≪特集:東日本震災≫

■ 3・11の日記抄                  徳田 昌則

───────────────────────────────────
地震の翌々日のレポート。         平成23年3月13日(土)
    -----------------------------------------
  12日夜、水浸しの石巻をなんとか脱出して来ました。
  亜臨界水処理装置を製作し、ホタテ加工場廃棄物(通称、ウロといいます)か
ら、カドミウムを除き、アミノ酸の豊富なエキスを養殖業への新しい飼料添加物
として開発し、効果が期待されるというので、宮城漁協傘下の6業者を選んで貰
い、実際の生け簀で現場試験を3月16日からやることになっていました。

 3月11日には、その第一陣として、試験に使う試料30ケースを女川に持参
し、生産者の船に積み込んで、これから沖合の生け簀に向け、餌蒔きに出発する
というので、その船に別れを告げて、女川の港を離れたのが、2時半頃だったと
思います。試験に協力していただいている日本農産工業(株)の木村知浩塩釜所長
の車で帰途につき、石巻に入った地点で、いきなりけたたましい、無差別の地震
情報を受けました。

 それが、2時46分だったはずです。10mの津波が来るとのラヂオの情報を
気にしながら、仙台に向かう海岸線の道路を走っていましたが、やがて渋滞に入
り、3時に津波の第一波が到着するというので、時計を見ると、既に数分過ぎて
いました。さすがにこういう状況では危ないと、渋滞の道路を放棄して、当ても
なく、ただひたすら山の方向へ車を走らせたのが、ラッキーでした。

 (女川の港で見送った漁業者達の消息には、極めて悲観的です。15個のホタ
テエースを積み込んで、生け簀に出発した阿部彰喜さん達の姿が目に焼き付いて
います。ラジオを拡声器に流して、聞きながら作業をしていたはずなので、地震
の発生と津波の来襲については情報をキャッチしたはずです。ただ、急遽、港に
帰ったのか、帰ったとしても、巨大な津波から逃れられたのか、1時間ほどの接
触を持っただけですが、強い絆を感じています。→22日の朝、漁協に問い合わ
せたところ、地震と同時に、なんと沖合に船を移動させ、無事生還した由で、本
当にほっとしました)

◇3月11日(金)の日記の一部です。


  早朝出発。石巻行き仙石線に乗り、蛇田でユウアイ安部社長に拾って貰って、
女川へ。
木村日本農産工業塩釜支店長と合流し、佐藤さん宅を訪問、内海さんも合流。試
験内容の説明と試料の提供。試験期間は3月中のみとする。漁協で昼食後、女川
へ。阿部彰喜さんを訪問。寒い時期に、下手に沢山食べさせて、下痢を起こさせ
ると問題。食欲はあっても消化は別ではないか。水温が低いと消化力も下がって
いるので、消化不良の可能性があるがその点は大丈夫かとの鋭い指摘。

 漁協幹部の現場を知らない運営に鋭い批判。しかし、餌をやりに行くと行って、
極めて柔和な好々爺の目に。寒い風の吹きすさぶ岸壁で、船を待ちながら、漁業
者の厳しい仕事内容を強調。毎日、欠かさず、すさまじい雪の中でも、船を出し
て餌をまく。人には任せられない。コストも高いので。そういう阿部さんが、息
子さんの運転する船が岸壁に横付けされ、手伝いの作業者2人を加えた4人で、
てきぱきと船積み作業、引き続き船上での作業用上張りを羽織って、船上の人と
なると、今や厳しい漁業者となり、指図をしながら、やがて、船を動かして、沖
合の生け簀へ向かう。
  生け簀について、拡声器一杯にラヂオを聞きながら作業に入る状況を、堤防に
まで移動して、暫く見守り、やがて、手を振って別れを告げて、石巻に向かう車
に乗る。この時が、ほぼ2時半頃。
  石巻市へ入った頃に、交差点で止まったところへ、とんでもない揺れが来て、
信号は消え、斜め向かいの家のブロック塀ががらがらと崩れる。車の横の家の壁
が今にも倒れかかりそうで、それを見ながら、車の中で、身動きできずにただ見
るだけ。

 時計は、2時46分。一旦三陸道を目指すが、破壊されて通行止めの可能性も
ありと見て、引き返し、日和大橋経由で45号線を目指す。しかし、度々の10
mの津波来襲情報と車の列の渋滞状況に意を決して、脇道に外れ、ひたすら山の
方向を目指す。時間は津波来襲予報の3時を数分過ぎていた。 夜は、高台の農
家に雑魚寝をさせて貰いました。雪の降りしきる中で、逃避行の長い車の列とそ
こら中の空き地に駐車している車は、雪に埋もれ、ほとんどは車中で夜を過ごし
たはずです。

 私どもは、幸いにも駐車した農家の方々の篤いご厚意で、屋敷の中で、毛布に
くるまり、激しい余震の中でそれでも、安穏な夜を過ごすことができました。明
けて、街中に出掛けました。100メートルも歩かない距離の田んぼが、津波で
供給された水を満々とたたえており、驚かされました。さらに50メートルも行
くと、津波の傷跡が見られました。さらに下ると、悲惨でした。家がつぶれ、車
が電柱に引っかかって、垂直に立っている。広場という広場は、がれきと車や冷
蔵庫や自販機の類が、重なり合っている。

 石巻魚市場からは、1kmはあるはずなのに、至る所に、冷凍の魚の固まりがあ
り、大きな鮪が転がっていました。横倒しのトラックの運転手が既に事切れてい
るのに、何にもできない、等々。多くの店がシャッターを、また、民家がブロッ
ク塀などを車などの衝突で壊されるなど、津波の恐ろしさを本当に目の辺りにし
ました。

*************************

3月12日の日記の一部です。


  早朝に、自転車を借りて、町の被害状況の探索に向かう。意外に近くまで水が
来ており、田んぼは季節外れに、満々と水をたたえ、朝日に映える周辺の山々を
写している。車が動き出しているので、周囲の避難仲間に別れを告げ、脱出を試
みるために、街中へ出てみる。コンビニが店を出しているので、食べ物を求める
が、お酒以外に買えそうなものは無し。僅かにキャンディがあり。
 
  三陸道の入り口付近に車を止め、徒歩で、街中へ。みんなが、汚れたかごに食
料などを入れて歩いてくるので、もはや売り切れで何もないのではないかと消極
的な木村氏を引っ張って、ヨークベニマルの看板を目指して、がれきをかき分け
兎に角進んでみる。スーパーの駐車場は、がれきの山。自動車、自販機、冷蔵庫、
木造家の残骸、ブイの塊などがうずたかく積み上がり、その山々の隙間や凹み、
そして僅かに露出した地面をどろどろと汚泥が覆いつくしている。

 その汚泥の拡がりの中に、人が通って踏みつけることで水気が僅かに少なくな
ったような道ができている。モノを販売している様子などみじんもない。その道
から外れた高みに冷蔵庫が横たわっており、がれきの山をその冷蔵庫めがけてよ
じ登り、それを開けている人がいる。中には、飲み物とか食べ物が入っているら
しいことが見て取れる。なるほど、そうやって、調達してきたのかと合点が行く。
  シャッターが破壊され、汚泥やがれきが店内深く侵入しているスーパーの店内
に入って行く。一見、がれき以外に何も見えないが、10数人の人たちが、がれ
きをかき分け、食べ物等を捜している。これは、やはり略奪行為なのだろうと自
問自答しながら、こちらもがれきとなった棚や壁を脇へ動かし、泥が侵入してい
ない隙間を見つけてその下をまさぐる。やがて、ぐしゃぐしゃになったポリ袋に
入ったリンゴの塊を見つける。小箱に入ったクラッカーの塊も見つける。贈答品
の箱に入ったささ蒲鉾もあった。

 ジュースやコーヒーの缶も見つかる。付近に放り出されているカゴを見つけ、
それに略奪品を押し込み、両手に提げて、現場を出る。起きてから何も食べてい
ないことをあらためて感じながら、重い荷物を何とか我慢しながら、車へ向かう。
何人かの人と行き交い、食べ物のあり場所やどの道を取れば良いかの情報を伝え
る。車のたまり場には、着の身着のままで待避してきたお年寄りや若い女性達が
自分の車の中で、ひたすらじっとしている。そこへ、泥で薄汚れたリンゴやささ
蒲鉾が手渡され、歓声が沸く。暫し、苦境の中でのおしゃべりと交流が始まり、
情報交換となぐさめ合いで、避難場所に一時の暖かな雰囲気が戻る。

************

  別の地域では、津波の直接の襲撃は免れたものの、川を逆流した津波が土手を
乗り越えてきたため、全地域が2mほど水につかっており、道路も冠水して個々の
家が孤立するという状況でした。避難所に指定されていた中学校も周りは水に囲
まれており、一回は浸水しているので、土手になっている道路から、はしごと板
で作った応急の橋を二階に渡して、出入りさせていました。二階のある家々では、
家族がそれぞれ二階に避難しており、一階の人たちは、避難所に収容されていた
のでしょう。
 
  水が引かないと、道路の復旧も、ままならないし、自衛隊の姿も、まだ見えな
いので、もう数日は石巻に閉じ込められると、一時は、覚悟しました。たまたま
難渋している地元の人を、避難所に連れて行ってあげたところ、海沿いでなく、
山沿いのいろいろな間道を教えてくれ、そのお陰で、山越えのコースを取って、
ようやく、二日目の夜、真っ暗な我が家に戻って来ることが出来ました。電気、
ガス、水の復旧は今のところ、見通しが立っていないそうです。灯油はあっても、
古いストーブを保存していなければ、暖を取ることも、調理もできない。文明の
なんたるかを知らされた思いです。
 
  3日目の今朝、一部,我が家の惨憺たる状況を確認しました。開き戸形式の棚
や冷蔵庫は、全部開いて、中身が放出。一方、情けないことに、どこへ行っても
ドコモだけは、ほとんどが圏外で、我が家の周辺でも、ドコモの満足な柱が立た
ないので、携帯とパソコン電池の充電もかねて、中心市街地にやって来たところ
で、ようやく皆さんにご連絡できることになりました。ご心配をおかけしました。
ザックを背負い、手提げ袋を手にした、食料などの買い出しの人達が朝っぱらか
らあちこちに列を作っています。自動車もスタンドに長ーい列を作っています。
自販機もかなり動いているようですし、水は、売り切れですがお茶など数本買い
込んだ所です。これから、舞い戻り、後片付けにかかる積もりです。
    (被災地の写真がありますが載せられないのが残念です)

                  (筆者は東北大学名誉教授)

                                                    目次へ