【アフリカ大湖地域の雑草たち】(41)

なかなか気づかないこと

大賀 敏子
 
 I 届かなかったレター
 
 衣の下から鎧が見える
 
 1961年2月、ソビエト連邦最高指導者であったニキータ・フルシチョフは、一人のコンゴ人女性に宛てて手紙を書いた。宛て先はマダム・ポーリン・オパンゴ・ルムンバ、ルムンバ初代首相の配偶者だ。
 
 (註1)本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先の14稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)、(31)、(39)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号、11月号、2024年9月号掲載(末尾のリンク参照))の続きである。
 
 日付は2月14日、ルムンバ殺害の知らせが世界中に伝えられた翌日だ。「国民的英雄の死を悼む」「彼の偉業はソビエト人民の心の中に永遠に生き続ける」「ソ連とその政府は、いついかなるときも、遺族に心からの同情と支援を惜しまぬ」といった趣旨が読める。
 ONUC(国連軍)を追い出し、代わりに東側の軍隊を入れたかったソ連は、西側批判と国連事務総長攻撃の好機にあった。まさに衣の下から鎧が見え隠れする手紙だ。
 もっとも、これがポーリンに届いたかどうかは疑わしい。当時の彼女は、ファーストレディーとして、世界の舞台で活躍していたわけでは必ずしもなかったからだ。
 
 庶民カップルが嵐の中へ
 
 ポーリン・オパンゴは1937年生まれ(サンクル州、国土のほぼ中央に位置)で、結婚は1951年、14歳のときだった。別居期間はあったものの、1961年に死別するまでの10年間、ルムンバと寄り添った。
 彼女は正規の学校教育を受けなかった。女児には、子育て、料理、掃除、裁縫、自給作物づくりといった家事一般と、現地の言葉(リンガラ語など)の手ほどきにとどめるのが当時の相場だった。フランス語教育は、あっても男児にかぎられていた。
 ルムンバもまた庶民出身だ。平均的な庶民が、いわゆる田舎の気立てのいい女の子と一緒になった、そう言ってもいいだろう。だが、時代は、若い二人をそっとしておくことはなかった。
 
 結婚5回、子供6人
 
 ルムンバは、知られている範囲では、生涯5人の女性と結婚した。死ぬまでの10年間、このうち3人との間に合わせて6人の子供をもうけた(註2)。庶民の彼が反植民地運動のリーダーへ、国家元首へ、世界的英雄へと昇りつめていった時期だ。彼の父親、二人の弟も、それぞれ4回、4回、2回結婚したとの記録があるので、当時は珍しくなかったのだろうか。
 正義の味方のイメージが壊れてしまうようなプライベートライフだが、さて彼は、これに満足していたのだろうか。
 
 (註2)
 これら5人の女性を、名前、婚姻期間、生まれた子供について整理すると次のとおり(南ア出身の仏領アフリカ研究者であるKaren Bouwerの著書Gender and Decolonization in the Congo: The Legacy of Patrice Lumumba, 2010に基づく)。
 1. Henriette MALETAUA、1945年10月21日から1947年まで、子供なし
 2. Hortense SOMBOSIA、1947年6月25日から1951年9月2日まで、子供なし
 3. Pauline KIE、1947年からルムンバ死まで、子供1人François(1951年9月20日誕生①)
 4. Pauline OPANGO ONOSAMBA、1951年3月15日からルムンバ死まで(ただし1952年4月‐1953年1月、及び、1956年3月‐1957年12月の期間は別居)、子供4人Patrice(1952年9月18日誕生②)、Julienne(1955年8月23日誕生③)、Roland(1958年誕生④)、Marie-Christine(1960年誕生、同年11月死去⑤)
 5. Alphonsine MASUBA、1960年初頭からルムンバ死まで、子供1人Guy(ルムンバ死後誕生⑥)
 
 II 家庭が足を引っぱる
 
 進化したコンゴ人
 
 ベルギー植民地政府は、コンゴ人を“進んだ者”とそうでない者とで分け、前者を、ヨーロッパ人と後者、つまり“原住民”(絶対多数のアフリカ人)との中間と位置づけた。“進んだ者”(フランス語でÉvolué(英語では、“evolved one”とか“developed one”)と呼ばれた)になるには、法規に基づき、政府に申請し、審査を受け、合格する必要があった(the ordinance of 12 July 1948, the decree of 17 May 1952)。
 その特徴は、犯罪履歴がないこと、フランス語を使えること、ヨーロッパ的ライフスタイルを採用し、アフリカの伝統的慣習を捨てることだ。忌み嫌われた悪習の典型は一夫多妻だ。このほか、呪術、魔よけの類も非科学的、前近代的と見下された。
 合格者はパス(登録証)を付与され、種々の特権を与えられた。アルコール飲料を買う資格、レストラン、クリニック、ホテル、バスへのアクセス、教会礼拝でのリザーブ席(1955年改正)などだ。あの悪名高い南アのアパルトヘイトを想起させる。
 ちなみに、独立直前時点のパス保有者数は、1948年法パス、1952年法パスで、それぞれ、1557人、217人とのことで狭き門だった(総人口は概ね1300万人)。主にコンゴ人のキリスト教聖職者だったようだ。
 
 食い込みたい
 
 ルムンバは“進んだ者”に食い込もうと、読書に励み、交友関係、文筆活動、社会的活動などあらゆる面で猛烈に努力した。ヨーロッパ的なライフスタイルには、衣食住、養育費、交際費など費用がかさむ。当時郵便局職員だったが、サラリーだけでは足りないので横領していたという記録もある。
 もっとも、いくら頑張っても、家の中のことは妻の協力がなければどうにもならぬ。子供とフランス語で話しているか、手づかみでなくフォーク・ナイフを使っているか、夫婦が同じ食卓に着くか―夫は居間かダイニングで、妻はキッチンで子供たちとともに食べる習慣があったが、これはNG―などだ。
 ルムンバは、1952年申請で却下され、1954年再挑戦で合格した。思いどおりならなかったとき、妻にその責めを向けなかっただろうか。
 
 挫折した大学進学
 
 もう一つのエピソードは、大学進学を断念したことだ。
 独立当時、コンゴ全土で大卒学位を持つ者は20人に満たなかったと言われるほど、進学は高嶺の花だった。キリスト教宣教師の私塾で初等・中等教育を受けただけのルムンバも例外ではなかった。しかし、彼は努力して大学入学資格を得た。
 ところが、ロジが夢の実現を阻んだ。独身寮しかなく、1954年、すでに二児の父親だった彼には宿泊施設がなかった。家庭が足を引っ張ったと悔やんだことだろう。
 
 III 激動の家庭
 
 先妻と後妻
 
 ポーリンにとってルムンバとの10年間はどうだっただろう。
 夫は政治に忙殺されて不在がちで、たまに自宅にいれば書斎にこもるか来訪者を連れてくるか。教育のためだからと夫に頼まれ、先妻の子(フランソワ(上記の子供①))を、自分の子供たちと一緒に育ててもいた。
 さらに、5人めのパートナーの出現だ。冒頭で、ポーリンは必ずしも国際的アイコンではなかったと書いたが、これに対し、秘書でもあったアルフォンシン・マスバは、コンゴ女性としては例外的にフランス語の読み書きができた。つまり、ヨーロッパナイズされていた。
 
 トラウマの連続
 
 動乱勃発と政変は、政治の争い、つまり、そもそも家の外の出来事のはずなのに、容赦なく、土足でポーリンの居住空間に上がり込んできた。ONUCと国軍に二重に取り囲まれた自宅で、主婦が心穏やかでいられるはずがない。安全のためだからと愛児たちと引き離され(上記の子供①、②、③はエジプトへ)たうえ、第4子(上記の子供⑤)の女児を早産し、わずか数ヶ月で亡くすという悲劇にも遭遇した。
 さらに彼女は、ルムンバの極秘裏の脱出、逃避行を共にし、ついにはモブツ指揮下の国軍兵士に縄をかけられる、その現場にも居合わせた。当時2歳の男児(上記の子供④)を抱えながら。殺害公表後は、報道陣のカメラのフラッシュを浴びながらONUC本部で国連事務総長代理に面会し、遺体の引き渡しと真相解明を求めた。
 生涯トラウマになってもおかしくないような出来事の連続だ。
 
 IV 気づくゆとりはないかもしれぬが
 
 気持ちが現実についていけない
 
 よく言われるように、コンゴ独立は急ぎすぎだった。ベルギー政府が本気になったのが1959年の反ベルギー暴動以降で、あっという間、その翌年には、すでに独立していた。このため「植民地から独立国家へと性急な動きに、ベルギー人のメンタリティーが必ずしも追いついていか」ず、このメンタリティー・ギャップが混乱をさらに拡大した(「」は、ルムンバ殺害へのベルギー政府の関与を調査した同国議会報告から引用(オルタ広場2023年2月号、大湖地域の雑草たち(25)拙稿)。
 時代のスピードについていけなかったのはベルギー人だけではないだろう。大多数のコンゴ庶民も、まったくキャッチアップできなかったに違いない。
 メンタリティ・ギャップは不安を生み出し、不安は人々をいっそう攻撃的にした。社会で、職場で、地域で、そして家庭で。
 
 理解しあえないわけ
 
 長女のジュリエンヌ・ルムンバ(上記の子供③、1955年生まれ)は、長じてローラン・カビラ政権(1997-2001年)の閣僚就任を含め、幅広く活躍する人物となった。彼女は、けっして平穏ではなかった幼児期を回顧してこう言う。「両親とも理解しあうには若すぎた」
 フランス語を話さず、社交性がなく、ヨーロッパ的でないからと、夫は妻を責めた。妻は、機会あれば夫に不満をぶつけた。だがそれは、当事者個人に非があったからなのか。いやむしろ、理解しあえないという葛藤は―当人たちが気づいていたかどうかは別だが―社会の仕組みに大きなひずみがあり、それが家庭内に持ち込まれていたのではないか。
 家庭にかぎらぬ。およそ人間関係のこじれがあると、なんとか相手をやっつけたいと当事者にばかり気持ちが集中してしまう。だが実際は、社会の構造的ストレスに目を向けた方が解決につながりやすいのではないか。いさかいの真っ最中にいると、なかなか気づかないものだが。
 
 活動家
 

画像の説明

 ポーリンは、2014年、77歳でキンシャサで亡くなるまで独身を通した(写真)。田舎から出てきた気立てのいい少女の一生は、気のいいお母さん、穏やかなおばあさんにとどまらなかった。ウィキペディアは、彼女を女性の権利の「Activist(活動家)」と分類している。

 (ナイロビ在住)
 

 【参考文献】
 Karen Bouwer, 2010, “Gender and Decolonization in the Congo; The legacy of Patrice Lumumba”
 The Journalists’ Union of the U.S.S.R, Foreign Languages Publication House, Moscow, 1961, Full text of “Patrice Lumumba: The Truth about a Monstrous Crime of the Colonialists”
 Daniel Tödt, 2021, published by De Gruyter “The lives of others: selecting the Congolese elite (1948–1956) A question of assimilation: the two-tier évolué status”
 Parliamentary Committee of enquiry in charge of determining the exact circumstances of the assassination of Patrice Lumumba and the possible involvement of Belgian politicians THE CONCLUSIONS OF THE ENQUIRY COMMITTEE, conclusions (lachambre.be)
 写真出典:Karen Bouwer, 2010 (Courtesy of Intermediaire Consulting)

【過去のアフリカ大湖地域の雑草たち】
・アフリカ大湖地域の雑草たち(17)「1960年の国連安保理
・アフリカ大湖地域の雑草たち(18)「ベルギー統治時代のコンゴ」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(19)「国連職員のクライアント」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(21)「相手の実力」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(22)「お兄さんと弟」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(23)「生涯感謝している」
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・アフリカ大湖地域の雑草たち(27)国連をダメにしたくない
・アフリカ大湖地域の雑草たち(28)思いやりは無用の長物
・アフリカ大湖地域の雑草たち(29)いちばんこわいこと
・アフリカ大湖地域の雑草たち(31) 用済みにされた英雄
・アフリカ大湖地域の雑草たち(39) コンゴの2023年選挙

(2024.10.20)
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