【視点】

『靖国』問題の波紋、これでいいのか

 ――外交関係、内政面のひずみを見る 
羽原 清雅

 「靖国神社」問題はこのところ影を潜めていたが、今年2024年はふたつの注目を集めることになった。対外的にも、国内的にも、この問題を甘く見るべきではない。根の深い問題で、ひとつ間違えると諸外国の日本を見る目を変えかねず、また、自衛隊の方向性に誤解を招くことにもなりかねない。靖国神社自体のあり方の問題もはらむ重要なことだ。真剣に考えていきたい。

 *韓国の欠席問題 11月24日、新潟県佐渡市で開かれた、世界文化遺産登録に向けての朝鮮半島出身者を含む当時の就労者の霊を悼む行事に、韓国の代表が直前に欠席することになった。そして、韓国側は現地で別途追悼行事を持つことになった。
 この引き金になったのは、韓国政府は明らかにはしなかったが、外務省が政府代表として送り込んだ生稲晃子外務政務官(参院議員)が2022年8月15日の終戦の日に靖国神社に参拝したことに韓国側が反発、遺族ら関係者全員が欠席することになった。「佐渡金山」の文化遺産登録については、かねて朝鮮就労者の強制労働の実態についても展示すべきだ、と主張するなど、日韓両国間で紛糾があったのだが、問題はその点ではなかった。生稲政務官がかつて靖国神社に参拝したとの報道が火種になっていた。
 この参拝問題は共同通信の勇み足で、生稲は参拝していなかったことがわかったが、靖国問題の根の深さを改めて世間にアピールすることになった。共同通信はその責任を認め謝罪しており、ここでは触れない。
 韓国内では、植民地として日本に組み込まれ、戦闘に参加させられた怨念が今もずっと記憶の底に残され、戦争の傷跡を鮮明にしたことになる。家族や親せきなどに悪夢を残している韓国側は、今も決して忘れてはいない怒りを示したことになる。
 韓国は、ユン・ソンニョル大統領の戒厳令布告騒ぎで状況は変わったが、日韓関係改善の兆しが見えかかっているなかでの、この佐渡金山問題は残念だった。
 戦争以前からの日本政府や軍部などのとった態度は、朝鮮半島、そして中国やアジア諸国に消えない不幸をまき散らした。この不幸な関係は、日本が消したり、忘れたりしようにも、その被害者側は忘れがたく、その怒りの深い現実を蘇らせたのだ。

 *自衛隊の参拝問題 もうひとつは国内問題である。1月、陸上自衛隊の幹部が数十人の隊員を連れて九段の靖国神社を参拝したのだ。一部は公用車を使っていた。昨年5月には、練習艦隊の司令官らが出発を前に出動165人中の大半を引き連れて参拝した。練習艦隊グループは1960年以降、「部隊参拝」を毎年恒例化していた。今年、航空自衛隊も航空事故調査委員会のトップや関係者22人が参拝したという。
 戦前の旧日本軍部と靖国神社の関係は深かったが、最近ではこの4月に靖国神社トップの宮司に元海将が就任、氏子(崇敬者)総代10人中2人が元将官だという。戦後、憲法に政教分離がうたわれたのは、軍部を支える支柱が国家神道であった、その反省によるものだった。74年の次官通達では、部隊参拝、隊員の強制参拝を禁じてもいる。
 戦後の自衛隊が、旧軍幹部らによって育てられ、また自衛隊の訓練等は軍隊と変わらない実態であることからすれば、旧軍との決別、靖国との断絶は固く守られなければならないはずだが、それがなし崩しにされようとしている。
 この事態は深刻だ。隊内での暴力沙汰、女性隊員への暴行など、ある意味では戦前回帰以上に問題の根は深い。外から見える自衛隊と内側での自衛隊が異っており、それが長期化すれば、防衛への信頼は失われ、戦前の悪夢が蘇りさえする。すでに防衛体制自体が攻撃優先に代わりつつある。とくに対中関係の悪化のなかで、一般国民が気づかないうちに、防衛の名による軍事強化が進められている実態と合わせて考えると、自衛隊の戦前回帰の風潮は危険というしかない。

 *忘れっぽい日本、忘れようもない被害国民 世界が理想を求め、真に平和を目指すなら、軍隊の増強などはしないに限るだろう。だが、現実はそうはいかない。せめて、過剰な軍備増強を避けて、その国の国民生活や国としての経済状況などに見合った自衛力にとどめたい。それも、昨今の日本の政治には求めにくい現実がある。
 日本は、明治期から急激に軍備を増強し、先進の欧米に追い付くべく軍事力を蓄え、遂にはアジア太平洋戦争を引き起こした。大陸への無謀な攻勢によって土地、資源を求め、自国兵の多くを死なせ、遺骨さえ半分も回収せず、しかも相手国の大衆を数多く殺戮し、物も心もせん滅した。ただ多くの場合、相手国内を戦場としており、自国の日本はほぼ沖縄だけを戦場としたため、焼夷弾、原爆などの被害は受けたものの、相手国の国民大衆の受けた被害の悲惨さ、その規模の大きさなどは、日本以上の厳しさだったに違いない。もちろん、いずれも比較などを絶した不幸な犠牲であった。
 昨今の日本では、日本がもたらした戦前の罪過について忘れようとする風潮が強まっている。昨今の歴史修正主義の風潮である。

 安倍晋三首相は戦後70年(2015年)の終戦の日に、談話を出して「あの戦争には何ら関係のない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。日本にとっての悲惨な戦争の歴史を語り継ぐことで二度と繰り返すまい、との思いは必要なのだ。被害を受けた諸国の人々はどうか。中国、韓国、東南アジア諸国、そしていつかは詫びなければならない北朝鮮を含めて、日本の軍隊の所業は一代限りではなく、子や孫、そして少なくとも100年、150年は家族たちの悲しみを語り継ぐだろう。被害の根深さは忘れられない。その間は、加害の日本は謙虚に謝罪と反省の気持ちを持ち続けることが、相手国との友好の証しになるに違いない。被害を受けた人々の心を読まず、あるいは読めずに、相手の人々とは交流はできない。

 *河野談話の思いこそ 1993年、宮沢内閣が崩れる直前に、官房長官河野洋平は慰安婦問題について結論的に談話を示した。「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」。安倍首相は、この見解に対抗する狙いがあったものか、正反対の発言をしている。
 日本側としては忘れたい過去の歴史だろう。だが、侵略された相手の諸国民はどう思うだろう。身内の多くの人々の殺戮された事実が語り継がれ、忘れがたい歳月が続く。日本が謝り続けても、肉親たちはその悲痛な叫びを子に、孫に語り残すだろう。忘れられないし、忘れまいとするに違いない。とすれば、加害者日本の人々もその長く続く不幸を知り、触れ合う時にはその思いをともにするくらいの感性は必要だろう。その努力が次第に相手方の心に届き、いつか許され、真の交流が始まるのだろう。

 もうひとつのケースに触れておこう。歴代の東京都知事は関東大震災(1923年)の際に、流言によって多くの朝鮮人たちが自警団などに殺害されたその追悼の会に、知事のメッセージを送っていた。だが、小池百合子知事は自民党都議の発言を機に「何が明白な事実か歴史家がひも解くもの」としてメッセージを送ることをやめた。やめる理由が明白ではない。100年を経た今日までに多くの事実が語られ、鮮明な記録も残されながら、小池の姿勢は変わらない。歴史に向き合わず、日本人の所業を隠し、可能ならこの事実を否定する身構えかと思わせる。
 まさに、歴史の修正に加担しようとの身構えである。河野談話への、安倍首相同様の挑戦のつもりなのか。狭い心は、相手に伝わらないばかりか、将来にわたって怨念を残し続けることだろう。

 *靖国神社は心を広げる姿勢を 靖国神社を国家護持しよう、との靖国法案が国会に提出されたのは1967年ころからだった。筆者(羽原)はこのころ、自民党担当で厚相橋本龍太郎らを追っていた。
 69年には同神社の創建百年を迎え、法案が佐藤内閣下の自民党議員多数によって国会に提出された。すでに靖国神社を支援する日本遺族会が52年ころから、同神社の慰霊行事に国費を支出するよう動き始めていた。
 靖国神社という宗教法人は憲法上国家が護持することはできず、いずれは宗教法人としては解散し特殊法人化する、という。
 だが、国会での論議は沸騰し、この法案は69年から73年までの5回、いずれも廃案に終わり、結局は断念に至った。野党は、国家神道として戦争遂行の役割を負った歴史、国家護持ということの密着性、宗教団体の国家護持という違憲性など戦争の悪夢を描きつつ猛反対に動いていた。

 さらに、終戦後に処刑された東条英機らA級戦犯が合祀されたこと、一方で反政府軍を率いたとして西南戦争の西郷隆盛らは除外されるといった事例、朝鮮や台湾の旧植民地からの兵士、クリスチャンなど異教のものまですべて厚生省によって靖国に送り込まれる強制性など、障害となる問題点も多かった。
 今も、靖国神社の許容される範囲は変わらない。たしかに、戦前は戦死者の家庭周辺では悲しみを押し殺し、国家・天皇に命を捧げた「英霊」「護国の神」として、あるいは「靖国の母」などとして誇りを持つよう洗脳されていた。今もそうした気持ちを捨てがたい高齢者や旧兵士らが靖国を信奉しており、靖国神社の存在はそれなりになお大きいままといえよう。
 その姿勢は、いまも神社併設の遊就館の展示を見ると変わらない。祭神の遺徳をしのびつつも、戦争の歴史を称えるかの展示が目に付く。憲法がうたう「平和」のイメージとは大きく異なる。
 戦死したものは日本兵に限らず、諸外国の兵士をも慰霊する度量はない。米国などのように他国の戦闘員をも祀ることはなく、したがって外国の要人が訪日しても、靖国に行くことはない。戦前の仕組みが維持されたままのようだ。この点だけでも改めたら、靖国イメージは変化を見せるのだろうが、それはない。

 *石橋湛山の「予言」 のちに首相となる石橋湛山は、終戦直後の1945年10月13日号の「東洋経済新報」に、同誌主幹として「靖国神社廃止の議――難きを忍んで敢て提言す」なる社論を書いている。
 「甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも、或は忘恩とも不義とも受取られるかもしれぬ。併し記者(石橋)は深く諸般の事情を考え敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神社を廃止し奉れと云うそれである」――終戦2カ月余後の表明である。
 「靖国神社は、言うまでもなく明治維新以来軍国の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽くさせ賜う程、我が国に取っては、大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽くして営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。
 殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神社に祭られざる者が多数にある。之れを今後従来の如くに一々調査して丁寧に祭るには、二年或は三年は日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、果してそれは可能であろうか。・・・万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、却て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう」
 湛山は軍国主義や戦争自体、あるいはファシズムに反対し続け、二男を終戦の前年に戦死させている。本来なら、靖国廃止の理由を米国などの連合国の反対などとせず、戦争遂行を煽った国や軍隊、そしてそのお先棒を担いだ靖国神社全体を廃止せよ、と言いたかったのではないか。米国の出方など終戦後の動向が皆目わからない時期でもあり、筆を抑えていたのかもしれない。
 湛山は、軍国主義を容認するかの今日の靖国神社の姿勢を見抜きつつ、廃止論をぶったのだろうか。先見の明、だったというべきかもしれない。

 *天皇は参拝をやめた 昭和天皇が戦後に靖国神社に出向いたのは、1945年11月の招魂祭が最初だった。7年後の52年10月には宗教法人化した靖国に皇后とともに参拝した。この直前には国会で靖国合祀問題が論議されていた。天皇は52年を含めて7回参拝に出かけた。戦後30年の75年11月の参拝が最後となり、以後の歴代天皇はいずれも参拝することはない。
 それまで、キリスト者の靖国合祀反対訴訟などはあったが、政治的な反対運動も少なく、天皇の参拝はいわば黙認されていた。歴代の首相も鳩山一郎、石橋湛山を除き、吉田茂から小泉純一郎まで参拝していた。さすがに終戦の日の8月15日には行かなかったが、三木武夫首相はこの日に決行した。靖国神社国家護持法案は73年の廃案で断念されたが、翌年には自民党が衆院でなお強行採決し、反発が強まった。キリスト者、仏教関係者らの反対運動が高まり、74年7月の参院選挙で保革逆転し、またそれまでの天皇の参拝は「私的」扱いだったものが「公式参拝」視され、憲法に抵触するとの見方が出たり、天皇の政治利用となると訴訟沙汰になるなど、全体として厳しい状況に追い込まれるようになった。
 こうして、天皇の参拝は終わることになった。しかも、天皇は参拝を望んでいなかったことが、側近などの証言などで明らかになっていった。

 *神道は改革がない 神道の良さは、自然界のあらゆるものに神が宿る、いわゆる「八百万の神(やおよろずのかみ)」の文化であり、信仰という点だろう。そこらの草木をはじめ自然の中にすべて神さまがいる、そんな幼い時に教えられたことから、物を大切にし、さまざまなものになんとない愛着を覚えるようになった。幼稚のようだが、心のどこかに生き残っている。
 ところが、国家と結びついた神道は、どう見ても狭隘である。明治維新後に一時、退廃した仏教に代わって神道が国家に結び付いた。そのせいか、神道はおおらかさを失い、戦争の背後にいつも付きまとう感が広がった。
 筆者の母方のルーツは津和野にあり、この地は最後の藩主亀井茲監のもとで国学(津和野本学)が奨励され、そこに岡熊臣、大国隆正をはじめ、福羽美静、石河正養、加部厳夫、大谷秀実、加藤順造、森岡幸夫、田中栄秀らの国学者が育った。彼らは発足したばかりの明治政府に重用され、茲監、福羽は神祇官の幹部に起用された。新政府発足時は天皇を中心に構想され、神道の理念が国教的に採用されて、国学が重視されたために津和野グループが台頭した。ただ、その時期はきわめて短く終わった。早急な近代国家化の要請、仏教の復活もあって、神仏分離政策や祭政一致の方針など国学を軸にした国つくりでは対応できなくなったのだ。
 ちなみに、靖国神社創建には津和野、長州藩士らが関わっている。1860年代初めに幕末殉難者の慰霊招魂祭を催しており、これが京都招魂社につながり、さらに靖国神社創建に至ったといわれる。(拙著「『津和野』を生きる―400年の歴史と人びと」)

 こうした経過を経て、ますます国家権力に接近、その支配下で天皇崇拝、権力体制化、軍国化、聖戦推進といった傾向に進み、戦後もこうした伝統を大きくは改めることなく、自民党長期政権のもとに共存をはかってきた印象が強い。神道系組織が保守派の日本会議の有力組織となっているのも、そうした歴史に沿っているといえよう。
 もし靖国神社がA級戦犯合祀をやめ、国立追悼施設と協調し、外国などの戦争犠牲者をも慰霊するくらいの改革ができたなら、靖国参拝者は増え、国民的な存在になるだろうが、現実にはそうもいくまい。

*終わりに 日本はいま、経済、文化、学術、人口などが衰退の傾向にあり、将来への足がかりがなく心配が続く。最初に触れた外交面では日本が進めた戦争の反省が薄らぎ、謙虚さに欠けつつあり、歴史を踏まえようとしない傾向が見えてきている。タネをまいたことは忘れるべきではない。相手の気持ちに沿うことこそ、新たな交流の第一歩になる。
 また、自衛隊が歴史を踏まえず、いつか来た道に戻るかに見られる姿勢では、信頼は得られない。
 新しい年は、あの忌まわしい戦争の終結から80年になる。忘れてもいいような歳月がたった。しかし、莫大な被害を受けた相手方の立場からすれば、まだまだ心の傷は消えていない。あらためて、相手の身になっての発想を持とう。忌まわしい歴史を繰り返すことのないよう、過去の事実を見つめ直そう。経験のない若い世代に関係ないのではなく、彼等が国際的に足を踏み出すためには、この日本の過去を知り、相手方の痛みと苦悩を踏まえて付き合おう。
 そんな歴史の80年を迎えたいものだ。
                       (元朝日新聞政治部長)

(2024.12.20)
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