【寄稿】

『きけ わだつみのこえ』を読もう

   ―――戦前の学徒に学び、日本の将来を考える
   ―――「漢民族の復讐にわれわれの子孫は泣く」
羽原 清雅  

 「何をいまさら!」と思われるだろう。
 だが、この歴史的な名著の意義を考えるには、1世紀以前に戻らざるを得ない。安倍晋三政権、その後の自民党内、そして高市早苗首相はともに、戦争の傷は子々孫々にまで伝えず、未来志向で進もう、という。
 だが、そうだろうか。日本の傷も大きいが、侵略を受けた相手国民にとっては忘れがたい2代、3代、そしてこれからも心から消えない親族への想いが続く。長い苦しみや葛藤は容易には消えない。攻勢に出た日本人も、兵士として死傷した親をはじめ代々の悲しみは続いている。

 日本と中国との暗い歴史は長く尾を引いているが、1925年は反政府運動の弾圧を加速した治安維持法制定、27年は日中動乱激化の緒を開いた第1次山東出兵と、激動の政治と戦争から、今年は100年になる。まず当時の概略に触れて、その延長線上でアジア太平洋戦争を招き、多くの若者たちに生存の断絶をもたらし、この『きけ わだつみのこえ』に手記を残すことになった状況に触れておこう。

 日清、日露戦争に勝ち、朝鮮、シベリアに侵出するなど軍事力を高めた日本は、欧米諸国に続いて、統治力を欠いた中国進出をもくろむ。大隈重信内閣は対華21ヵ条の要求(15年)を飲ませ、自信を強めたが、その後の若槻礼次郎首相下の幣原喜重郎外相は中華民国に不干渉主義を取ったものの、この内閣が金融恐慌で総辞職すると、政権を継いだ陸軍出身の田中義一内閣は山東省の日本権益保持、日本人居留民保護を理由に、陸海軍の派遣を決定(第1次山東出兵=27年5月)。蒋介石の国民政府軍は北京軍閥政府打倒のために「北伐」に取り組み北上を目指すが、田中は南満州から華北進出の張作霖軍を擁護しようとの狙いがあった。山東出兵は3度続いた。だが28年6月、張作霖の低迷を見た日本軍は中華民国]側の犯行を偽装、張の汽車を爆破し殺害、こうして31年の満州事変となり、戦線はさらに拡大し先鋭化した。

 このような経験を忘れていいものか。将来の社会に向けて反省し、改革し、生かしていくことが往時の若者の想いに応えるあるべき姿でないのか。日中間の長期にわたる悪い関係は、日本が忘れ、消そうとしても、相手の国民はそうした歴史を身近に感じ、記憶している。ヒロシマ、ナガサキの原爆被害をめぐる日本人の思いと同じである。
 この歴史的な体験を生かすことを放棄したかのごとき世情こそおかしいのではないか。
 この長期的に読み継がれてきた若い学徒の手記が示す思いを、100年を超える今、もう一度見直してみたい。

 まず、「政治」そして「外交」が招き続けた近年の不幸の一端を振り返っておこう。
 アジア太平洋戦争が終わって81年が経つ。一応民主主義の憲法ができて、戦争を放棄することになったが、さまざまな解釈によって憲法の精神は様変わりしている。
 高市政治は、安倍晋三首相を引き継ぐかたちで、軍備の増強、戦乱を呼び込むかのような発言を重ねて、全国に不安をまき散らす。
 だが、81年の歳月は、戦争に対する感覚を大きく変えてきた。戦時や終戦時の残酷な悲しみをとどめながらも世代の交代とともに薄らぎ、また警戒された自衛隊の存在は次第に国防を必要とする声の高まりとともに増強の一途をたどり、さらに 戦争の悲惨さの実感が薄らぐにつれてゲーム感覚やカッコ良さに魅せられる若い世代が台頭、戦争・戦乱の思いは次第に薄れていった。自民党の長期政権が続く中で、憲法改正を求める声が高まり、「戦争・戦乱」を防ぐためとする防衛力の増強が段階的に容易に進められてきた。
 こうした時流は、「民主主義」の制度の中で育まれながら、世代交代の進むなかで戦後に高まった「非戦・反戦」の運動は次第に影を薄くしていった。「平和を守ろう!」という声はいまも確かに聴かれる。建前としては、「平和」に逆らう声などはありえない。
 しかし、そうした掛け声は一時は絶対的な支持を得られても、実際に掛け声だけで平和は守れるものなのか。長い間「専守防衛」が国是であったはずが、今の政治のもとでは「自衛」と言いつつ、「敵基地攻撃能力」の保有は安保3文書の中で閣議決定されている。また、国是として輸出禁止とされた戦争兵器などは今、輸出産業のひとつとして首相までが奨励している。

 「敵基地攻撃」を実際に発動すれば、仮に先手必勝として相手国の基地への攻撃が外れて、基地周辺の民家などを爆撃、民間人を殺害することになれば、相手国に戦闘開始の大義名分を与えることにもなる。基地だけに限定した攻撃など、実戦ともなればあり得ないのだ。
 相手国が、自国民を殺害されて、はたして平和的に応じるだろうか。危険な一線を乗り越えた軍略を、国会の論議も安直に済ませて閣議決定した。驚くことに、野党が大論戦を展開した、という状況もなかった。
 また、首相は歴代政権がタブーとした方針を破り、台湾有事(戦艦による武力行使)は日本の存立危機事態となる、旨の発言をして日中関係を途絶状態に追い込んだ。

 こうした日本の現実にもう一度、「戦争とはなにか」と考えてみたい。その格好の教科書が表題に掲げた『きけ わだつみのこえ』、つまりアジア太平洋戦争で戦没した当時の学生の苦悶の心を知ってほしいのだ。年配の人たちも、もう一度読み直すと、今日の日本の針路が是であるか、非であるかの原点にたどり着くのではあるまいか。

 筆者(羽原)がこの書に触れたのは高校3年から浪人時代で、東大生の手記が全国の各学校の犠牲者までに広げられた『きけ わだつみのこえ』だった。
 大学に入ったころは60年安保闘争の初期で、ノンポリながら「戦争、そして若者の戦死」を頭に連日のデモに参加することになった。「平和を守る」ための行動としてよりも、「戦争は悪」とのイメージが強烈にあった。
 いま、80年にわたる3代の天皇の、自国の戦争犠牲者にとどめず、敵対国の兵士や民間人までもの鎮魂を祈り、根底には犠牲を強いられた相手国への想いを示すかのごとき言動に感じて、当時の「反天皇」の気分はやや納まりつつある。
 政治権力の、自国だけに閉ざした靖国参拝的な姿勢、そこに結び付く歴史を黙視し、自衛の名を借りて敵基地攻撃能力を増強する施策を進める実態は、どこか戦前の歴代続いた粗末な軍人内閣、そしてアジア太平洋戦争の準備を進めた近衛内閣、決定打となる東条内閣、さらにはその脈絡を連ねた一部の官僚群や政党政治家、軍需景気に期待をかける経済産業界などと、論理的に類似的な印象を受ける。厳しい批判をなすべき野党も、長期的な国民の方向、ありようを示すことができず、権力にすり寄るような主張に自ら酔う姿を見る。

 そのようなことを想いつつ、『きけ わだつみのこえ』を若い世代に読んでもらいたい、と思う。年配の方々も再度、ページをめくり、若い戦没学徒の戦時渦中の実態を思い起こしてくれたら、と思う。以下、若干の手記を紹介したい。

 *家族との別れ 
―― 「母上様・・・はじめから『悲しみの涙』では、戦地に赴くのではなくて死ににゆくような気がかえっておこりますから、どうぞ、釣道具やスケッチブックをもって出かけた心持ちになっていただきたいと切望いたします。・・・あれほど戦争を嫌って恐れていた、かつての私が、今や一切の雑念をさらりとすてて、ひたすら戦いにのぞむ者としていろいろ修業をつづけることは、全く驚異すべき事柄のようであろうと思います。(昭和15年記)」
 <大井秀光・東京帝大数学科卒・大学院から入営、1941年6月中国で戦死、26歳>

―― 「先達って送って戴いたお守りは、命を惜しむためにあるものではなくて、かえって弱い兵隊をも勇敢にするものだと思うのです。父さんなど母さんだのの、深い御心がこのお守りの中に籠っていると考えれば考えるほど、しっかりしなければならないと思うのです。(昭和16年記)」
 <目黒晃・東京帝大社会学科、41年3月入営、同年10月中国で戦病死、24歳>

―― 「父上・母上様 弟へ もし私が『死んだ』というしらせがあったなら、自分の意志に反して敵弾に殪<たお>れたのではないと信じて下さい。戦闘惨烈を極め、いよいよという時は自分自ら命を絶つことを肯定して自らの手で果すつもりでいます。しかしそういうことのないことを信じたいと思います。(昭和19年6月記)」 
 <中村徳郎・東京帝大地理学科、42年10月入営、44年6月フィリピン方面で行方不明、25歳>

 *恋人との別れ 
―― 「もう何時<いつ>お逢い出来るかと考えると悲しみの気持は苦しさに変わり、寂しいやるせない心で沈潜するよりほか、仕方がないのです。・・・僕は戦いに征く前に心から貴女に感謝したいのです。苦しさも空虚な悲しさも今は銀の小函にそっと秘めて男らしく出発したいと思います。けれども常に貴女のあの清らかな美しい眸を感じることはもちろんです。それが僕にとってただ一つの思い出なのですから、ふっつりと忘れ去るなんて芸当は僕にはとても出来ません。・・・さようなら、僕のローズマリー、ああもう永遠に逢う事はできないでしょう。入団前夜記す」
 <渡辺崇・巣鴨高等商業学校、43年10月横須賀の海兵団入団、44年10月フィリピン・レイテ島沖で戦死、21歳>

―― 「お別れして一年、もうすぐ一周年が廻って来るね。『去る者日々に疎し』といふ諺があるが、成程それはつい最近迄は真理だった。離阪当初の如く、夜な夜な貴女の夢ばかり見、楽しい甘い空想に耽る様なことは、次第に少なくなっていった。しかし、つい最近のある日曜日、別離以来の君からの手紙をもう一度全部読み返してみた。戴いた時は何の気なしに読み過ごしたであらう月並みな文章の奥深く何かしら目頭が熱くなる様なものを感じた。今初めて私の赤裸々な良心を以って君の偽ない純情の輝きを感受した様だ。静に目をつむって過去を振返る時私は貴女と交際する上にその間にある溝を設けてゐた。そしてその溝を跳越えようとする感情とこの溝を死守せしめようとする理性や四囲の束縛とが絶えず心の中で闘争してゐた。・・・今考えてみると私に決断力がなかったのだ。も一歩深く君の愛情を理解し得る感受性に乏しかったのだ。・・・つまり自己を偽ってゐたのだ。私は今程強く君に愛を感ずることはない。・・・誠に恥しい次第です。(昭和19年12月15日記)
 私と君との交際は予感通り美しい友情恋愛として生涯続けませう。・・・私は近く征く<出陣>。(同20年1月7日記)
 Kさんが結婚するらしい。一寸淋しい気がする。あれ程錯綜した事件も彼女の結婚といふ一事によってすべては解決せざるを得なかった。・・・しかしがくんとした気持だけは中々とれない。蔭ながら彼女の幸福を祈らう。(同年2月15日記)
 午前7時特別攻撃隊員の命名式あり。・・・俺も無論特攻員である。残念乍ら第一陣には選抜されざりしもこの次には必ず出陣する。・・・俺は親不孝だった。休暇あれば親にも会へるとばかり思ってゐたのが抑々誤りではあったが。この親不孝は必ず俺の体当りによって贖ってみせる。・・・体当りするまでの気持なんていふものはとても筆などにては真を写し切れるものではない。・・・さらば、父母弟妹よ、師よ。(同年4月12日記)」
 (この手記は岩波版にはない。初期東大版の『はるかなる山河に』による)
 <澤田泰男・東京帝大法学部、43年12月入団、45年5月本州上空で戦死、23歳>

 *軍隊とは 
―― 「東条英機をはじめこの難局の政路に当たる諸軍人の腐敗。この時に当たり軍人は財閥と結びつき、でたらめな政界の動きさえ見せている。南方施政のでたらめときたら問題にならないらしい。されど、現在東条内閣に代わっていかなる内閣が現れようとも、本質において何らの変わりはなかろう。嗚呼‼ 忠臣いずこにありや、道の衰えたる何ぞはなはだしき。我が草莽の微臣今の世代をいかんともなしえず。いま我は涙をふるって尽忠を誓い、次の時代の捨て石にたつ。(昭和18年4月12日記)」
 <岩田譲・京都帝大東洋史学科、東京帝大仏文学科を経て43年4月陸軍入隊、44年8月ビルマで戦病死、25歳> ほかにない当時では大胆な表現。

―― 「本日入隊す。軍隊とはいかなる生活錬成道場なるかと胸を躍らせて入隊。老年兵多く規律厳正を欠くこと多し。いささか失望す。・・・上官すこぶる親切なり。永続性を有する微笑か。(昭和20年6月16日記)
 俺はだんだんと微笑を失いつつある。とてもたまらない。もうふたたび満足に微笑<ほほえ>める時代は来ないのか。・・・俺の過去の生活はあまりに真にして善の世界であった。過ぎたるを思わず未来に対して精神的野心を抱け。自由とは行動にあらず。心中にあり。道理はひとり人世にのみ尊重されよ。人間ならざる人間に道理はない。ただ、有るは自己満足と野蛮的腕力のみ。・・・身の栄達を捨てて友情に生きよ。これを真の友人という。
 本日藤本兵長に叱られる。鉄拳一発頬を打つ。何たる音ぞ。神よ説明せよ。俺は正なり。純なり。(同年6月26日記)
 軍隊は馬鹿になって過ごさねばいたたまれないところだと信ずるようになった。理屈もなし道理もない。二言目には鉄拳に物を言わせる野蛮的な者が多い。軍隊は教育場にあらず監獄なり。意志弱き賢人を気ちがいならしめ、常人をして理想を失わしめ、世をなげかしむる気ちがい病院なりと思う。哀れなる無知蒙昧よ。汝に告ぐる、星の数<階級>は汝の人格を左右するにあらず。能力を示すにあらず。ただいたずらに軍の飯を食いつぶしたる証拠なり。汝が社会における恩を想え。軍隊をして嫌悪の情を起こさしむるなかれ。(同年6月29日記)」
 <長尾弘・44年大阪理工科(現近畿)大学予科を経て、45年6月陸軍入隊、同年10月愛媛県大洲で公用旅行中水害のため殉職、18歳>

―― 「軍隊に入る前の必要なもの、それは何と言っても頑健な身体を持って入ることだ。・・・教養も何もすべて零なのが軍隊だ。それと今一つは軍隊に適した性格を持っていることであろう。形式的、表面的、要領が良いのが一番得だが、およそ自分にはできないことだ。・・・昼食前、ちょっとしたことで隣の班長に口唇<くちびる>をなぐられる。まったくしゃくにさわった。自分の班の班長に叱られるなら何ともない。わざわざ隣りから来て、つまらぬ何でもないことで口唇の切れるほどなぐられたのには、さすがの自分もしゃくにさわるとともに、くやし涙が思わず出た。軍隊なればこそ、こんなことでも耐え忍ばねばならないのだ。(昭和18年12月頃記)」
 <中島勝美・早大法学部から43年12月陸軍入隊、45年11月フィリピン・ネグロス島の病院で戦病死、22歳>

―― 「特操<特別操縦見習士官=陸軍>に誇りなし。伝統なし。よき運用なし。よき指導者なし。いたづらに石中の玉をも曇らするのみ。曽我いわく。『こんな空気の中で張り切ってもだめだ。』いたづらに物笑いとなり狂人扱いせらるるのみなり。狂人や可なり。物笑いや可なり。多衆の物笑いとなり、狂人となる、また男子の本懐ならずや。再考せん。本日ピンタを取る。誠心に恥ずるなきや。(昭和19年6月10日記)
 特操に対する嫌悪の情ふたたびしきりなり。特操を止<や>め一兵とならんかとさえ考う。特操に意気なく意地なく、しかも判断力なし。(同年8月8日記)
 何のために生きるか。君<天皇>のためとは口先。<この一行は消してある> 口頭禅<くちさきだけ>をやめよ。(同年10月12日記)
 口に忠を唱えるは易い。しかし真の誠忠の人となりきるには一生の修養がいる。青年は純粋なりという。純忠に生くるのは青年ならではできぬかもしれぬ。しかし思慮浅き青年の忠義面は一面危険である。(同年10月18日記)」面は一面危険である。(同年10月18日記)」
 <鷲尾克巳・42年4月一高文科入学を経て、翌年12月陸軍入隊、44年2月特別操縦見習士官、45年5月特攻隊振武隊員として沖縄で戦死、22歳>」

―― 「幹候(幹部候補生)口頭試問 久しぶりに、思うことを大胆にのべ気分はる。アメリカについて知れるところでは、徹底的に民主主義を謳歌してやり、土屋主計を苦笑させ、彼らとて、日本人と同じ強さの愛国心を有し、この戦争は絶対に徹底的に勝ちを得るを困難と思うと断じ、終に少佐から彼らには欠点がないのかとつっこまれ、歴史を有しないこと、しかしそれだけの理由で勝負を判断できないと言い、かつ生活をエンジョイするを、人生の目的とする。ここまで言いかけたら、ちょっとまて、君はカンタンにenjoyなどと敵性国語を使うが、とつっこまれ、ニュースを報道、その他無益な英語廃止について断じ切る。それから敵がい心の問題、はては君はすべて、物質的に解決せんとする等々、相当議論す。また国家総動員については議論す。実に胸がすっとした。軍人を前にしてこんな痛快な議論をするも。(昭和18年6月19日記)
 自由主義が社会思想として世にある害毒を過去に流したことは事実であろうか。人間の本性としてfreedomにあこがれるという真実さを、兵営に来て始めて、身にしみて知った。失うまい、何時までもこの美しい心根を。(同年7月1日)」
 <上村元太・中央大学法科卒後、経済学部を経て43年1月中部第三八部隊入営、45年4月沖縄宜野湾方面戦で戦死、24歳>

―― 「(軍隊内の諸規則、諸法則、諸慣習のうち主なもの6点を挙げ)そのうち何時の時代にも付いて廻るのは、軍人勅諭と軍隊内務書、陸軍礼式令である。初年兵の第一歩から幹部候補生の終期に近い試験においても、必ずこれらについては試問される。従ってこれらについての常識は、入営者たる者は一応は備えて置かねばならぬ。しかし入隊前はその必要性を痛感せぬため、研究を疎かにしがちになるのは残念なことである。自分も・・・その必要性を知らなかったために、入営前に研究することを怠った。
 しかし、わずかに軍人勅諭のみは暗誦をしていたので、それが運命の岐路となった。入営日の翌日、第一回の素養試験が行われた。この試験の第一問は「勅諭忠節ノ項ヲ謹記セヨ」というのであった。(勅諭の試験は難しく、非常に長文で素読だけでも20分ほどで、その文章は仮名を頼りにしなければ読み方が出来ないほどのもので)原文に使用されている変体仮名もその通りに書くことを要求され、(「コト」と「事」、「モノ」と「物」の使用区分を明確にするなど)想像以上の苦心を擁する。」
 <渡辺辰夫・東京帝大法学部卒後、40年4月入営し陸軍経理学校へ、45年4月ミャンマーで戦死、29歳>

―― 「《新兵》 内務<演習、勤務外の日常の食事や洗濯などの家事部分を管理、監督する>とは無理と不合理の権化!軍紀とは欺瞞と要領の成果!初年兵には人間の生活はない…。
 旧年兵や上官は仕方がない。(だが、)一緒に入隊した同輩のあまりに激しいエゴイズムとみにくさへの不感症―精神と肉体との―には、ぼくは予想以上の大衆への嫌悪に悩まされた。彼らを人間だと思いたくなかった・・・しかし他に生きようのないこの社会は?
 《討伐》 勝戦<かちいくさ>の快さ!そして負軍<まけいくさ>のみじめさ・・・撤退の夜行軍、倒れた兵士を負って、暗黒の道を辿る、止まる。歩きながら眠る、突然道から転がり落ちる。銃ばかりは土につけずに捧げている自分!だが、その精神を分析するひまもなく歩く。行軍、行軍は全精神、全肉体をかけた努力だ。
 《使命》 軍人としての本分と学徒のそれとはほとんど常に矛盾した。軍人たるべくば、他のすべての使命も欲望も捨てるべく命ぜられた。しかもその軍人の本分は何と形式的で低級だったことだろう。ただそれだけを全人生の目標とは何としてもできなかった。
<松永龍樹・国学院大学国文科卒後、同研究室に助手として勤務後、42年2月陸軍に入隊、保定<人、動物の治療時に動かないよう抑え固定する任務>候補生隊に所属、44年5月中国河南省で戦死、27歳>

―― 「(軍人)勅諭の暗誦の強要。愚だ。それにつけても今の気持は次第次第にコスモポリタン的になって来ている。日本の今までの強制的な枠にはまり得ないものがここに出ている。自らの道をもっとしっかりと立て。それに進む毅然たる勇気と努力。(昭和20年4月15日記)
 何度書いても書き足らぬ。この人生の厳粛悲惨過酷なることを。そしてそれに対して自分はもっと強く正しく大きくなければと。正直に自分の日本に対する気持。日本は好きだ、愛する。だが、日本の国体云々以上に、日本人は大きく人間の運命を考えなければならないのではなかろうか。美しくも清き富士、郷土愛、民族愛が祖国愛たることならば、人後に落ちない。だが、ただ過去の歴史、国体のために戦うのはどうしても割り切れぬ。人間の悲惨時では天皇では救えぬ。日本人一人一人がもっと立派にならなくては。人間がもっと広く大きな心になること、もっと人の汗と涙を知ることだ。さもなくば人間の運命は永遠に悲惨であろう。本当に人間の悲惨事を救うべく現在の道を正しく掴み最善を尽くせ。(同年5月4日記)
 万世一系の皇統を云々する心微塵もない。だがその皇統、国体のゆえに、神勅あるがゆえに現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の趨<おもむ>くべき開展を阻止せんとした軍部、固陋なる愛国主義者。彼らが大御稜威<おおみいつ・天皇の威徳>をさまたげ日本を左右して来たのが最近のありさま。(同年5月6日記)」
 <住吉胡之吉・東京帝大電気工学科を経て、44年末から航空研究所へ、45年5月目黒の自宅で家族6人と戦災死、24歳>  

―― 「朝の乾布摩擦の時手拭を持って行かず、襦袢<はだ着>でやっていたら、某、『お前はなぜ手拭を忘れたことを届けないか。しかもお上の品物である襦袢でやるとは不届き千万。手でこすれ。一つ頬をこすられた。俺は人間、特に現代の日本人の人間性に絶望を感じている。恐らく今の人間ほど神から遠くかけ離れた時代はないと思う。(昭和19年4月26日記)
 原隊におった時の幹候<幹部候補生>その他の試験。実に馬鹿馬鹿しい。近代文化の精を極めてこれからの戦争に処する我が国の軍隊に、文字を一字一句違えたらいかん・・・の原始的な非能率的な国民学校流のものが存在するとは、ただただあきれるばかり。(昭和19年5月10日記)」
 <長谷川信・明治学院高等部から43年12月入営、45年4月特攻隊員として沖縄で戦死、23歳>

―― 「出征前に於いて、私が軍隊生活とか軍人精神とかいうものをあまりに単純に精神的なものとしてのみ考え、想像し過ぎていた丈かもしれない。実際軍隊に入ってみて、率直に言って一番先に感じたことは、交互に襲ってくる肉体的苦痛と精神的苦痛であった。言葉をくだいていえば、寒さと筋肉の極度の疲労が前者であり、退屈感と文字の貧困が後者であった。そしてまた空腹とそれに伴う食物への連想が、一日中の想念の何分の一かを占めていた。・・・激しい戦局を報ずる新聞を見ても、世間にいて感じたのとは全然感じ方が違う。世間にいた時は、そういう戦局や時局の激しさに対して、自分から何か覚悟を、決意をもって立とうとする感じであったが、軍隊では、そういった覚悟や決意を自分からして立つだけの心の余裕も自由もなかった。覚悟とか決意とかいう心の問題ではなく、もっと重苦しく強圧的にフィジィク<身体的>な生活が自分を朝から夜まで一日中絞めつけていた。そしてその生活に全く圧迫され縛着されていた。私の軍隊生活は、ともすれば消極的な弱々しいものになりがちだった。(昭和19年2月6日記)」
 <竹田喜義・東京帝大国文学科を経て43年12月横須賀の海兵団に入団、久里浜の海軍対潜学校を経て、45年4月朝鮮・済州島沖で沈没戦死>

―― 「軍隊生活の俺に与えたもの 一、個人と全体~一方向への徹底 一、無常としての死生 一、無我として多数の殺人
 軍隊生活とは、一つの全体主義的専制!(国家)、ここから 個人主義的専制をも知り(社会) 共に真の人間存在の一方への偏重!! 絶対の非合理の単なる合理・非合理化 文化もない、否、苦しみもないプロレタリア階級の生活を思う。ここにほとんど凡ての人間がいるのだと!(昭和18年4月16日記)」
 <中村勇・東京物理学校数学部を経て、42年12月航空兵として入営、44年4月オランダ領ニューギニアで戦死、21歳>

―― 「大衆は身をもって戦っていると誰かが言った
     大衆は果たして戦争を体験しているだろうか
     戦争は“少数”のみによって戦われている
     兵隊は機械のように動いているだけだ

     大衆は無知であるゆえに戦争を知らない
     ジャーナリストは賢いけれど真実を持たない
     インテリこそ戦争を体験しうる唯一の階級だ(昭和13年8月17日)」
 <松永茂雄・一高理科中退、34年陸軍第一歩兵連隊入隊、35年除隊し教員、国学院大予科を経て、37年10月陸軍入隊、中国各地を転戦、38年11月上海の野戦病院で戦病死、25歳。前述の松永龍樹の兄>

 *戦地で
―― 「昭和13年2月5日、(旧満州の周村を出発、戦闘準備完了後)雨のごとく砲弾は部落めがけて集中せられ、たちまちにして部落は砂煙に包まれた。・・・我々歩兵部隊の部落侵入により家は一軒残らず掃蕩され、隠匿兵器は全部押収焼却、午後部落に火を放って、焔に包まれた部落を後に、大隊の主力は周村に引き揚げた。この部落では日本人2名が虐殺せられ、憲兵により1名は付近の廟堂の裏の古井戸より発見せられ、犯人は3名挙げられた。
(殺人犯として逮捕された中国人3人は、日本人1人が不明のため連行。)種々拷問して捜索に努めた。我らの二中隊の一小隊はこの援護に行き、拷問を見て、後では目をそむけたいくらいであった。翌日宿営地の大臨池より死体発見の井戸の側に行き、鎌田中隊長殿から銃殺の宣告を申し渡されいよいよ刑場の露と消えることになり、通訳がシナ語で告げた時にはさすがの大犯人らも観念したらしく目を白黒させていた。まもなく井戸のそばで目隠しをされてアンペラの上にすわっていた。突然一人が目の前の井戸の中に飛び込んでしまったので、真上から撃ち込み水中で苦しむのを殺した。
 他の二人は号令で発射されると同時に一言も発せず、グニャリと崩れて即死をとげた。
 横に寝かして竹蒲団を掛けて置いて来たが、いよいよ死んでみるとかわいそうにもあった。」
 <勝部勝一・山口高商卒後、37年8月陸軍に入隊、中国戦線に派遣、38年2月山東省で戦死、22歳>

 *世相と戦争
—— 「国際的ににがにがしい局面の展開されるとともに、国内的にも生活がどんなに不愉快になることか。対外関係の緊張とともにサーベルをがちゃつかせるショービニズム<排外的愛国主義>が国内を風靡し無知な権力主義の跋扈が始まり、世論の圧迫、人格の蹂躙、非道な搾取、無茶な酷使が国家の名において強制せられる。いたるところの団体に、社会に、家庭に小ムッソリーニや和製ヒットラーが出現し、ひとりよがりのご託宣に人々の共鳴を強い、協力を恫喝する。生きる悲哀はいや勝<まさ>り、いぶせき生の営みに侘しさの涙がいや増す。
 ・・・極端な国家主義の鼓吹のみひたむきに続けられ来たり、今また国家対立の形勢著しき昨今の世界情勢に会って、ファッショに狂う日本は人格の尊厳、個性の尊重など顧みるに暇なき死語として葬り去らんとしつつある。悲しいかな、非基督教国日本。あるいは甘言により、あるいは恫喝により他人を利用する術を心得たる者、これを敏腕家、辣腕家、事業家<やりて>とたたえ、社会人の最大の資格として尊ぶ。ああ、眼には忍従の涙、額に苦悩の汗、喘ぐ息に波打たせて屈める無力なる者の背を我が成功への階<きざはし>とばかり踏み鳴らして登る彼らの憎々しき足取りよ。地位の不安に脅<おび>ゆる下僚を、「お代わり沢山」をもって威嚇しつつ、国家のためと号して、おのが売名事業に奴隷的奉仕を強いるがごとき上司のいかに多き!討て権謀術数の野心家を!(昭和10年11月記)」
 <中沢薫・33年3月東京帝大西洋史学科卒、静岡、高知各県中学校に勤務の傍ら、伝道誌「光の友」編集、42年7月陸軍入隊、中国各地を転戦、44年7月、中国湖北省で戦死、33歳>

―― 「国力の総意は精神では補い得ぬ。今日の如き物質文明の世界にありては、精神第一主義を取る者も少いとは思うが、若しありとせば文明の力を知らぬ愚者というべきであろう。日露戦役の当時は物質に対するに精神力でよかった。何となれば、まだ物質は精神を圧倒するだけに発達していなかったから。しかしながら、今日においては、既に精神を以て物質に打ち勝つことはできない。・・・大東亜戦争以前においては、日本人は余りに精神力に期待をかけすぎていた。日本の識者が、このことを早く発見してその策を誤らなかったなら、今日無理な戦争・・・
 <上原良司・慶応大学予科を経て経済学部、43年12月松本歩兵連隊に入隊、45年5月特攻隊員として沖縄嘉手納沖の米機動部隊に突入し戦死、22歳>
 
―― 「一軍の力量は単に精神力のみに頼らず、これに加うるに近代的武器を以ってせざれば、真の精神力もその力量を充分に発揮しえざる内に消滅の悲境に至るやも知れず。(昭和19年1月15日記)」
 <水井淑夫・42年4月九州帝大法文学部入学、翌年12月横須賀の海兵団に入団、横須賀機雷学校入校、45年8月10日回天特攻隊員としてフィリピン海で輸送船に体当りし戦死、23歳>

―― 「デモクラシーの基調をなす個人主義が、日本独自の過<あやま>った見解において、利己主義や猛烈なエゴイズムと勘違いされてきたのは、明らかに教育の責任である。それよりむしろ為政者の責任であったろう。俺はもはやそのことについての愚痴はいうまい。何はともあれ現下の時局は最悪の立場に陥っている。俺は今日、内閣総辞職の発表を聞いた<東条内閣総辞職>。そして重臣会議が催された。近衛<文麿>、広田<弘毅>、米内<光政>、平沼<騏一郎>、若槻<礼次郎>その他の重臣たち、かつては親英派と目された人たちであることは、きわめて皮肉な事象だが・・・。
 日本はいずこへ行くのか、猪突猛進的な野猪の態度より、狡猾な狐とならんとするのではなかろうか。現実において、大義よりも存続が必要であり、おそらくこれからは、複雑な外交上の政策が日に夜をついで開始されるのであろう。もしそうであるなら、ああ我らはいずこへ、何のために戦うのか、その目的すら失われなければならない。目前に迫った大義のための散華<戦死を美化した言葉>は、俺にとって少しも苦痛ではない。俺にとって最も苦痛なのは、愛すべき君たちの将来である。(昭和19年7月18日記)」
 <宅嶋徳光・43年9月慶応大政治学科卒後、海軍予備学生として三重航空隊に入隊、45年4月金華山沖での飛行訓練中殉職、24歳>

―― 「大東亜会議<1943年11月、東条首相のもとに当時の日本の同盟国、欧州などの旧宗主国から離脱、独立した国々の首脳を集めた会議で、『大東亜共栄圏』アピールを狙った>のこといっこうにピンときません。・・・その代表者たちの帰途道順の関係でかマニラに寄って行きました。見たところ大戦果は実に立派なものです。だが、同時に戦果と戦局を冷静に判断して、痛切な批判を加えねばならぬ立場にもたたされていることを深く感じさせられました。正直に言って日本の国内宣伝も何とかもう少し判然とした言い方がないものかと疑いたくなります。よけいなことかもしれませんが、南方に対する日本文化の宣伝のごときは、はなはだ愚劣だと思っています。マニラ、昭南<シンガポール>、スラバヤ、パレンバン、メナド、バンコック、ラングーン、ジャカルタ、メダンだけをまわって帰る人たちに、どうして真の事情などわかるものですか。最近送られて来る新しい兵隊たちに、その感想なり、印象などを話させてみて、いよいよその感を深くします。(昭和18年11月記)」
 <菊山吉之助・41年3月東京帝大農学科卒後、農林省農林局に勤務中、42年1月陸軍入隊、44年10月フィリピン・レイテ島で戦死、29歳>

―― 「新聞を見ればどの面にもあの神武天皇の御製の御句<「撃ちてしやまむ」の句を指す>がかかげられ、どの記事も戦争だの大東亜だのと戦争ずくめでその窮屈さにうんざりさせられます。御製が標語化せられるこの不可解な時代は、戦争によって文化が『いしゅく』し芸術が軍門に下り、総力という言葉のもとに理解しがたき世相を呈してまいりました。
 婦人方が銃剣術をしておられる写真、兵隊の母さんの話が馬鹿げてクローズアップされ、つつましかるべき日本のゆるぎなき姿が軽々にとりあつかわれ形式化され行くのをたまらなく淋しく悲しく思っています。(昭和18年3月8日消印)」
 <奥村克郎・41年浜松高等工業学校卒後、大同製鋼勤務中の42年1月名古屋の陸軍に入隊、輜重兵学校幹部候補生隊卒、満州からグアム島へ転戦、同島で戦死、23歳>

―― 「<1943年>10月の終わりには中野正剛<右翼の代議士で東条内閣を批判、朝日新聞に掲載された「戦時宰相論」などで憲兵隊の検挙され、釈放後に自殺>が自殺を遂げた。日本刀で割腹し果てたのだ。日本服で従容としてその浪漫的生涯を閉じたのである。・・・このことは私たちを刺激した。私たちがここの学校<早大>で受けた伝統的なものを心に銘じて、出陣してゆくものはその血をたぎらせて征った。(昭和18年の日記より)」
  <木戸六郎・44年10月早大政経学部を経て、45年津田沼陸軍鉄道学校に入隊、45年5月戦病死、20歳。木戸は早大出身の中野正剛の門下生だった。>   

*戦争とは
 —— 「戦は勝っているうちは良い、それが防禦になるとつらいのだ、と誰かが言った。率直に言うならば、政府よ、日本の現在行っている戦は勝算あってやっているのであろうか。いつも空漠たる勝利を夢見て戦っているのではないか、国民に向かって日本は必ず勝つと断言できるか。いつもこの断言のためには非常な無理に近い条件が付いているのではないか。・・・永遠の真理の前には戦争など一場の喜劇に終るであろう。絶対の真理に直面しては軍備拡張は蜘蛛の巣を作るにも足りないものかもしれない。しかし人間は弱いものだ。この些細な現象のために、永遠の研究を捨てなければならないのだ。(昭和18年9月27日記)」
 <松岡欣平・東京帝大経済学部を経て43年12月富山市の部隊に入営、45年5月ミャンマーで戦死、21歳>

―― 「まさしく何時まで経っても、もう、早く戦さが終って欲しいなどと思うものは一人もいない。終りっこないのだから。何時か何時の日にかは、漢民族の復讐にわれわれの子孫は泣くようなことになるであろう。
 我もし支那の生年なりせば。しかも、しかも、われは現実には憎むべき日本軍部の中の最細の構成分子となっている一兵士なのだ。(昭和18年7月7日記)」
 <上村元太・42年中央大専門部法科を経て10月に経済学部へ、翌年1月10日中部第三八部隊入営、45年4月沖縄宜野湾方面で戦死、24歳> 80数年前に予告したか。

―― 「遺言状 父母上様 去ル六日ノ原子爆弾ハ非常二威力ノアルモノデシタ。自分ハソノタメニ顔面、背中、左腕ヲ火傷<やけど>シマシタ。シカシ軍医殿ヲ始メ看護婦サン、友人タチノ心ヨリナル手厚イ看護ノ中ニ最後ヲ遂ゲル自分ハコノ上モナイ幸福デアリマス。(昭和20年8月25日21時記)」
 <鈴木実・44年10月東京帝大法学部を経て10月豊橋第一陸軍予備士官学校入学、45年8月6日広島で原爆に被爆、25日大野陸軍病院で死去、20歳>

―― 「昭和20年8月17日 委員会最後の残務整理をする。(朝鮮)半島独立の声澎湃として起る。物情騒然。各所に現地兵屯<たむろ>して声高に何事かを語っている。・・・単独の公用外出禁止。給養2食半定量。ソ<連>兵来るの噂とぶ。駆逐艦興南入港の噂入る。庁舎にて重要書類その他を焼く。軍の歴史ここに終幕す。・・・まさに凄絶なフィナーレ。涙も出ぬ。
 8月○○日 ソ兵来る。朝鮮人歓呼をもって迎える。大和町にて彼ら将校2名、乗用車にて通り過ぎるを見る。公堂にソ国旗と朝鮮独立国旗上る。(私物を焼く。母弟妹よりの入隊以来の便りの日記、一握りの灰と化す。我が過去は死せり。)」
 <高木孜・43年9月東京商科大学専門部卒、12月陸軍入営し華北に出征、45年北京から移動中に北朝鮮で敗戦、46年2月吉林省延吉の病院で死去、24歳>

 *総括的に (筆者として)
―― 戦争とは何か/国家は国民を守るためにあるのか/政治を疑わずして任せていいのか/歴史にどう学ぶか/民主主義のもとで個と全体のあり方をどう考えるか/「自分」を知って生きているつもりがじつはただ単に時の趨勢に流されているのではないか/富裕は貧困の犠牲の上にあり、貧困は富裕の内実を知らずただ憧れていないか/平和は守るものか・闘いつつ創り上げるものか、などなど多くを考え、また多くの示唆を受けた。

―― 当時の若い学徒たちの思考は、書物を多く読み、学問への復帰への思い強く、その主張や思考は80年余の現状よりむしろ冷静に見つめていた感すらある。当時の学徒も予想以上に「民主」の立場をわきまえ、軍隊に入ってから軍国性の矛盾に気づいたことで、ものの見方が改められた様子に感動すら覚えた。

―― ただ、天皇の存在、天皇制について語る手記は極めて少なかった。軍国化のリーダーシップを握ったのは天皇であり、軍部や官僚群、そして利益を求める軍需経済界などに踊らされていたとしても、学徒たちが天皇の存在を本音としてどう思っていたかを知りたかった。
 戦後の「人間天皇」への転換は、想定以上の意義があったのかとも思えた。
 数としては少ないが、当時の政治家、とくに軍人上がりの狭隘な思考集団の台頭したデメリットについての学徒の見方を、現状の政治を引き回す与野党の政治家の一部についても感じざるを得ない。「権力」の座にあるものの多くは目先の手柄や成果を望み、社会全体の納得のいくような配慮への努力に乏しく、説得性をもたない。当時の学徒たちが見た政治家群も、政党解体の経緯などを見ると、今日の政界のレベルも似たような程度だったのかとも思わざるを得ない。

―― 最後に、できれば、学徒の手記の総括として読んでいただきたいものがある。
 第2版ではなく岩波版の最尾にある木村文夫<高知高校、京都帝大経済学部から42年10月に陸軍に入隊、46年5月23日シンガポールの刑務所で戦犯として刑死、28歳>の手記である。24ページに及び、その分析等は要約できず、一度お読みいただければ、と思う。 木村の最後の一言である。
  「もう書くことはない。いよいよ死に赴く。皆様お元気で。さようなら。さようなら。
   一、 大日本帝国に新しき繫栄あれかし。 
   一、 皆々様お元気で。生前はご厄介になりました。
   一、 末期に水を上げて下さい。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 『きけ わだつみのこえ』の刊行記録

 戦没学生の手記刊行は1945年8月の終戦から日ならずして刊行され、2026年の今日まで続刊されている。出版市場でも類を見ない書籍だろう。
 今日では、岩波文庫のみで継続されているが、当初はいろいろな経緯をたどっていた。
 その簡単な系譜を記しておこう。

*『はるかなる山河に―東大戦没学生の手記』
   東大戦没学生手記編集委員会編/東大協同組合出版部発行
   1947年12月1日発行/翌年1月25日再刊 70円
   (寄せられた110編のうち39人分を掲載/購入希望が多く、再刊へ)
*『はるかなる山河に』
   東大学生自治会戦没学生手記編集委員会/東大協同組合出版部発行
   普通版のほかに上製本595部限定 220円
   (東大版は約20万部売れて絶版に。連合国総司令部民間情報局<CIE>の検閲を受け一部削除の事態も)
*『日本戦没学生の手記 きけ わだつみのこえ』
   日本戦没学生手記編集委員会/東大協同組合出版部発行 200円
   第1版 1949年10月20日発行
   第3版 1950年1月30日発行
   (当初の東大学生のみから日本の各大学に拡大、309人中75編を採用。
  この版が出て間もない1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発、日本にのちの自衛隊などが生まれ、旧軍時代に活躍し戦犯容疑のあった人物たちが国会議員、官僚、自衛隊幹部、地方の要職など多くの公的な職種に復帰、社会状況を変えることになる。)
*途中1959年、光文社からも出版され、カッパブックス、光文社文庫から上下巻で発行。
*1963年 学徒出陣20年を機に『戦没学生の遺書に見る15年戦争』 わだつみ会編
*『新版 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』
   日本戦没学生記念会編/岩波書店・岩波文庫から刊行
   第1刷 1995年12月18日
   最新は 第38刷 2024年9月25日発行
 『新版第2集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』 (同上)
   第1刷 2003年12月16日
   最新は 第16刷 2025年12月5日発行

 (元朝日新聞政治部長)

(2026.9.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ/直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧

(2026.9.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ/直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧