アフリカ大湖地域の雑草たち(60)

また外人が来た

大賀 敏子
   ***************************
「また外人が来たか」――バンギの市井に広がるロシア女性の笑顔を入り口に、独立以来クーデターと外国勢力の介入を繰り返してきた中央アフリカ共和国の歴史をたどる。志半ばに斃れた独立の父ボガンダ、そして今なお続く大国の影。微笑みの裏に何があるのか、現地の人々は誰よりもよく知っている。
    ***************************
I 中央アフリカ共和国
満面の笑み

画像の説明

 写真1は2023年11月26日のニューヨークタイムズから転写した。栗色の髪とミニスカートの女性が、満面の笑みを浮かべている。中央アフリカ共和国(以下、CAR)の首都バンギで撮影されたものだ。バンギはコンゴ河の支流であるウバンギ川岸の都市で、対岸はコンゴ民主共和国(DRC)だ(地図、外務省サイトから転写)。

画像の説明

 この微笑みの持ち主はロシア人で、ロシア語教室の一コマだ。ロシアン・ハウスと呼ばれるこの施設では、ロシア語のほか、裁縫などのライフスキルを学べ、無料で軽食も楽しめる。
 近年、アフリカの複数の国々でロシアの存在感が顕著だ。CARではワグネルの活動開始は2018年で、現政権は、これが治安維持に大きな貢献になったと評価している。2023年8月のワグネル指導者プリコジン死後も実態は変わらず、同国で活動するロシア人は1500~2000人と推定されている。そして、それは軍靴と銃器にとどまらず、ときには微笑みとお茶とお菓子という形で現れる。

大陸の真ん中、人口500万

 CARはアフリカ大陸中央部、623000平方メートル(日本の約1.7倍)の内陸国だ。人口533万人(2024年)で、主要産業は農業(綿花、コーヒー、タバコ)、林業(木材)、鉱工業(ダイヤモンド、金)だ。アフリカでは初、世界では二番めにビットコインを法定通貨とすると発表した(2022年4月)ことが話題になった(しかし、その後、制度運用は停滞)。
 1960年8月の独立以来、日本と外交関係にあるが、在京CAR大使館は1992年に、在CAR日本大使館は2005年に、それぞれ閉鎖されている(在カメルーン日本大使館が兼轄)。

貧しくて不安定

 2025年12月の選挙で、現職のフォースタン・アルカンジュ・トゥアデラ大統領の続投が決まった(2016年初当選)。選挙結果を報じる記事でBBCは、「CARは…資源は豊富だが、アフリカで最も貧しく、最も不安定な国の一つである」としている。
 これよりは控えめな外務省の記述でも「独立以来クーデターを繰り返してきた中央アフリカでは……政情は常に不安定であった。」とある。JETROは「中央アフリカ共和国は、1958年の独立宣言以降も紛争が続いてきた。ダイヤモンドやウランの産出国だが、人口の7割以上が国際貧困ライン以下の生活を送っている。」と書いている。

クーデター4回、憲法改定3回
表は外務省による略史だ。これを基に独立以降の主だった政治的事件を数えてみた。
 クーデターが4回(1966年1月、1979年9月、1981年9月、2003年3月)(赤線)、憲法停止・新憲法策定が3回(1986年11月、2004年12月、2015‐2016年)あったほか、武装勢力(イスラム系反政府勢力セレカ)の進出(2012年12月(諸都市占拠)、2013年3月(バンギ占拠))と体制転換(2013年8月)があった。このほか、未遂に終わった事件、国家機能をマヒさせた反乱やストも経験してきた。
画像の説明
外部勢力

 これまで武器を持ってCARに進出してきたのはワグネルにとどまらない。いくつかの資料をみたところ、国家主体としてはフランスのほか、ブルキナファソ、カメルーン、チャド、コンゴ・ブラザビル、赤道ギニア、ガボン、リビア、マリ、セネガル、トーゴ、ブルンジ、ルワンダの名が、非国家主体としてはDRC反政府勢力、ウガンダの神の抵抗軍の名が出てくる。多国籍部隊はAU(アフリカ連合)、ECCAS(中部アフリカ諸国経済共同体)、EU(欧州連合)、そしていまはUNが入っている。これらのほかに、武器の出所として中国、イランの名が挙がる。

II 歴史

ボカサ皇帝

 1966年、独立後最初のクーデターで政権をとって大統領に就任したのがジャン・ベデル・ボカサ参謀総長(Jean-Bédel Bokassa、1921年2月21日‐1996年11月3日)だ。彼は1977年、国名を中央アフリカ帝国、自らを皇帝と、それぞれ改称し、ナポレオン1世を模倣して、国力には不釣り合いなほど豪勢な戴冠式を挙行し話題になった(大統領在任1966‐1976、皇帝在任1977‐1979)(写真2、BBCから転写)。1979年のクーデターで失脚した。

2605Ohga 2 Bokassa
画像の説明

 同じころのアフリカの皇帝としては、エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝(在任1930‐1974年)の名が思い出される。クーデターで退位したという類似点はあるものの、エチオピアは歴史的に帝政であり、共和国から突如帝国へと改称されたCARとは性格が異なる。

独立前夜

 軍隊にいたボカサが政界に入るきっかけをつくったのが、独立運動の指導者で、叔父のバルテレミー・ボガンダ(Barthélemy Boganda、1910年4月4日-1959年3月29日)だ。ボカサはその独裁で知られる一方、ボガンダは、独立の前年、飛行機事故で、独立を見ずして亡くなったことは、どれほど知られているだろうか(写真3、ウィキペディアから転写)。
 植民地時代のCARはウバンギ・シャリと呼ばれ、コンゴ・ブラザビル、ガボン、チャドとともに、フランス領赤道アフリカを構成していた。第二次大戦直後の1946年、フランス第四共和政が成立すると、各植民地は本国議会に代表者を送ることが認められた。選挙を経て、ウバンギ・シャリを代表したのがボガンダだ。ボガンダは黒アフリカ社会進歩運動(MESAN、1949年結党)を結党し党首となった(註1、註2)。
 第五共和政下の1958年、各海外領土は、フランス共同体に参加するか独立するかを決める国民投票を行った。ウバンギ・シャリはフランス共同体に自治共和国として参加することを決定をし、ボガンダは首相に就任(在任1958年12月6日‐1959年3月29日)し、国名をCARとした。

(註1)これに対し、フランス領西アフリカは、モーリタニア、セネガル、フランス領スーダン(いまのマリ)、ギニア、象牙海岸、ニジェール、オートボルタ(いまのブルキナファソ)、ダホメ(いまのベナン)の8地域から成った。
(註2)このころ各地で政党がつくられ独立運動の母体となった。なかでもアフリカ民主連合(RDA、1946年10月結党、本部バマコ、総裁フェリックス・ウフェ・ボワニ(コートジボワール))は、いくつもの植民地をまたがった広域政党だった。ボガンダのMESANはこれとは一線を画した。

III 事故死

穏健だが危険

 ウィキペディアによると、ボガンダの父母は入植者の暴力と搾取が原因で早く亡くなり、フランス人ミッショナリーが孤児だった彼を養育した。学校では成績優秀で、バンギのほか、ランフュ(ベルギー・コンゴ)、ブラザビル、ヤウンデで学んだ。聖職者・教育者として働いていた彼に、1946年出馬と政界入りを強く勧めたのは、懇意のフランス人ミッショナリー(Marcel Grandin)だった。配偶者はフランス人(Michelle Jourdain)だ。
 かくて、彼はフランスのサポートがなければ、独り立ちして社会に出ていくことさえ困難だったような境遇にあった。同時に彼は、フランスの統治スタイルには、多くの同胞アフリカ人たちと同様に、反発と憤りを感じていた。これは、MESANの運動方針―フランスと良好な関係を保ち援助を受けつつも、天然資源や安い現地人労働力など利権を維持したがる入植者には改革を迫る―につながった。こうしてボガンダは穏健ではあったが、同時に、フランスに危険視される理由があった。

ラテン・アフリカ連邦構想

 1958年フランス共同体参加を決めたとき、ウバンギ・シャリからCARへと改称された。現行の国家名がここで生まれたわけだが、セントラル・アフリカ、つまりアフリカの中心という命名の裏には、赤道付近のいくつもの地域が一丸となる、連邦ビジョンがあった。内陸という地理的制約のため近隣との連携は不可欠だったし、ブラザビル、ヤウンデと地域をまたいで学んだ境遇が、幅広い洞察力と国際感覚を養ったのであろう。
 このビジョンはさらに大きなビジョン―赤道アフリカにとどまらず、ベルギー・コンゴ、ルワンダ、ブルンジ、アンゴラを視野に入れたラテン・アフリカ連邦構想―の一部だった。
 しかし、このような広域連邦構想は、統治するフランスにとっては、歓迎しづらいものだったであろう。

死因は未確定

 命を落とした飛行機事故は、選挙キャンペーンで地方都市(カメルーン国境寄りのBerbérati(ベルベラティ))から首都に帰還する、国内移動中に起きた。フランス情報機関の関与があったとする疑念がある一方、生命保険金目当てという、もっと個人的な事情だったという説もある。
 アンドレ・ブルアン(コンゴの1960年パトリス・ルムンバ内閣のプロトコール・チーフ)の証言によると、彼は生前、ほどなく白人に殺されるだろうと語っていたというが、死の真相はいまだに確定していない。

IV 微笑み返しながら

たっぷりの蜜

 第四共和政でアフリカ人代表が本国議会で議席を与えられたこと、第五共和政でフランス共同体に参加するかどうかの決定を各海外県の国民投票に委ねられたことは、フランス領の解放と民主化に決定的に重要な出来事だった。ただし、これはいわゆる西欧的な民主制―フランスがフランス革命以降200年の失敗と成功を積み重ねてつくってきたもの―であって、アフリカにそのまま馴染んだかどうかは別ものだろう。アフリカには、ヨーロッパ人が到来するはるか以前から、独自のコミュニティ運営の経験と知恵と方法があった。
 しかも難しいことには、自由と解放と民主主義という理想は誰の目にもバラ色で、それには経済援助という蜜がたっぷりとかけられていた。これでは、どんな社会も、少なからぬ混乱に陥ってしまう危険がある。

志半ば

 ボガンダら当時のアフリカ人指導者たちは、大なり小なり、そのような混乱の舵取りをするという立場に置かれた。なかには、殺害か事故死か自然死かの議論は別としても、志半ばにして退場していった者も少なからずいたにちがいない。
同時代、同地域での政治的要人の死には、ルーベン・ウム・ニョベ(カメルーン、1958年9月暗殺)、フェリックス・ムーミエ(カメルーン、1960年11月ジュネーブで毒殺)、シルヴァヌス・オリンポ(トーゴ、1963年1月殺害)、メフディ・ベン・バルカ(モロッコ、1965年、パリで失踪)があり、旧ベルギー領ではパトリス・ルムンバ(コンゴ、1961年1月暗殺)、ルイ・ルワガソレ(ブルンジ、1961年暗殺)、ピエール・ンゲンダンダムウェ(ブルンジ、1965年暗殺)、ポルトガル領ではエドゥアルド・モンドラーネ(モザンビーク、1969年爆殺)などがあった。国際的要人の飛行機事故では、ハマーショルド国連事務総長(1961年9月、北ローデシア)が思い起こされる。

誰よりもよく知っている

 市民が血を流し、家を追われる―政治が安定してさえいれば、避けられるであろう事件は、なぜ起きるのだろう。指導者たちが好戦的で、お互いのことが気に入らないと言ってケンカばかりしているからだろうか。
 冒頭に、ロシア女性の写真を紹介した。バンギの人々も、ついつられて微笑み返しているだろうが、なかには、「また外人が来たか」と心の中でつぶやきながら、警戒する人もいるのではないだろうか。世界で起きてきた内戦、武力紛争、政権転覆は、多くの場合、国内要因に加えて、外国勢力の影響もあったことを、彼らは誰よりもよく知っている。
 最後に、これを執筆する最中の2026年5月11、12日、ナイロビで、フランスとケニアの主催のAfrica Forward Summit 2026が開かれ、マクロン・フランス大統領出席の下、今後の経済関係などにつき意見が交わされた。英語圏アフリカで開かれた、本格的なフランス系アフリカ首脳会議としては初めてで、注目を集めた。

ナイロビ在住

(註)本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先の20稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)、(31)、(40)、(41)、(43)、(52)、(53)、(56)、(58)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号、11月号、2024年9-10月号、12月号、2025年9-10月号、12月号、2026年1月号、3月号)の続きである。先稿のリンクは末尾に示すとおり。

参考文献
JETROビジネス短信、2026年1月14日、「中央アフリカ共和国大統領選挙、トゥアデラ氏が3期目当選、主な野党は反対」
現代アフリカ地域研究センター、2024年6月19日、「今日のアフリカ―中央アフリカとロシア」武内進一
現代アフリカ地域研究センター2022年4月30日、「今日のアフリカ―中央アフリカのビットコイン法定通貨化」
New York Times, Battle for Influence Rages in Heart of Wagner’s Operations in Africa, 26 November 2023
BBC, Central African Republic profile – Timeline, 1 August 2018
BBC, Central African Republic president wins third term by landslide, 6 January 2026
高橋雅英、Wedge Online、 2023年10月11日、「フランスはなぜ、ニジェールから撤退したか」
増田悦佐、AGORA、2023年9月4日、「アフリカ戦線異状あり」
Andrée Blouin in collaboration with Jean MacKellar, My Country, Africa – Autobiography of the Black Pasionaria, Verso 2025

先稿リンク
オルタ広場94号(2026.3.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(58)未来の読者に語りかける㉑
オルタ広場93号(2026.1.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(56)女性たちの反国連デモ⑳
オルタ広場92号(2025.12.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(55)恐怖政治のなかの女性閣僚⑲
オルタ広場90号(2025.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(53)仕事より人間関係がつらいとき
オルタ広場89号(2025.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(52)平和ボケ⑰
オルタ広場80号(2024.12.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(43)やわらかな微笑のうら⑯
オルタ広場78号(2024.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(41)なかなか気づかないこと⑮
オルタ広場77号(2024.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(40)規格にはまらない⑭
オルタ広場67号(2023.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(31)用済みにされた英雄⑬
オルタ広場64号(2023.8.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(29)いちばんこわいこと⑫
オルタ広場63号(2023.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(28)思いやりは無用の長物⑪
オルタ広場61号(2023.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(27)国連をダメにしたくない⑩
オルタ広場60号(2023.4.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(26)武力をつかって平和を追求する}⑨
オルタ広場58号(2023.2.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(25)誰が問われているのか⑧
オルタ広場57号(2023.1.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(24)国連のきれいごと⑦
オルタ広場55号(2022.11.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(23)生涯感謝している―アフリカ大湖地域の雑草たち(23)⑥
オルタ広場54号(2022.10.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(22)お兄さんと弟―アフリカ大湖地域の雑草たち(22)⑤
オルタ広場53号(2022.9.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(21)相手の実力―アフリカ大湖地域の雑草たち(21)④]
オルタ広場51号(2022.7.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(19)国連職員のクライアント③
オルタ広場50号(2022.6.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(18)ベルギー統治時代のコンゴ②
オルタ広場49号(2022.5.20)【アフリカ大湖地域の雑草たち】(17)1960年の国連安保理①

(2026.5.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧