【コラム】あなたの近くの外国人(裏話)(81)
カシミール及びラダックとパンジャブの話し
0-1.1988年にカシミールへ行ったときの思い出[地図]
まずは私事から始めたい。英語で見にくいが日本語のわかりやすい地図をみつけられないので。次回は生成AIに作ってもらおうかと思う。地図がないとわからない内容なのでこれでなんとかご理解いただきたい。
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Wikipedia India-Pakistan relationsより
0-2.カシミールへ行った。チャンディガールを通った
私がヒマチャル(Himachal)州ダラムサラのナムギェル学堂(ダライ・ラマ法王猊下のご自坊)で経頭に師事して仏教を勉強していた頃のことである。法王猊下がザンスカール(現ラダック州奥地)で大きな法要を催した。「カーラチャクラ(時輪)タントラ」というインド仏教滅亡最期の信仰である。この経典はインド・タントラやイスラム天文学との融合なので難解極まりない。世界宗教哲学・科学の大集成といえよう。しかし、この法要は一般信者にはわかりやすい法話すなわち解説を与え、高僧には今後の学業・修行への引導を与える重要な法要である。いわゆる「潅頂」の儀式ではあるが、同時に「結縁(けちえん)」[初心者]と修行が終わった卒業式のような儀式を与え、集まった信者には平等な空間で、この法要に参加することができる。14世法王までは生涯1度の法要であったが、現法王猊下は34回、インドを中心に世界各地で行われている。私は11回目1985年のブッダガヤで初参加。12回目1988年は2度目だった。それ以降は都合をつけることが難しかった。
さて、1986年1988年にデリーからチャンディガールを経てヒマチャル州に向かったときのこと。ヒマチャル州からジャンムー、カシミー・スリナガル、当時国境のカリギル、ラダック・レーを往復した時の印象と記憶について述べたい。
0-3.チャンディガールの記憶
1986年、ネパール・チベットに向かってダラムサラからデリー行きの夜行バスに乗った。この時バスが20分遅れた。それが良かった。私はいつも悪運に強い。チャンディガールの商店街でテロリストによる爆破があったそうだ。バスが定刻に着いていたら私はこの世にいない。1988年、やはり夜行バス。チャンディガールで検問があった。ライフルを担いだ警察が2人、手荷物をチェックして廻った。すると外国人観光客のバッグから庖丁が出てきた。「クッキング、クッキング」(カタカナ英語)と、ありゃ日本人。ああ、インドの庖丁は細いストレートナイフかカーブがある。日本人には使いにくいから持ち込んだんだ!インドに表面的に慣れていてストリートで見かけた庖丁では自炊ができないからだろうか。中期滞在の人なんだろう。チャンディガール(当時はパンジャブ州/現在は連邦直轄地)ここから以北が紛争・戦争の火種がくすぶっていることが肌で感じた経験だった。
0-4.ダラムサラからジャンムーへ北上
1988年、日本人言語学者のかたがジャンムー経由スリナガルまでのタクシーをチャーターしてくださり、日本人のほかのかたと一緒に同乗させていただいた。言語学者さんは科研費が出ているので遠慮はしなかった。当時の国産車アンバサダー号で移動を始めたが途中台風に見舞われ大洪水になった。しかし慣れたものだった。行けるところまで車で進むと車を乗せる丸木舟が待っていた。そのまま向こう岸?まで渡っていったのだった。災害に備えた副業を持っている人たちの存在を知った(数年前にパキスタンで大洪水があったときこんな様子は現地メディアから見ることができなかった。隣の国なのに同じ発想がないのが不思議だなと思ったのであった)。ジャンムーで1泊。ホテルのレストランで当時は珍しく冷蔵庫から出したビールを飲んで疲れを癒した。翌朝タクシーでスリナガルに向かった。道路案内標識の言語がパンジャブ語が消えたと思ったらウルドゥ語の並列になったので元から州が別のような印象があった。
0-5.スリナガル、カルギル、レー、ザンスカール
スリナガルではハウスボートに泊まった。ストリートで羊のレバーカレーや羊の脳みそを食べた。後で知ったが、これらはインド料理ではなくパキスタン料理のカテゴリーだった。街の様子や道行く人々を見ると、シャルワールカミース(チュニックとズボン)+ショールを纏った男性、ヒジャブを被った女性が穏やかに歩いていた。イスラム教徒が多いのを改めて認識した。小さなテロ事件はあったのだろうが印パ国境紛争が小休止していた頃だった。2泊目の朝、ホテルのお兄さんがトラックをヒッチハイクしてくれた。これもまたトラック運転手の副業だった。トラック運転手は教育が高そうには見えなかったが普通の言葉で刹那滅、諸行無常などインド哲学のような話しをしてくれた。楽しい道中だった。
休憩したカルギルではチベット語系言語を話すイスラムの白い帽子を被った男の人たちがお茶していた。少し外を散歩したら国境ポイントみたいなところがあって”Marching India”と書かれた軍人ポスターが貼られていたのを見て一瞬全身が冷えた。国境とは思えないほど同じ光景で、おそらくは正式な国境ではなく、さりげなく両国から出入りしているのではないかと思われる。道行く人たちの姿も同じで気さくに声もかけてくれた。普通の人たちを見るとテロも紛争戦争も別世界だった。この11年後に戦場となったことに驚き”Marching India”ポスターが脳裏から目の前に現れたくらいだった。
話しは飛んでレーからザンスカールまでは公共バスで向かった。言語学者さんはここから別れ、どなたかの共同研究者さんとチャーターの空路を選んでいた。バスから軍隊駐屯地が見えて怖いと思った。夜になり警察署の人たちがバスから全員降りて野宿するように言われた。私は野宿のほうが怖くて、そして警察の人は私だけ交番?の中に泊めさせてくれた。あとで同乗のチベット人から聞いた話しだとバスの夜間走行やバス泊はテロリストの爆破の標的になるので危険だからバスから離れて野宿することになっているポイントなのだそうだ。そして大回りの経路で目的地ザンスカールに着いたのだった。さて、なぜ大回りの経路と述べたのかというと、実はダラムサラから1回ヒマチャル州で乗り換えてラホールスピティ地域を通る真っ直ぐな経路のバスがあるのだが、中国との係争地であったため、外国人はこの経路のバスは予約の段階で断られていたのだそうだ。しかし、時期によってはこのバスに乗れたがスリナガルに入れない時期もあった。広い意味でのカシミールとラダックはパキスタン・インド・中国とテロリストの勢力で危険地帯が動くのである。現在のインド連邦直轄は北部の国境、海沿い(国境)、国防戦略の要地である。
1.[解説]パンジャブとカシミール周辺
ご存知のようにパキスタンがインドから独立した時、それぞれ領有権を分けることになって今日に至った。パンジャブは「5つの川」であるが分離してもインダス川の支流であるので同じ川でも双方は5つとなる。学校ではモヘンジョダロもハラッパーも「インド」と習うがインダス文明は現在パキスタン領である。かつては領土だけでなくモヘンジョダロの出土品も印パ+英国で取り合ったこともある。1970、80年代にインド・パキスタンを旅行された方々の話ではパキスタン側のほうが豊かな農地であったという印象があったそうだ。カシミールは藩王がヒンドゥ教で住民はほとんどイスラム教徒だったというのは知られていることである。分離前・後、数回の紛争でイスラム教徒はパキスタン側へヒンドゥ教徒はインド側に逃れたとはいえ、インド側でも依然多くはイスラム教徒だ。
一旦話しは飛ぶ。モディ首相が就任してから10年を超えるが、日本に送る歌舞団に国境付近の民族の公演が増えている。2017年だったと記憶しているがインド大使館でカシミール歌舞団の公演があった。その時、音楽や演劇、舞踊を楽しむのでははく、この公演の裏意図が怖くなった。劇はカシミールのアニミズム伝説とヒンドゥ教の融合、ナヴラートリ(ヒンドゥ教女神の祭り)の舞踊、カシミール語のイスラム詠唱など怖いくらい領有権の主張の道具になっていた。ラダック(中国接触)マニプリ(バングラデシュ/ミャンマー接触)アルナチャル(中国接触)の歌舞団の公演が楽しむより悲しかった。ラダックの場合は「ナマステインディア」のステージだったし、チベット語で話したり歌ったりできたから政治的な意図を忘れられたが。ところが大阪万博はバラエティに富んだ各地・各時代様式で多様性を強調していると感じる。モディ政権のダブルフェイスの象徴ともいえよう。私の周囲のインド人は「モディさん、いい政策が多いけど余計なことし過ぎ。コロナ・ロックダウンでモスクにお祈りに集まった人たちにひどい目にあわせたのに、ワーラナスィーも沐浴で集まった人はそのままだったからそこから感染が広がったし、イスラム寺院跡地にラーマのお寺造るし、ヒンディ語を公用語にするし、いままでスポーツのためにバーラタを国名に出し過ぎる(大阪万博のバーラタ)」主に南のノンヴェジタリアン・ヒンドゥ教からの声だ。北や中部のイスラム教は間違いなく嫌っている。ただしコロナ・ロックダウン前の衛生・環境政策はいいと言う。冷静な人は「政権長すぎ」としか言わない。
話しは戻る。カシミール・ラダック、印パだけでなく、ウイグル自治区カシュガル、チベット自治区ンガリ県南部アクサイチンはパキスタンが1964年に中国に売った(割譲)。パキスタン領のギルギット・バルティスタンは宗教はイスラムだが言語・風習はチベット文化圏である。チベット本土で失われた文化を踏襲している。バルティの人たちは「ラダックとは違う」という。ラダック人は半分仏教・半分イスラムだが対立もなく信仰のしかたも似ている。カシミール全体自体、国境を取り外せば広大な地域であり、同じ民族であっても多様なのだ。
2.[再掲]+加筆 ◆パキスタン国籍「ムハージル」
オーナーや従業員も含まれるが、パキスタン国籍であっても祖父母がインドからパキスタンに渡った「ムハージル」も多い。「ムハージル」は第二次世界大戦後、インド領から独立したパキスタン領に移住した人たちの総称だ。新宿のパトワールの店長カリークさんはスリナガル出身だが親の手に引かれてパキスタンに渡った。「子どものころ怖い思いをしたのでインドはよく思っていない※」と言った。
※嫌いとか悪いではなく「よく思っていない」という日本語力が素晴らしい。
ナワブ・オーナーのシャキール・カーンさんもまた「ムハージル」である。彼の場合、インドの親戚筋から食材やスパイスを輸入するなど怨恨を感じていないようである。テレビ番組のインタビューでもそれを語っていた。しかし、現パキスタン領からインド領に移住した人たちへの総称はない。
【コラム】あなたの近くの外国人(裏話)(55)「カレー屋さん」たち(4)
https://www.alter-magazine.jp/index.php?go=4mXkaH
[加筆]パキスタンの専門家は「『私はパキスタン人』と言うのはパンジャブとカシミールの一部とムハージルだけ。パキスタン国民の多くは州名だったり部族名だったり言語名だったりするんですよ」とおっしゃった。ああそういえば「パシュトゥン」と自称するハイバル・ハフトゥーンハー州出身、「プリク」(チベット族)を名乗るバルティ語話者たち。パキスタンという国自体、分離独立以降だから歴史が浅い。国家より歴史が長い部族の帰属が強い人たちがいて当然だ。国家の法律より部族の掟を上に置く人たちがいて当然だ。国粋主義・愛国心が強い国民性だと在留パキスタン人やメディアで感じていたが、インドから逃れた・インド領から外れた土地で育った人たちの強い思いと部族主義の人たちの教化も含まれていたんだと気づいた。
3-1. インド出身を残す人
まず、リシ・スナク前英国首相。彼は「インド系」とされているが祖父はパキスタン領出身。イスラム教徒ではない。分離独立前に出国していて英国人である。英国籍で印パバングラ出身者は世界中に大勢いる。また日本であれば、現パキスタン領シンド州出身ゾロアスター教徒の貿易商が明治時代から横浜・神戸に定着している。彼らの子孫たちの国籍は日本・英国・インドとなるのであろうがパキスタン籍は一度もきいたことがない。
3-2.ムハージル/パキスタンからインドの元難民
ムハージル。身近に多いことに驚いた。祖父母または親が故郷を離れて見知らぬ土地で生活しているのだから、日本や他国で生活することなど問題にしないんだろうと感じる。そしてカシミール・パンジャブ以外はデリー出身者が多い。デリー出身者の多くは祖父が軍人の「カーン」さんだ。分離独立でクビになったのか、離れざるを得ない理由があったのか、手を引かれて逃げた息子世代は小さすぎてわからないようだし、孫となれば恨みばかりをきいているので本当の事情は不明だ。「カーン」さんのほとんどはカラチに住民票を置く。弟みたいな60歳前後(アラカン)は本人がおじいさん・おばあさんに手を引かれてパキスタンにたどり着いた経験がある。分離独立以降の紛争・戦争で逃れた家族もある。
孫の世代でパキスタン・シアルコート生まれの教え子はチャンティガールがルーツで社会科の教科書にカーヴァ神殿の写真が載っていて怒った。イスラム教徒にとって不敬だと感じたようだ。彼の祖父がイスラム至上主義なんだろうな。その割にはウソつき。神様にだけ正直であればいいのかも。事実、この子が育ったシアルコートはフェイクの爆撃だの放火だの多すぎ。慣れているようで他の子も「ああ、そうね」くらい。そのほかにもウソをつくことが慣れ過ぎている。本人もウソをついていると気づかないほどだ。
孫の世代でパキスタン・カラチ生まれの教え子は日本で暮らしていけるようには思えない発言をした。「先生、パキスタン、すごいんだよ!!核爆弾持っているからね。日本にはないでしょ?」これをニコニコ笑いながら自慢げに話した。
彼らは自国の歴史が1947年からだから、もっと過去を知ったり考えたりする教育経験がなかったんだろう。インダス文明から始まった歴史教育。イスラム以前の宗教。中等教育を終了するまでに知ってほしい自国の文化があるんだけど。加えてヴェディック数学(インド数学)、大学出ているパキスタン人が指を折って数えていた。インドだとそこらへんの個人商店で税金込みで暗算だったんだけど。インドとパキスタンで差が出たのはインドは塾、パキスタンは留学頼み。教育なんとかしないと。これはパキスタンだけでなく世界で平和教育しないと。
3-3.パキスタン領からインド ラビンダー・マリク博士
マリクという名前からずっとパキスタン領出身インド人だろうと思っていた。だが、みなさん「それは失礼だよ」と言った。後日、ご本人がパキスタン領からインドに逃れたことを「失礼」と私におっしゃったかたから確認した。そしてそれに気づいていた私にずっとお気遣いいただいていた。
https://tsunagaru-india.com/info/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%84%E3%81%BF%E3%80%80%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AF%EF%BC%88rabinder-malik%EF%BC%89%E5%8D%9A%E5%A3%AB/
4.今回の戦争:空路問題
帰国したい、印パを経路で中東に行きたい。私自身も業務に影響があるので早く解決してほしい。
5.今回の停戦:在留パキスタン人
いつもの通り目立ちたがり在留パキスタン人が、停戦はパキスタンの勝利とばかりにメディアに友達の在留パキスタンたちとともに「パーキスタン、ズィンダーバード」=パキスタン万歳。ああ!この停戦はパキスタンが勝ったって思っているんだろう。両国、核保有国だから、適度に止めないと!今回の戦争は双方続けたくなかったんだろう。停戦は永久だろう。たまにテロリストがなにかやらなければ。
(2025.5.20)
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