2015年8〜9月

【読者日記——マスコミ同時代史】(20)

2015年8〜9月

田中 良太


 前号も「戦後70年」をテーマにしたが、今月もまた同じテーマを繰り返さなければならない。「戦後70年」が8月15日なのは日本だけ。第2次大戦が完全に終わった日は9月2日とするのが世界の大勢だろう。1945(昭和20)年のこの日、東京湾にあった米戦艦ミズーリ号上で、日本政府代表(当時の重光葵外相と梅津美治郎参謀総長)が降伏文書に調印したのである。それ故に2回目の「戦後70年論」となる。

◆◆【戦後70年論議=「原点は日清戦争」という習近平史観の衝撃】

 中国は9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とした。戦後70年の今年は「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念式典を北京・天安門広場で開き、大規模な軍事パレードを挙行した。その中で浮かび上がらせたのが1894(明治27)年の日清戦争以来、121年にわたる「抗日の歴史」という視点だ。

 その事実を明確に指摘したのが、毎日新聞9月3日付朝刊3面のコラム「木語」だ。「客員編集委員・金子秀敏」の署名入りで、<121歩のマーチ>の見出しが付いていた。書き出しは
<きょう3日の中国軍事パレードは国旗掲揚で始まる。天安門広場の中央に整列した儀仗(ぎじょう)隊が国旗をささげて天安門前のポールまで121歩行進する。1歩が1年。121年前の日清戦争から今日までの歩みを意味する>
 だった。
 「木語」というコラム名は、毎週木曜掲載だから付けられたはずだ(他の曜日については火論▼水説▼金言などとされている)。9月3日は木曜だったので、タイミングの良い文章になったのだ。さらに、
<抗日戦争の始まりは満州事変でも盧溝橋(ろこうきょう)事件でもなく、1894年の日清戦争になった。最近、習近平(しゅうきんぺい)国家主席や王毅(おうき)外相は、抗日戦勝についてこう演説する。「中国人民の反ファシズムの戦いは世界で一番、早く長い」
 日清戦争を世界最初の反ファシズム戦争と定義した。かつて世界人民は反ファシズム戦争という戦いをした。中国人は「東部主戦場」で大きな犠牲を出して、世界人民を勝利に導いた。歴史ではなく中華民族中心の歴史神話だ。
 習主席は、反ファシズム戦争勝利に貢献した中国はそれにふさわしい地位があってしかるべきだといいたいのだ。>
 と続く。
 末尾では
<日清戦争前、朝鮮半島、台湾、南シナ海は中国の勢力圏だった。その後、日本の植民地になった。第二次大戦後は、中国と朝鮮の内乱を経て、東西冷戦下で米国の勢力圏に入った。
 習主席はこれを日清戦争前に戻したいのだ。南シナ海を埋め立て、韓国を取り込み、台湾はロシアがクリミアを併合したように併合したい。そこで米国本土を直撃できる新型戦略核ミサイルを軍事パレードで展示して脅す。中国が日清戦争の歴史を持ち出したのは、韓国、台湾を勢力圏に戻したいからだ。
 今回のパレードの後、米中は戦略核兵器で脅し合う新冷戦時代に入る。>
 と書いている。
 新冷戦時代の一方の旗手・中国の「邪悪な意図」を鮮明にしたいという文章になっている。

 翌週、10日付も「明日のための歴史」というタイトルで、中国の日中121年戦争史観に触れている。書き出しは
<中国の天安門前で9月3日、軍事パレードが行われ、習近平国家主席が閲兵した。「中国人民が、抗日戦争と世界反ファシズム戦争に勝利して70周年になったことを記念」する行事だ。前回書いたように、この名称には、中国人の抗日戦争が、日清戦争に始まり、共産党軍の指導した世界最古の反ファシズム戦争であるという、歴史書きかえの意図がこめられている。>
 末尾は
<8月発行の英国誌「エコノミスト」の表紙は「習先生の歴史の授業」というタイトルで、銃口にペン先のついた小銃を持つ習主席のコラージュだ。「中国は未来を支配するために過去をどう書きかえるか」というズバリのコメントが付く。中国が国民党の抗日戦争を共産党の戦争に書きかえるのは、台湾や南シナ海の併合を正当化するためらしい。>
 である。中国の「邪悪な歴史書き換え」を2周連続で指摘するのだから、なかなかしつこい。

 金子氏の見方はひとつの見識ではあろうが、私見は違う。「121年にわたる対中国戦争」で「侵略戦争の元凶」と名指しされた日本と日本人は、その意味を真剣に考え直す必要があると思うのだ。

 かなり多数の日本人は、日本の侵略戦争は、1931(昭和6)年9月18日の満州事変に始まったと考えている。そこから始まって45年8月(ないし9月)に終わる「日中15年戦争」という言葉も定着している。日米開戦に始まる「太平洋戦争」ではなく、日中15年戦争の方がことの本質なのだという史観は、保革という尺度で見ると「革新」側が好む言葉だ。
 司馬遼太郎の発言をまとめてNHK出版が1999年3月刊行した「昭和という国家」(NHKブックス)で展開されている「司馬史観」もある。満州事変をはじめ、盧溝橋事件などの侵略行動は満州に派遣されていた関東軍など軍部の独断専行だった。「司馬(遼太郎)史観」の信奉者でなくても、「昭和という日本」だけが異常な侵略戦争を展開した。明治以後の日本はしっかり「近代国家への道」を歩んでいた……。これが大部分の日本人に共通した「歴史観」だったのではないか?

 それに対して「日中121年戦争史観」が提起されたわけだ。日本の対中侵略戦争について、加害国・日本はおおむね「15年戦争」という認識だった。これに対して被害国・中国が「121年戦争」認識をうち出した。その大きな、否、大きすぎる落差をどう考えたら良いのか? 日本人は知恵を絞らなければならない……。これが私見である。

 読売新聞取材班著「検証・日露戦争」という本がある。2005年10月中央公論社刊で、10年9月中公文庫となった。04年1月28日から05年5月27日まで読売新聞に連載された「現代に生きる日露戦争」をもとに、大幅に書き換えたものだという。その日露戦争観で注目すべきなのは、「第零次世界大戦だ」という見方だ。
 言うまでもなく、第1次・第2次の世界大戦は、「総力戦」であったと特色づけられている。全国民が「戦い」を強いられ、軍隊だけの戦争ではなかった。だから「総力戦」とされた。
 日露戦争を第零次世界大戦だというのは、当事国の日本・ロシア両国とも、「国内戦場」を抱えていた。ロシアでは「血の日曜日事件」(1905年1月)が、軍事面での戦争の足を引っぱり、日本では逆にポーツマス条約締結に反対の「日比谷焼打ち事件」(同年9月)が起きるほど、国民の「戦意」が高揚していた。この落差が、日本の勝利・ロシアの敗北という結果を招いたという点を強調した見方だろう。
 この見方との関連は定かでないが、日露戦争は、朝鮮半島と満州(現中国東北部)をめぐる両国の確執が原因だとしている。それ以前の日清戦争での、日本側の論理であった山県有朋の「主権線・利益線」論を肯定しているのも、この「検証・日露戦争」の特色であろう。主権線・利益線論というのは、山県の意見書「外交戦略論」(1890年)で展開された理論である。「主権線」というのは国土を取り巻く境界線(=海上を含む国境線)のことだが、それを守るためには、周辺の密接不可分な地域が他国の支配下に陥らぬよう、強い関心を持つ必要があると強調した。この日本国土と密接不可分な地域を「利益線」の枠内とし、具体的には朝鮮半島が該当すると指摘した。
 日清・日露の両戦争を戦った明治期日本の「国防思想」は、この山県理論だったといえる。「検証・日露戦争」は、この山県理論が「地政学的発想に基づくもの」という学者の見解を紹介。その学者も読売の取材班も、地政学的発想を肯定し、ひいては山県意見書を肯定していることになる。

 習近平がうち出した、「日中121年戦争」という認識の下では、山県の「利益線論」は「侵略戦争正当化の論理」ということになる。北京の記念式典では朴槿恵・韓国大統領が西側首脳として唯一列席した。北朝鮮との対抗上、中韓友好を誇示することがプラスという判断は当然だっただろうが、この「日中121年戦争史観」に賛意を示すという意味もあったのではないか。韓国は、中国以上に「121年にわたる日本の侵略戦争」の被害者だった。
 式典には潘基文(バンキムン)国連事務総長も出席した。韓国では与野党ともに、次期大統領候補に潘氏をかつぎ出そうとする動きが出ているという。この動きを意識したとみると、潘氏の「出席」という選択も朴大統領と同じになる。安倍晋三首相は、潘氏の出席に不快感を表明したが、何を目指した発言なのか? と疑いたくなる。

 鶴見俊輔氏が亡くなったので、著書「戦時期日本の精神史」(岩波書店、1982年5月)を読み返していた。この本は79年9月から80年4月にかけてカナダ・モントリオールマッギル大学で行われた講義の記録をもとにつくられたもののようだ。
 冒頭第1回に、以下の文章がある。

<1905年の日露戦争の終わりは、日本にとって新しい時代の始まりでした。1876年に新政府がつくられてからはほとんど40年のあいだ、日本の国民は文明のハシゴ段——もっともそういうハシゴ段があるとしての話ですが——を登っていく、いかなければならないという使命感のもとに暮らしてきました。それは日本人についてだけいえることではなくてどの国民にとっても似たような何らかの架空の存在があって、それが国民の想像力のなかに長期間にわたって働き続けるということはよくあることではないでしょうか。そういうものとして、明治時代が始まって、文明のはしごという架空の存在が日本国民の想像力のなかに働き続けたと言えるでしょう。
 対露戦争を推し進めていき、そして敗北なしにそれを終わらせるやり方は、ナポレオンもヒットラーもしのぐ政治上、また軍事上の事業でした。私たちはこのような事業の背後に国家を指導する力のある人がカジをとっていたということを推定することができます。(中略)
 彼ら(生き残っていた明治維新の指導者たち)は懸命に西欧文明の方法を学ぼうとしました。日露戦争のさなかにあってさえ、日本国家の指導者たちは、国家の直面している状況について冷静な判断力を失わず、その故に、彼らは日本の国力と英米諸国の共感が尽きないうちにロシアとの戦いを早く終わらせなければいけないという国家の必要を忘れませんでした。彼らは、彼らがロシアを負かしたなどという幻想によって彼ら自身を騙すことはしませんでした。指導者のあいだにこの共通の自覚があったからこそ、陸軍と海軍の最高司令官たちは、内閣に日本にとっては名目上の利益をもたらす程度の素早い講和の締結を許しました。>

 この文章は日清・日露両戦争の「戦争目的」の可否を論じようとしたものではない。しかし戦争目的について「侵略戦争だった」と断じているのなら、講和締結時点の理性的な姿勢を高く評価するはずもない。鶴見氏もまた日清・日露両戦争を含めた「明治期の日本」の行動を健全と見て、高く評価していたのである。
 鶴見氏の思想を「保革」の尺度で位置づけすることは難しい。しかし「保守」の立場と言えないことは、多くの人たちに賛同いただけると思う。その鶴見氏の史観とはまったく逆と言えるのが、習近平政権がうち出した「日中121年戦争史観」だ。
 その史観について賛否の論議をすることは「不必要」といえるかもしれない。しかし日本にとって巨大な隣国である中国が、これまで日本では誰も展開したことのない新しい史観を提起したことは、少なくともニュースとして紹介すべきだったのではないか。そのニュース報道は朝日・読売といった全国紙、ブロック紙(北海道、中日・東京、西日本)、NHKなどにはなかった。各社のホームページなどを検索した結果だから間違いないはずだ。

 朝日を例にとると9月4日付朝刊は1面トップ記事が
<「戦勝・中国」硬軟の演出 パレード、軍事力誇示/兵力30万人削減表明 70年式典>
 1面コラム「天声人語」が
<秋天の軍事パレード>
 総合面などに
<中国、米にらむ最新兵器 本土攻撃可能なミサイル/空母艦載機 軍事パレード>
<「日中間の和解、要素なく残念」 習氏スピーチに菅長官 70年式典>
<(時時刻刻)天安門前、戦車とハト 中国・70年式典>
<(いちからわかる!)終戦記念日は8月15日じゃないの?>
 など盛りだくさんの記事が掲載されていた。

 その中に、「日中121年史観」がまったく登場しないというのは、奇異な印象をぬぐえない。中国が日本との歴史をどう考えているのか? その新しい見解にニュースバリューがないとは思えない。むしろ「意図的に紹介しない」という「偏向報道」の様相があると感じたのが、私のホンネである。
 その「偏向」は、日本の新聞・テレビの全てに共通している。かろうじて中国の専門家で、週1回のコラム「木語」を書き続けている毎日の金子氏が、コラムのテーマとしてくれたから、私自身はその事実を知ることができた。冒頭に述べたように習近平史観に露骨な反発を示している金子氏の見方には賛成できない。しかしコラムという形ではあれ、日本の新聞・テレビが意図的に報道しなかった事実をともかく指摘した点では拍手をおくりたい。
 それ以外の報道・論評の全てが、習近平の「日中121年戦争史観」に触れないという、足並みをそろえた偏向ぶりは恐ろしいような気もする。

◆◆【新聞論調は弱者の味方か=沖縄基地、東電福島第一原発事故被災地の両問題など素材に】

 昨年9月、英国北部のスコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われた。沖縄県の県紙の1つ「琉球新報」が、この住民投票にただならぬ関心を示していたことをさいきん知った。スコットランド「独立」を問うた住民投票はちょうど1年前にあたる9月18日に行われ、結果は「独立反対」が過半数を上回って、英国が現在の姿を維持することになった。その結果をうけて20日付「琉球新報」の社説は<スコットランド 自治権拡大は世界の潮流だ>というタイトル。

 冒頭近くで
<民主的手続きを通じて国家の解体と地域の分離独立の可能性を示した試みは世界史的に重要な意義がある。それを徹底的に平和的な手段でやり遂げたスコットランド住民に深く敬意を表したい。>
 その後。
<1707年まで独立国だったスコットランドだが、サッチャー政権は炭鉱を閉鎖し、1989年に人頭税の先行導入を強要した。差別的処遇への反発が高まり、英政府は99年、大幅な地方分権を余儀なくされた。スコットランド議会が約300年ぶりに設置され、軍事や通貨などを除く多くの分野でスコットランドに独自の立法権を認めざるを得なくなった。
 今回の住民投票もその延長線上にある。独立反対が多数だと高をくくっていたキャメロン英首相も、賛成派が急追したことで投票直前に慌てて訪れ、一層の自治権限拡大を約束せざるを得なかった。
 島袋純琉大教授によると、スコットランド自治政府は現時点でもあらゆる分野で高度な自治権を持つ。英国の政府予算の一部は自動的に自治政府に配分され、英政府のひも付きでなく独自に予算配分を決定できる。欧州連合(EU)の機関にも独自の代表を置く。中央政府と外交権を共有するのに近い。
 そこに一層の権限拡大が約束された。だから、賛成派は独立こそ勝ち取れなかったものの、大きな果実を得たとも言える。原潜の基地の存在にも焦点を当て、非核化の願いを国際的に可視化した意義も大きい。>
 と続く。
 結びは
<冷戦終結以降、EUのように国を超える枠組みができる一方、地域の分離独立の動きも加速している。国家の機能の限界があらわになったと言える。もっと小さい単位の自己決定権確立がもはや無視できない国際的潮流になっているのだ。沖縄もこの経験に深く学び、自己決定権確立につなげたい。>
 である。

 沖縄が日本国土の一部とされたのは1879(明治12)年4月の琉球処分によってである。スコットランド併合と比べるとはるかにさいきんのことである。しかも沖縄は第2次大戦敗戦後、米国の軍事占領下に置かれ、施政権返還は72年5月のことだった。その後も米軍基地は残り、その他の46都道府県とは大きな落差があった。スコットランドの「差別的処遇」の1項目としてあげられるのが「原潜基地を押しつけられたこと」である。那覇軍港には原潜はもちろん、米海軍のあらゆる艦船が自由に出入りしている。「スコットランド」と比較することで、沖縄の「惨状」はいっそう鮮明になる。

 琉球新報の1面コラム(朝日の「天声人語」に相当)は<金口木舌>だが、19日付のテーマは同じくスコットランドだった。こちらの方は全文を紹介しよう。

<「政府の言うことは国益ばっかりだ」。地元の声を聞かず、豊かな資源を搾取する。民意を無視して強制的に合併する—。スコットランドのことではない。井上ひさし著『吉里吉里人』が描く、東北のある村が独立する痛快小説だ
▼日本に愛想を尽かした「吉里吉里国」はズーズー弁の復権や弱者重視の政策、他国の尊敬を集め紛争を避ける「文化武装」など、独自の国造りを進める。中央集権に皮肉と風刺を込めた作品だ
▼スコットランドの独立の是非を問う住民投票は、きょう午後に結果が判明する。1707年の併合以降、イングランドやウェールズが嫌がる核基地を置かれたり、サッチャー政権時代には「人頭税」が先行導入されたりと、住民の間には不公平感が根強い
▼中央政府から不平等な扱いを受け、自治意識の高まっている地域は地球上に数ある。スペインのバスク、ベルギーのフランドル、カナダのケベック…。スペインのカタルーニャは来月の独立住民投票に向けて動く
▼自己決定権を求めるスコットランドの熱い炎は、各地にどう飛び火するのだろう。政府の強権政治の勢いが増す沖縄では、「独立論」が居酒屋から飛び出し、学会の段階まで進んだ
▼卒業式や閉店時に流れる「蛍の光」はスコットランドの民謡。連合王国とお別れして独自の道を歩むのか否か。かの地の決断を固唾(かたず)をのんで見守りたい。>

 投票の結果が「独立」となれば「わが沖縄も」という願望がにじみ出るような文書といえる。
 現実の沖縄基地問題は、辺野古沖埋め立て工事を中止して行われていた政府と沖縄県の集中協議が9月7日、もの別れに終わった。翁長雄志知事は、前任の仲井真弘多知事が出した公有水面埋め立てなどの許可を取り消すものとみられている。政府対沖縄対決の構図が鮮明となっていく。
 県知事の許可取り消しに対して国は「無効」とする法的手続きが可能で、双方の争いが法廷に持ち込まれる険しい対決となっていくものとみられる。その行き着く先は、沖縄独立論となっていくのではないか? 「沖縄アイデンティティー」によって成立し、それを強くうち出すとされる翁長県政の路線だけではない。琉球新報・沖縄タイムスの県紙2紙の論調によって、沖縄の世論が「独立論」に発展して行くことは、非現実的な想定ではないだろう。

 朝日は8日付社説を<辺野古協議 工事再開に反対する>とし、毎日も11日付社説でで<辺野古集中協議 政府に誠意がなかった>と決めつけた。「沖縄独立論」に発展したとき、両紙の社説はどうなるのか注目したい。独立論支持までは行けないのではないか、というのが私の推定である。
 前項で習近平中国主席がうち出した「日中121年戦争」論に触れたが、琉球処分前の沖縄は琉球王国であり、清王朝の中国を宗主国としていた。沖縄こそ、日本が中国から奪った国土の「第1号」という位置づけになっていく可能性もある。

 弱者・少数者の問題と考えると、東電福島第一原発事故被災者たちのこともある。政府の原子力災害対策本部(本部長・安倍晋三首相)は5日午前0時、事故で全域避難となっていた福島県楢葉町の避難指示を解除した。全域避難となっていた県内7町村では初めてだ。しかし放射線への不安は「解消」にはほど遠く、商店や病院などの生活に欠かせない基盤施設の整備も不十分で、すぐに帰還する住民は約7300人のうち1割に満たないとみられている。町再生への道のりは険しい。これに対して「加害者」の立場にあるはずの東電は、国の手厚い保護措置を受け、健全すぎるほどの経営を続けている。
 首都圏を含む関東地方全体に、事実上独占的な電力供給を続けている強い立場にあることから「優遇策」は崩れそうにもない。東電福島第一原発事故に関する限り、加害者の優遇・被害者の冷遇というあってはならない倒錯した関係がまかり通っている。
 沖縄基地や東電福島第一原発事故など深刻な問題を考えると、「弱者・被害者の立場」に立って正論を展開するという、新聞論調のタテマエは、怪しくなる。この点も指摘しておかなければならない。

◆◆【日本型世論政治の崩壊 新聞論調がはやし立てた「政治改革」の悲惨な帰結】

 9月9日告示の自民党総裁選が、安倍晋三首相の無投票再選で終わった。前総務会長の野田聖子が立候補への強い意欲を示したが、選挙戦回避を「至上命令」にした、安倍陣営の「なりふり構わぬ」働きかけによって、20人の推薦国会議員が集まらず、封じ込められた。以上カッコ(「」)で囲んだ言葉は9月9日付朝日朝刊の<時時刻刻 無投票決着、首相の執念 自民総裁選再選>記事中の言葉である。
 この記事中には以下の記述がある。
<焦った首相陣営は、なりふり構わぬ「野田封じ」に乗り出した。派閥の担当者に電話して「あなたのところの派閥はみんな大丈夫ですよね」と確認した。ある閣僚は7日夜、リストアップされた議員を飲みに連れ出し、「安倍政権はまだ完璧じゃない。選挙になれば党内の不満が噴き出す」と説得した。岸田文雄外相はこの日2回も派閥会合を開き、先代の領袖(りょうしゅう)である古賀氏に対抗して囲い込んだ。>

 安倍首相は著書「美しい国へ」(文春新書)の序文で、自ら「戦う政治家」を目指すと宣言している。「国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する」決意を表明した文章だ。「批判を恐れず」というのだから、野田聖子の立候補を歓迎し、正々堂々と「戦う」という方が正論ではなかろうか?
 これでは、安倍の「戦い」と「行動」が、欺瞞ともみられる策略に満ちたものとなる。しかし「時時刻刻」には、そのような批判はない。新聞の社説や1面コラム、さらには政治コラムも可能な限り目を通したが、このようなレトリックが展開されたものには気付かなかった。

 「時時刻刻」には以下の記述もある。
<「おじいさんの岸信介首相だけじゃなく、池田勇人首相の役も果たしてください」。8月5日、首相官邸5階の執務室。安倍首相と向き合った自民党の谷垣禎一幹事長は進言した。
 「岸首相は敵と味方を峻別(しゅんべつ)して、日米安保条約を改定した。次の池田首相は『寛容と忍耐』を掲げて国民統合の政治をやった。敵味方をはっきりさせて平和安全法制(安保法案)を作ったら、次は国民統合を考えてください」
 このとき、発表を目前に控えた戦後70年談話の原案が、首相から谷垣氏に示された。首相が毛嫌いしていた村山談話の継承を打ち出しており「非常にバランスのとれたものだ」と感じた谷垣氏は原案を一読すると、談話の感想ではなく、「安保」の後は「経済」への転換を求めたのだ。
 来夏に参院選を控え首相も政権運営を経済政策中心にシフトすることを考えていた。歴代自民党政権は、安全保障政策と違って国論を二分しにくい経済政策を政権の推進力にしてきたからだ。首相は総裁選公約に「アベノミクス、いよいよ『第2ステージ』へ」と記した。>

 当然ながら、安倍と谷垣のやりとりを含めたこの記事は谷垣自身かごく近い人物が明かした内容だろう。谷垣は政治のダイナミズムがまったく分かっていないと断じるほかない。60年安保後の政治過程は、岸信介退陣という「事件」があったからこそ、成立しえたのだ。岸が退陣せずに居座り続け、「次は経済だ」と叫んで、所得倍増政策を打ち出したとしても、国民に対する説得力は皆無だったはずだ。
 池田の所得倍増政策政策は、政治姿勢としての「寛容と忍耐」とワンセットだった。タカ派の岸との対照を鮮明にするため、ほんらいは「貧乏人はムギを食え」と言ってはばからないタカ派官僚の池田が、寛容と忍耐の低姿勢をうち出したのである。
 これは大平正芳や伊藤昌哉(「自民党戦国史」の著者)などの秘書陣がうち出した戦略であり、池田は秘書たちの忠告に従うことができる大人物だったということになる。大平派所属の衆院議員であったはずの谷垣が、岸から池田への政権交代の意味をまったく理解していないことに驚く。

 安倍がホントの大人物だというなら、野田聖子の立候補は「当然」と受け止め、むしろ安倍の思想・政治観を堂々と打ち出して総裁選を戦うべきだったのだ。安倍は著書で「戦う政治家」「批判を恐れず行動する」といった言葉だけは使っているが、ホンネは形だけの「全党の支持」がほしかっただけ。この人物の小ささは、谷垣が政治のダイナミズムが分かっていないことと共通する。ともに「二世議員症候群」が染みついているのだ。

 2世議員の人物としての不十分さ、小ささもあるが、今の政治システムの問題もある。55年体制の下では、「日本型世論政治」がともかく機能しえていた。しかし55年体制が終焉したいま「世論」によって不信任されているはずの安倍政権が、国会内の絶対多数にもとづく「数の力」で存続している。ただ存続するだけでなく、国民から「不支持」のらく印を押されている安保法制を成立させようとしているのである。
 どうしてこうなったのか? と考えたい。55年体制は自民党と社会党が政権を争う「2大政党制」ではなかった。社会党は憲法改正を阻止する3分の1の議席を持つだけで、「万年野党」だった。55年体制は、端的にいえば自民党による政権独占だったというのが、正しい。
 しかしその自民党の実態が、「派閥連合」だった。総裁・幹事長を中心にした党執行部が何ごとも決める「単一組織」ではなかった。新聞論調が政府批判一色となるような展開の場合、反主流・非主流などの派閥は、新聞の批判を受け入れて軌道修正すべきだと主張する。その主張が党内で強まっていき、ついには党執行部も受け入れざるをえなくなる。自民党執行部はときの政権と一体だから、時の政権が新聞論調の批判を受け入れることになる。

 55年体制の下では、こういう経過をたどって自民党政権が「世論」の批判を受け入れてきた。このメカニズムを自民党の「柔構造支配」などと呼ぶ人もいた。どんなに強い政権の場合も、「反主流」ないし「非主流」とされる派閥はあった。
 典型的なのは佐藤栄作長期政権(1964年11月9日〜72年7月7日)の後継政権を目指した5大派閥だった。周知のように各派閥のトップは田中角栄▼福田赳夫▼大平正芳▼三木武夫▼中曽根康弘の5人。それぞれ政権を獲得し、首相となった政治家だった。
 5大派閥となったのは偶然ではない。当時の中選挙区制で、選挙区定数は3人から5人だった。つまり衆院選の自民党候補は最大5人だった。じっさいは自民党公認候補が選挙区定数と同数となることは少なく、5人区の場合、4人目、5人目は非公認で「無所属」となる保守系候補だった。それでも所属派閥は全力をあげて支援した。当選した場合は、自民党が追加公認し、堂々自民党議員となる。
 ときの政権が「達成」を目指す政治課題について、世論の批判が強まった場合、反(あるいは非)主流派は、「世論の批判を受け入れ柔軟姿勢をとるべきだ」と主張する。中間派がそれに同調するなら、主流派による時の政権も「断固貫徹する」という強行路線はとり得なかった。つまり自民党の「派閥構造」によって、政権の意思とは異なる「党内世論」が形成された。そのメカニズムによって、日本の政治は「世論政治」になっていたのである。
 以上のような自民党の組織原理、つまり党が一枚岩でなく派閥複合体だったことは人材の発掘と補充の面から見ても有利だった。つまり各派閥の争いの中で、いかに有能な人材を発掘できるかは重要なポイントとなった。各派閥が人材発掘競走を展開するからこそ、党全体としてみると、有能な人材が集まって来るという結果になっていたのである。

 1994年に成立した選挙制度「改革」=小選挙区比例代表並立制の導入によって、自民党は「派閥連合」ではなくなった。比例代表を「並立」させたものの、比例区単独の候補は稀だった。大半の候補は選挙区で立候補し、比例区でも重複候補となる。1選挙区1人の候補だから、「反主流」色を鮮明にしながら公認されるのは稀な例となった。
 結局自民党の「派閥連合」体質は消滅し、「一枚岩」的な体質に変質した。この選挙制度の変更を、当時の推進派だった小沢一郎氏らは「政治改革」と命名し、新聞・テレビなどのマスコミも、その呼称を踏襲した。選挙制度の変更を推進する勢力は「改革派」を自称し、反対派・懐疑派に対しては「守旧派」と罵った。
「守旧派」という罵声は、第2次大戦中の「非国民」にも相当する意味を持つ。罵られた人物・集団は、議論の余地なく「悪いヤツ」となってしまう。「守旧派」という言葉が存在する言語空間では、理性的な賛否の論議など不可能になってしまう。

 その時期、私は毎日新聞に在籍はしていたが、政治記者ではなかった。しかし誰でも何でも書ける「記者の目」蘭を利用して「改革派・守旧派」論議について発言すべきだったと反省している。
 この点は、私が当時気付いていた小選挙区比例代表並立制の欠陥である。気付かなかったのは、いま公明党が果たしている役割である。公明党が国政選挙で自民党との選挙協力を行うようになったのは1999年9月、小渕恵三政権の下で成立した「自自公連立」以後のことだ。自自公とは自民・自由・公明の3党。自由党とは当時あった小沢一郎党首の政党だった。その後の衆院総選挙は、2000年6月25日投票以後、5回行われているが、公明党は大半の選挙区で自民党の公認候補を推薦、自公選挙協力体制を作り続けた。
 毎日は公明党結党50年だった昨2014年夏<「中道」はいま:公明党>という続きものを連載したが、その第2回は<選挙、自民と一蓮托生 連立離脱、封印の背景に>(8月6日付朝刊掲載)という見出しだった。
 その中に
<「公明票がなくても勝てる議員がほとんどいないじゃないか」。今年4月。2012年末の衆院選で自公協力がなかったら100人規模の落選者が出るとのシミュレーション結果が、自民党の石破茂幹事長らに衝撃を与えた。
 15年に及ぶ選挙協力で、自民党の「依存症」は深まり、公明党も「選挙区は自民、比例は公明」の手法に頼るようになった。野党時代の公明党は、自民党が国政選挙で議席を減らすと、その批判票を取り込んで議席を増やす「反比例」の関係にあった。ところが連立後、与党として評価と批判をともに浴びるようになると、公明議席は自民党に比例して増減し始めた。>
 という文章がある。

 自民党の組織といっても、選挙戦で動くのは、候補者の後援会である。中選挙区の時代には複数の候補者の後援会どうしが張り合っていた。その張り合い続けてきた後援会が小選挙区のたった一人の候補者の後援会として統合された形になっている。少数の例外を除いて、それほど集票能力がないのが実態である。
 これに対して公明党の集票機構は事実上創価学会の組織である。学界の活動といっても、日常の信仰活動は自宅で行うのが原則である。かつては「折伏」(しゃくぶく)といって、近隣の市民を学会の信者とするよう説得する活動があったが、あまりにしつこすぎたため反発が強まり、いまでは止めてしまっている。学会員の熱意の強さを示す地域社会での活動は、選挙での集票活動だけなのである。だから学会員たちは、私たち外部の人間が想像もできないほどの熱意で、選挙での集票活動を行う。
 自公選挙協力が定着するにつれて、自民党候補の後援会が、公明党組織に名簿を渡すことも定着した。学会員たちは、その名簿の人物について戸別訪問して、自民党候補への投票を説得する。その集票活動が強力なので、自民党候補が公明党の集票マシーンに頼ってしまっている。こうした現実に、石破が衝撃を受けたのだろう。
 自民党候補の後援会名簿に従って戸別訪問した創価学会員たちは、率直に話を聞いてくれた有権者を中心に「比例区は公明党に投票を」と依頼する。だから自公選挙協力は、公明党にとっても大きなメリットがあった。この名簿は、もちろん「永久保存」され、国政選挙だけでなく地方選挙のときも使われる。こうした経過で、公明党の側も、自公選挙協力から離れられなくなったのだ。

 自民党は端的にいえば「地方名望家層」の政党である。社会党は旧総評系労組に組織された労働者の政党である。生活保護など、福祉施策の対象者が極めて少ないことは自社両党の支持者に共通している。これに対して公明・共産両党支持者は、福祉施策の対象者の比率が高いという現実がある。
 公明・共産両党が意識して福祉の対象者たちを組織し続けたわけではない。生活保護を受けたいと考える地域住民は一定の比率で存在する。市町村の窓口で申請しても、「お役所仕事」だから、誠意をもって対応してくれないケースが多い。自社両党の市町村議に「何とかしてくれ」と相談しても、熱意をもって対応してくれるのはレアケースだ。公明・共産両党の市町村議なら、一所懸命やってくれる。こんな経過で公明・共産両党の支持者には、福祉施策の対象者が増えていったのである。
 公明党と共産党の支持者は似通っている。だからこそ両党は、選挙のたびごとに激しい「集票合戦」を演じる。公明党はタテマエ上「護憲」が看板だが、その点も共産党と同じだ。タテマエ上「護憲」が看板であることも、支持者に福祉施策の対象者が多いことも、公明・共産両党に共通している。極めて似通った政党になっているからこそ、この両党の対立は激しい。
 共産党と激しく対立しているという実態があるからこそ、公明党にとって「自民党との連立」は大きな財産となっている。とくに地方自治体では、自公が与党となっているところが多い。与党の一員となっている場合、生活保護など福祉施策の恩典を受けたいという支持者の要望があった場合、与党の一員として当局に圧力をかけることができる。

 こうして自公の選挙協力は、現実政治のシステムとして、確立・定着してしまった。それにしても、タテマエ上「護憲の党」だったはずの公明党が、安倍政権の「解釈改憲」施策に全面協力している! 自民党が「一枚岩」で、総裁選の対立候補も出なかったと同様、公明党もまた安倍政権に対して「全面賛同」しているのである。
 世論とはかけ離れた政治が永田町では展開されている。自民党だけではなく、連立与党である公明党も含めて、政権と与党が「一枚岩」の固い結束を誇っている。だからこそ次回総選挙では、野党の勝利による政権交代となる可能性が強まっている……。それなら自民党の政権独占だった55年体制とは異なる新たな政治システムの時代だと言えるかもしれない。しかし自公与党を敗北に追い込むことが可能な、現在の野党=時期政権の担当者となりうる政党は見当たらない。現在の民主党では、国民に期待感を抱かせることもできないだろう。
 日本の政治はどこへ行く、と問いかけたい気分になってしまう。

注)9月15日までの報道・論評が対象です。新聞記事などの引用は、<>で囲むことを原則としております。政治家の氏名などで敬称略の記述があります。
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 (筆者は元毎日新聞記者)


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