【フィールドワークの旅】(4)

ラオス メコン河集水域コミュニティ調査(その2)

生江 明

 私の母は手芸家で、子ども二人を育てるシングルマザーだった。それを見て育った私は、大学紛争で授業の無くなった大学へ行きながら、母の仕事の一員として全国の授産事業所をまわり、家庭内職の編み物やアップリケの指導をしたり、商品見本を作ったりしていた。他方で、私は大学時代から大学院そしてその後も、長い間にわたり東日本の農村を歩き、江戸時代後期から平成に至るおよそ150年余りの地域社会の変化をゆっくり辿る作業を20年余り続けてきた。

 それが、ひょんなことからバングラデシュの農村で女性たちの生計向上プログラムに関係する日本の市民団体(NGO)の依頼で現地のプロジェクトを視察することになった。連載の第一回で触れたように、これがきっかけとなり私はバングラデシュの農村女性たちの手工芸品生産組合の支援に従事することになった。私の母が戦後すぐに家庭内職の支援事業を始めたのは、国連のILO(国際労働機関)が日本で行っていた同種の支援事業に応えるものだったが、私のそれも同じであった。

 ただ、私の現地での日常は、ミシン縫製の技術指導もするが、より重視していたのは、地域の人々が長い歴史の中で培ってきたものを生かすことがどのように可能なのかを考えることだった。見えてきたのは、近代化の激しい波が人々の可能性を圧し潰す様子だった。日本とバングラデシュという二つを比較すると、先進と後進という比較に嵌りやすいが、三つ目のラオスを入れて見えてきたのは、「近代化の仕組み」だった。

 一番のきっかけは、前回触れたように、山の斜面地で暮らすラオスの「移動焼き畑」の村々であった。病気になることもなく穏やかに家族が暮らす日常では、人々に現金はたいして必要なく、物々交換と焼き畑の収穫や森の恵みで日々が過ごせた。彼らの生活を脅かす要因の一つは、低平地の水田稲作で飯米を十分確保した人々が、無造作に周囲の丘を一山焼いては、さらに次の山を丸ごと焼き、トウモロコシ等の換金作物栽培で経営を拡大し始めたことである。低平地から山の奥へとせりあがってくるこの低平地ラオ人の現代的焼き畑はやがて斜面地の伝統的な小規模焼き畑を脅かしていく可能性がある。もう一つは、森林環境保護という名目で「みんなの森」への立ち入りを禁じてくる政府が行う「森林の国有化政策」である。

 世界の森林が喪われていることはよく知られている。その森林地の多くは国有地である。ネパール、タイ、カンボジア、インドネシア、フィリピンなど多くの国で森林が消滅してきた。国有地の森が消えるのは、なぜだろう?
 ネパールでは元々、住民たちが自分たちでお金を出し合って「みんなの森」を維持していた。自分たちでお金を出し合い、そのお金で管理人も置き、乱伐を禁じるルールを自分たちで作り、育ててきた。しかし、森林地の国有化が進むと、外の人間が作ったルールには従わず、誰かが盗伐を始めた。そんな場所の近くに、乱伐にあうこともなく原生林に近い深い森が維持されている場所があるという。それは住民たちの寺社を維持する森、つまり「みんなの森」である。ラオスにおいても、個人が勝手に焼き畑をするのでなく、コミュニティがその采配を決める。なぜなら焼き畑の対象となる森は、「みんなの森」だからである。自分たちで決めたルールはよく守る。けれど、自分たちではない外部の誰かが決めたルールには従うとは限らない。そんなことは行く先々のアジア各地、いやその後に出掛けたアフリカでも同じことが起きていた。森に住んでいた連中が森を食べ尽くしたんだ!と言われて、そのかつての森のあった地域へ行くが、食べた割りには、そこに暮らす人々は貧しくつましい暮らしをしていた。彼らが持つ粗末な大八車で、どうやって多くの巨木が運び出されたのか、不思議である。いや、運び出して、金を手にした人たちは確かに他所にいた。

 30年に一度めぐってくる焼き畑の森が、もしその半分が国有地化され、立ち入り禁止とされたら、人々は31年目ではなく、15年したらまたその焼き畑の同じ場所に戻って来ざるを得ない。それは森の土壌の貧困化を意味し、かつての恵みを再び手にすることができなくなることを意味する。1960年代以降に進んだ国有地化の拡大は、森林の商品化であり、このメカニズムで発生する貧困は、「現代的貧困」であることをラオスの森の人々は教えてくれた。その人々がどんなに貧しい服装をしていても、靴も履かずズボンも穿かず、褌一つの「前近代的」衣裳の人たちであったとしても、それは「前近代的貧困」ではなく、「現代的貧困」であることが理解された。

 そんなことを考えていると、まだ20代の頃、東北会津の村でこんな話を聞いたことを思い出した。それは、「昭和30年代半ばまで、自分の娘と結婚候補の話をしている時に、あの家は暮らしが楽だかんねと言ったもんだったが、最近は(昭和50年代)あの家は金があるとか車があるとか言うようになっただね」と話してくれた人がいた。現金収入は無くとも、食うものはあるよという時代から、現金や物の「有る無し」で語る時代への変化が日本にも明確にあったということに気が付いた。それは何を意味しているのだろうか。

 手に入る利益の総額と、それを支える負荷の総額を比べ、利益の方が大きければ我慢をすることが当然となる。それが成長の方程式であるかのように信じ込んでいたのが日本ではなかったか?と考え始めたのは、このラオスの焼き畑調査からだった。5年とか10年という短期間では、利益の方が大きく見える場合もあるだろう。けれど焼き畑の村のように30年あるいは60年と時間軸をたっぷり取ると、見えていなかった負荷が姿を現し、子や孫の世代からの評価に現役世代が晒されることになる。その時初めて見えてくるものがあるということに、ラオスの30年を単位とする評価は気付かせてくれた。もしかすると、もっと時間軸を伸ばせば、総利益と総負荷はバランスするのかもしれないと思えた。短期的な利益が長期的な負荷を軽く見せる仕掛けに、我々は騙されている可能性があるということだ。
 負荷の出現を隠すには、長い時間軸上に隠す場合もある。階層・階級・性差(ジェンダー格差)など社会軸上の差異に、あるいは負荷や負担は現場に、利益は都会にというような空間軸上に隠す場合もあるだろう。単位時間当たりの利益の出現量という〈効率〉が重視されてきた。その単位時間も、10年でなく一年、いや一か月、一日!と短い時間で利益を示そうとしてきた。そのことで様々な〈負荷・負担〉は私たちの視界から消えたかのようだ。

 ラオスの〈移動焼き畑農民たち〉の清々しいあり方は、焼き畑からの利益の主体と負荷の主体が一体となっていることであった。焼き畑をずるずると使い続け、過剰に土壌を貧しくするのではなく、敢えて苦労して新たな森を開き、新たな焼き畑を開く負荷を担おうとする人々。彼らは、短期的な利益追求でなく、孫子が暮らせるようにという長期的な利益のために、負荷をあえて引き受けているのである。もし、水俣の窒素工場の幹部や認可行政の担当者たちが、工場の排水が流れ込む水俣湾の水産物を毎日食べている人たちであったなら、工場の利益のためでなく、家族や孫子の代までの健康を配慮したことであるだろう。だが、工場と漁民という、利益の主体と負荷の主体は見事なまでに分離されていた。負荷の主体(担い手)の担える限界を越えて、利益の担い手は利益を追求した。この分離の中に、持続可能な開発目標(SDGs)と言われるものがこれまで抱えてきた困難の構造がある。もしそれが「近代化の構造」であるとするなら、私たちの利益の方程式は強欲な「物欲しげな欲望」方程式に等しい可能性が強くなる。

 それまで、日本とバングラデシュの二国間の対比では見えなかったことが、三つ目のラオスを知ることで見えてきたことに、私は漸く気が付いたのである。それがさらに四つ目、五つ目と増える度に、見えるものの度合いが変化して行った。それぞれの社会が異なる歴史と文化を持ち、時には激しい戦乱の影響を受け、そこを生き延びる人々のありさまが何気ない日常の中に何気ない顔で座っている時もあった。

 ラオスはベトナム戦争の時に、ホーチミンルートという北ベトナムから南ベトナムへと抜ける物資輸送路の一部になっていた時代があった。ジャングルの中のルートをあからさまにするために、アメリカは飛行機から大量の枯れ葉剤のケミカルを撒き、ラオス・ベトナム国境の密林を丸裸にした。そのかつての密林地域で移動焼き畑をして暮らしている村に行った際に、調査団の私たちを村の子どもたちが笑顔で迎えてくれ、私に握手を求めてきた。何気なく笑顔でシェイク・ハンド! その時、一人の男の子の手を握ろうとして、眼を見張った。彼の右腕の途中に、小さなもう一本の腕があった。ぼくはどの手と握手すればよいのかわからず、思わず目を地面に落とした。するとそこに見た彼の右足には十本の指があった、左足にも。彼は気にすることなく、僕の手に握手して笑顔を見せている。私も笑顔で返そうとして、でもきっと引きつっていただろう。そんな子どもたちに行く先々で出会った。村外れにある、葉の無い枯れ木ばかりのジャングルの道をひとり歩きながら、私はベトナム戦争のことを思い出していた。

 1968年春、私は大学の入学試験中も毎日試験が終わると、王子の米軍病院へのデモに参加していた。大学時代から始まる青春の隣にはいつもベトナム戦争があった。1972年に初めてのヨーロッパ旅行に出掛けた時、チケットの安いインド、中近東経由の南回りルートを選んだ。機内の航路図がベトナム上空を飛んでいることを示しているのに気づき、飛行機の窓からベトナムの森をじっと見つめていたのを思い出した。遥か下、と言ってもわずか10キロなのだがそこで戦争が行われている。平和な機内と戦乱の地面がわずか10キロの距離にあるという事実をどう捉えるべきか、ただ下界の茶色い緑の地平を見つめていた。

 それから20年余りが過ぎた1993年、私は10キロ上空から降りて、ラオス・ベトナム国境を走るかつてのホーチミンルートを歩いていた。あの子の右腕に生えたもう一本の小さな右腕を思い、こころが震えた。かつて想像の中で思い描いていたベトナム戦争が、同時代のリアルな現実であることに激しい衝撃が走った。なんてこった! 怒りとも恐怖とも哀しみともつかぬ得体のしれない感情が沸きあがり、涙があふれ出た。

(本稿は短歌誌『花の室』 22号所収を、歌誌主宰者塚田沙玲さんのご好意により転載します。)

(2025.3.20)
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