【追悼・西村徹先生】

エッセイスト、オクシモロン(臆子妄論)八十翁の誕生(1)''''―身近に接した西村徹先生(大阪女子大学名誉教授、英文学―

木村 寛


<目 次>
 はじめに
 一、出会い(~1970)― 西村先生の個人ビラ『石の叫び』と反公害住民運動
 二、オクシモロンと二重論理(富田和久京都大学名誉教授の「カオス論」)
 三、西村徹著『オーウェルあれこれ』(二回目)
   『一九八四年』へのエーリッヒ・フロムのあとがき
 四、キリスト教関係(C.S.ルイスなど)の翻訳者として(三回目)
 五、音楽マニア-多重性の世界(三回目)
 六、ドライブ行記録(四回目)
 おわりに
 あとがき

● はじめに

 Still I believe that at the beginning,  依然、私は信じる、初めに
 God made a world for each separate man, 神が一人一人のために
 and in that world, which is within us,  世界を造り給い、各自の内にある
 One should seek to live.         その世界の中で生きるべく模索すべきことを。
   オスカー・ワイルド『獄中記』1905序

 西村先生は『オルタ誌』の発刊にともない(2004年)、10年もの間、毎月エッセイを書き続けられた。八十歳近くなってから自らに課した活動であり、それは口からせっせと粘液を吐きながら(粘液は引っ張られると糸に変わる)、自分の繭を作る蚕に似ている。西村先生は戦中派としてエッセイを書くために生まれたのではなかったのか。

 ある時、私の好きなオスカー・ワイルドの『獄中記』の序、「獄屋の壁の向側には二三の貧弱な黒いすすで汚れた樹木があって、それがいまやほとんど鋭い芽を出そうとしている。私はこれらの樹木が今如何なる体験をなしつつあるかを知っている。彼らは表現を求めつつあるのである」に言及したら、西村先生が直ちにこの箇所を英語で暗唱されたのには驚いた。私はこの本(田部重治訳、角川文庫、1951)はワイルドの『キリスト教入門書』だと考えている。

 エッセイとは、誰にでも書ける「机上の空論」ではない。「生の体験」が発酵しながら「経験」へと純化されていく過程で生み出されていくその人独特のものだと思う。森有正が「体験」から「経験」へと問題提起していたことを思い出す(『森有正全集12』筑摩書房、1971、「経験と思想」)。発酵に何年かかるかわからない難問だってある。西村先生のエッセイはそれを証ししている。

 旧制一高教授の哲学者『三谷隆正の生と死』(新地書房、1989)には教え子の一人である富田和久先生が三谷からの宿題に対して、50年後の回答を書いておられる。
 白か黒か?、私たちは性急にそれを問いたがる。しかし現実はいろんなトーンのネズミ色の世界だから、そもそもそういう問いは成立しない。現実はオクシモロン状態であり、その中からいくつものオクシモロンを取り出すことのできるいわばアモルファス(無定形)状態なのだと思う。

 西村先生の家は隣の船尾村の南はずれにあり、海に近い西側の隣村(浜寺公園も近い)は私の母の里であった。よく散歩されて、堺市の弥生時代の遺跡で有名なやや高台にある四ツ池(縄文末期の土器底に籾殻の跡が発見されている)とその南にある浜寺中学校の間の車の通らない、人もほとんど通らない散歩道を通っておられた。この道からは北側に遠くの六甲山脈が見え、東側には1,000メートルを超える金剛山と大和葛城山が大きく見える。この池側には槐(ニセアカシア)の並木が続き、春には香りのある豆科のクリーム色の花が咲いた。その後は道一面が落花に覆われる。

 私はなぜか、ギッシング晩年のエッセイ『Private papers of Henry Ryecroft』(1903、高校時代の教科書)の春の終わりにある、Walking in a favorite lane today, I found it covered with shed blossoms of howthorn, creamy white, fragrant even in ruin, lay scattered the glory of May を思い起こす。「今日好きな小径をたどっていると、そこにホーソンの乳白色の落花が一面に散っていて、落ちてもなお芳香馥郁、五月の栄華は散り盛る」というところだろうか。

 その後は小栗(熊野)街道、府道13号和泉信達線を横切り、石津川(江戸時代、晒業で栄えた)を渡るとJR阪和線の津久野(本来はつく尾)駅前に出て(多分10分程度)、そこには天牛という均一値販売の古本が四日間で入れ代わるチェーン店があり、たびたび西村先生とその店先でお会いすることがあった。本好きな先生がいろんな古本を撫でておられた印象が残る。ある時家で本の紙面を撫でて、活字の跡の残る紙面の凹凸を指摘されたことがある。触ると確かにデコボコだった。

 たまには我が家にも立ち寄られ、屋根裏(戦前の府道拡張にともなう移築後80年近い16畳の私の居場所)の掘りこたつに入られると、「まるで母の胎内に戻ったような・・・」と言われた。この屋根裏は定年後、梁をむき出しにしてリフォームするのに一人で二カ月かかった。

● 出会い(~1970)― 西村先生の個人ビラ『石の叫び』と反公害住民運動

 当時、英車ヒルマン・ミンクスに乗っておられた。フランス車ルノーよりも頑丈な車で、私は弟のヒルマンに乗せてもらったことがある。「静かないい車だったが、ブレーキの効きがやや悪かった」というのが弟の話。この車で当時の悪い、危険な木津川沿いの道を何度も郷里の伊賀上野まで走られたそうである。イギリス留学をされたから、ヒルマンはなじみの車だったかもしれない。エジンバラでは冬、「寒くて死にそうだ」と大学関係者に訴えたと聞いたことがある。寒い所の人間ほど体が大きい(体重当たりの表面積は小さくなる)。手元に西村先生が拾ってこられたクラモンド海岸の石があり、グリーンの粘板岩である。

 私の村中まで個人ビラ『石の叫び』を配布されていた。「石の叫び」とは新約聖書のルカ福音書にあるイエスの都入物語で(19-40)、パリサイ人たちがイエスに「先生、あなたの弟子をおしかり下さい」と言ったのに対して、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」とイエスが答えた話である。

 私は地元人間として素知らぬ顔をする気もなかったので、ちょうど車の免許を取った頃で「猫の手」として、金物屋の叔父からもらったポンコツの軽四荷物車スバル・サンバーにスピーカーをとりつけ、車体には「反公害堺泉北連絡会」とカラーテープを張り、休日に乗り回していた。西村先生のすごくシャープなニコンのレンズで撮ってもらったこの車の写真がわが家にある。西村先生は四十代半ば、私は二十代半ばであった。

 連絡会はいろんな組織の合同組織で、ゼネ石精労組の故小野木祥之さんも居た。三一書房から横山さんと本を出された(『コンビナート労働者の告発』)頃だと思うが、小野木さんが私には巨人に見えたし、彼らの雑誌『指』もよくわからなかった。地元浜寺の人たちの活動についてはほとんど知らないが、彼らなりの独自活動も共存していた。反公害運動が全国に巻き起こっていた頃で、光化学スモッグもあちこちで起き、これから先どうなるかと心配された頃であった。理屈などどうでも良かった、とにかく海近くのコンビナートの公害を止めないと、人間が生きていけなくなるではないかという思いであった。会合場所は日本キリスト教団鳳教会だったと思う。

 一度、三井東圧かどこかの会社の技術屋たちとの席上で、西村先生がものすごく立腹されたことがあり驚いたことがある。和文タイプライターを持っていた家内はたまに公文書を作る手伝いをすることがあった。

 1970年代の西村先生の(共)訳書として、ミキス・テオドラキスの『抵抗の日記』(河出書房新社、1975)がある。これはギリシャの政治運動がテーマであり、共訳者は杉村昌昭である。

 もう一点、一人で訳されたホロウィツの力作『帝国主義と革命の時代』柘植書房、1976(Imperialism and Revolution, 1969)がある。297頁の大作で索引つき、最後には本多健吉、杉村昌昭との鼎談が掲載されている。

 西村先生の訳者あとがきには
 「我が国でヨーロッパ、特に西欧の文学を研究する人たちにほぼ共通して見られるものに、政治状況とキリスト教的背景、とりわけ前者についての認識の弱さ、さらにはそれらを排除しさえしようとする傾向がある。・・・少なくとも今世紀の文学を扱う人ならば、この本に記されている程度の政治に関わるグローバルな歴史認識はあってもいいのではないかと考えたのがこれを翻訳した理由の一つである。・・・

 マルクスがプロレタリア独裁を発想し、かつ探りあてたのはブルジョア独裁というものがいかに変幻自在な姿はとりつつも、いかに隅々まで貫徹されているかを思い知った上でのことであったはずである。・・・その本質が独裁であると見抜くのは驚くべき先見であり洞察であったと思われる。このブルジョア独裁に自らを対置せしめ、これを確認し、階級独裁を廃棄する、いわば自殺をもって終わるべき過渡期の権力形態として構想されたのがプロレタリア独裁というものであったとすると、民主的独裁という造語のゆえにこそいやが上にも印象強烈なこの言葉のスペクトルは、まさに詩の言語のそれであったと言えよう。概念の混乱ではなくて矛盾の統合によって詩の言語が放つ光芒の、その眩しさに立ちすくんで右往左往してみてもいっこうにらちは明かないのではなかろうか。・・・

 ドクをもってドクを制しようというのに、こちらのドクを抜いたら向こうのドクも消えるのだろうか。地域エゴのどこが悪いとひらきなおることによって、逆に公共性の欺瞞を白日の下にさらすことはできたはずである。」
とある。

 みごとに「民主的独裁」というオクシモロンが1970年代に既に指摘されている。
 1970年代が自分たち若者にとって持った意義とは、「良い子意識からの脱出」ではなかったかと思う。あちこちで住民運動や新左翼の労働組合運動などが起きた。新約聖書の『ヨハネ伝』の中に、人目をはばかって夜、イエスを訪ねるパリサイ人の指導者ニコデモの話がある(3-1~21)。イエスの死後、彼は公然と姿を表す(19-39)。

● 二、オクシモロンと二重論理(富田和久京都大学名誉教授の「カオス論」)

 オクシモロンとは前の言葉と後ろの言葉の結合が矛盾をかかえた合成語である。以前、「オルタのこだま」に「オクシモロンについてもっと議論しよう」と投稿した。一、オクシモロンとは何か? 二、不連続な連続、三、主観的意図と客観的成果の乖離、四、結論であり、これは西村先生宅に反公害住民運動の取材をされていた毎日新聞の山口安昭元記者から教えられた。英和辞典では「残酷な親切」が例としてあがっている。

 私の体験で思い出す「残酷な親切」が一つある。中学校時代、三年生になると、進学組と就職組に分けられ、就職組には英語の授業がなかった。中卒で就職するわけだから、できるだけ会社に一日でも早くなじめるようにという親心からだったのだろう。私は就職組に居たので、英語の授業は1年間、抜け落ちている。後から考えてみると、高卒資格の必要な職業がいくつもあり、同級生たちは定時制高校に進学したわけだから、1年間の英語授業の欠落がその後にどれほどのハンディを背負わせることになったか、私は今でもこの方針は大きな間違いであったと思っている。束の間の親切が長い残酷を引き起こしたと言えるからである。

 「科学的・社会主義」、これは西村先生のような戦中世代を長年悩ませた大きなオクシモロンであったのではないか。科学的がその保証を与えるというのだが、「科学的・占い」同様、「何が科学的か?」を議論し始めると、終始がつかなくなる。歴史に科学的保証などあるのか?

 西村先生はオクシモロンこそが我々の現実把握の根底にあると喝破されていたわけであるが、私には別の言い方をすれば、「排中律が成立しない」ことを指摘されたのだと思う。要するに哲学用語の排中律は、「白か、黒か?(あるいはお前が間違っているか、俺が間違っているか?)を問うもので、「真ん中のネズミ色の世界は存在しない」と大胆に切って捨てる二分思考方式である。長年生きてきた人間にとっては、そんなに単純な思考で現実が割り切れるとは思えないし、いろんなトーンのネズミ色の世界が広がっているわけだから、「排中律の呪縛から解放される」ことが私たちの自由を確立する上での必要不可欠な条件なのだと思う。

 私はこの問題を、退官記念講演(1984)で『カオスの意義』を話されたカオス研究者富田和久京都大学名誉教授(理学部)の著作集(刊行会、1993)未収録論文から最近学んだ。これはノーベル化学賞を1977年に受賞したイリヤ・プリゴジン教授(ベルギー自由大学)の七十歳の誕生日記念に献呈された論文(私訳「量子論とカオスの描像における共役ペア」(1987)である。そこで小冊子『XAOΣ』-a dual logic、富田和久著、木村寛訳、を発行し、その中に富田和久先生の国際学会予稿(1990、私訳、「カオス―人間理解のための一つの力学的基礎」と私の特別付録「量子論の哲学的地平―ハイゼンベルクとバシュラール」、未発表)を収めた。この小冊子は全国の理工系大学約230校の図書館に富田先生の没後25年記念として寄贈した。

 ハイゼンベルクの『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房(1974)は20刷り以上を重ねた名著であるが、その10章は「量子力学とカント哲学」であり、量子力学がかかえるプロトカオス的問題に対してカント哲学のグレーテ・ヘルマン女史の挑む話が紹介されており、両者がなんともはっきりしない引き分けに終わった顛末が紹介されている。富田先生の論文は「カオスの記述には二重論理が必要である」という主張で、分子カオスと巨視カオスには二重論理が成立することから、量子論の世界をプロトカオスと位置付けることにより、二重論理が量子論の世界でも成立すると大胆に打ち出されたものである。この二重論理は並立する二本足のものではなく、「入れ子」の構造を持っている。

 二重論理すなわち保存論理(Conservation logic)と明確度論理(Articulation logic)のペアは分子カオスの世界では、熱力学第一法則(エネルギーは保存される)と第二法則(エントロピー(ちらかり度)は増加する、エネルギーは使える自由エネルギーと使えないエネルギー(エントロピー)に分かれる)というもので、第一法則は永久機関が成立すると主張するように思われるが、第二法則はそれを否定する。巨視カオス(日常世界)では決定論が保存論理で大枠を決めるが、大枠の内部ではカオス論が明確度論理であり、予測不可能な非周期的振動が支配する。決定論的カオスとはオクシモロンであり、天気予報が合うのは決定論により、外れるのはカオスによるのである。

 量子論ではハイゼンベルクの不確定性原理が保存論理であり、シュレディンガーの波動方程式が明確度論理だと主張されている。こういう説明から敷延すれば、明確度論理は保存論理の「核」とでも言うべきものであろう。

 西村先生の共訳本(岡照雄、峰谷明雄)『バージェスの文学史』(人文書院、1982、「作家と作品」索引つき、586頁の力作)の冒頭にエントロピーに関してバージェスのおもしろい話が出てくる。

 アメリカ・ヘリテジ辞典で二つの専門的な定義を引用した後、「おわかりだろうか。私にもわからない。万物は朽ち衰える。進歩はない。希望もないということらしい。ヘンリー・アダムスはアメリカに安定を求めて見いだせなかった人だ。アメリカという機構はエントロピーの途上にあった。・・・「科学は我々を破滅に導く」とアダムスは語っている。このペシミズムが影響を与えてきた。しかし他の作家も、熱力学第二法則を持ち出すまでもなく、近代のアメリカに文化、文明の希望など無いことは身にしみて知っていた」(20-21頁、西村訳)。

 もちろん、二重論理の話は自然科学世界の消息ではあるが、これを敷延して人間界の問題にまで二重論理を持ち込むこともあながち間違いではないような印象が私にはある。たとえば1945.8.15を終戦ととらえるか、敗戦ととらえるかで意見が分かれるのだが、大局的には終戦であったことは間違いないし(天皇制は象徴天皇制として温存された)、日常世界では敗戦であった(国民主権の『新日本国憲法』が誕生した)ことも事実である。どちらが正しいかの議論は不毛でしかないように思うし、どちらも一面では正しいとしか言えない。

 自由は英語では Freedom と Liverty(制約からの自由)に分かれるとおもうのだが、後者は明確度論理であろう。私にはアメリカ独立前のパトリック・ヘンリーの演説、Give me Liverty or give me death(我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ)が忘れられないものとしてある。日本語の自由という単語一つでこの二重性を理解できるのだろうか?
 藤田若雄の「誓約集団論」(『革新の原点とは何か』三一書房、1971)は明確度論理だととらえるとなにもかもがはっきりする気がする。

 イギリス生まれのキリスト教の一派、クエーカー派は戦争に行くことを拒否して約400年続いてきたわけであるが、これこそ国家に対する明確度論理だとしてとらえないと理解できない。

 西村先生からクエーカー派の集会に参加された時の話をうかがったことがある。みんなお互いに手をつないで、30分ほど無言のまま、じっと座っていたとのことであった。こんな形の集会があるのかと思った。

 内村鑑三の「無教会主義」は教会に対する明確度論理であろうが(教会の外でもキリスト教は存在しうる、塚本虎二は「教会の外に救いあり」と言う)、明治の絶対天皇制に対して徴兵拒否あるいは兵役拒否を打ち出し得なかった。すなわち、クエーカー派のようにこの世の政治体制に対しての明確度論理を持てなかったから、戦時下では世の中の変化にズルズル流されていく危険性を持ったのではないか?

 それはなぜかを考察したのが藤田若雄編著『内村鑑三を継承した人たち』上・下(木鐸社、1977)であると思うが、無教会陣営の中でたくさんの批判があったそうである。しかし自分自身排中律に呪縛されたままでこの本を批判したのでは風車に突っ掛かったドン・キホーテとどこが違うのであろう。1970年代の無教会討論会で冷静な藤田若雄(矢内原忠雄門下)に対して、旧約学者関根正雄(塚本虎二門下)が真っ赤になって興奮していたことを思い出す。興奮したのでは後の討論が続かないではないか。対話とは興奮を土台にして行われるものではなく、興奮を除外した土俵の上で行われるべきものだと私は思う。

 藤田若雄の見方では、無教会はゼクテではなかったから、兵役拒否を打ち出せなかったという話が出てくる(藤田若雄が語る『労働運動と無教会キリスト教』下澤悦夫・若木高善・大河原礼三編、木鐸社、2016、第二部キリスト教社会思想の探求)。

 私は明治の絶対天皇制は一神教と全く同じ論理構造を持っていた(論理構造の中心に神が居るか、天皇が居るか)と考えているが、そうであるが故に明治期のキリスト者たちは天皇制に対して親近感を抱いたのではなかろうか。しかしこういう視点の本にはお目にかかったことがない。明治初年の廃仏毀釈はまさに一神教にとって邪魔なものを廃棄しようとしたとしか考えられない。廃仏毀釈は戦時下でもう一度現れるとは仏教者の証言である(宮坂宥勝『日本仏教のあゆみ』大法輪閣、1979、改訂新版2010)。

 要するに、現実をオクシモロンととらえるか、それとも二重論理(保存論理と明確度論理)でいくらかでも明確にしようと考えるか、二つのアプローチの方法があるのではないだろうか。前者は文学的(詩的)、後者は自然科学的であると言えようか。こう考えると私の中で西村徹先生(1926年生まれ)と富田和久先生(1920年生まれ)とがつながる。

 (堺市在住・理学博士)

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