【ドクター・いろひらのコラム】

「青天が開いた」=米軍占領下の「初期若月」とは=

色平 哲郎
 
 戦後80年、若月俊一医師(佐久病院名誉総長、2006年没)の佐久地域での「初動」に焦点をあてたい。

 若月医師は1945年3月、東大病院分院から20床の佐久病院に赴任した。1年足らずで「従業員組合」を結成したうえで、院長に就任。佐久病院を一気に地域の中核医療機関へとおしあげてゆく。
 
 その瞬発力を解読する鍵は「初動」にある。
 
 若月医師は『劇「白衣の人びと」作者のことば』で、次のように書き残している。
 
 〈昭和20年10月、(略)国をあげて混乱の最中であった。信州佐久の山の中で、私は小さな組合病院(当時は「農業会病院」と呼んでいた)
 の仕事に全力をこめて取り組んでいた〉
 
 しかし患者の多くは手遅れで、若月医師が手術をしても次々と命を落とす。激しい医療現場をふり返り、若月医師は、こう書く。
 
 〈戦争を終えて、新しい日本が進むべき道が、平和と独立と民主主義であることは言葉の上では分っていた〉
 
 と。ここで、おヤッ?と思わないだろうか。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三本柱とする「日本国憲法」の草案づくりが始まるのは翌46年の2月ごろからだ。
 平和、独立、民主主義が一般にまだ知られていないはずの45年10月、どうして彼は時代の方向性を見定めていたのだろう。
 
 じつは10月4日にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「政治的、公民的及宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」いわゆる「人権指令」を出している。
 治安維持法廃止、政治犯思想犯釈放、特高警察解体、公職追放などを日本政府に突きつけた。
 
 これを受け、東久邇内閣は総辞職、後継の幣原内閣が、その実行にあたる。前述の〈国をあげて混乱〉は、この内閣の入れ替わりをさすと思われる。
 
 人権指令を知り、労働者・農民・女性の解放を知った若月医師は、時代の指針を得て、「青天(清廉な役人の意も)が開いた」と感じたことだろう。
 平和、独立、民主主義を日々の医療実践に落とし込む手段として「社会教育」を選んだ。院内に劇団を結成。
 45年11月には地元の農蚕学校で開かれた青年団主催の芸能大会に招かれ、「白衣の人びと」全5幕を初演。
 その後も、周囲の無理解とたたかいながら伝染病棟を建設する物語などを劇で演じ、農民に「隔離」の必要性や、衛生概念を伝えた。
 
 この劇団を母体として、46年2月従業員組合が生まれた。このユニオンこそ厚生連佐久病院の前身である。
 
 社会教育の波動は地域に広がり、保健活動に結びつく。当時の若月医師の「初動」を伝え聞いた松川町元社会教育主事の松下拡(ひろむ)氏は、公民館を中心とした農村の女性たちとの話しあいから〈子育て・嫁と姑のこと・農業の将来・農作業と健康(三ちゃん農業と農夫症)〉などの学習課題が浮上したと『地域保健活動における主体の形成』で述べている。
 
 46年暮れ、病院開催のクリスマス会に進駐軍(米軍)将校が来訪、「自分たちの」「農民にうったえる」劇を観劇した。
 政治と距離をおき、(出張診療を含む)医療と演劇「若月一座」による社会変革に挑んだのではなかろうか。
 
 
 色平 哲郎(いろひら てつろう)
 JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長

※この記事は著者の許諾を得て『大阪保険医雑誌』2025年8.9月号から転載したものです。文責は『オルタ広場』編集事務局にあります。
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(2025.8.20)
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