【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

バングラデシュ政変の裏に見え隠れするもの

荒木 重雄

 バングラデシュでは、昨年8月の政変以来、いまだ、暫定政権が続いている。投票者名簿づくりに手間取っているためといわれるが、どうもそれだけではなさそうだ。事のしだいは次のようなことだった。

 バングラデシュには、1971年の独立戦争に従軍した兵士の家族に、公務員の採用枠の3割を割り当てる優遇制度があったが、その廃止を求めて、7月に大規模な学生のデモが起こった。最高裁は枠を5%に減らす決定をして、デモは一旦、沈静化に向かった。ところが、野党勢力やイスラム勢力、長期政権に不満を溜めた民衆が加わって、目標はハシナ政権の打倒に変わって再燃し、激しいデモが全国に広がった。警察は群衆に無差別発砲し、デモ隊は与党事務所や政府機関、警察署、ショッピングセンターなどを次々破壊し、火を放った。8月5日、デモ隊が公邸に迫るなか、ハシナ首相は親族とともに軍のヘリでインドに逃れた。

 ハシナ氏の父は、「独立の父」と国民に慕われたムジブル・ラーマン氏。首都ダッカに聳えていたその巨大な銅像も、デモ隊によって無惨に破壊された。この騒乱での死者は約650人、負傷者は数千人と国連では読んでいる。
 ハシナ氏が去った同国では、軍幹部、野党幹部、学生団体の幹部らの協議で、ムハマド・ユヌス氏を最高顧問とする暫定政権を発足させた。ユヌス氏は、〈グラミン銀行〉を創設し、貧困層に対する無担保小口融資(マイクロファイナンス)で自立を促す試みを普及させ、2006年のノーベル平和賞を受賞した経済学者だが、政界に踏み出そうとしてハシナ氏に睨まれた人物である。
 マイクロファイナンスは先進国のジャーナリズムでは高く評価されたが、実態を見れば、貧困層を市場に駆り立てることで救えるのかとの批判も当を得ていることはつけ加えておきたい。

◆独立以来の歴史を引きずって

 この事件が背負っている、バングラデシュの歴史を概観しておこう。1947年、英国植民地インドが独立するに際して、北西部と東端(東ベンガル)のイスラム教徒多住地域は、ヒンドゥー教徒が主体のインドとは分離して、パキスタンとして独立した。このとき、両教徒の対立で50万から100万に及ぶ人々が犠牲になった。
 イスラムを国家統一の絆に独立したパキスタンだが、東西に1800キロも離れた〈飛び地国家〉で、やがて、東西間の社会経済的格差や言語問題に象徴される民族的対立が深まって、内戦に陥り、東パキスタンは、インド軍の支援を得て、71年、バングラデシュ(ベンガル人の国)として独立した。この戦争での推定死者数は20万人から300万人と幅がある。

 こうして、初めは宗教的、次いで民族的な対立・混乱を経て誕生したバングラデシュだが、その後も政情不安が続いた。独立運動を主導した〈アワミ連盟(AL)〉を率いた政治家ムジブル・ラーマンが初代首相に就いたが、75年、軍のクーデターで暗殺され、政権を襲った陸軍参謀長ジヤウル・ラーマンは〈バングラデシュ民族主義党(BNP)〉を結成して民政に移るが、81年、またもクーデターで暗殺され、陸軍参謀長エルシャドが実権を握った。
 91年以降は民政が続くが、ともにクーデターで殺害された、故ムジブル・ラーマンの娘シェイク・ハシナ・ワゼドが率いるALと、故ジヤウル・ラーマンの妻カレダ・ジア率いるBNPが、大衆を巻き込んだ激しい政争を展開して政権交代を繰り返してきた。
 たとえば、2008年以来、政権を維持したハシナ氏のALは、14年の選挙をボイコットして反政府直接行動を強めたカレダ・ジア氏のBNPに対しては、同党幹部と、同党と連携するイスラム政党の党首らを、独立戦争当時にパキスタン側に加担した罪状を持ち出して処刑することで報い、また、昨年の選挙でも、カレダ・ジア氏はじめBNPの幹部らを大量逮捕し、主要野党がボイコットするなかで掴んだ勝利であった。

 このような政情の不安定と毎年のように襲われる洪水、農村の偏った土地所有、遅れたインフラ、乏しい資本と近代的技術…等々で「アジアの最貧国」といわれてきたバングラデシュだが、外国援助によるインフラ整備に加え、90年代以降、外国資本による輸出用縫製業が急速に発展して、労働環境の劣悪さや低賃金の矛盾を含みながらも、経済成長の道を歩み出しつつあった、その矢先での、今回の政変であった。

◆政変を主導した動機は何か

 ハシナ氏率いるアワミ連盟は中道左派と位置づけられ、90年代以降、曖昧になったとはいえ、社会主義、対インド友好、政教分離、少数派のヒンドゥー教徒の保護などの政策路線を特徴とする。一方、カレダ・ジア氏のバングラデシュ民族主義党は、中道右派と位置づけられ、民族主義を掲げることに加え、軍やイスラム主義派に親和性をもつとされる。
 そのせいかあらぬか、政変後、縫製工場での女性労働者の待遇悪化など、女性の社会進出への締め付けが目立つほか、バングラデシュでは1割程度とされるヒンドゥー教徒への襲撃が頻発しているとされている。
 
 注目されるのは、インドに亡命したハシナ氏が、「セント・マーチン島の主権を放棄し、アメリカにベンガル湾を支配することを許していたら、私は権力の座にとどまることができたでしょう」と述べたことだ。セント・マーチン島はバングラデシュ南端のベンガル湾に浮かぶ小島だが、米国がこの島に強い関心を持ち、自国の海軍基地の建設をハシナ政権に打診して断られたことは、事実である。この地に軍事拠点を設ければ、米国にとって、中国を睨むだけでなく、〈クアッド〉の同盟国でありながら、伝統的にロシア(ソ連)に近く、グローバル・サウスに軸足を置いて独自路線を歩む、警戒心を捨てきれないインドへの牽制にもなる。
 まさか米国が反政府運動を先導したとは思えないが、かつて米中央情報局(CIA)が手を染めた1953年のイラン・モサデック政権や、73年のチリ・アジェンデ政権へのクーデター、また、当のバングラデシュでも、75年のムジブル・ラーマン政権へのクーデターにCIAが関与していたことなどを想起すれば、たんなる陰謀論と笑い捨てられないものも残る。

(2025.2.20)
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