【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

コロナ禍のインドでは丁寧に弔われない死が増えている

荒木 重雄

 インドの新型コロナウイルス禍は驚異的であった。4月から5月にかけては、一日の新規感染者がときに40万人を超え、死者も日に4千人に迫る勢いで、病床の絶対的不足に加え、医療用酸素や薬品の供給が追いつかず、文字どおり「医療崩壊」した悲惨な状況がつづいていた。

 急拡大の原因としては、感染力が強くワクチンが効きにくい変異株の発生に加え、各地で催されたヒンドゥー教の宗教行事での人の密集が指摘された。

 その一つは、ガンジス川沿いの聖地ハリドワールでおこなわれた「クンブメーラ」という祭りである。各地から数百万におよぶ巡礼者が集まり、マスクもつけず芋洗い状態で川の水に身を浸し、罪を拭った。罪は拭ったが大規模な感染をもたらした。
 ヒンドゥー至上主義を掲げる現政権が、予防措置を講じなかったばかりか、むしろ、支持基盤であるヒンドゥー教徒を大量動員して盛り上げ、煽った、と野党は批判した。

 メディアを騒がす争点となったものばかりでなく、3月は祭りの季節。チェンナイのカパレーシュワラ寺院の祭りには巨大な山車の周りに数百万の信者が参集し、全国で祝われる「ホーリー」祭では、人々は互いに色水や色の粉をかけあってはしゃぎまわった。

 だが感染源は祭りだけではない。狭い空間に家族が折り重なるように寝起きし、水にもトイレにも不便している大多数の庶民の生活状態こそが、一番の感染源である。

 ◆ 河原で火葬されてこそ天界へ

 前置きが長くなったが、今号では、インドで多数派を占めるヒンドゥー教徒の死の儀礼についてその一端を記そう。というのは、テレビのニュースなどで、「死者があまりに多いので、火葬が間に合わず、屋外や河原で遺体を焼いている」という類のコメントを聞いたからである。

 都市の一部には建屋式の火葬施設も新設されるようになったとも聞くが、ヒンドゥー教徒にとっては、露天、とりわけ河原や池畔での火葬が原則である。なぜなら、死者の霊魂は荼毘の煙に乗って天に赴き、遺灰は水によって浄められるからである。
 筆者が間近に見た荼毘の一情景を記そう。

 白い布にくるまれて担架に結わえられた遺骸が、男たちの肩に担われてやってくる。河原に組み上げられた薪の上に、屍衣のまま載せられる。コトンと音がしそうな乾涸びた肉体。
 頭を剃った半裸の男(喪主。長男の場合が多い)を先頭に、遺族がその周りを回りながら、賛歌を唱え、トゥルシー(聖樹の一種)の葉をふりかける。
 傍らの樹の下には、額を聖粉で赤く塗り黒衣を纏った恐ろしげなバラモン(僧)が坐っていて、彼はただ黙って、頭蓋骨の碗から酒を呑み、豆や青唐辛子を齧り、チラム(大麻吸引具)を燻らしている。その間、二人の男が、バラモンの後ろで激しく太鼓を叩き続けている。

 薪に火がつけられる。屍衣が焼け落ちて、薪の間から二本の足がニョッキリつき出る。足の裏が茶色から黒く変わっていくのが分かる。腰布をたくしあげた半裸の男(ドームという火葬を業とする最下層カースト)が、棕櫚の団扇で火を煽いでいる。遺骸から黒い液がしたたる。
 3時間もたっただろうか、薪と遺骸が燃え崩れ、団扇で煽いでいた男が棒でそれを細かく突き崩し、燃えさしとより分けて、灰はスコップですくって河へ。

 カッと照りつける日差しの中で、蜃気楼のように、なんのドラマも愁嘆場もなく、ことはすすんでいく。別の薪の山が四つ五つ、周囲の明るさに消されがちな目立たない焔で燃えている。
 遺灰が流された河では、女たちが洗濯をし、髪を洗い、子どもたちが水浴びに歓声を上げる。

 これは、ビハール州の小さな町、ガヤで出会った光景だが、どこの村にも町にも都市にも、大都市でも、そのやや外れの河原に、人口に見合った規模の、ガート(河岸)とよばれる火葬場が設けられている。

[註 上述のバラモンは、タントリックとよばれる非正統的・土着的な宗派の宗教者であろう。また火葬にかかわるドームは、最下層カーストとされるが、逆にドームが拒否すれば、いかに権勢を誇る高カーストの者でも火葬されない、すなわち、天界に赴く道が閉ざされる。ここに聖と賎が交差・逆転するカーストの巧妙な仕組みがある。
 ガート(河岸の火葬場)は、どこにでもあるが、マハトマ・ガンディーの荼毘が行なわれた首都デリーのラージガートや、聖地ヴァラナシ(ベナレス)のマニカルニカガートなどが有名]

 ◆ 漂着遺体が物語ること

 だが、テレビに映し出されたコロナ禍の火葬場では、異常に混み合った密度で薪の山が築かれ焔を上げている。これは確かに尋常な事態ではない。

 ヒンドゥー教徒が信ずるところでは、肉体を離れた霊魂は天界に赴き祖霊たちと再会したのち、再びこの世で生まれ変わる。その際、なにに生まれ変わるのか。人か、獣や蛇や虫か。人でも高カーストの豊かな家か、低カーストの貧しい家か。それは生前に積んだ業と、死に際しての扱われ方による。
 ゆえに、人は、布施をし、祭祀を行ない、断食や寺参りをし、善行を心がける。また、最後の息を引きとろうとするときには、賛歌が唱えられ、口に聖なる牛の乳が注がれ、遺体にギー(乳製品から濾過した油)や鬱金を塗られ、カーストや地域や宗派に則ったしかたで荼毘に付され、さらに、その後も幾度かの祖霊祭が行なわれる。

[註 霊魂が生から生へと流転する輪廻からの離脱が、ヒンドゥー教が理想とする「解脱」だが、それは常人のよくするところではなく、常人が望むのはより安楽な次の生である]

 コロナ禍では、だが、多くの人々に、上に記したような丁寧に扱われる死は迎えられていないようだ。というのは、5月に入るころから各地の河川で、火葬されないままの遺体が漂着するようになり、ガンジス川の流域ではその数は数百体に及ぶという。これは只事ではない。

 ヒンドゥー教では火葬されず土葬されたりそのまま川に流されるのはサドゥー(苦行者)とよばれる特異な宗教者や、幼児や妊婦や、薪を購入できない貧困者の遺体だ。
 漂着遺体の異常な多さは、荼毘が追いつかない死者の多さや、薪を買えない貧困の蔓延、すなわち、コロナ禍のインドの危機の深さを示す証左にほかならない。心から冥福を祈る。

 「経済発展するインド」、「中国に対抗するパートナーとしてのインド(日米豪印戦略対話QUADの一員)」などと「未来志向」の日印関係ばかりが喧伝される今日であるが、そのインドの内側に目を凝らすことも忘れてはなるまい。

 (元桜美林大学教授・『オルタ広場』編集委員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧