民党と、タテマエ護憲の公明党が、馴れ合いの「ツッパリ」を展開しているだけだからだ。

 朝日は3月14日付朝刊1面トップで<安保法制、公明が大筋容認 自衛隊派遣「一定歯止め」>と報じた。前文は、
<公明党は13日、新たな安全保障法制をめぐり、戦争中の他国軍に随時後方支援できる恒久法(一般法)の制定や、人道復興支援や治安維持活動にも道を開く国連平和維持活動(PKO)協力法の改正など、政府が示した安全保障関連法案の枠組みを大筋で受け入れる方針を固めた。自衛隊の海外派遣に関して一定の歯止めはかかったと判断し、政府による具体的な法案づくりを認める考えだ。>
 だった。

 この日の社説はタイトルが<与党安保協議 ああ、つじつま合わせ>
 本文冒頭は
<それにしてもわかりにくい。国民ばかりか、活動にあたる自衛隊員が戸惑うかもしれない。
 安全保障法制の与党協議で、自衛隊の海外での活動を定める法律の大枠が固まった。
 周辺事態法改正、恒久法、国連平和維持活動(PKO)協力法改正——この三つの法律で、地域の平和と国際貢献に対応するのだという。それぞれ法律の目的で切り分けているが、その線引きは不明確で、つじつま合わせの感がぬぐえない。>

 末尾は
<日本には安全保障論議の積み重ねがある。集団的自衛権の行使を認めない憲法解釈はその典型だ。安倍政権はそれを無視するかのように解釈変更に踏み切ったが、このままでは安保政策の安定性まで失いかねない。
 無理を重ねて合意を急ぐ理由はあるまい。原点に立ち返ってもう一度、あるべき姿を考え直すべきだ>
 だった。

 昨年10月26日付朝刊のコラム「日曜に想う」で、特別編集員の星浩が、<公明党50歳、中年の気概示せるか>という見出しの記事を書いている。

 公明党本部で広報担当が長く、よく焼き鳥屋で会話した前田国重氏(故人)の実名を上げて
<公明党は、野党だった1988年、消費税導入をめぐり、絶対反対の社会党(現・社民党)や共産党と一線を画して審議に協力。関連法の成立につながった。92年には、自衛隊の国連平和維持活動(PKO)への参加を容認。さらに、政治改革の流れの中で、自民党を離れた小沢一郎氏と同調して小選挙区制の導入を進めた。
 そのたびに前田氏に「創価学会の福祉重視や平和主義などの精神に反するのではないか」と問うた。前田氏は、いったんはうなずきながら続けた。
 「公明党や創価学会は特異な集団だと思っているかもしれないが、実際はそうではない。日本の縮図なんだよ。かつて高度成長に取り残された人々が集まった時期はあるが、その後は事業に成功した人も、失敗した人もいる。学会員の高齢化も進んでいる。自衛隊の海外派遣にも、賛否両論がある。小沢氏と組んで政権に入りたいという気分もあるんだ」>
 というやり取りを紹介している。続けて星自身の
<「日本の縮図」という言葉が忘れられない。消費税もPKOも、避けて通れないと受け止めていたのだろう。その後、公明党は自民党との連立に踏み切り、与野党体験を共にする。>
 という文章が続く。

 末尾の部分は、
<問題の根源は、集団的自衛権の行使を認めた昨年7月の閣議決定にある。いまつくろうとしている法律はそれすら逸脱している。自衛隊の活動拡大、一辺倒である。
 もともと自民党は、周辺事態法を廃止して恒久法を新しく定める腹づもりだった。これに対し公明党は周辺事態法は残す考えで、いつでも自衛隊を出せる恒久法には否定的だった。
 すると政府は、周辺事態法を残す代わりに、地理的制約として機能してきた「周辺」という概念をなくすよう提案。曲折をへて、周辺事態法と恒久法が併存する方向になった。(中略)
 肝心なのは、自衛隊を海外派遣するだけの正当性が確保できるかどうかという点だ。国連決議もないような紛争の後方支援は、情勢によって日本の立場を不安定にさせる恐れがある。
 政府は、国連決議がなくても「国際機関の要請」などで自衛隊を海外派遣できるよう検討している。だが、国連決議に基づく支援が基本だ。この軸をずらすべきではない。>

 自民党との連立を組んだ公明党に、どうしてこの勧告ができるのか? 星の政治記者としての識見を疑いたい。
 公明党は「護憲」をタテマエとしながらも、同じ「護憲」の共産党とは対立せざるをえないという宿命を背負っている。衆院の現行選挙制度=小選挙区比例代表並立制の下では自公共闘が最強の集票能力を持つ。「護憲」というタテマエとは矛盾するが、共産党との対決には勝利できる。私は自公連立を選んだ公明党は、「護憲」をタテマエだけのものとしたと理解している。

「集団的自衛権」をテーマとした自公協議は、結局のところ「タテマエだけ護憲」の顔が立てばいいだけなのだ。社説で「ああ、つじつま合わせ」と強く批判される決着は、最初から予測できたのではないか。星のコラムも「検証・集団的自衛権」の連載もともに、公明党が「護憲勢力」として期待できるという誤った見方をもとに掲載されている。読者に誤った政治認識を与える有害な記事だというのが私見である。

 問題は星を含む朝日新聞政治部が、現在でも公明党を護憲勢力だと本気で考えているかどうかである。「公明党はもはや護憲勢力ではない」とあからさまに書かなくとも、その認識を基軸にした紙面づくりをするなら、公明党の反発も予想される。こじれた場合、創価学会員の「朝日離れ」という事態になりかねない。依然として護憲勢力と認識しているかのような紙面を作り続けるなら、そうしたトラブルは避けられる。長大な「検証・集団的自衛権」の連載も星のコラムも、公明党ひいては創価学会向けのサービスと考えることもできる。それでは「真実の報道」という原則に違背することになるが……。

■【第3のテーマ 「前へ!」という震災記事が気になった】

 3月11日は、4年前の2011年、東日本大震災が起きた記念日だ。死者は12都道県で1万5890人、行方不明者は6県で2589人(警察庁発表)というから、新聞・テレビの報道がしつこいほどだったのもうなずける。

 気になったのが朝日・毎日両紙が社会面などに「前へ」と名付けた企画記事を掲載していたことだ。朝日は3月7日付から11日付までの朝刊社会面に「前へ 東日本大震災4年」というタイトルの記事を5回にわたって掲載した。初回の末尾に、以下の文章があった。
<東日本大震災から4年。大切な人を失った人々は、今も震災前の日常から遠い日々を送る。そのなかで、前へ向かおうとする人たちを訪ねた。>

 各回とも社会面トップか、2社面左肩扱い。つまり社会面を見開くと中心部に掲載されている派手な扱いだ。見出しを紹介すると……。
1.音楽がある、もう一人じゃない
2.僕は走る、お姉ちゃんの分まで
3.花よ伝えて、母ちゃんのこと
4.届けたい、父が残した紙芝居
5.仁也の苦しみ、やっと気づいた となる。

 毎日の方は3月10日から12日まで、家庭面で「前へ・東日本大震災4年」のタイトルで上中下3回の連載だった。「上」に全体の前文があった。
<東日本大震災から明日、4年を迎える。本格的復興にはほど遠い、地域や被災者もいまだ多い。それでも、この4年で変化の兆しや希望の芽も見えてきた。変化に合わせて一歩前へ踏み出そうとしている人たちの営みから、被災地の今をみた。>

 各回の見出しは以下のとおりだ。
上 学習支援、ニーズに合わせ
中 若い女性、言えない悩み共有
下 被災地「看板」甘えず勝負

 読売は東日本大震災をテーマにした社会面連載を「3・11の記録 家族」と決めているようだ。12日付朝刊から、その「第8部」を連載し始めた。原則として社会面トップという派手な扱いだ。第8部の前文は以下のとおりだ。
<東日本大震災から4年を迎えた11日、列島は鎮魂の祈りに包まれた。二度と戻らない大切な人、いまだ帰れない我が家。時計の針が止まったまま、人の暮らしが続いていく。被災地に間もなく訪れる春。子供の成長と肉親との別れ、新たな門出、そして希望——。前を向いて生きる、家族の姿を再び伝えたい。>

 末尾の「前を向いて生きる、家族の姿を再び伝えたい」というセンテンスに意味があるはずだ。「3・11の記録 家族」は、毎回「前を向いて生きる家族」の記録のようだ。第8部の見出しは……。
1.15歳 感謝の門出 仮設で勉強、志望校に合格
2.1人で学校行けるもん 末娘 真っすぐ育った
3.巣立ち 愛と一緒に 次女 栄養士目指し進学
 となっている。
 前向きに生き、そして「結果良し」となっている家族の記録なのである。

 こうしてみると、朝日、毎日の「前へ」は、読売に影響されたものだと言えるのかもしれない。いずれにせよ朝毎読3紙とも社会面には「前向きに生きる」人々や家族を登場させていることになる。

 端的に言って、被災地の現状は明るくない。被災によって、過疎化が急速に進行することになった。どの被災地でも緊急避難的に、震災時の住居を離れた人が戻ってこない。東電福島第一原発事故が重なった福島県の「原発銀座」では、現在でも居住を禁止されている地域が多い。「復興」がすんなり進んでいる被災地は「ない」と言っても過言ではない。
 それが現実なのに、社会面などには「前向きに生きる被災者」ばかりが登場する。「暗い話ばかり読みたくない」という読者心理があるのは事実だ。「明るい、前向きな」記事が歓迎されているのも事実かもしれない。
 現実は厳しく、暗い。それなら新聞やテレビの報道も厳しく、暗いはずだ。報道だけが、明るく前向きなものになっているとすると、それは「虚報」でしかないだろう。意図的な「前向き」記事は、虚報の素(もと)ではなかろうか?

注)3月15日までの報道・論評を対象にしております。新聞記事などの引用は、<>で囲むことを原則としております。

 (筆者は元毎日新聞記者)


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